第9話 同棲男の出現

その日は江ノ島海岸に立寄った。

夏の繁忙期間近のビーチは既に若者でごった返していた。

半端な静けさを嫌って一番賑やかそうな江ノ島を選んだのはそうした中をミユキと一緒に歩いてみたいと思ったからだ。

日本人離れしたスラリとのびた肢体に、今日着替えた黒白のコントラストの効いたワンピースの水着が良く似合っていた。

熱い砂を踏みしめ水辺に向かう途中、ミユキがするりと純一の小指に手を絡ませた。

手を繋ぐ感触、それは腕を組むのと違う動揺を誘い体温がフッと上がった。年齢差の壁が外れ、思春期の想い人のような甘酸っぱい動悸が心臓の回転を上げた。

沢山の娘達もいて、それぞれが弾けそうな若さと美しい肌を見せていたが、その中でもミユキが一際輝いて見え、欲目は誰しももつ物のようだ。

純一はミユキが浴びる沢山の視線に言知れない優越を感じ、行き交う者や通り過ぎる後ろ姿に幾つもの視線が痛かった。

ミユキは視線が合うと悪戯っぽく笑顔で返し相手が少しドギマギしているのを、楽しんでいる感じがした。

「ミユキも悪戯だね」

「いや、別に」

「そうかな。結構視線を楽しんでないか」

「そんな事無い勘弁して欲しいわ。本当は凄く恥ずかしいの。ジロジロ見るなって言いたいわ」

「そうだね、じゃー拝観料取るか」

暫く歩いて2人は寛げる空間を確保しそこにシートを広げ、雑踏の喧騒の中に身体を横たえた。

そこで純一が意外な事に気付いた。

「ミユキ結構焼けてない」

「私、すぐ陽に焼けるの」

「病院の時は色白の娘とおもっていたのに」

初対面当初、石膏像のように白く透き通って見えたが、今日は小麦色に輝いて日焼けと云うより地肌に思えた。

ミユキは横になっても純一の小指に手を絡ませ、たおやかな心の交信を感じていた。

純一は耳元でつい口を滑らせた。

「愛している」言葉にして本人が顔を赤らめた。「愛」と言う言葉ほど的確で気恥ずかしい言葉は無い。

日頃これほど口にしにくい言葉は無く、純一は生まれて始めて口にした。

ミユキは純一の口に唇を軽くチョンとして仰向けの純一に弾力のある肢体を絡み付け胸に指で悪戯書をした。

(大好き)と書いたようだ。

然し、30代半ば過ぎの中年男が若々しいミユキに抱きつかれた状態に妙な羞恥心が湧きテレを感じていた。

「少し恥ずかしいかも」

「うふ、そうなの気にしない、気にしない」ミユキはこうした状況にまるで臆さない。

「そうか、迷惑掛ける訳じゃないしこれが自然だね」

「そうよ平気、平気」

壮絶な過去を曝し気持ちが突き抜け、笑顔が芯から楽しそうに思えた。2人は身体を絡ませ、太陽に曝し、海に冷やし、潮の香りに浸り日頃のうっ積が少しずつ剥がされ身体が浄化されてくような感慨に浸った。

純一はミユキの均整のとれた仰向けの身体に目をやり昨日の経緯を振り返った。(この娘の壮絶な人生の負の部分を自分が出きる最善の応援をしてあげたい)自身のわだかまりを完璧に消化していた。

その日は夕方まで怠惰な時間を過し、充分な鋭気の補充が出来たような気がした。

帰路もミユキに車を運転させたが往きよりもスムースで、まるで若葉マークの暴走族だ。

夕食を中華街に立寄るつもりでいたが、ミユキが病院を、気にして帰ることにした。

途中時折渋滞に巻き込まれたが比較的順調に病院に着いた。

夕方の7時辺り夕日が沈んでも辺りはまだしらいでいた。

病院の駐車場で車を並べ殊更ゆっくり、買い付けた土産やバッグなど自分の車に積み替えていた。幾多の余韻にこのまま別れてしまうのが切なく感じていた。

その時黒い動体が此方に向かってくる気配がした。20代後半の見知らぬ男が物凄い勢いで駆け寄ってきたのだ。

「止めて、松谷さん」ミユキが表情を強ばらせ大きな声で叫んだ。

「どういうことだ」その男の罵声がミユキに向けられた。

「あんた、誰だ」純一はその男の胸ぐらを掴んで応戦の構えをみせた。

「ちょっと待って下さい、松谷といいます、話しをさせて下さい」男は聞き覚えのある名前を名乗った。

「純一さん、止めて」ミユキが拳を構えた純一の次の展開を制止した。

「ミユキ、お前は黙っていろ、柴田さんと話しがしたい、場所を外してくれ」男がミユキに向かって怒鳴った。

男は険しい剣幕に似合わず少年臭ささが残る線の細いきゃしゃな感じがした。

「一体、何なんだ」純一は状況が理解できず、何方ともつかず叫んだ。

「とにかく、ミユキは此処から外して」男が強い口調で再度ミユキを即した。

ミユキはうつむき唇を噛締め暫く考えていたが

「判ったわ」低い声で言い残すと純一に目もくれず病院の中に消えていった。

「済みません突然」漸く落ちついた口調になった。

「以前、僕の家に電話した人」

「済みませんでした。もませる積りはなかったのですが他に方法がなくて、奥さんに事情をお話しました」

「ミユキがあんたとは婚約もしてないし、付き合ってもいないって言ってたけど」

「いえ、婚約は成立していませんが同棲しています」

唐突な内容に、頭突を喰らったような、衝撃を受けた。

「まさか同棲っ、ミユキと一緒に住んでるって、嘘だろう」

「ええ、西船橋で生活しています」

「ミユキは病院に泊まってた筈だが」

「彼女はたまに病院に泊まりますが、たいていは帰ってきます」

「俺はミユキと毎晩合ってたし、泊まる事もあったけど」

信じられずに、反発するように問直した。

「多分僕の帰りが遅いのでそれまで柴田さんと会っていたのかもしれません。それと徹夜で帰れない時とか病院に泊まるって言っていました。その時柴田さんと一緒だったと思います」

会うにはいつも自由だが宿泊はミユキの意志で決めていた。そうしてみると小鳥の行き先が読めた。

ただ大きな勘違いは彼女の巣が西船橋で、自分が毛虫か昆虫だった。

「まさか同棲していたなんて」考えも及ばす絶句した。

そして松谷が彼等の経緯を語り始めた。

「以前僕も麻布病院の患者でした。妻と3歳の娘、3人家族で麻布十番に住んでいました。当時ミユキは医大生の彼がいましたが僕は彼女に魅せられ家族を放り出しミユキを追いかけました。グチャグチャに揉めて、その男と別れさせ同棲を始めたのですが、

妻が離婚を承諾しないので正式に結婚が出来ません。彼女の都合に合わせ幾度か住まいを変え、今はミユキの母親の入院が決って西船に越してきました。柴田さんの話を聞いていた事があって、例の外泊の件で奥さんに電話を架けてしまいました」

疑問は山のように残した侭だが、うっすらと輪郭を表し小鳥の生態系が露になった。

松谷が言った。

「お願いです、柴田さん彼女と別れてください」

その場で意気なり地べたに座り土下座を始めた。

「まって下さい。それって貴男の意志でしょ。ミユキの気持ちを無視できないのじゃないかな」

肩に手を当て起して言った。

「お宅に電話して貴方を罵って奥さんに失礼な事をしました。でも奥さんは夫を信頼してるので心配いりませんってほだされました。僕の妻は錯乱して自宅に火を着けたり、病院に乗り込んで刃物で暴れたり収拾が付かなくなって、その落差に驚きました」 その話しの凄まじさを連想し、自分が経験した揉め事とダブらせ思いを巡らせた。

「夢中になっている自分がこういう言い方変ですが彼女には魔性があります。自分で勝手に家庭を崩壊させたり、色々自滅させてしまう・・・・。奥様の為にも別れて下さい。不幸な人間をこれ以上増やしたくない」

自滅と言う言葉の間が妙に意味深く聞こえ、何か隠していそうで聞き直した。

「何か特別な事でもあったの」

「あっ、いや」何かを伏せている感じがした。

「魔性って何か不吉な事件でも起こったの。自分で勝手に嵌まって魔性って貴方の理屈でしょ」

隠された部分が気になったが皮肉を込め苦笑いしながら言った。

「柴田さんも僕と同じ道を歩いている。僕は以前彼女の彼だった医大生に仕向けた事を今、柴田さんに仕向けられている。この連鎖が彼女のサガかも知れません。妻とは決定的な亀裂を作って、今さら戻ることは無いし僕は彼女に賭けています。それに柴田さんは本気でミユキと一緒になろうとは思えない。遊びなら僕には残酷な事です」

「僕らの事を君にとやかく言われる筋合いはないさ」 痛いところを突かれてむっとした。

「済みません言いたいこと言って。でも柴田さんも冷静に状況を考えてください」

「正直意外すぎて今は混乱している。いずれにしろミユキの意志も確かめなくちゃならないし、今日結論がだせる話しじゃないね」 純一も冷静に1人で考える必要があると思った。

そうしてそのまま別れを告げミユキに合わず自宅に向かった。

今会えば押さえきれず暴言を吐きミユキを失いそうだ、それを恐れた。

今日の旅行でミユキの出生の秘密を告白され、自分以外彼女を幸せにしてあげられる人間はいないと自負した。

その矢先強力なライバルが出現し、しかも純一が入院する以前から内縁の夫婦関係にあった。

人生の絶頂と思える幸福感に浸って一気に暗黒の地底に引摺り込まれた。しかし余りにこの2日間の甘苦しい余韻が切なすぎて身の置き場が無い。

気持ちが混乱したままメールを入れたが返信は無かった。

ミユキが松谷と一緒に居ることを思い浮べ、自分が受けた施しを松谷とミユキの睦み合いで連想し、嫉妬心がふつふつと燃え上がり、焼きごてを胸に押し付けたような痛みが覆った。この苦しみは多分隣の田崎夫人が感じていた痛みだろう。今になってあの激しさが理解できた。妻との結婚生活では感じたことの無い意外な魔物[嫉妬]が自分に生息していることに気付いた。

この煩悶から逃れるにはミユキの嫌な部分を燻出し、心のバランスを計るしかない。

父親の汚れた血を受け継ぎ、母と同年の純一を虜にした。

ミユキが天性の魔性で引込んで、相手に侵食し因果な連鎖を生みだす。

穏やかで罪の無い妻や無心の子供のためにも決別すべきだ。

思い巡らせるその傍から煌めく笑顔や官能的な感触が甦って脳裏を掻き回す。

その晩就眠についても一向に出口の見つからない煩悶に明け方まで寝つかなかった。

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