5話 世界迷子

 荒野をバイクが走っている。

 背の高いフレームに大きなタイヤをいた、ぴかぴか光る青いバイクだ。

 バイクは行く、道無き道を。固い砂地をパッパッと散らし、薄いわだちを残し

て進む。

 搭乗者は一組の男女だった。黒髪の少年がハンドルを握り、金髪の少女が

その腰をしっかりと抱きしめている。振動と風の両方が強く、鞍上あんじょうは切り立

つ山の崖縁のようだった。

「ねー! アリスさーん!」

 遠くの人に呼びかけるように、金髪の少女――アイは元気いっぱい声を上

げた。あまりに風が強いせいで、これほど近くでも叫ばなければ届かないの

だ。事実、黒髪の少年――アリスは三度呼びかけられてようやく速度を緩め、

「あー!?」

「そろそろ休憩しましょー!」

「なんだってー!? 聞こえないぞー!」

「だからー! きゅーけいしましょー!」

「ちょっとまってくれ! あの大岩の向こうまで行こう!」

「えー!? なんですってー!?」

 アリスは灌木かんぼくが茂るちょっとした茂みにバイクを止めた。アイはぴょんと

馬跳びを決めて大地に降りる。朝以来の地面はブルブル震えたりドルンドル

ンうるさくすることもなく、実に頼もしく広がっていた。

 二人は会話すらすることなくさっさと働き始めた。アイはまきを集めてたき

火を組み、アリスはここのところずっと調子が悪かったベルトまわりをい

じっている。昨日の雨のせいかき付けがわるい。タンクからガソリンを

ちょっとだけ失敬して火をつけた。

 ヤカンを載せる。

「アリスさーん」

「もうちょっとー」

「もー、冷めちゃいますよー」

 アイはカップを二つ持ってバイクへ向かった。一つをスパナの横に、そし

てそのとなりにもう一つと自分自身を置く。ゆらゆらと立ち上るかぐわしい

湯気の向こう側で、アリスがああでもないこうでもないと、楽しそうに機械

をいじくっている。アイもまた、そんなアリスを見るのが楽しかった。だが

せっかくれたお茶をないがしろにされるのは面白くない。

「おい、あれとってくれ」

 やがてアリスがひらひらと手を差し出した。この場合のあれとはつまりス

パナのことだったが、アイは「はい」と返事をして何食わぬ顔で間違えた。

「…………?」

 アリスは手の中にあるカップをまじまじと見つめて「なんかちがくない

か?」という顔をした後、何がちがうのかよく分からない様子で口に運んだ。

「ん、うまい」

「そうでしょうそうでしょう。さ、お菓子もありますよ」

 結局、アリスは焼き菓子を口に挟むと修理に戻ってしまった。アイはやれ

やれとため息を吐く。だが、まあいいだろう。自分だってはやく先に進みた

いのだから。

 立ち上がり、アイは遙か彼方の山嶺を見た。

「すごいですね。あれ」


 二人は当てなき旅をしている。

 アリスはある罪を償うために、そしてアイはある罪を許すために、荒野を

巡り、海を渡った。変わってしまったこの世界が、さらに変わる瞬間をその

目に見てきた。

 鋼鉄の薔薇ばらが咲き誇るを愛で、人殺しの墓守を倒した。

 呪われた銃と弾丸を値切り、泳げない人魚にバタ足を教えた。

 美しいものを見た、醜いものを見た。

 そのすべての誕生を祝った。

 だから、たぶんあれもそのひとつなのだろう。

「あと三日ぐらいで着きますかね」

「いやどうだろ、あれ明らかに地平線の向こうだし、五日はかかるんじゃな

いかな」

 アイは楽しみでしかたがなかった。反対にアリスは面倒そうだ。

 

二人の視界の遙か先、そこには山を雲を突いてそびえる巨人がいた。



 意外なことに、二日で着いた。

 だがこれはアイの予想が正確だったわけではなく、向こうが勝手にやって

きたからだ。

「わー!」

 バイクから落ちそうなほどのけぞって、アイは歓声を上げていた。

 前方に雲を突くほどの巨人がいた。巨人は土塊つちくれでできており、一見すると

生命いのちなき像に見えた。だが違う。

 あまりに巨大すぎてそうと見えるだけで、巨人はゆっくりと動いていた。

 いまも巨人の右足が空へ持ち上がっていく。ばらばらと土塊を落として宙

をいくそれは半刻ほどもかけてようやく丘のひとつを踏み越えた。

 ずん、押し出された風が数秒を掛けてアイの髪をくすぐり、音の波がエン

ジン音に混じって消えた。

 次の一歩が始まる前に二人は巨人の横をぐるりと回り込んで併走した。

 ふっとあたりが暗くなる。巨人の影に入ったのだ。アイもアリスも首が痛

くなるほどに空を見上げた。肩のあたりで太陽がちらちらと輝いていた。二

人は陽と陰の境界にいた。

「おっきーですねー」

「ほんとなー」

 やがて南からの暖かい風が巨人の腹で砕けて散った。まとわりついた水蒸

気はみるみるうちに雲となり、空は雲海に覆われた。こうしていると巨人は

まるで水底でも歩いているような案配だった。雲海を突き抜けた両手が振り

子のように振られていたずらに雲をかきまぜている。

 ぽつり、と最初の一滴が空から落ちた。

 腹から始まった雨は瞬く間に豪雨となった。

「ひゃー!」

「はは、すっげぇなあ」

 二人は大急ぎで雨具を着込み、再び巨人を追走した。幸いなことに、巨人

は雨が降ってすぐに歩みを止めて立ち尽くしていた。

 なんだか楽しい。「巨人がいる」ということだけではなく、巨人がもたら

す夜が、雨が、それがアイをわくわくさせる。

 二人、いや三人でじっと雨を待った。落雷。あまりに巨大すぎるために電

位差すら生まれている巨人の手と腰の間を稲光がぴかりと走った。びくり、

なんと巨人がゆらいだ、その様は静電気に驚ろく人とまるっきり一緒だった。

 そして、雨が終わり、

 巨人を取り巻くようにして、虹の輪が真円を描いていた。

 巨人が初めて意識的な行動に出た。巨大な右手で虹の輪に触れようと手を

伸ばしたのだ。

 巨人が虹と遊ぶ午後に、アイはもうたまらなくなってしまった。

 自分も一緒に遊びたかった。

「こーんにーちはー!」

 聞こえているわけがない。それでも叫ばずにはいられなかった。

「私! アイ・アスティンです! あなたのお名前なんですか―― !!」

 巨人はなにも答えなかった。



 二人は巨人のまわりを子ネズミのようにうろちょろと走りながら後を追っ

た。昼は大きな足跡を懸命に追い、夜は横たわる腹の隣で寝た。巨人はおお

むね人と同じ周期で活動しており、アイは旅の仲間が増えたようで楽しかっ

た。

 旅には危険もつきまとった。あるとき二人が調子に乗って足下にまで接近

すると、巨人がガリガリと頭をいてふけを落とした。家一軒ほどもある巨

大な巨岩ふけである、ふたりは降り注ぐそれから命からがら逃げ出した。巨人は

まったく、そういうところに頓着がなかった。

 何度か呼びかけてもみた。だが反応は一度も返らなかった。

「俺たちが認識できてないんだろうな」

 とアリスは言った。

「あの巨体じゃ普通の人間なんかミジンコと一緒だ。虫眼鏡でも使わないと

気づかないんじゃないかな」

「じゃあ作りますか虫眼鏡。こーんな大きいの」

「いや無理だろ。そうだ、だったら馬鹿でかい文字を書くってのはどうだ?」

「字、読めますかね」

「あ」

 夜、二人はいつもそうしているようにたき火を囲んで語り合っていた。話

題はいつも巨人のことだった。

「異能者だろうな」

 アリスが言った。

「どんな願いを抱いたか知らんが、俺やハーディみたいな限界のない能力だ

ろう」

「死者かもしれませんよ」

 アイが言った。

「マダムさんやサーカスの人みたいに、自分じゃどうにもできないのかもし

れません」

 二人の意見は異なったが、結論は一致していた。

 巨人は、人だ。

 それも自分ではどうにもならないほどおおきな力を抱いてしまい、途方に暮

れた迷い子だ。

 なぜならば、

 

ぉ、ぉ、お、お、お、お、ぉ、ぉ、ぉ、ぉ、………………、


「…………」

 風が吹いた。深い洞窟の奥から吹き出すそれは気圧差すら生んで反響し、

自らの体で山彦を起こした。

 アイは、聞いてすぐにその意味に気づき、胸を締め付けられたように苦し

くなった。

 自然現象に等しいほどに巨大化されたそれは幼子の泣き声だった。

「……かわいそうです」

 アイ自身も、あれと同じ声を上げたことがある。道に迷って、ほかに誰も

いなくて、怖くて悲しくて上げる声。

「……何とかしてあげたいですね」

「ああ……」

 せめて共に行く人がいればいいのに。アイは思って、となりの肩に身を寄

せた。

 三日たって、二人は自分たち以外の人間も巨人を追っていることに気づい

た。

 それは後方十五キロをゆっくりと走るトラックの一団だった。

「む、お主らは迷い神様のあたりをうろついておったガキどもではないか」

 集団は小さな町くらいはありそうなほどのキャラバンだった。アイはため

らうことなく彼らに近づき、話を聞いた。

「なんだ、まだ天罰を食らっておらなんだか」

 対応したのはひげを長々と伸ばした禿頭はげあたまの老人だった。

「あなたたちは誰です?」

「誰とは無礼な、我こそは迷い神様に仕える由緒正しき神官であるぞ」

「迷い神様? あの大きな人のことですか?」

「人ではない、神だ!」

 老人が泡を飛ばして言う。彼の言うところによると、あの巨人はこのあた

りに伝わる伝説の神様で、世界を創造したもっとも古き一柱なのだとか。

「他の神々は十七年前のあの日に世界を去られた。だがただ一人、迷い神様

のみが道に迷ってな、こうしていまも世界をさまよっておるのじゃ」

「えー。それ本当ですか?」

「当たり前じゃ! 現にわしは見たぞ! 迷い神様が砂を集めて山を作るのを

な!」

「それ多分、砂遊びしてたんじゃないですかね」

「アイ」

 どうにもうさんくさいなと思いながら話を聞いていると。アリスがそっと

袖を引いた。

「あれ、見てみろよ」

 促されて視線を向けると、一部の人間がトラックを止めて、ふけの一つに

かじりついていた。彼らの手にはショベルやツルハシ、果ては爆薬まであり、

岩塊がんかいを丁寧に砕いては、中からきらきらと光る何かを持ち出している。

「金だ」

 アリスが言った。

「あの巨人、体の一部が金鉱なんだ。それでこいつら追ってるんだよ。商売

のためだ」

「ほほーう」

「違う! あれは聖餅せいかじゃ! 賢英なる信者に向けた迷い神様のお恵み

じゃ!」

 よく見ればキャラバンには遠方から来たとおぼしき観光客や、行商のため

の商人までいた。となると老人の弁は彼らを満足させるための作り話なのだ

ろう。なんとも商魂たくましい話だ。

「嘘ではない! 本当だ! ふん! そんなこというやつには燃料も食料も

売ってやらんからな!」

「わー! ごめんなさいおじいさん! ほらアリスさんもあやまって!」

「迷い神様バンザイ!」

 だがアイは老人の話の全部が嘘だとも思わなかった。真実は人の数だけ存

在し、戯れに侵していいものではないと知っていたからだ。なんとなれば、

自分の考えだってその一部なのだから。

「ほらほら、機嫌直してくださいよ。私たちはべつに嘘だって言ってるわけ

じゃ――」

 そのとき東の空が白く光った。

 鉱夫たちの使う爆薬でも落雷でもなかった。アイは即座に目の前の老人を

押し倒して覆い被さる。アリスはそんな二人をさらに守るように背後に立つ。

数瞬が経って爆音がとどろき、さらに一拍をおいて耳鳴りに似た衝撃波が流

れていった。

 顔だけを上げて遠くを見る。すると、巨人の膝のあたりで黒煙が立ち上っ

ていた。

「ぬああ! また奴らか! おのれよくも迷い神様を!」

 老人が顔を真っ赤にして立ち上がる。

「不信心者め! 畜生め! なんということをするのだ! ああ違う! 

しい! 鉱脈は右の腕じゃ!」

「な、なにごとですか?」

 アリスに手を引かれて立ち上がったアイは巨人を見た。

 パッパッと遠くで光が瞬いている。そのたびに新たな黒煙が立ち上ってい

る。

 カンカンに怒った老人がくるりと振り返って八つ当たりするように答えた。

「兵士どもじゃ!」



 彼らはキャラバンのちょうど反対側、巨人の進行方向に陣取っていた。

「まったく、命知らずな子供たちだな」

 丸一日かけて大回りをした二人は、赤茶けた制服を着た兵士の群れを発見

した。彼らの士気と練度は高く、二人は賓客の待遇で通された。

「自分が危険なことをしたと分かっているのか? 砲弾に巻き込まれたり、

奴が方向転換をしたらどうなっていたと思うね? 子供はおとなしくしてい

なさい」

 対応したのは五十歳ほどの男だった。彼は子供を持つ男に特有の優しさと

傲慢さで諭すように言った。ごめんなさい、とアイは素直に謝っておく。す

くなくとも今ここでは。

「それで、あなたたちはいったいなにを?」

「我々はあの悪魔を管理しているのだ」

「悪魔……ですか? それに管理って……」

 キャラバンの老人とは逆のことを言う。

「そうだ、やつは町があろうが橋があろうがお構いなしに歩き回るからな。

そんなときに進路を変えてやるのが私たちの仕事だ」

 男は自慢そうに車内を見回した。砲弾、榴弾、爆薬、燃料、そこには小さ

な街なら攻め滅ぼせそうなほどの兵器が積まれていた。

「やつが望ましくない方角に行こうとしたらここにある兵器が火を噴くとい

う訳だ」

 聞けば、男たちは近くの国や街の連合軍なのだという。彼らは金と装備を

出し合って、巨人をこの場所に封じ込めているという。

 アイの眉が自然にゆがんだ。

「お話は、できないんですか?」

「あの巨人とか? ははは、これは面白いことを言う」

 言うほどには楽しくなさそうに男が笑う。

「あれと話をした者など誰もいないよ。そもそもしゃべれるとも思えないね。

やつにとって我々など虫けらと一緒なのさ。踏みつぶしたって気にするもの

か」

「でも……」

「そうか、お嬢さんは優しい子なんだね」

 男の目は優しくも厳しく、自然な覚悟を感じさせた、アイはその目をよく

知っていた。

「故郷の娘を思い出すよ。君はあんな悪魔にすら心を砕いている。我々のよ

うな仕事をしているとつい忘れそうになってしまうが、それはすばらしいこ

とだ、大切にすべきだと思う。……できれば私もそうしたいよ。銃を置き、

暴力を忘れ、家に帰って家族と過ごしたい。そうできるのならこんな職業、

いつなくなったってかまわない」

「だったら、そうするべきでは?」

「無理だ。奴の向かう先には、その家族がいるんだ」

 話はここまでだ。男はそう告げるように肩をたたくと立ち上がった。

「家にお帰り、健やかな子供たちよ。君たちにだって親がいるだろう。あま

り心配をかけるものではない。はやく彼らの元に帰っておあげなさい」

「でも」

「言い訳はなしだ」

 男はまさに大人だった。言動は子供に対する愛に満ちており、言いようが

ないほど情愛に満ちていた。またそれ故にアイの話を見下して、愚かな優し

さだと決めつけていた。

「いやあの、言い訳とかそういう話ではなくてですね」

 だがアイはもちろん、彼らの思う「甘い子供」などではなかった。この場

所にいるのは業と運命によって魂を磨き抜かれた炎のような優しさだった。

 アイは素朴な疑問を口にする。

「そもそも、 の装備で追い返せるんですか?」

 隊長の笑顔にひびが入った。



 男が言ったことは確かに事実ではあった。彼らは何年も前から巨人を追い

立て、火器を使ってその進路を変えてきた。

 だがその頃の巨人はせいぜいいえ数軒すうけん程度の大きさしかなかったそうだ。

 彼の者はいまこのときも成長しているのだ。そしておそらく、これからも。

 キャラバンの老人はこれらの現象と普段の行動、一人遊びから、巨人の年

齢を十二歳前後と推測していた。その成長速度は年々加速し、対して精神的

な成熟度は遅くなっているらしい。これは動物の成熟速度が体の大きさと比

例するからだと言われている。

 部隊もまた巨人の成長に合わせて大きく、強大になっていった。最初は爆

竹を鳴らすだけだったのが、銃を使うようになり、それもすぐに持ち替えら

れてどんどん強力な装備になっていった。

 だが、最初から無理な話だったのだ。

「―― !!  ―― !!」

 夜空にまばゆい光が走る。深夜の静寂をとどろきが破る。

 稲妻に似た火線が大地をさかのぼって天を撃った。西瓜すいかほどもある砲弾が

音の壁を切り裂いて飛んだ。銃身が真っ赤に焼けた機関砲が勝手に弾丸をは

き出していた。歩兵の拳銃が乾いた音を響かせていた。

 そのすべてが巨人に当たった。

 当たりは、した。

 どん、どどん、砲声が響く。とどろきはどことなく花火のようなおめでた

い響きがあった。

「…………」

 底冷えする荒野の夜気に耐えながら、アイはじっと彼方を見つめた。

 二人は砂岩が積み重なった丘の上にいた。ここからは戦場がよく見えた。

「―― !!  ―― !!」

 豆粒よりも小さな隊長が必死でなにかを叫んでいる。部下たちがよく応え

て粛々と後退している。武器を撃っては引き、また撃っては引く。それは通

常の戦闘とはまったく異なる運用だったが彼らの練度は高く、部隊は巨大な

蛇のように有機的に行動した。

 老いた大蛇は狡猾こうかつだった。空砲と曳光弾えいこうだんを必要以上に使って巨人のトラウ

マを呼び起こし、己が力を何倍にも大きくして見せた。

 だが所詮、蛇では巨人に勝てなかった。

 ついに部隊が崩壊を始めた。

 夜空を彩っていた火線が少しずつ減っていく。重なりすぎてとどろきとし

か認識できなかった砲声がくっきりと聞こえ始める。自走砲の群れがうち捨

てられて巨人に飲まれ、歩兵の拳銃がカチンカチンとむなしく鳴る。弾切れ

だ。

 小隊も、大隊も、そして彼らを支える国すらも弾切れになったのだ。

 すべてをなくした彼らがそれでも玉砕に走らなかったのは、隊長の言うと

おり守るべきものがあったからだろう。

 彼らは夜明けとともに東へ帰った。

 太陽が昇り始めたその場所にはもう、彼らの街が見えていた。

 細々とした城壁、線のように細い大道、この場所から見るそこはまるで蟻

の王国だ。

「……いしょっと」

 立ち上がって尻をはらい、アイはグンッと伸びをした。

 勝敗は決した。巨人は明後日にも街を踏みつぶすだろう。人がありを踏むよ

うに、蜘蛛くもの巣を簡単に散らすように。

 それはやはり、かわいそうな事だと思う。

 だから、アイは決めた。

「やめとけよ」

 まさにそうと決意した時だった。背中に鉄網のような言葉が絡んだ。振り

返ると、まばゆい太陽を背に負って、アリスが長い影を引きずっている。

「あんなのを助けるなんて、無理だよ」

「やです。私は行きます」

「……なにか手立てがあるのか?」

「なんですかその“どうせ無いんだろぅなぁ”って目は、あいにく少しは考

えてますよ」

 右手を持ち上げ、百足むかで座の二十足目の横を指さした。そこには巨人の右耳

がある。

「いまからあそこまで上っていって、やめてください! って叫びます」

「それだけか?」

「はい、それだけです。でも、たったそれだけの事を、いままで誰もやって

こなかったのですから、価値はあると思います」

「……そうかもな。確かに、その通りだ。そんなの、奇跡みたいな確率だと

思うけど、おまえには関係ないんだろうな」

「そんなことありませんよ。よりいい方法があるならそっちの方がいいです

し、無理そうならあきらめます」

「ひとまずは、だろ?」

「はい、私しつこいので」

 太陽が光を増していく。同時に影がさらに暗く染まっていく。アイは夜の

側にあって光の面を誇らしく掲げ、アリスは昼の側にあって暗い面を地に向

けた。

 アイは理屈では止まらない、なぜならアイ・アスティンとはそれ自体が一

個の夢の表現であり、ただ自分自身を全うしているだけなのだから。

 だが、それはあくまで夢の話。

「それでも、やめてくれ」

 光り輝く太陽の中にあって、アリスはなおも闇に染まっていく。アイの足

下にまで伸びた影が、未練そうに縮こまっていく。

「危ないことはやめてくれ、どうかおとなしくしていてくれ。俺はもう、お

まえが傷つくのを見たくないんだ。……頼むよ」

 あろうことか、アリスは頭まで下げて頼み込んだ。

 そのいじらしい姿が、どうしようもなく足に絡みついてしまう。アイは理

屈では止まらない。だがこの世界は理屈だけではできていない。

 アイは、夢と、希望と、後悔と、失敗と、チョコと、ご飯と、そして愛情

でできている。

 だから、どうしようもなく迷うのだ。

 朝と夜の境界で、人と化け物の境界で、夢と現実の境界で、アイとアリス

は対立した。

 アイはあん中の光だった。

 アリスは陽中の闇だった。

 ずん、巨人がまた一歩を大地に下ろして光の世界に入っていった。

 ぎらり、太陽が大地を蹴って舞い上がり夜の世界を焼き払った。

 境界の時間が終わろうとしていた。夜と星々が引き上げ、昼と太陽が大気

を暖める。くっきりと大地に刻まれていた影はやがて輪郭を失い、両者はじ

んわりとなじんでいった。

 そして、二人は踏み出した。

「まったく、アリスさんは頑固ですね」

「ふん、おまえにだけは言われたくないね」

 遠ざかるのではなく、近づくために。

「ったく、結局こうだよ。おまえは俺の言うことなんか全然きいてくれない

のに、俺ばっかり貧乏くじだ」

「それはこっちの台詞です。アリスさんだって私の言うこと全然きかない

じゃないですか」

「そうかぁ? いっつも俺が折れてる気がするぞ」

「いつもじゃないです。どうでもいいことだけです」

 一歩一歩と近づくたびに、アリスの体が輝きだした。その光は太陽や炎よ

りもまばゆい銀色だった。同時にアイの心臓も輝き始める。光は同じ色をし

ていた。

「手伝ってくれるんですか? アリスさん」

「ま、乗りかかった船だからな」

 向かい合う二人は悪態をきながら手を差し出した。光が溶ける。少年の

形をした正義がより純粋な形状へと変わっていった。

 アイの心臓も変化していく。右手と右手が絡み合って、二人は互いの形に

ゆがみ合う。

 閃光があたりを埋め尽くし、やがてふっと光量を落とした。

 少年はやがて一丁の拳銃へと変わり、心臓は一発の弾丸となった。

 どちらも同じ銀色をしていた。

「さて、急ぎましょうか」

(おう)

 照準も安全装置も存在しない単発式の銃だった。アイはその銃身に額をあ

てると少しの時間を祈りに使い、やがてまっすぐに構えた。

(よく狙えよ。外すと世界が滅びるぞ)

「ふふ、それができなくてこんなとこまで来ちゃったくせに」

(……いいから早くしろっての。気が気じゃねえよ)

 銀の銃から怒ったような心配したような声が聞こえる。アイはすでに暗く

なりかけている視界の中で必死に狙いを定める。どこを撃っても当りそうだ

が、どこを撃っても効果はなさそうだった。それでいい。

 発砲。

 まるで流星が遡るように、放たれた弾丸はあらゆる束縛から解放されて天

を上った。

 巨人の左肩に着弾。

 思う間もなく背中へ貫通、飛び出した弾丸は長大な弧を描いて舞い戻り、

再び巨人を襲った。右腕。さらに速度を上げた弾丸が肘のあたりに大穴を開

ける。巨大な質量がゆっくりと落下してちょっとした山を作り、遠くで老人

が喜んでいる。

 いままで何の反応も見せなかった巨人がこのとき初めてよろめいた。だが

銀の弾丸は容赦せずに、雀蜂すずめばちのようにつきまとう。肩に、頭にと飛び込んで、

土塊の束を吹き飛ばしていく。

 拳銃喰らいブザービーター終わりの笛ブザービーター銀の銃弾ブザービーター魔弾アリスブザービーター

 それは絶対命中の呪いをうけた正義の弾丸であり、アリスという少年その

ものでもあり、そしてアイの命でもあった。 

(大丈夫か?)

 手元に残った拳銃が問う、返事をするのもおっくうで、アイはがっくりと

膝をついた。視界が暗転しかかっている。肋骨の上から心臓を押し込んでな

んとか頭に血を送る。だがこんなものはその場しのぎに過ぎない。はやく決

着をつけなければこのまま意識を失ってしまうだろう。

 だというのに、銃弾はいたずらに土塊を削るばかりで、巨人自体はぴんぴ

んしている。

  それでよかった。なぜならアイが狙ったのはまさにそれらの余剰なの

だから。

 肥大しきった外殻をすべて削り落とし、最初の一人に無理矢理もどす。そ

れがアイの狙いであり、巨人と人との妥協点だった。

 

ウ、オ、オ、オ、オ、ン

 

あの日の夜と同じように、ついに巨人が鳴きだした。頭を抱えて背中を丸

め、悪さをする雀蜂から逃れようとした。だが雀蜂は正義らしく容赦しな

かった。

 アイの胸が二重の意味で痛んだ。『それはあなたのためなんだから我慢し

て』と言い訳したくて仕方がなかった。だがその言葉すら巨人には届かな

い。 

 本当は、巨人はこんなことを望んでいないのかもしれない。いまさら小さ

な人間になど戻りたくないかもしれない。もしそうなら、あのまま世界をさ

まよっていた方が幸せだったろう。アイもそうできたらなと心から思う。

 だがあいにく、アイは神ではなかった。神のごとき力を持つアリスですら

神ではない。だからいつも不完全で、痛みを伴い、誤解して、優しくするつ

もりが傷つけてしまう。

 それでも、あの子に会いたかった。会って名前を聞きたかった。

 その代償がこの胸の痛みだというのなら、あまりに安いものだろう。

 だから、痛みに耐えながらも、アイは今日も前に進むのだ。

 そして、

「…………」

 そして、

「…………」

 そして?

「……あれ?」

 いい加減ごまかしも利かなくなって、ぜえぜえと荒い呼吸を吐いていたア

イは残りわずかな力を懸命に使って巨人を見上げた。さきほどまではそこに、

巨人がうずくまって鳴いている姿が見えたのだ。

 だが、なぜだろう、いまの巨人は普通に立ち上がっていた。

「うわ、やべぇ」

 銀の弾丸が再び巨人を撃った。とたんに肩がはじけて土塊に戻る。だが、

土塊は落ちたそばから吸い上げられて、再び巨人に戻ってしまった。次の一

撃もそうだった。その次も、次もだ、

「あの……アリスさん……これはいったい」

「一応、次の一撃で全身撃ったことになるけど。……ああ、やっぱりだめ

だ」

 ぱぁんと、脇腹に爆発的な一撃を与えて、銀の弾丸は一直線に戻ってきて

アイの胸を撃った。どくん、どくん、と再び心臓が鼓動を始める。だが安心

などできなかった。

 そして、アリスは言った。

「こまった、あいつ俺より強いぞ」

「は?」

 アイは凍った。

「は、はぃぃぃぃ!? え? アリスさんって世界一強い系の人じゃないんで

すか!?」

「いやぁ、ある程度突破しちまうとあとは相性だよ。あの巨人、たぶんもう

どっからどこまでが本体とかないんだろ。あれで一個の生き物なんだよ」

「え、じゃあどうするんですか?」

「……どうしよう」

 ぐったりと、アリスは寝転がった。

「少なくとも、俺の持ち出しはもうゼロだ。あ、お前なんだったらあれやっ

てみろよ。耳まで行って叫ぶやつ」

「そうしたいのは山々なんですけれど、私いまちょっと死にかけてまして

……っていうか死んでまして」

 酸欠のショックからか、アイもまた転がったまま動けなかった。

 巨人は、しばらくあたりを見回して「結局いまのはなんだったのだろ

う?」とばかりに首をかしげ、再び歩き始めた。

「うわーはずかしー。普通に負けてるじゃないですかもーアリスさんの馬

鹿ー」

「なんだとこの野郎」

 荒野に罵詈雑言ばりぞうごんの花が咲いた。二人はわいわいぎゃーぎゃーとお互いの悪

口を言い合って、その辺の砂とか葉っぱを投げ合った。

 また一歩。上空を巨大な岩塊がまたいでいった。家一軒に匹敵する岩がポ

ロポロこぼれて遠くに落ちた。明け始めた朝が再び夜に帰って行った。

「また、ダメでしたね……」

「なー」

 アイはぽつりとつぶやいた。もう何度目になるかもわからない明確な敗北

だった。

 世界は人など歯牙しがにもかけない、それは力を持たない民であろうと、神の

ごとき異能者であろうと変わりはない、二人がどれだけ望もうと、巨人がど

れだけ嘆こうと、悲劇は運命のように強固に巡って変わりはしない。

 世界を救えるなんて夢はもう見ていない。そんなことができるのは汚れな

き子供だけ、そしてアイはもう子供ではなかった。十三のあの日から、こん

な景色は何度も見てきた、救いの手は間に合わず、善意は簡単に覆された。

それでも、

「うわああああああああああああああ!!」

 アイは叫んだ。高鳴る鼓動のそのままに、張り裂けそうな心臓が命じるま

まに、涙を浮かべて、心を震わせて、己の無力を思い出した。もう何度とな

く味わったはずの痛みは少しも慣れることがなく、心と思いを引き裂いた。

「あーくやしー!! もー! もー!!」

 そして、

「ほっ!」

 アイはパッと跳ね起きて、頬をパンパンと音高く打った。ついでにシュバ

ババと目の前の空気を八つ裂きにし、「キシャー!」と奇声を発して宙返り

した。

「よし!」

 全然よしじゃなかった。けれどアイはそういうことにした。世界は厳しく、

言うことなんか聞いてはくれない。だがそれはお互い様だ。こっちだって向

こうの言うことなんか聞きはしないのだから。

「もういいのか?」

 アリスが聞いた。アイはふんす、と鼻息を荒くしながらうなずいた。

「ええ、ひとまずは」

「はは、しつこいやつだな」

 アリスもまた、立ち上がった。尻をはたいてバイクを起こし、ドルンと一

発エンジンをかける。

「行くか」

「はい!」

 そして二人は歩き出す。数え切れないほどの失敗を抱いて、それでも何一

つあきらめないまま前へと進む。

 アイは巨人を見上げた。挫折を味わい、しかし決して捨てることなく抱き

かかえて、自分のものとするためにその景色を刻み込もうと振り仰いだ。地

平線に輝く朝日をまたごうとしているような巨人は雄々しくも美しく、まさに

神の一柱にふさわしかった。

 その景色をアイは心に刻み込んだ。

「ん?」

 そして、

「ん?」

 二人は気づいた。

「あれ? アリスさん、なんかおかしくないですか」

「おまえもそう思うか?」

 二人が見ていたのは巨人――ではなく、その先に広がる地平線だった。そ

こには昇り始めたばかりの太陽が輝いており、今この瞬間も大地から遠ざ

かっていて、

「……おい、嘘だろ」

 アリスが言った。もはや事態は明白だった。

 太陽が、沈んでいる。

 いや違う。沈んでいるのではない、太陽は確かにいつも通りに昇っている。

だがそれ以上の速度で地平線が隆起しているのだ。

 地平線がさらに盛り上がっていき、やがて太陽に追いつき飲み込んだ。世

界が夜へと引き戻されていく。あまりに巨大な影が星々の世界を呼び戻し、

見えないはずの夏の星座を天に描いた。

『あわわわわ……』

 二人は思わず抱き合って、ゆっくりと頭をそらしていった。彼方の星座が

さらに消えていき、なにも存在しない闇を描いた。

 立ち上がった闇は人の形をしていた。

 巨人をさらに数倍したような大巨人だった。

 山脈ほどもある足が大地を踏みしめ、島ほどもある手が大気の底をかき混

ぜる、しかしその足取りは優しく、踏みしめられた荒野には足跡一つ残らな

かった。

 大巨人はそのまま巨人の元へとやってくると、頭をなでて、いきなりその

体を抱きかかえた。

 巨人に戸惑いはなかった。彼は、あるいは彼女はそここそが己のいるべき

場所だと知っていたかのように大巨人に頭をもたげ、ぶらぶらと両足を揺ら

していた。

 そして二人は歩き出した。元来た道を丁寧に戻って、太陽の向こうへと消

えていった。

 その寸前だった、大巨人がふっと振り返り、頭を下げた。

 アイはどきりとした、あり得ないことだし、それ以前に不可能だと思った。

大巨人と自分たちではさらにサイズが離れているのだ。お互いを認識するな

どできるわけがない。

 それは決して長い時間ではなかった。

 だから多分、それもなにかの偶然か、あるいは別の意図があったのだろう

と思う。

 だがそれでも、アイにはその行動が、大巨人の感謝と謝罪に見えたのだっ

た。

 おおきな親子は、やがて地平線の向こうへ消えて、あとにはかすかな地響き

しか残さなかった。

「アリスさん……見ました?」

「……見た」

 二人は思わず顔を見合わせた。気づけばぴったりと寄り添っていた、だが

そのことを恥ずかしがったりすることはなかった。いまはそうするのが自然

に思えた。

 そして、二人は笑った。

「……ぷ」

「くくく……」

 荒野に笑いの花が咲いた。アイは笑った。アリスも笑った。奇妙なうれし

さと不思議な挫折の両方を抱いて、二人はいつまでも笑っていた。

 アイは思う、世界は確かに人を無視して悲劇に追い込む。

 だが同様に無視して救うこともある。

 そこに関われないことが、アイには悲しく、またうれしかった。

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