第2話 前世と鎖

「悪いな。お前さんなら逃げないと思うが、これも仕事なんでな」


 ウォレスは心苦しそうに言って、オーギュスタスの右足に足錠をつけようとする。

 足錠は鎖で荷馬車の荷台へと繋がっていて、奴隷を荷台に繋ぎ止める仕組みだ。


「……仕事、なんだが」


 ウォレスは困り顔で言葉を繰り返した。

 ある意味当たり前といえば当たり前であるが、残念なことに用意していた足錠では、小さすぎてオーギュスタスの足にはまらなかった。


 錠というのは手錠てじょう足錠あしじょうも抜け出せないよう小さめに設計されている。特に村などで売り払われる奴隷は通常子供や女性が多い。そのため、ウォレスの持っていた足錠もそれを前提にサイズが決められていた。


 むろん調整をすれば一般的な成人男性なら使用できるゆとりはある。しかしである。それはあくまでも一般的な人間への使用に限った話で、オーギュスタスというデカブツまでは範疇になかった。


「……うーむ」

「こういうときはですね」


 見かねたオーギュスタスが、貸してくださいと鎖を借り受ける。そして足錠ではなく鎖のほうを足に巻き付け、錠の中に潜らせると、カチリと鍵で止めてみせる。

 それから胸を張って言った。


「こうすれば繋げますよ」

「なるほど、何か色々すまんな」


 ウォレスは再び呆れと申し訳なさの入り混じった複雑な表情を浮かべて言った。

 無理もない。自ら足枷を自分で填めるなんて、どう考えても尋常ではないのだ。


 しかしオーギュスタスはといえば、この程度で真っ当な道に戻る気は毛頭ない様子だった。少々顔をしかめて、こう切り出した。


「いえいえ。でも、ひとつ言いたいことが」

「何だ、言ってみろ」

 ウォレスが身構える中、恐る恐るといった感じで、のたまわったのだ。


「これ、俺が本気出したら、たぶん、繋いでいる部位が壊れるか鉄輪が歪んで、普通に逃げ出せますよ」

 ウォレスの表情が固まる。


 目だけ動かしてオーギュスタスの足先を見て、それから異様なほど発達したふくらはぎに視線を向ける。太い。頑強そうな足だ。力も明らかにある。

 それから二の腕のほうを見やる。やはり太い。何せあの剣を悠々と振り回した腕力だ。

 最後に鎖を見る。


 細い、あまりにも貧弱そうだ。もしかしたら俺ですらあれだったら引きちぎれるのではと思うような頼りなさ。無理だ。このデカブツを繋ぎ止めるにはあまりにも脆弱すぎる。無理だ。


 商人はやがて諦めた顔で天を仰いだ。

「無理だ」


「まあ、逃げ出さないですけどね」

「……ああ、そうしてくれ」


 絞り出したようなその声には明らかに懇願こんがんの色が混じっていた。

 ウォレスは顔に疲労感を滲ませたまま御者席に座り、愛馬に鞭を入れる。

 こうしてデカブツを載せた荷馬車は動き出した。



 ◆ ◆ ◆



 夏の強い日差しの下、一台の荷馬車は凸凹でこぼこ道を走る。

 荷馬車を引く黒毛の賢そうな馬は、今日はちょっと重いなあとでも言いたげな眼差しをしながら、でも文句は言わず地面を蹴る。


 御者席には商人ウォレス、荷馬車には村で仕入れた商品が積まれ、その中央にデカブツがどーんと一匹贅沢に載っていた。

 ちなみにあの巨剣は積まれていない。


「あれ、手に入れるのにかなり苦労したんだけど」

 当初、オーギュスタスが不満をこぼすも、積載量の都合上と、

「あんなのをお前さんの傍に置いとく勇気あるわけねえだろが」とのご尤もな一声で、あの剣は見事、正式な村の記念碑となることが決定した。


 いずれ、ただの薪材として暖炉や竈にべられる運命が目に浮かぶが、どうせ手放すほかないものだ。オーギュスタスは渋々諦めた。


 凸凹道を荷馬車は走る。舗装されていない地面と、簡素な造りの車輪。振動は一切緩衝されず、むしろ増幅されてオーギュスタスの尻を直撃する。

 足錠と鎖ががしゃんがしゃんとひどく五月蠅い。

 背後を振り返ることはしない。その行為に意味はない。

 オーギュスタスの旅立ちは、誰にも見送られることなく静かに進行した。


 もう別れの挨拶は交渉を始める前に行っていた。

 家族との感動の別れも、既に済ませていた。村には今、オーギュスタスの別れを見送れるほどの余裕はない。


 一人分でも多くの食料を掻き集め、保存食にし、一年を乗り切らねばならない。

 一家はオーギュスタスのお陰で満足な食料を買えるだけ資金を手に入れたとはいえ、他の家族は必ずしも満足な資金が得られたわけではない。夏の本格的な賦役ふえきが始まる前に、食料を確保することは急務だった。


 それにである。

 先月、先々月だけで相当な数の別れを経験しているのだ。今更、一匹売り払われたところで気にとめる者はいない。

 たとえそれが村の英雄と称された少年のことであったとしても。


 あるいはなればこそかもしれない。

 オーギュスタスはある意味では村の裏切り者と言えるのだから。


 だから振り返る必要はない。

 旅は順調である。

 時折馬が恨めしそうにオーギュスタスを見て「このデカブツ重いなあ」という目を向ける以外、旅路は至って平穏だった。



 空は晴天。

 雲ひとつやふたつやみっつはあるも全体的に見れば青い空がどこまでも広がっている。ずっと見ていると吸い込まれそうになる空だ。

 旅立ちには最良の日と言える。

 ゆえにオーギュスタスはこういうときの恒例行事である、ある曲を歌い出した。


「どなどなどーな、どーな、こ…………」

 子牛まで言おうとして、自らの肉体を鑑みる。

 オーギュスタスの言動は少々ふてぶてしさがあるものの、最低限の謙虚さを持ち合わせていないわけではない。その謙虚さがうめいた。


 おい、無理があるぜ。こいつぁ子牛なんてもんじゃねえ。


 無理かなと、自らの身体を鑑みる。

 腕は太い、胸板は厚い。腰も強靱で、なるほど成牛というべき様相である。

 再び謙虚さがささやいた。

 成牛にしてもデケーよ、無理あんよ。

 オーギュスタスは言い直した。


「大牛のーせーてー」

 なぜだろうか。だいぶ切なさが減少している気がする。

 むしろ『良い値で売れてよかったね、あんちゃん!』とでも言いたげな歌になってしまった。


 ダメだ、これではダメだ。折角の旅立ちが台無しだ。

 もっとこー、この売られる哀れな少年の旅立ちを飾る単語を入れねば。

 そう思って、頭の中で一番しっくり来る言葉を探す。

 数分、あーでもないこーでもないと考えた末、オーギュスタスは諦めた。

 投げやりになった。自暴自棄だ。


「どぉなどぉなどおな、どぉなどぉな、小節にのせぇーてぇー、どぉなどぉなどおな、荷馬車は行くよーおぉ」

「うっせえ!」

 怒られる。

 至極当然だった。


「あのな。お前さん、一応もう売られたの、奴隷なの。奴隷落ちしたの、わかる?」

「あ、はい」

「普通もう少し悲しんだり、故郷のほうを眺めたり色々あるんじゃないのか!?」

 正論だった。

 叱られたオーギュスタスは「そうですね」と落ち込み、大きな身体を小さく丸める。

「お、おい、そこまで悄気なくても」


 急激にしんなりするオーギュスタスに商人は慌てた顔で、謝ろうとする。

 収穫時があれほどモッサリとしていた菜っ葉が茹でたら、唖然とするほどかさが減ったことに驚いたような、そういう感情が含まれていたのは否めない。

 それでも謝ろうとするあたり、人がいいと言うべきか。商人としては少々隙の多いと評すべきか。いずれにせよ、人としては当たりの部類に入るのは間違いない。


「いいんです。悪いのは全部俺なんで」

「いや、別に俺はお前さんを責めているわけじゃねえよ。だいたい今年の不作は仕方のないことだ。この近辺はどこも不作、お前さんでどうこうなった問題じゃない」

「でも生まれて16年も時間があったわけですよ、もっと色々出来たんじゃないかって」


 そう言ってオーギュスタスは話し出した。


「俺、実は断片的に前世の記憶があるんです」



 ◆ ◆ ◆



 オーギュスタスには前世の記憶があった。

 地球という星の、日本という国で生まれ、生きていた記憶。

 それは曖昧な部分と明瞭な部分があり煩雑としているものの、オーギュスタスという人格の形成に根深く関わっていた。


「俺の前世、日本という国は先進国といわれるほど技術発達した国で、一般的な人々でも高度な教育が当たり前に受けられる世界だったんです」

「神の国の記憶というやつか」


 ウォレスは自身の常識に当てはめて想像したのか、そう呟いた。

 それをオーギュスタスは否定しない。


「だから自我が明確になった頃、俺はきっと色々出来るんだ、色々やってやるんだと意気込んでいました。でも結局たいしたことはできなかった」


 それは所詮上辺だけの知識や記憶だけだったというのもあった。ノーフォーク農法や緑の革命を知っていても、それを本当に実行できるだけの知識や技術はなかった。


 化学肥料は当然作れず、堆肥を作るのも難しかった。下手をすれば病気が蔓延したり、作物に甚大な影響を与えることは途中でわかった。


 中国の大躍進政策の密植みっしょく・深耕運動による大飢饉を知らなければ強引に実行していたかもしれない。素人が碩学せきがくかたって従来の伝統を変えることほど怖いものはないのだ。


 非科学的であっても今まで続けられてきたものにはそれなりの理由や価値がある。もちろん、十分な知識があればそれを否定し、改革することは間違っているとは思わない。しかし素人が漠然ばくぜんとした知識を持ってしたり顔で手を出してよいものではない。

 特にその結果が一家十五人全員の生死に関わるというのなら。


 そもそも気候からして難しかった。このあたりは夏に乾燥し、冬に雨が降る地中海性気候である。地理の授業で習うように、地球の地中海諸国ですら、地中海式農業という二圃制にほせい農業からさほど発展していない農業形態を取らざるを得ない気候なのだ。


 オーギュスタスの一家は休耕地と耕作地の二つを交互に繰り返す二圃制で、秋まきの大麦を育て、初夏に収穫したそれを一年かけ、ほぼ全て一家十五人で消費する自産自消じさんじしょうの借地農である。


 収穫倍率がおよそ3倍の小麦と違って、6倍ある大麦でもソレである。小麦などまともに口にしたこともない。


 税は帝国への十分の一税だけで特別厳しい税金があるわけではない。ただし借地料として冬と春は賦役ふえきで週に一、二日、領主の小麦畑に出向し仕事を行う。

 そして大麦の収穫後の夏と秋は週に四から五日、オリーブ畑やブドウ畑での賦役を担う。それが借地料となるのだ。


 この時点で、たとえプロジェクトチームの同僚と同じ水準で、古代に詳しく農業などの知識があったとしても、ノーフォーク農法を提案する意味はなかった。

 初手で詰んでいるのだ。気候的にも時間的にも無理なのだから。


 それ以外でもできることなど限られていた。

 素人の付け焼き刃の知識でどうこうするなんて烏滸おこがましい。自然とはそう易くない。

 何より、もし自らの提案のせいで悪化してしまったらと考えると恐ろしかった。

 結局農業に関してオーギュスタスにできうることなど皆目存在しなかった。


 だからこそ、せめてもの代償行為として積極的な水汲み、薪拾いの率先、子供たちの面倒をみるなど村や一家に貢献しようと努めた。


 野良オーク襲来の際には先陣を切ったし、野盗に襲われた際も自らの手を汚すことを厭わなかった。重たい丸太を運び、防衛面も強化した。

 加えて農業が無理なら村に新しい産業をと腐心した。


 しかし、基礎的な工具もない村で、できることはあまりにも少なかった。

 様々な試作品を作ったが販路も見いだせなかった。買い手が居なければ、どれだけ精巧な細工物も技巧を駆使した製品も無価値なのだと悟った。

 前世の得意分野ですら、無力だった。


 結局懸念していたより遙かに悪い大不作が起き、家族は一年間の糧を失った。

 オーギュスタスの尽力もあって少しの食糧は手に入った。しかしオーギュスタスの一家は三戸十五人の大家族である。全員が一年間凌げるほどの量ではなかった。

 家畜を潰し、わずかな落ち穂を拾い、野草や山菜を食べ、野鳥を捕まえ、限界まで頑張っても二ヶ月も持たない量しか得られないだろう。


 だが、食料を買おうにも資金がなかった。元々自産自消で備蓄できるほどの収穫量がない一家である。土台、資金に余裕などあるはずもない。

 当然だが市場の大麦価格は暴騰している。普段より遙かに資金は必要だ。


 だがその資金を調達する手段は限られていた。その上、調達できなければ待つのは悲惨な餓死のみだ。

 家財はまず暴落しているに違いない。

 家畜は売るより潰して食料に回したほうがよい。例え普段は食べない部位だろうと今年は食べなければ凌げない。


 だから選択肢としては家族を売る以外になかった。

 問題は誰を売るか、だ。


 弟や姪はまだ幼く価格は安い、買い手市場のなかでどれだけの値で売れるか。

 大人の男衆を売れば賦役の負担が激増する。かつ農奴価格はたかが知れている。女衆の売値は大したことがない。下手をすれば子供たちより買い叩かれる。

 すなわち一家の選択肢は最初から二つしかなかったのだ。


 ひとつは弟と姪を売り、一時を凌ぎ、賦役と麦の植え付けが終わった頃に再び男衆の誰かを売って、来年の収穫まで乗り切ること。

 もうひとつは働き手として十分に育ったオーギュスタスに付加価値を与え高値で売ること。


 家長は前者を選ぼうとしていた。

 オーギュスタスは非常に働き者だ。頭も切れるし腕も立つ。将来的にいえばその価値は計り知れない。それに付加価値を与え、高値で売るといっても伝手がない。

 どれだけ体躯に恵まれようと農奴として売られる場合、所詮農奴としての価格でしかない。


 ならば口減らしも兼ねて弟と姪を売り、状況次第でオーギュスタスより将来性が薄い誰かを売ったほうが一家としては安泰だ。そう判断したのだ。

 けれど、オーギュスタスは反対だった。


 幼い弟と姪を売るなんて残酷なことはできない。何もできなかった兄である無力な俺が売られるべきだ。それに俺ひとりで済むならそのほうがいい。


 そう言って反対した。

 荒唐無稽な話だとは思わなかった。この体躯は価値である、売り方次第では十分な資金となると考えていたのだ。


 正直両親や村のひとびとのことを考えるのなら、オーギュスタスが村に残るほうがよいというのは間違ってはいない。

 今後もまた野良オークの群れが村を襲うかもしれない。食糧不足となれば野盗となる人間も増え、治安は悪化の一途をたどるだろう。治安を維持する兵士も、今は前線に送られ、一帯には最低限しか配備されていない。


 仮に有事が起きた際、オーギュスタスがいるのといないのとでは大差が出ることは間違いなかった。長期的に見てもだ。

 加えてオーギュスタスと違って、幼い弟は体格に恵まれた方ではない、きっと村の若い衆のなかでも小柄な部類に成長するだろう。弟に村を任せるのは無理だ。それより筋力もあって疲れ知らずのオーギュスタスのほうが人夫としても優れている。

 二人分の賦役をこなすかもしれない。そうなれば一家の負担はだいぶ減る。村としても安泰だ。


 そう理解してはいても、思いは変わらなかった。

 だからオーギュスタスは、収穫前に二人を売ろうとする家長を必死に説得した。


「来年も不作の予兆が出れば、奴隷価格はもっと暴落して穀物価格は急騰する。今、俺をできるだけ高値で売り払って、先に一括で大麦を買い込み、確実な蓄えに得るべきだ」と主張した。


 実際赤カビ病の怖さは土地や種もみに菌が残っている可能性がある点だ。仮に一家が別の土地に、新しく用意した種もみを撒いても周囲の者たちが怠れば来年再度大流行する可能性は否めない。

 だが説得は難航した。

 両親も村のひとびともオーギュスタスが村に残ることを願ったのだ。


 けれどオーギュスタスの必死の説得は、奴隷市場価格が暴落し、弟と姪の価値が実質ゼロになることで成功した。ほぼ無価値の二人を売る意味は口減らし以外になくなったからだ。


 だからオーギュスタスは、夏の終わりに売られることが決まったのだ。

 一年をおそらく乗り越えられる食糧を買えるだけの金額で。

 正しかったのかはわからない。

 ある側面においてこの行為は両親を見捨てたに等しい。

 弟や姪を売りたくないという感情から、両親や村のひとびとを裏切った背信行為とも言える。


 けれど売られて村を離れている今、感じる思いはひとつだ。

 売られたのが俺でよかった。

 そう感じていた。



 ◆ ◆ ◆



「だからか。飄々ひょうひょうとしているくせに、奇妙なほど必死な交渉だったのは」

 ウォレスは腑に落ちた表情をする。


「色々やったんですよ。農業に替わる代替産業案を考えて、野山かけまわって売れそうなもの探して、自分で色々作ったり試してみて。でも、なーんにもない村に産業となるほどの需要や供給を新たに作る出すって、たぶん農業改革をするのと同水準以上の知識と経験がいるんですよね」

「そりゃなあ。そんな簡単に産業を作り出せたら俺だって一代で大商家に成り上がられるぜ。まあお前さんが稀代の傑物だってのはわかったけどな」

「……あー、今の件、売られる前に話してたら査定金額あがりました?」

「変わらねえだろうな。剣奴には必要のない知識や知恵だ。俺みたいな商人にも、農民にも無用の知識なんじゃねえか。必要になるのは最低限領主や総督みたいな上の方々だけさ」

「ですかね」

「あと、きっと両親はお前さんを裏切り者だとは思ってないさ。感謝しているし、不甲斐ない自分たちに怒りを覚えている。そう感じたぜ、さっき金を渡したときな」

「そうですか。それはそれで悲しいんですけどね」


 オーギュスタスは村での交渉のときとは打って変わって力なく言った。


「湿っぽくなんなよ。折角お前さんとなら、すっきり旅が出来ると思ってたんだからよ。こういう商売も辛いんだぜ。いくら家族の同意の上とはいえ、すすり泣く少女を無理矢理鎖に繋いで、陰鬱いんうつな空気を背後に感じながらずっと旅をしなきゃなんねえ。飯は食わねえし、夜中に叫き出すし、朝起きたら足が血まみれで倒れてたなんてときもあった」

 ウォレスが肩をすくめながら、やれやれと言いたげな素振りをする。


 何でも屋と自身を称したように、ウォレスは奴隷商ではない。ギュスターブ商会傘下の商人で、隊商と共に各地の村を巡って仕入れや販売を手広く行う行商人だ。


 決まった販路や拠点を持たず、決まった商品も扱わない、社会的には地位の低い商人である。特にギュスターブ商会の掲げるモットーは、儲かるなら仕入れる、儲かるなら売る。意図、種類は問わない、で村にとっては割とありがたい商人なのだが、節操がないことから大手の卸売商会には揶揄やゆされることも多い。


 本来なら専業の奴隷商に売ったほうが高値で売れることもあるのだが、両親の説得に時間がかかり、半ば意図的に時期を逃した結果、たまたま村を訪れたウォレスと交渉することになったのだ。


 とはいえあの値段で買われたのなら、むしろ僥倖だったのかもしれない。

 本物の奴隷商はもっと場慣れしていて非情だからだ。


「……はい。そう、ですね、陽気にいきましょうか」

「ああ、陽気に行こうぜ」

「では一曲、聞いてください。陽気にドナドナ」

「それはもういい」

「あ、はい」


 オーギュスタスは静かに背後を振り返る。

 そこに村の姿はない。

 完全に見えなくなった故郷に向かって、オーギュスタスは一言だけ呟いた。


「行ってきます」

 その意味を、ウォレスは問わない。

 ただ少しだけ目を細めて、無言で村の方向に頭を下げるのだった。

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