第2話 海の防人

6月23日午前2時30分。尖閣諸島の北東30海里(約56km)の洋上に海上保安庁の巡視船PL61「はてるま」を先頭に、3隻の巡視船が航行していた。快晴の夜空に月明かりを受けて航行する巡視船のシルエットは美しくもあり、そして頼もしくも見える。前方に向かって鋭く斜めに海面から突きあがった船主、前甲板を経て斜め後方に立ち上がったブリッジの設けられた船橋構造物、そして低く平坦な後甲板は、遠めから見たその優美なシルエットのみでそれが小型船だと認識した者には、優美なクルーザーとして写るかもしれない。しかし、近づいた者にはそれが全長89m、幅11mでクルーザーよりも遥かに大きな船体と気付くだろう。そして、前甲板に装備された30mm機関砲の砲塔に驚き、船橋構造物の上に突き出たマストに装備された無数のアンテナを見たとき、そこには優美なクルーザーの面影はなく、無骨さを静かに語る巡視船であることに気付くだろう。いや、巡視船を知らない人間には暗がりに浮かぶその黒いシルエットにより、軍艦と見間違え驚くかもしれない。しかし昼間見れば眩しいばかりの白地に、青いラインとラインに同化されたデザインの船首のシンボルから誰が見ても海上保安庁の船であることは一目瞭然となる。今やニュースや映画で海上保安庁のこの爽やかなデザインは有名である。ちなみに後甲板全体に渡る平坦な甲板は、ヘリパッド(ヘリコプターが離着陸を行う場所)となっており、ヘリの離着陸と燃料補給を行うことが出来る。ヘリコプターの格納庫を持たないため、常時ヘリコプターを搭載している訳ではないが、ヘリコプターの支援を行うことが出来る多用途性を持った巡視船である。


3隻の巡視船は、いずれも石垣島を拠点とする第11海上管区保安部に属するPL61「はてるま」、PL62「いしがき」、PL63「よなくに」だった。この3隻は、同型船(同じ型式の船)であり、尖閣諸島周辺の監視活動を行っていた。

PL61「はてるま」船長の兼子隆弘三等海上保安監は、当直に起こされてブリッジに上がってきたところだった。当直の広田健一一等海上保安士から眠気覚ましに熱いブラックのコーヒーを受け取りながら

「おう、ありがとう、で、状況は?」

と、広田に先を促す。家庭では自他共に認める寝起きの悪さを知る兼子は、乗船中はそれを顔に出さないように気を遣っている。それは船長を起こすに至るまでには、その判断が正しいか?といったことを始め明日の訓練予定など、様々な葛藤の末に判断したことである。というのを、現場叩き上げの兼子は十分過ぎるほど知っていたからである。それは、乗員が30名に過ぎないこの船とて同じことだ。

「例の船団の件ですが、やはり、まっすぐこちらへ向かってきます。」

と、広田は兼子の顔色を伺いながら興奮を抑えて静かな口調で報告した。

「距離と速力は?」

距離と速力をなぜ一緒に言わないんだ。何年ここで飯を食ってきたんだ。という苦言を飲み込み、顔色を伺いながら報告する当直に、自分に気を遣って肝心なことが抜けているのだな、後で気付くだろう。まずは、前向きに対処しようとしているところを評価せねば育たぬか。。。と、考えている自分に、人間いつになっても勉強だな、俺はまだまだ人格を磨く必要があるな、と言い聞かせる。

そんなことを思いながら、兼子は当直に続いてレーダー画面の前に歩く

「はっ、失礼しました。距離は本船から20海里(約37km)、速力10ノット(時速約19km)です。」

と広田は恐縮してレーダー画面を念入りに確認するように指で指しながら申し訳なさそうに付け加えた。

「だいぶ近づいてきたな、いいタイミングで起こしてくれた。ご苦労さん」

兼子は、深く頷きながら、広田の肩を軽くポンと叩いた。そして、再びレーダー画面を見つめる。

レーダー画面には、南西に尖閣諸島、北東には5隻の漁船らしきものを示す小さな輝点、そして尖閣諸島の東50海里(約93km)には2隻の護衛艦を示す輝点があった。そして、尖閣諸島の南30海里(約56km)には、4隻の輝点があったこれら4隻の輝点は中国の海洋監視船いわゆる海監と呼ばれるニュースでは領海侵犯ですっかりお馴染みの船団だった。その船団は尖閣諸島からの距離を兼子の巡視船隊と同じに保っていた。明らかにこちらの出方を見ているに違いない。

「素人さんは、島からはこの距離のまま周回しているのか?」

兼子が輝点を指しながら当直に聞いた。彼は、中国が海軍の歴史が浅いことと、そのくせ海洋政策で急速に規模と活動範囲を拡大していることを皮肉して、しばしば彼らを素人と呼んでいる。もちろん玄人は我々海保(海上保安庁)だと思っている。それは、海上保安庁のルーツが旧日本海軍、正確に言えば大日本帝国海軍に起因している。太平洋戦争の終結により地球上から消滅した旧日本海軍は、明治4年(1872年)に創設され、当時世界最強でそして最高の伝統を持つイギリス海軍を師として成長し、日清戦争、日露戦争で圧勝、その後太平洋を挟んで対峙するアメリカ海軍を仮想敵としてライバル視し、拡大してきた旧日本海軍は、世界屈指の海軍に成長して太平洋戦争でも緒戦は善戦した。そこで培われた技術と伝統が脈々と流れていると彼らは考えていた。

「そうです。昨日から同じコースを回っています。」

と広田は答えながら、画面上の尖閣諸島周辺を指で左回りに円を描くように示した。

これから漁船団が、どこまで進出してくるかで明日の状況が大きく変わる。接続海域か、領海かで素人達、もとい、中国側の海監の動きはかなり違ってくるだろう。領海は、領土から12海里(約22km)、そして接続海域は領海の外側(22km)、すなわち領土から24海里(約44km)である。接続水域とは、通関、財政、出入国管理、衛生に関する国内法令の違反についての防止や処罰を目的とした措置をとることができる水域である。ただし国家の安全に対する侵害行為に対する規制は接続水域制度の対象には含まれていない。このため、外国船舶に対して規制を行うことができるのは、国内法令の違反が領土、領海において行われることが事前に想定される場合の予防、または、すでに領土、内水、領海で国内法令違反が実行された場合にこれを処罰するために設けられている。よって、日本、中国双方が領有権を主張する尖閣諸島沖では、領海は絶対に入らせてはいけない海域であることは当然であるが、その外側の接続水域についても、このまま放置すれば領海への進入が予測されることから、出入国管理に関わる法令違反に抵触するという観点から、警戒を厳にしている海域という位置付けとなっている。これらの海域は、速度10ノット(時速約19km)では1時間強で接続水域から領海へ侵入できるという狭さである。漁船団は接続水域まで26海里(約48km)このまま10ノットの速度で進めば、あと2時間30分で接続水域に達する計算になる。

「当然、漁船団は中国の海監のレーダーに察知されているんだろうな。海自に聞いてみるか?」

軍艦ではない巡視船には、レーダー電波の逆探知能力はない、海自、すなわち海上自衛隊の護衛艦であれば、中国の海監の発するレーダー波の周波数は把握しているはずであり、そのレーダー波を尖閣諸島から50海里の海域にある海上自衛隊の護衛艦隊がキャッチしていれば、その内側を航行している漁船団は、海監のレーダーにキャッチされている筈である。そうであれば、海監は早々に動きを見せるであろう。その動きに遅れをとっては、漁船団に対して先手を打たれてしまう。

兼子は、船内電話を取り、通信担当に電話をする。

「御苦労さん、こちら船長、海上自衛隊第13護衛隊旗艦「いそゆき」に連絡。尖閣諸島沖の中国海監のレーダー波を受信しているか問い合わせを頼む」


尖閣諸島東方50海里には、2隻の護衛艦が航行していた。この艦隊は、佐世保を母港とする第13護衛隊に所属する4隻のうちの2隻、DD-127「いそゆき」とDD-128「はるゆき」から成っていた。


「いそゆき」及び「はるゆき」は同型艦で、海上自衛隊の「はつゆき」型護衛艦である。「はつゆき」型護衛艦は、1977年に計画され、1番艦である「はつゆき」は、1982年に就航した護衛艦である。艦首側から自動化の象徴である小さな砲塔から一本突き出した76mm単装速射砲。続いてアスロックと呼ばれる魚雷にロケットを取り付け、魚雷の射程よりも遠い目標付近までマッハ1(時速約1200km)の速度で空中から接近し、着水後は魚雷として目標潜水艦を攻撃するミサイルと魚雷のコラボレーションのような弾体を8本収納している箱型のランチャー。その後ろに標準的な艦橋構造物が続き(といっても、ステルス性に配慮した直線・平坦で傾斜がついたミニイージス的な汎用艦が増えている現状では、どちらを標準的と呼ぶかの議論もあるだろうが)、艦橋上部両舷には、接近する航空機やミサイルを正確に撃墜するために20mmバルカン砲の上部に追尾用レーダーを背負ったCIWS。そして太い煙突下部の両舷に煙突を挟むように3連装魚雷発射管とその上のデッキに射程124km以上といわれるハープーン対艦ミサイル。そして煙突の後ろにヘリコプター1機を格納できるヘリコプター格納庫がありその後ろはヘリコプターが離発着する飛行甲板が設けられている。飛行甲板の後ろには、射程約26kmのシースパロー対空ミサイルを8本収納したランチャーを設けている。シースパローは、戦闘機用のベストセラーであるスパロー空対空ミサイルから発展した艦対空ミサイルである。

これらの武装を全長130m、全幅13.6mの艦体に搭載した「はつゆき」型護衛艦は、基準排水量が2950トンと、3000トンに満たず世界的には小型駆逐艦の部類ではあるが、海上自衛隊初のオールガスタービン駆動で加速力に優れ、対艦、対潜、対空それぞれの戦闘能力をバランスよく備えた海上自衛隊初の汎用護衛艦であったため、長きに渡って自衛艦隊の中核を担ってきた。昨今は、自衛艦隊へのイージス艦配備と共にこれら汎用護衛艦もステルス性を考慮した「むらさめ」型護衛艦が主力となっており旧式となった「はつゆき」型護衛艦は、練習艦へ改装されて呉の練習艦隊に編入された艦や、既に退役した艦もある。一時期は、尖閣諸島警備のために巡視船に改装して海上保安庁に譲渡する計画もあったというが、この計画は中止となった。練習艦への改装や退役を免れた他の「はつゆき」型護衛艦は、自衛艦隊を離れて、主として担当区域の防衛、警備及び自衛艦隊の支援に当たることを目的としている地方隊に転属していった。この際に対潜ヘリコプターの運用は行わないことになった。このため現在、尖閣諸島沖を航行中の佐世保地方隊所属、第13護衛隊の「いそゆき」と「はるゆき」も対潜ヘリコプターは搭載していなかった。ちなみに「いそゆき」も「はるゆき」も1985年就航の艦である。古さは否めないが、イージス艦を相手にするのでなければ、まだ第一線で通用する艦ではある。

この海域に展開した「いそゆき」、「はるゆき」の2隻の護衛艦をまとめて指揮する旗艦は、「いそゆき」が担当していた。通常のパトロールのため、隊司令は座乗しておらず、旗艦「いそゆき」の艦長が全体の指揮を執っていた。「いそゆき」艦長の倉田健夫2等海佐は、53歳このままいけば定年まであと2年。防衛大学校を卒業後、その殆どを海で過ごして来た叩き上げの超ベテランである。出身は茨城県土浦市、日本で琵琶湖に次ぐ広さを誇る霞ヶ浦の湖畔の街で、近くにはガマガエルで有名な筑波山を望むことができる。また隣の阿見町には旧日本海軍の霞ヶ浦海軍航空隊や土浦海軍航空隊が置かれ、この一帯は古くから海軍航空教育の拠点となってきた場所でもある。航空要員不足を補うために設けられ、卒業者から特攻攻撃などで多くの若い戦死者を出した予科練もこの地にあった。現在は、いずれも陸上自衛隊の管轄となっており、霞ヶ浦海軍航空隊の主要整備施設及び滑走路は霞ヶ浦駐屯地に含まれ、霞ヶ浦飛行場として陸上自衛隊航空学校霞ヶ浦校が使用している。そして霞ヶ浦に面する土浦海軍航空隊跡地は陸上自衛隊武器学校となっており、それぞれに重要な役割を果たしている。

倉田の祖父が旧日本海軍で主に航空分野に携わってきたことから、祖父は軍務上この地との関わりが深く、この風土と穏やかな気候が気に入った祖父がこの土浦の地に自宅を建てたことから、代々土浦を住まいにしてきた。倉田の父も旧日本海軍に入り、現在では防衛大学校にあたる海軍兵学校を卒業後、父の影響で戦闘機パイロットとなり辛くも生き残った人である。戦後は、様々な仕事を転々としたが、航空自衛隊の設立に合わせて「そうこなくっちゃ!」と家族に言い残して入隊試験を受験、合格して航空自衛隊の戦闘機パイロットとして活躍した。倉田家は海軍一家であり、航空一家でもあったのである。倉田もそんな祖父、父の背中を見て育ってきたこともあり、幼い頃からパイロットを志していた。中学校に入るとパイロットになるために夢中で勉強した。夢を追い求めて自ら行う勉強は目的が明確であり、効果が大きかった。倉田の学力は周囲の群を抜くようになった。しかし暗い部屋で勉強したことの影響か、読書好きが祟ったのか、倉田の意に反して視力が悪化した。そして中学校を卒業する頃には完全な近視になっていた。パイロットへの夢は諦めたものの、海軍一家でもあった影響で、海上自衛隊を志すようになった。目標は護衛艦の艦長になることだった。

2等海佐で目標としていた艦長になって、もう7年か、定年まで艦長でいるのは無理だろうな。この艦が最後の御奉公かもしれんな。

午前2時30分に艦長室での仮眠から目を覚ました倉田は、艦橋に顔を出す午前3時までまだ余裕があることを確認し、手早く着替えを終えると給仕係が仮眠前にポットに入れてくれた熱いコーヒーを、大きめのマグカップに半分ほどまで注いだ。そのマグカップは碇のマークと護衛艦のシルエットそして「DD-127 いそゆき」と印字された艦独自のものだった。昨年の佐世保基地祭りの際に販売用に作り、売れ残りを記念として買い取ったものだった。

机の下から引き出した椅子に溜息をつきながら深く腰掛けた倉田は、コーヒーをひと啜りして机の奥に立った2つの写真立てをぼんやりと見つめた。

1つは着物のような産着に包まれた色白の赤ん坊を抱えた20代前半の薄い青色のスーツ姿の女性とそれに寄り添う30近いダークスーツを着た男性、そして着物姿の40代半ばの女性、ま、40代半ばというのは見た目であって、実際は51歳だがね。ふと口元を緩めた倉田は、妻の由紀子の笑顔をじっと見つめ、そして丈治という名の赤ん坊の顔、若い女性の顔、そしてその婿の顔を見比べて、誰に似ているのかな?娘の美咲は俺に似ているな、といつもの思考を繰り返した。そして娘のこの写真に自分が写っていないのを当然に受け止め、残念にも思わない自分にこれまでの生活を振り返った。この写真は、倉田の娘、美咲の息子、倉田にとって孫のお宮参りの写真だった。普通の家庭であれば、おじいちゃんがシャッターを切ったから写っていないというのが大半であろうが、この写真の場合は、単身赴任なおかつ航海中の倉田が不在なのためで、ある意味仕方のないことなのかもしれない。それでも俺は幸せだった。と思う。妻の由紀子や子供達はどうかと心配にはなるが、こうして孫まで出来た。長い洋上勤務で家を空けることが多かっただけでなく、幹部である倉田は転勤が多い。父が亡くなったのをきっかけに土浦の父の家を建て替えるまでは、転勤の際は家族共々引っ越しをしていた、いわば転勤族だった。土浦に家を構えたのは、子供達が中学生の頃、以降家族は土浦に住んでいる。子供達の高校受験に備えて転校をしないほうが良い事、妻はもともと土浦近辺の出身で友人も多く、実家も近いため暮らしやすかった(それは高校で同級生だった倉田も一緒ではあるが。。。)ことも合わせて土浦に家を構えて家族は土浦に定住してきた。子供達が独立した後は定年までせめて一緒に転勤族でお供したい。と言ってくれた由紀子だったが、土浦から車で30分ほどの石岡市に住んでいる美咲に子供が生まれたことから、そのサポートとしてすっかり娘にあてにされ、そして義理の母親より実の母親の方がいろいろと頼りやすいことを知っている由紀子は地元に残ることを決めた。その結果が、この写真の構図。というわけだ。

そして、その隣に立っている写真に目を移す。白地に濃い青、薄い青のラインでデザインされたヘリコプターを正面から写したもので、その隣に倉田の若い頃に似た顔の輪郭と表情に、由紀子に似た目、鼻、口の若い男性が立って満足そうに微笑んで敬礼していた。この男性が倉田の息子の昇護である。写っているヘリコプターは海上保安庁のアメリカ製のベル212型で、長年海上保安庁の陸上基地や巡視船に配備され主力として活躍してきたヘリコプターで、昇護はそのパイロットをしている。父の健夫と同じく幼少から空に憧れていた昇護は、父と同じ道を歩み始めた、しかし、健夫は、自分が目が悪くなりパイロットへの道を断念したことから、息子の視力にはとにかく気を遣った。その成果もあり、昇護は、視力を悪化させずに学力を向上することができた。健夫は、当然息子が自衛隊パイロットを目指すと思っていたのだが、昇護は自衛隊パイロットになることを拒んだ。ある日、形だけでも自衛隊航空学生の試験を受けてみないか?と勧める健夫に、「国を守るための軍隊と同じ意義で存在し、その装備の面でも立派に軍隊でありながら、国には軍隊であることを禁じられ、その装備で国を守るための有効な法もなく、未だに多くの国民からその存在意義さえ否定されているその集団で志高く生きるのは自分には出来ない。同じく海を守るなら海上保安庁で活躍したい。」という頑なな昇護の答えに。そこまで言われてしまっては、現職自衛官の健夫も説得は出来ない。それよりも、そこまで自分を持つようになった昇護に頼もしさを感じたほどだった。同じ旧日本海軍を母体にしながら海上自衛隊と海上保安庁の間に存在した軋轢も少なくなってきたことを実感してきた時期だったこともあり、健夫は海上保安庁を志す昇護を素直に支援する気持ちになれた。折りしも、海上保安官をテーマにした映画が大好評となり、さらにシリーズ化されて長期的な人気を博した時期で、海上保安庁の人気もそれに比例して急上昇、海上保安庁に入るためには圧倒的に競争率の中勝ち残らなければならなくなった。そんな中、昇護は、見事海上保安庁に合格し、今は念願のヘリパイロットをしている。しかもベル212型は、昔から昇護が惚れ込んでいたヘリコプターである。今は仙台の基地にいるはずだが、今度はいつ顔を合わせられることやら。元気でいるのかな。と思いを巡らす。コーヒーを飲み終えた倉田は、写真に向かって笑顔で軽く敬礼をしてから艦長室を出た。


足取り軽くラッタルを上がってくる倉田を見つけ、

「艦長、入られます!」

当直の中年の3曹が倉田に敬礼をした後声を張り上げた。

答礼しながら倉田は階段を上りきった。

「ご苦労さん」

倉田は各位に敬礼をしながら艦橋に入った。

 副長の冨沢が倉田に近寄り報告を行う。

「艦長。やはり昨日の漁船団は、まっすぐ尖閣に向かっています。先ほど、海保11管区の「はてるま」から、海監のレーダー波がこちらに届いているか問い合わせがありました。」

「ほう、なるほど漁船団が海監のレーダーにキャッチされているか確認してきたというわけか。やるじゃないか。おめおめと中国のような三流海軍国の船に先回りされるわけには行かないからな。組織は違えども帝国海軍のプライドは同じという訳だ。」

と満足そうな笑みを浮かべて倉田が応じる。

「仰る通りですね。レーダー波をキャッチしている旨を回答しておきました。お手並み拝見と行きましょう。我々が近付けないのは歯がゆいですが。。。」

冨沢が苦笑した。

海上保安庁に息子がいる自衛艦艦長なんて前代未聞だろうな、こういう考えの人ばかりだともっと円滑になるんだろうな。冨沢は思った。


 海上保安庁は終戦から3年過ぎた1948年に設立され、戦時中に海軍予備士官と言われた高等商船学校の卒業生を中心に組織された。彼らは高等商船学校を卒業すると海軍予備少尉または海軍予備機関少尉として任官し、戦時中は、駆逐艦より遙かに小さい商船護衛、沿岸警備用の海防艦の艦長や機関長、その他補助艦艇の艦長や機関長として船団護衛や、沿岸防衛に務めた。また乗り組んでいた商船ごと軍に徴用されることもあり、日向に日陰に正規の海軍士官に負けない活躍をしていたのである。一方で海上自衛隊の前身である海上警備隊は、1952年に海上保安庁内に設立され、海軍兵学校出の旧日本海軍正規士官を中心に組織された。旧日本海軍は、海軍兵学校出身者を偏重する組織であり、予備士官は常に正規士官より下位とされ苦渋を舐めてきた。さらに太平洋戦争での戦死者は、高等商船学校出の予備士官が正規士官を上回っていたこともあり、同じ大日本帝国海軍の伝統を引き継ぐ海上保安庁と海上自衛隊ではあったが、至るところで禍根が残っており、互いを目の仇としてきた感は否めない。そんな状況の中1999年に発生した能登半島沖不審船事件で海上保安庁が対処できる能力を超え、海上自衛隊に初の海上警備行動が発令されたことから、共同対処が必要であることが明らかとなり、情報連絡体制の強化や合同訓練が行われるようになり、両者の長年の疎遠関係を改善するきっかけとなった。


それでも長年の禍根が残っていた影響は、風土として互いの組織に残っており、海保-海自間のコミュニケーション強化だけでなく、現場の人間の意識改革が必要不可欠であると冨沢は考えていた。

 

少し間が空き

「確かにここまで来ていて、手を出せず海保任せというのは歯がゆいものがある。クルーの士気に影響は出ていないと思うが、君はどう思う?」

倉田は静かに口を開いた。

海保に息子がいる護衛艦艦長が、目の前で緊張状態のさなかにある海保の巡視船に何もしてやれないことは無念に違いない。冨沢は倉田の横顔を見たが、夜間のため照明の落とされた暗い艦橋のなかでその表情は読み取れなかった。

「すこぶる良好です。心配ありません。」

視線を前方の海面に向けたまま冨沢は努めて明るくと答えた。

「そうか、すこぶる付きか。なら安心だな。逐一海保と連絡を取り情報を共有することで、この海域で共に国を守っているという一体感をクルーに感じてもらおう。よろしく頼む」

と倉田は静かに自分に言い聞かせるように言った。


前方の凪いだ海面は、月明かりを受けて細やかで優しい光を放っていた。

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