9話 境界線上の化物達 前編

 最近は自殺に凝っている。

 母がいなくなってから、家は少しずつ死んでいった。

 玄関には砂埃すなぼこりがたまり、家具が埃に覆われていく。ろくにカーテンも開けない室内は日陰の匂いが強く、使われない化粧台だけがいやにピカピカと光っていた。

 二週間も前に何気なく置いた紙くずが今日も存在しているのを見つけて、キヅナは、なるほど人が死ぬというのはこういうことか、と思った。編みかけのセーターやめくられないカレンダーは、もしかすると葬式や墓場よりも死の実感にあふれているかもしれない。だとするとこれもまた死なのだろう。キヅナは戸棚をあさっている。すでに一時間も捜し物をしていた。以前なら「あれどこいった?」で終わる作業が片付かない。住み慣れたと思っていた我が家はまるで他人の家のようで、キヅナをどこまでも気まずくさせた。

 そうこうするうちに湯が沸いた。「止めといてくれ」と言う相手も、やはりおらず、キヅナは舌打ちと共に引き返す。そうするとふざけたもので、捜し物は台所の脇で見つかった。

 ナイフだ。

 いったい誰が動かしたのかと悪態をきたくなるが、この家には自分しかいないのだから己のせいなのだろう。舌打ちをもう一つしてそれを手に取り、鍋へと落とす。

 ぐらぐらとゆだる鍋にはナイフの他にも包丁や布巾が沈められている。

 しばらくして鍋の中身をざるに流した。布巾は雑菌が付かないうちにヒモでつるし、ナイフは冷めるのを待って一本取った。

 湯とナイフを持って、キヅナは風呂場へ向かった。これからやる作業は不測の事態も多いため、なるべく水回りの良い場所でやったほうが無難だと知っていた。

 たらいに水を張る。

 薬缶やかんの湯を少しずつ注いで湯を作る。冷めてしまう分も考えると少し熱いくらいがちょうどいいだろう。

 手首がちょうどつかる位置にたらいを置いて、キヅナはナイフをささげ持った。それは七つの誕生日にもらったもので、白墨や鉛筆を削るのにちょうどいいような小さな刃だ。

 だが、こんなものでも人は死ぬ。

 刃を構えて手首に当てた。途端に背筋がぞわりと騒いだ。喉が絞まり、嫌な汗が流れ、本能が脳をとめようとあらゆる手で妨害に走る。。キヅナは自らの体に命令する。。抵抗するな。おとなしくしろ。と。

 奥歯を砕けそうなほどみしめて、キヅナは右手を走らせる。

 止まってしまったような粘ついた時のなかで見たのは桃色の筋肉と黄色の皮下、それに灰色の骨だった。極彩色の断面はすぐに血の色で塗りつぶされた。鮮やかな赤が皮膚をぬらぬらとつたい、上り立つ湯気を割ってぽとりとおちた。

 波紋を追うように左手を落とすと、手首がぴりりと鈍くしびれた。それはまるで熱い湯に体ごとつかっているような心地よい感覚で、キヅナに重いため息を吐かせた。

 ゆっくりと、そしてゆっくりと、気が抜けていく、息と鼓動は激しいのに、心がひたすら穏やかになっていく。息苦しさや動悸どうき 、不安や恐怖が極限まで高まっていくというのに、酸素を失った頭はそんなことをかんじることなくうしなわれていく。

 そして、もう、だんだんと、なにもかんがえられなくなって、

 キヅナ・アスティンは再び死んだ。



 二ヶ月前のあの日から、人は死ななくなってしまった。

 それはまるで新しい法則が書き加えられたような乱暴な出来事で、人類をひどく混乱させた。神々を信じる人たちは頭を抱え、新しい教えのもの達が調子に乗り、保険会社と病院は発狂し、法律は朝夕で三度も書き換えられた。

 それでも、と後のキヅナは思う。それでも、この頃はまだ「まし」だった。墓守などという訳の分からない連中はいなかったし、子供が生まれなくなっているということも知れ渡っていなかった。

 大きな災害も戦もない世界では死者は少なく、数少ないそれらも「死者は死ぬべき」という暗黙の常識を全うして自ら炎に焼かれるほどだった。

 二ヶ月。それはひとつの混乱が収まるには十分な月日だった。あのころ街では、この混乱もじきに収まり、ふたたび日常がはじまるだろうという根拠のない空気が支配していた。

 だがキヅナはそうは思わなかった。

 他ならぬ、この身に刻まれた第三の変革が故に。



 翌日、風呂場で目覚めたキヅナは大きなくしゃみを一つすると、冷水のシャワーをザアザアと浴びて制服に着替えた。自分でアイロンを掛けたしわの取れないズボンに足を通し、ジャケットを着てカフスを留める。

「いってくるよ」

 聞かせる相手のいない台詞を吐いて。キヅナは鞄をつかんで家を出た。

 黒革の取手を引っかける、左のそこはかがやくようになめらかだった。



 学校へ向かう途中だった。キヅナは前方を歩く一組の男女を見つけてニンマリと笑った。

「よぉご両人、奇遇だな」

「……貴様か」

 まず振り返ったのは熊のような肉厚の体を持った老け顔の少年だった。彼の名前はユリー。こう見えてキヅナと同い年の生徒だ。

 ユリーは右を見て、左を見て、さらにキヅナ越しに通りの向こうまで見てからいぶかしげに言った。

「お前、迎えはどうした」

「ん? ああ、親父の車だったらなしだよ。今日は歩きだ」

「歩きってお前……」

 大きな体を小さく丸めて、ユリーは厳しい目線をキヅナに向ける。

「この前みたいなことがあったらどうするんだ。もしものことがあってからじゃ遅いぞ」

「もしものこと、ねぇ。……むしろそいつが起きてほしいくらいだがね」

「おい」

「冗談。冗談だよユリー。安心してくれ、最近は調んだ」

「なんだ、そうか。それならいい」

 ユリーはキヅナの含み笑いを簡単に信じて朗らかに笑った。そこには他人の発言を疑うような狡猾こうかつさはかけらもなく、彼は病弱な友の健康を喜んでいた。

 お前のそういうところが好きで嫌いだよ。キヅナは喉の奥でつぶやいて、もう一人に視線を向けた。

「エリアも、おはよう。元気そうでなによりだな」

「おはよう。キヅナ君」

 ぺっこりと頭を下げたのは、同じく同級のエリアだった。彼女はまるで初対面のようにまじまじとこちらを見つめて、にこりと笑った。

 長く伸びた癖毛が揺れる、眠たげにたれた瞳がまるまる。

「相変わらず、びっくりするくらいきれいね」

「そりゃどうも」

 両手を振って古風な礼を返すと、エリアは子供か芸人にでもするように、手を叩いて喜んだ。これにはキヅナも形無しだった、彼女にはどこか、浮き世離れしたふわふわとした感があり、キヅナの厭世観えんせいかんを子供の駄々めいたなにかに変換してしまうところがあった。

 思えば、この二人が恋人同士というのも、なにやら不思議なような、妙に納得させるようなところがあった。

「ちょうどよかったキヅナ君。一緒に怒られてよ」

「怒られる? ユリーにか?」

「おい待てエリア。俺は怒っているわけではない」

「えーでもいま怒った声出てた」

「それは怒ったと勘違いしたことに怒ったんだ」

「またむずかしいこといって」

「まてまて、なんの話だ」

 キヅナはすでに若干うんざりしつつ聞いた。犬も食わないような話題の気配がした。

 二人の言い分(主にユリーのもの)を聞いたところによると、どうやらユリーは最近帰りが遅くなっているというエリアを心配し、エリアはそんな彼氏の心配を面倒に思ってぐちぐちと言い合っていたらしい。

 つまり、痴話げんかだ

「……あほらしい」

「あほとは何だ。重要なことだぞ」

「そうだよキヅナ君。私はともかく、君は真面目に聞いた方がいいよ」

「なんでだよ」

「だって、私が変質者だったら確実に君を狙うし」

「ユリー。お前の彼女やばいぞ」

「いや、まあ……だが、お前も気をつけた方がいいのは確かだぞ」

 ユリーが声を潜めて、

「……例の事件、三人目の犠牲者が出たそうだ」

 空気に本物の重みが出た。

 例の、とはここいらを最近騒がしているある事件のことだ。

 連続殺人事件。

 一ヶ月ほど前から始まったそれは、いま現在も続いている。

 見れば、通学する生徒達はどこか陰気で、漏れ聞こえる話題のいくつかは物騒な言葉にあふれていた。

「へえ、あれまだ捕まってなかったのか」

「ああ、だから気をつけろというのだ」

 なるほどな、とキヅナは思う。ユリーはさすが、自然の中で育っただけあって暴力に敏感だ、その顔色は本気の心配で満ちている。

「キヅナ、お前、調子はいいみたいだが、やっぱり親父さんに送り迎えしてもらったほうがよくないか?」

 先ほどの心配はこれもあったのか。とキヅナは独りごち「そうだな、考えとくよ」と、はぐらかした。

 母の葬儀以来、父親がこちらの家に寄りつかなくなったことについては言わなかった。

「そうか……」

 ユリーも、それ以上は追求しなかった。

 気まずい沈黙が落ちて、この話題はそこで終わった。重苦しい空気を打ち破るようにエリアが、

「あ、じゃあさ、これからは三人で登下校しない? あさ待ち合わせして一緒にいくの」

 重苦しくなった空気を打ち破るようにエリアが言った。キヅナも、そして

ユリーでさえもそれに乗った。

 結局のところ三人は子供で、ユリーにしたところで心から注意していたわけではなかったのだ。キヅナも同じで、理屈としては通り魔や、強盗の存在を知っているが、そんなものに自分たちが遭う可能性というものをどうしても想像できなかった。

 あるいは、めていたのかも知れない。

 自分がもう、本当の意味でなにも奪われることがないのだと。



 首をっても死なず、心臓を突いても死なず、毒を飲んでも死なない。

 キヅナがそんな身体になったのは今から一ヶ月ほど前のことだった。

 いや、正確に言えば気づいたのが一ヶ月前という話で、実際にそうなったのがいつかは知らないしどうでもよかった。なぜ、とか、どうして、といった疑問についても同じだった。どうせ尋常の理由ではないのだ。そんなことにかかずらったところで意味など無い。いま重要なことは、この身体が不死身になったという、ただ一点のみ。

 ならば、やるべきことは決まっている。

「……ふん、手頃そうだな」

 放課後、キヅナはひとりで街をさまよい、とある廃墟を訪れた。

 そこは街からすこし離れた場所にある、小さな牧場をもった一軒家だった。

 キヅナはためらいなく中に入った。

 一階。以前は家族が住む場所だったのだろう。屋内は往時の雰囲気をそのまま残している。出入りがないためか、意外と埃はかぶっていない。足下にはネズミのふんがいくつかと、それに小蠅こばえが少しだけ鳴いている。

 こんな廃墟でも人が入ることもあるらしく足跡があった。だが二階に上る

と物好きも減るのか、床はきれいなままだった。

「悪くない」

 天井のはりやシンクを見て、キヅナはニヤリと笑った。頑丈そうな梁は首を吊るのによさそうだし、シンクは血をためておける。

 それはまるで新しい商売を始める店主が店舗の下見をしているような案配だった。洋服屋が通りの目を気にするように、キヅナは目張りの確かさを確認し、本屋が西日を気にするように、キヅナは床の平行を確認する。

 キヅナがここに訪れた理由。それは己の体に突如として宿った異能の力を知り尽くすためだった。

 すでに細かい確認はいくつか済ませている。たとえば一部の薬殺や窒息、管理可能な失血などは家の中でも行っていた。

 だが大がかりな検証となると、なまなかでは行かなかった。

 たとえば血や臓物の処理がそうだ。この力は再生可能な物品はフィルムの逆回しのように再生してみせるが、毒や、体内に食い込んだ刃物などに対してどういった反応を返すのかよく分からないところがあった。特に毒は排出に時間が掛かるらしく、周囲にまき散らされたりする。

 キヅナが知りたいのはその尺度だった。そのために汚してもかまわない空間がほしかった。その観点ではこの場所は最適と言えた。キヅナは鼻歌交じりに階段を上り、生きている貯水槽やなにかに使えそうなカーテンの束などを見つけて口笛を吹いた。

 見れば見るほど理想的な空間だった。普請はしっかりしているし、井戸も生きている。惜しむらくは少し蠅がうるさいくらいか。どこかで犬猫でも死んでいるのかも知れない。キヅナは上機嫌で階段を下り、最後の地下室へと足を向けた。

 このときキヅナは油断していた。

 たしかにこの場所は人気が無い、不良達が騒ぐには立地が悪いし、生活の場にしたい浮浪者には遠すぎる。健常者はもちろん最初から寄り付きもしない。

 だがそれはつまり、キヅナのように隠れ潜みたい人間にとっては最高の場所だということだ。

「……?」

 地下へと下りる扉の前で、キヅナは真っ暗な階段を見下ろした。電気も窓もないそこは真っ黒に染まってなにも見えない。制服の内ポケットからライターを取り出して火をつける。

 その炎に向かって、一匹の蠅が飛び込んだ。

 細い炎が意外なほどの力強さで眼下の暗闇を押しのけていく。だが光はある地点を境に闇に負け、それ以上強まることはなかった。

 蠅が居る。

 ヴヴヴヴヴと耳に触る音を立てて飛び交うのは闇色をした何万匹もの蠅たちだった。

「…………」

 事ここに至って、キヅナはようやく、己が喫水線に立っていることに気づいた。

 この先で、何かが腐っている。

 犬や猫ではあり得ない。すでにこの場を飛んでいる蠅だけでも猫一匹分の分量があるのだ、それらがたかる獲物がこれより少ないということはないだろう。

 では、いったい何が腐っているのか。

 キヅナは躊躇ちゆうちよした。この階段は日常と非日常の一里塚だ。下りれば二度と日常には戻れないかも知れない。

「……は、上等だ」

 それでも、一瞬後には、決断して。キヅナは蠅の群れを突っ切り、地下室へと足を進めた。

 待っていたのは想像通りの光景だった。

 キヅナとおなじ学校の制服を着た女生徒だった。彼女は四肢をくったりと投げ出して横たわり、自らの腐汁に沈んでいた。

 うじ虫共はそんな彼女を苗床にして、何千、何万もうごめいていた。はらわたが真っ先に食い破られ、内臓と汚物がこねくり回されて肉のベッドにされている。

「……まじかよ」

 想像しては、いた。

 先ほどの蠅を見つけてからというもの、もしかしたらこういう光景が待っているのかもしれないと思ってはいた。

「だからって本当になくてもいいだろうに……」

 キヅナは頭を抱えて座り込んだ。なんだかいろいろとへこんでいた。

 まずなにより傷ついたのが、自分があまり「傷ついていない」ことだった。

 こういうとき、一般人は泣いたり吐いたり狼狽ろうばいしたりするものだと思うが、キヅナはとくになにも思わなかった。

 悲しいとか、おぞましいといった感想は、もちろんあったが、だがそれに振り回されることは無かった。キヅナは腐肉や虫共を気色悪いと思う一方で、しかし観察する余裕があった。思えばそれは、母が死んだときもそうだった。

 ひどい人間だなと我ながら思った。キヅナはうつむいてため息を吐く。なんだか無性にへこたれていた。まるで長年目を背け続けてきた恥部がさらけ出されたような気がしていた。

「……泣いているの?」

 そのとき、声が掛かった。

 新鮮な驚きがあった。無論、キヅナはその現象を知っていた。だがまさか、

これほどまでに腐れてもまだ、人語を解するとは知らなかった。

「泣かないで、ね?」

 濁った瞳を優しげに傾けて、少女が腐った笑みを浮かべていた。

 しやべっていたのは、死体だった。

「…………」

「あ、泣き止んだ。よかった」

「いや、最初から泣いてねぇよ……」

「そう? じゃあ、もっとよかったわ」

 うんうん、と少女がうなずいた。その動きはひどく緩慢で、まるで彼女自身も巨大な蛆虫うじむしに変じたかのようだった。

「…………」

「どうしたの? 私の顔になにかついてる?」

「……そうだな、蛆虫とか、腐った血とか、いろいろだ」

「あらやだ」

 ごしごしと頬が拭われる。だがそれは汚れを広げる効果しかなかった。

「……お前、何者だ?」

 キヅナはようやく意味のある疑問を抱けた。

「なぜこんなところで死んでいる? 誰かにやられたのか? それとも自殺か?」

「ええっと、うんっと、そうねぇ」

 少女がふらふらと身体を揺らしながら言う。

「それが、よく覚えてないのよね」

「覚えていないはずあるか。自分のことだろう」

「それが、なんせ私、もうだいぶ壊れちゃったから」

 そのとき、まるで人形劇のように、死者が必要のないまばたきをした。眼球の脇から涙と同じ大きさの蛆虫がぽろりと落ちて、頬肉を噛んだ。

「多分、私の名前はシオン・リフリー。でも本当かどうか分からない。おんなじように、背の高い男に殺されたと思うけど、これもやっぱりよく分からないの」

「……ちょっといいか」

 キヅナは断ってから、シオンと名乗る死体の腹に手を触れた。蛆虫たちをかき分け、血を吸って腐りかけている制服を剥がして下腹部を見た。

「きゃ、エッチ」

「安心しろ。俺は死体に興味はない」

「うわ、改めて言われるとショック」

 あった。キヅナは錆と腐汁に覆われた、古ぼけたそれを発見した。

「……他殺だな」

「みたいだね」

 刺さっていたのは日常使いの小さなナイフだった。

 キヅナはさらに現場検証を続けていく。制服のポケットからシオン・リフリーの生徒手帳を見つけだし、また、彼女が暴行を受けていないことを確認した。

「あの、君、本当にそういう趣味ないんだよね?」

「ない」

 だが同時におかしな点もあった。

「? なんだこれは」

 それは、灰だった。

 シオンの身体はよく見ると、全身が灰を被ったような有様だった。それもすこしではない。バケツで何杯分にもなるほどの灰が振りまかれている。

「……いったい、なんだってんだこれは」

「さぁ」

「心当たりはないのか?」

「うーんなんだっけ? 思い出せそうな、思い出せなさそうな。うーん、うーん」

 結局、それ以上の情報は得られなかった。キヅナはため息を吐いて立ち上がった。

「通報してくるよ」

 手にこびりついた腐汁を壁になすりつけて、キヅナは言った。

 そもそも、キヅナが探偵まがいのことをする意味などなかったのだ。それよりも大人に任せたほうが何倍もいい。こう思うと先ほどまでの自分は確かに少し錯乱していたのかも知れないと思った。

「お前も、その方がいいだろう。……親も心配しているだろうしさ」

「ん、通報、通報かぁ……」

 ところが、シオンは苦虫をかみつぶしたような顔でしぶった。

「なんだ、なにか嫌な理由でもあるのか」

「んと、嫌っていうか、その、よく分からないんだけど、通報って、そしたら私、どうなるのかな?」

「? どうって、なにがだ」

「きっと、さ、あなたが通報したら、警察がきて、調べられるよね」

「ああ」

「証拠とか探して、犯人もみつかるかもだよね」

「ああ、そうだな。それだけでも価値があることだ」

「それから私、どうなるのかな?」

「…………」

 まさか、とキヅナは思った。

「きっと、今みたいにいろいろ話を聞かれて、家族と会って、それで、埋められちゃうのかな……」

「まさかお前、焼かれるのがいやなのか?」

「駄目?」

 蛆虫と腐汁の海のなかで、乾いた眼球が哀れっぽく上目遣いをした。

「死にたくないって、思っちゃ駄目? 死者は死ぬべきだって、あなたも思う?」

「…………」

 キヅナは即答できなかった。

 なぜならこの身体とて、本来ならもう滅んでいて、消滅していてもおかしくないのに、異常の力で生き延びている。そんなキヅナに、彼女の思いを否定することは難しかった。

「見逃して、くれないかなぁ」

 甘い腐臭を吐きかけ、溶けかけた小首を可愛らしく傾けて、シオンは猫なで声を出す。

「ね、二人ともなにも見なかった。それでいいじゃない。わたしも、あなたと出会ったことは誰にもいわないからさ。……ふふふ、そういえば、あなたも結構あやしいよね。ねえ、真っ白な髪の人喰い玩具ハンプニーハンバート。あなたはどうして、こんなところを訪れたの?」

「…………」

「なんとなく、とか言わないよね? ――ああ、ようやく頭がはっきりしてきたわ。久しぶりに人と話したおかげかしらね。そう、そうよ。今話しただけでも、あなたってすごく合理的な人だってわかるもの。こんな人気の無い場所にひとりでくる理由があるはずだわ。大人達も、きっと同じ疑問を抱くはずよね。『こいつはなにをするために廃墟なんかにきたんだろう?』って」

「俺を脅すつもりか」

「あらあら、なにもやましいことがなければ、そうは受け取らないと思うけど?」

 こいつは壊れている。だが決して馬鹿ではない。キヅナは戦慄した。

 このまま通報したら、なにを言われるか分からないところがあった。ならば彼女の提案を受け入れることも検討すべきところだろう。

「……好きにしろ」

 だがキヅナは断った。

「警察だろうがマスコミだろうが、なんでも勝手に吹けばいい。俺は行くよ」

「……ふぅん、自分が疑われても、私が埋められちゃってもいいっていうんだ。あなたって意外と厳格なひとなのね」

「いや、面倒は嫌いだし、人がいやがることだってしたくはないさ」

 きっと、シオンの言う通りにすることが、もっとも無難で波も立たないだろう。

 だがキヅナには信念があった。

「だけどな、シオン、じゃあ俺がそれを受け入れたとして、お前はどうするつもりだ」

「…………」

 今度はシオンが口ごもる番だった。

「ここで、ずっと腐り続けるつもりか? そんな選択は、別の地獄を選ぶだけだと俺は思うぞ」

「……そっか」

「ああ」

「……じゃあ、どうすれば、いいのかな?」

 蛆と、蠅と、灰と、腐肉に囲まれて、シオンは悲しげに眉を伏せた。

「いきなり誰かに殺されて、理不尽でもう涙も出なくて、あとはもう腐ることしかできない私は、いったいどうすればいいんだろう。……どうすれば正解なんだろう……」

 キヅナは再び黙り込んだ。それは、まさしくこの身が抱える問題でもあった。できそこないの内臓と免疫を腹に抱え、真っ白な皮と、真っ赤な瞳を持って生まれた、正しくない人間が、それでも正しくありたいと願ったとき、

 そこに答えはあるのだろうか?

 自分はこのために生まれたのだと胸を張れる瞬間がこの先にあるのだろうか?

 答えはきっと、

「正解なんてねぇよ」

 キヅナは言った。

「お前はまだ、自分が一般人だと思っているかもしれないが、ちがう。お前はもう『あちら側の人間』じゃない。死者だ。死者なんだよ。彼らの生活を脅かす化物なんだ。……もう全部終わっちまってるんだよシオン。たしかに

お前はかわいそうだったかも知れない。だけどどんなに不条理な過程であれ、結果はもう出てしまった。お前は化物になってしまった。だったらあとできることはただひたすらに「間違い」を減らすことだけだ。正しさに到達することは二度とないんだよ」

「……ひどいこというのね」

「同情はする。だが容赦はしない。俺は行くよ」

 飛び交う蠅を突っ切って立ち上がった。

 結局のところ、キヅナもまた、正解を選べない身の上だった。異形の身として生まれ、そして異常の身として死んだこの身体はシオンなど比べるべくもないほど間違い続けた化物だ。

 それでもなお、キヅナはまだ、正しくありたかった。

 みんなの仲間でいたかった。

 だから、化物シオンの味方にはなれなかった。

「……こんなに頼んでいるのに?」

 ひとり、ぽつんと闇に残された少女が言った。

「ああ」

「私、なにも悪いことしてないのに?」

「ああ」

「……そっか」

 蛆虫のまぶたが落ち、腐臭のため息がもれた。

「なら仕方ないわね。私はことにするわ」

 そのとき、シオンのなかで何かが決定した。

 蠅の羽ばたきがこだまする。

「……なに?」

「別にたいしたことじゃないわ。ただ、言うべきことを言わないでおこうと決めただけ」

 腐汁がぷつぷつと泡立っては弾けた。口腔こうくうからポロポロと奥歯がこぼれて転がった。キヅナは不吉なものを感じた。だがそれが何に由来するものかわ

からなかった。シオンはおぞましくはあってもひたすらに無力で、なんの力も持っていなかった。

「いうべきこと、だと?」

「ええそうよ。たとえば、とかね」

「――っ!!」

 刹那、キヅナは振り返ろうとした。だが何もかもがもう遅かった。

「がぁっ!」

 右肩を凄まじい衝撃が襲った。ライターの灯りに一瞬だけ映し出されたそれは平たい刃を持ったスコップで、振り下ろされた鉄の板は肩甲骨と鎖骨をまとめて粉砕した。

 キヅナは回転の弱まった独楽こまのようにふらふらと揺れた、随意的な運動は何ひとつできなかった。

 そして見た。

 そこにいたのは蛆虫の海に溺れる化物しようじよでも、白い皮と赤い目をもつ化物しようねんでもなかった。彼はしっかりとアイロンの掛かったズボンと、清潔なシャツを着た青年だった。

 だがその精神はだれよりも『向こう側』へ行っていた。

「…………」

 殺意どころかなんの感情すら浮かべずに、男はスコップを握り直し、キヅナの頭部にたたき込んだ。



 暗い、暗い部屋の奥に、一人の生者がいた。生者はすらりと背が高く、木訥ぼくとつとした顔立ちのよく日に焼けた青年だった。

「…………」

 青年は無言のまま、傍らに倒れた少年の胸を足で踏むと、両手に力を入れてスコップを引き抜いた。

「あーあ」

 そんな青年を見上げて、少女が言った。

「これってやっぱり、私が殺したようなものよね。最初のときはともかく、途中からはちゃんと思い出していたものね『私を殺した犯人がときどき帰ってきてる』って。……警告ならいつだってできたんだもの」

「…………」

「あーあー。嫌な気分。でも早く慣れないと駄目ね。これからだって、どうせこんなことの繰り返しなんだもの」

 男は、そんな少女をじぃっと見下ろしていた。

 腐った眼球が見上げ返す。

「なに?」

「……いえ」

 いましがた少年を一人殺害し、以前には少女も殺した殺人鬼は、死者の瞳を戸惑ったように受け止めた。

「よく、喋るようになったと、思っただけです」

「そりゃあ、いままではこわくてふるえるだけだったもの。かわいそうな私がなんでこんな目にってね。……でも、そうね、いまは生まれ変わったような気分だわ。そこの彼に感謝しないとね。いろいろなことを気づかせてくれたのだもの」

 少女はぷくぷくと笑った。頬の横にあいた穴から前歯と蛆虫がころころとこぼれた。

「ああ……これが、あなたたちの見ている景色なのね……」

 もはや眼窩がんかからこぼれ落ちて、腐肉の海をたゆたっていた眼球がやさしげに室内を見渡した。その瞳には青年やキヅナがときおり浮かべる怪しい光があった。

「私、知らなかったわ。世界って、見方ひとつでこんなに変わってしまうのね。不思議だわ。いまはもう、あなたが怖くない。それよりも外の誰かに見つかることがこわいわ」

「…………」

「本当に不思議……」

 そのとき、シオン・リフリーは本当の意味で死を迎えた。

 平凡だが愛らしく、能はないが非もなかった少女はこのとき、別のなにかに生まれ変わってしまった。

 蛆虫と腐肉の苗床の、なかで。

「…………」

「……? どうしたの? さっきから黙りこんで……」

「……いえ」

 男は目を見開いて死体を見下ろし、そして、どこか期待するように言った。

「もしかしたら、あなたは僕がずっと追い求めてきた存在なのかもしれません」

「ふふ、なにそれ」

 暗い、暗い部屋のなかで、二人は出会った。

 それはもしかしたら美しい場面だったのかもしれない。孤独に生きた化物と、孤独に生まれた化物が、初めて邂逅かいこうした記念すべき時間だったのかもしれない。

 だがそこからこぼれ落ちるものは、災厄の誕生でしかなかった。

(……さー、とんでもないことになっちまったな)

 二人の化物の足下で、キヅナは己のしでかしたことに戦慄していた。

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