第二話 越後の毘沙門天(二)

 さらに数年の月日が流れた。

 越後守護代・春日山かすがやま長尾ながお家 の当主・長尾為景ためかげの越後統一戦争は、なおも終

わらない。

 隣国・越中では豪族国人と本猫寺門徒による一揆が多発し、そのたびに為

景は「あやつらは俺の父の仇だ」と出兵して叩いて蹴散らしたが、いくら叩

いても一揆衆はもぐらのようにまた出てくる。

 青年期を迎えた上田長尾家の長尾政景まさかげは、実績・押し出し・若さのすべて

を兼ね備えた名将に成長し、ますます越後にとって重要な存在となっていた。

 為景はなにがあっても実子の晴景はるかげに家督と越後守護代の職を譲るつもりで

はいたが、もはや自分なきあとの越後が分家の政景の力抜きに立ちゆかない

ことも理解せざるを得なくなった。

 為景はもう、七十を過ぎていた。

 この歳で越中戦線にまで出兵して戦っている為景はまさに異常の英傑であ

り、主君を二度も殺した神罰もいっこうにくだらず、越後の人々からは「善

悪を超えた不死の武人」と恐れられているが、さしもの為景も自分の体力に

限界を感じはじめていた。生きるだけならば百歳までも生きられようが、馬

上で槍を振るって堂々と戦えるのは、あと数年だろう。

 しかも、病弱な嫡子・晴景の戦嫌いの癖はまったく改まらない。

 このままでは自分なきあと、分家の政景に越後守護代の職を奪われるのは

間違いなかった。

 為景は、後顧の憂いを断つために政景を暗殺するという手も考えたが、政

景は悪辣あくらつにして狡猾こうかつ、誰よりも用心深く、決して忍びの者を身辺に近づけな

い。

 たとえ女子供であろうとも、あやしいと勘ぐったら迷わずに斬り捨てる。

 戦場で討ち果たしたくとも、両者ともに譲らぬ剛勇の武人同士ゆえに、こ

れも難しい。

 まるで若き日の自分と戦っているようでどうにも腹立たしい為景だったが、

さりとて政景の武なくしては惰弱な晴景は大名として存続できそうにない。

 本家だ分家だと争っていても、長尾家そのものが滅びてしまえばなんの意

味もない。

 ならばいっそ、政景と婚姻同盟を結んで「一門衆」にしてしまおう、と思

い立った。

 毒を食らうなら皿まで、だと。

 分家とはいえ同じ長尾一族であるから、格式にも問題はなかった。

 ちょうど、年頃になりつつあった娘・綾が為景のもとにいる。

 綾は、美しく凜々しく育っていた。

 どこへ出しても絶世の美少女として通る。

 綾は「とらちゃが大人になるまでは嫁ぎません!」と縁談の話が出るたび

に断り続けてきたのだが、政景を一門衆に取り込むとなれば綾を駒として用

いざるを得ない、と為景は割り切って考えていた。


 だが意外なことに、この縁談を持ちかけられた政景のほうが、首を縦に振

らなかったのだ。


「断る。俺はまだ、妻をめとらない。俺が嫁にしたい娘は、虎千代しかいな

い」

 為景が送った使者の前で、政景は敵将どもの首実検をしながらそう言い

放ったという。

 為景は、政景がなにを考えているのか、まるで理解できなかった。

 虎千代を?

 嫁に?

 あの白子を?

 日の光に当たるだけで倒れるような娘を?

 だいいち、虎千代はまだ子供ではないか?

 為景は、政景がこの婚姻話に飛びついてくるとばかり思っていた。

 為景が分家の政景に娘を娶らせて本家の一門衆に組み入れるということは、

来たるべき晴景政権において政景に一門衆筆頭に置き越後の宰相という破格

の地位を与えるという決断を意味するのだから。

(気概のない晴景は、俺が死んだあとは厄介な仕事をすべて政景に預けるだ

ろう。つまり俺は政景を事実上の越後守護代にしてやろうと言っているのに、

まさか選り好みをするとは……しかも、あの虎千代を嫁にしたいなどと、正

気とは思えん)

 だがさすがの為景も、「貴様は狂っているのか」とは言えなかった。

 虎千代はまだ子供だし、そもそも病気だ、日の光にすら当たれんのだ、い

つまで生きられるかもわからんものを嫁には出せん、と為景は返答した。

 春日山長尾家と上田長尾家の縁談話は、いちどはこうして流れた。

「出し惜しみをするか、老いぼれが! ならば力ずくで奪い取る!」

 断りの使者に対してそう言って笑ったという政景は、関東管領かんれい・越後守護

の家系である上杉家の血筋の者を担ぎ「上杉家復興」を掲げて、ついに反為

景の兵を起こした。

 本来は上杉家の家老にすぎなかった為景は、越後をわがものとするため、

主筋である上杉家の人間を戦で殺した。越後守護を殺し、関東管領も殺した。

今の越後守護は、上杉家の血筋の者ではあるが、為景が担ぎ上げたお飾りで

ある。

 長尾為景の横暴を終わらせ越後守護上杉家を復興するという政景に、大義

名分はある。むろん、政景もまた別のお飾りを担いでいるだけで、実質的に

は長尾家同士の抗争にすぎない。

 越後、そして隣国の越中は、いよいよ乱れた。

 勇猛で鳴る為景自身が出兵すれば必ず勝つが、その出兵じたいが為景の老

いた身体に負担をかけていた。

 越後中の豪族国人たちは、為景と政景のどちらが最終的に勝利を収めるか、

息を殺して見守っている。

 為景はいよいよ苦境に追い詰められつつあった。




「ひひひ。外の世界を見たくないか、虎千代」

 この日は朝から曇っていて、日の光が弱かった。

 館の裏に流れる小川で足を洗っていた虎千代に、声をかけたあやしい総髪

の男が一人。

琵琶島びわじま城主の宇佐美うさみ定満さだみつだ。

 この時期、宇佐美定満は、長尾政景が率いる反為景軍に所属していた。つ

まり為景の敵となっていたわけだが、当人は「もう長尾家同士の内輪もめは

いいだろう」とやる気がなく、大胆にも時々しれっと春日山の虎千代のもと

に顔を出している。

 虎千代はだいぶ大きくなり、それなりに体力もつき、曇り空の日はこうし

て小川で遊んだりできるようになったが、まだ男というものが苦手だった。

「……うー」

 ふるふると震えながら、赤い瞳で宇佐美をにらんでいる。

「フッ。今までもう何度も挨拶したのに、たやすくは懐かねえな。まるで野

生の小動物だ。だがな、オレは越後一の軍師と呼ばれる男! 今回は切り札

を持ってきたぜ!」

 ドジャーン!

 宇佐美が、兎のぬいぐるみを背後から取り出した!

「どうだ! 愛らしいだろう、かわいいだろう! オレさまが夜なべして自

分でこしらえた、究極の でぐるみだーッ! 虎千代、お前にやろう! 懐

け!」

「……いらない」

 ぽいっ。

 虎千代は、半目になりながら小川のせせらぎの中にぬいぐるみを捨てた。

「うわああああああ? オレのうさちゃんがあああああああっ? なっ、な

んてことするんだ、テメエエエーッ! うさちゃんが溺れ死んだらどうする

んだッ、てめえには血も涙もねえのかーっ? オレの心は深く傷ついたッ!」

「……あれは、生きてない。生きてないから、死なない」

「ぐわああ! かわいくねええええ! 飼い主に愛されたぬいぐるみには魂

が宿るんだよ! いいかッ! こんどうさちゃんを捨てたりいじめたりした

ら、全力でお仕置きするからなッ!」

「……やられたら、やりかえす。がるる」

 虎千代は、小さな八重歯を剥き出しにして、すごんだ。

 野生のあらぶる兎のように。

 光を避けるために全身に白い外套がいとうを巻き、小さな頭には白い布でこしらえ

た頭巾をかぶっているので、まるでてるてる坊主のようだ。

「ひでえよう、ひでえよう。子供ってのはよう、人形とかぬいぐるみが大好

きなんじゃねえのかよっ? なんだよてめえはよっ?」

 宇佐美は泣きながら、土左衛門となった兎のぬいぐるみを引き上げると、

ぎゅーと絞った。

「見ろ、かわいそうに! びしょびしょじゃねえか! てめえも水の中に漬

けてやろうか? ああん?」

 虎千代は、そんな宇佐美の哀れな背中をじーっと見ている。

「なにをしにきた、うさみ」

「だから、うさちゃんをてめえにくれてやって懐かせようとしてだなあ……

まあいい。今日は虎御前とらごぜんさまも綾ちゃんもいねえようだし、このオレがてめ

えを散歩に連れていってやるとするぜ!」

「いやだ。ことわる。そういうおとこを、こどもさらい、というらしい。そ

もそも、うさみはおとちゃといくさをしているではないか」

「ちょっと前まで『でちゅでちゅ』言ってたのに。かわいげなくなったなあ

……いいか? 今日は曇ってるし、母さんも姉ちゃんもいない。一日くらい

は春日山を下りて、外の世界を見てみたくはねえのか?」

 外の世界?

 ぴく、と虎千代が身体を震わせた。

「外は、こわい」

「じゃあ、一生この館にこもって過ごすつもりか? 大人ってのは、家の外

の世界を渡り歩くもんだ。虎千代、てめえはずっとガキのままで終わるつも

りか?」

「……それも、いやだ。いつまでもあねちゃを縛り付けたくはない。外の世

界を、見てみたい……」

「よく言った。かしこい子だな、お前は。坊主どもは、お前が生まれた時に、

偉大な人間が誕生したと騒いでいたっけな。あの頃のオレは、要はお前の見

た目が神々しいって話だとばかり思っていたが、どうやらお前の本質、お前

希有けう な価値というものはお前の精神そのものにあるようだ」

 虎千代は、宇佐美が遠慮なく語ってくる難しい言葉を、よく理解した。

 言葉だけで理解しきれない部分は、宇佐美の表情から「感情」を読んで、

補足する。

 宇佐美が虎千代に抱いている感情は「好意」だが、悪しき「好意」ではな

いようだ。

 長尾政景などは、もっと激しい「好意」を虎千代に抱いているが、虎千代

が見たところその政景の抱く好意にはひどく毒々しくて黒い、けがれたなにか

が混じっていて、おぞましい。

 だから敏感な虎千代は、政景の顔を見るのもいやだった。

 だが、宇佐美というからっとした万事適当な男には、そういうドス黒さが

なかった。

「もっとも、オレさまは幼女愛護家じゃねえ。お前をオレの理想のために教

育して、志を遂げるためにがんばってもらおうって魂胆だ。お前にはその器

があるが、育てねえと才能は伸びねえ。甘やかしたりはしねえぜ」

 この男は正直だ、と虎千代は思った。

「りそう?」

「義ってやつだ」

「ギ?」

「書物を読んで勉強してんだろ? 正義、だよ。まあいい。本なんぞいくら

読んだって、ほんとうのことはなにもわかりゃしねえんだからな。人間って

のは、実際に歩いて体験しなきゃあ、なにひとつ理解できねえんだ。いいか

虎千代。観る者は、観られる者なんだ。観られる者がいなければ、観る者も

存在しねえ。ってことはよう。目をつぶり耳をふさいでなにも観なければ、

そいつはこの世に存在していないのも同じだってこった」

「……なにしゅうのおしえだ?」

「何宗でもねえ。オレさま自身の言葉で語ってるんだ。オレは生来、宗門っ

てのに興味がなくてな。神も仏も信じちゃいねえ。そういう意味で、お前の

親父とオレは似た者同士だよ。だが、オレには目に見えない神や仏なんぞよ

りも信じられるものがある。それが、自分自身の魂に宿るもの――義、だ

よ」

「じぶんじしんの、たましい」

「信念、っていってもいい。まあそういうのはぜんぶ、ただの言葉だ。言葉

なんてものは、ほんとうのものを指し示すための道具にすぎねえ。そら、立

て。山を下りようぜ。お前が食えるものも用意してきてやった。肉も大豆も

だめなんだってな。だがこの琵琶島名物の――」

 こんどは食べ物で釣ろうとしていた。

「やはり、こどもさらいか。おとちゃとのいくさにかつために、とらちゃを

ひとじちにするのか」

「いやあ。もう長尾為景のジジイとやりあうつもりはねーよ。今越後で続い

ている戦は、お前を嫁にしたがっている長尾政景がやる気まんまんなだけだ。

オレさまが知略を用いて戦を終わらせてみせるさ。オレは実はそのために、

えて政景陣営についている」

「ほんとうか」

「オレはよ、あの義ってやつを忘れて生まれてきたとしか思えねえ為景のジ

ジイにはもうさじを投げたが、かといって分家の政景は為景が屈折したよう

な男でいよいよタチが悪い。オレはさといお前に期待しているんだ。次の世

代ってやつにな! 夜になったら館に送り返してやるって。さあこい」

「……」

 やっぱ懐かないかな、かぶいた遊び人姿ってのがよくないのか、次はもっ

とかわいいうさちゃんを作らなければならねえな……と宇佐美が頭をかいて

いると。

「……わかった。うさみを、しんじる」

 虎千代が、静かに立ち上がっていた。

 立ち上がった虎千代は、宇佐美の腰のあたりまでしか背が届かないが、な

にか、不思議な威厳のようなものを発していた。

 父親が合戦している相手である宇佐美を信じる。そして自分の足で山を下

りる。

 そういう決断をしたことで、虎千代の中でなにかが目覚めたようだった。

 宇佐美は、苦笑していた。

「言っておくが、誰でも彼でも信じるなよ。世の中には、平気で嘘をつく悪

い大人がうようよしているんだぜ」

「しっている」

「ともあれ、行こう。まずは城下の村と町を見物だな」

 まるで人間の心の内側にあるすべてを見通すような虎千代の赤い瞳が、き

らり、と輝いていた。

 春日山を下りる途中、山道に一頭の大きな熊が出た。

 人間と出会ったせいか、驚いたらしく興奮していた。

 宇佐美は「おっと。熊鍋にするか」と目をギラつかせたが、虎千代が止め

た。

「いけない」

「いけないって、威嚇しねえとこっちが食われちまうぞ」

「その時は、その時だ」

「その時って。おい。危ない、近寄るな」

 白い頭巾を被り白い外套をはためかせながら、虎千代がとことこと熊の足

下に歩み寄って、ぺこりと頭を下げた。

「今は戦が激しい。平地に暮らしていれば、いつ攻め殺されるかわからない。

だから、お山を借りている。ごめんね」

「むふー」

 熊は、大喜びで虎千代の頬を めると、のしのしと森の中に去っていった。

「手なずけやがった? っていうか、言葉が通じてるのか?」

「……言葉は通じない。心が通じている」

「驚いたな。お前は、ほんとうに釈迦牟尼しやかむにのような大賢人になるのもな。

だいいち、獣が怖くないのか?」

「怖い。怖いけれど、獣は嘘をつかない。正直者だから、好きだ。こちらが

憎まなければ、憎み返さない。それに、獣を殺して食らう人間のほうがずっ

とおそろしい」

「熊鍋は滋養があるんだぜ。栄養を取らねえと大きくならないぞ」

 こいつ草ばかり んでるもんな、これじゃいつまでも体力つかねえ、どう

したもんかな、と宇佐美は頭をかいている。

「行かないのか、うさみ」

「それじゃ、行こう」

 宇佐美は虎千代を馬の背に乗せて、春日山を下り、ふもとの府中の町へと

向かった。

 府中はもともと越後の都だった町だが、合戦が続いているために、長尾為

景は一族の者や重臣の家族・人質などを春日山城に移動させていた。

 近頃では、為景自身も春日山城で政務を執ることが増えていて、府中は政

庁の町から商業の町へと変わりつつあった。

 なにしろ直江津の港がほど近く、貿易で栄えている。

 府中へ向かう途中の村に、宇佐美は立ち寄った。

「オレさまにとっては昔なじみの村だ。ここなら合戦中でも安全だぜ」

 たくさんの布を運んでいた若い娘たちが、「宇佐美さまよ」と声をかけて

きた。

 宇佐美定満は身分の別なく民に接し、特に若い娘には甘いと評判。みな、

彼に土下座などしない。

「宇佐美さま、お久しぶり!」

「また姫武将にしたい子がいたら、ぜひ連れていって!」

「わかった、わかった。今は、算術が得意な子を探している」

 宇佐美家は家臣団がいちど全滅しててな、人手が足りないんでこうして村

や町をまわって小姓を集めるんだ、と宇佐美が虎千代にささやいた。

「うさみ、なぜ女の子ばかりを? やはりこどもさらい?」

「オレの美学だ」

「ねえねえ、樋口さんとこのお子さんはどうかしら?」

「ああ。あの子、頭いいもんねー」

「ところで、その白い頭巾を被った女の子は誰?」

「宇佐美さまのお子さま? かわいいー」

「ああ。親戚の子だ」

「かわいい!」

「兎みたい!」

「その、草はなんだ」

 虎千代は、娘たちが抱えている草の束を指さした。

「お嬢ちゃん。これは青苧あおそ というものよ」

「青苧?」

「この青苧で織った織物は、都の公家さんに高値で売れるの。府中の商人さ

んが直江津の港から船で都や堺に売りにいくのよ」

「青苧の草は、このあたりで育てているのか」

「もっと山奥の魚沼うおぬまのほうね。わたしたちは、青苧を魚沼商人から買い求め

て、皮を割いて糸にしてから府中の商人さんに売るのよ」

「そうか。山と村と港がみなつながって、ひとつの特産品が流れてゆくのだ

な。それも、海を渡って……目には見えなくとも、すべてはつながっている

のだな」

「そうそう。よくわからないけど、そういうこと」

「かしこい子ね!」

「……」

 虎千代は照れたらしい。頭巾をすっぽりと被りなおして、顔を完全に隠し

てしまった。

「この子は、まだ海を見たことがないんだ。ずっと山にこもっていたからな。

オレたちは直江津の港へ行く」

「捕れたてのお魚をたくさん食べてね!」

「……生き物は食べたくない。苦手だ」

「直江津にあがってくる魚は、みな美味しいわよ?」

「これで戦さえなければ、越後はいい国なんだけどね」

「それは言わない約束でしょう」

「なにしろ守護代さまが毎日のように敵を作っては戦、戦だもの……そのた

びに兵糧を持っていかれたり槍を持たされて軍役を押しつけられたりで、村

の男たちはすっかり空っぽ。ひどい時は、飢えた侍が襲ってくるし」

「……しっ! 宇佐美さま以外のお侍さまに聞かれたら」

「襲ってくる、とは? 敵の兵が村を襲うのか」

「敵も味方もないわよ、血に飢えた侍は若い女を見ると、まるで獣のように

なって」

「あんたはしゃべりすぎ! な、なんでもないのよ、お嬢ちゃん!」

 虎千代は、詳しいことはわからないが、戦のたびにこういうのどかな村に

荒々しい侍がやってきては、なにかとてもいやな騒ぎを起こしているのだろ

うと察した。

「そうか……気が立った侍は、敵味方の区別もないのか。獣は、そういうこ

とはしない……」

 虎千代は、「女が集まると平気でどぎつい話をするからいけねえ」と鼻を

かんでいる宇佐美に手を引っ張られて、村をあとにした。

 虎千代は馬上で宇佐美に「荒れ狂っている侍は村の女になにをするのか」

と何度もたずねたが、宇佐美は「いやなことだよ」とだけ答えて、詳しくは

語らなかった。

「武士ともあろうものが、民に乱暴するのか……」

「戦場で殺し合って血を流しているとな、遠征に出稼ぎに来た足軽などの中

には盗人や放火魔になるやつもいる。むろん、あまりに派手に暴れれば目上

の者に知れて罰を受けるが、戦ってのはそういうものだ。乱取りと言って、

合戦に勝ったついでに周囲の村を略奪してまわるのもまた、戦の一環のよう

なものだよ。いわば勝ち戦のご褒美だな」

「武士は、民を守るために戦うのではないのか」

「そういう戦を、義の戦という。だがな虎千代。越後で繰り返されている戦

は、欲の戦なのさ。越後の王の座を巡って、守護だの守護代だの豪族国人だ

のが何十年にもわたって欲の戦を続けているんだなこれが。世の秩序を守る

ためには、時には戦は避けてとおれねえ。だが醜い欲の戦がだらだら続けば、

つきあわされている兵もまた堕落するわけだ」

「越後の王は、守護の上杉家ではないのか。他に誰がいるというのだ」

「名目はそうだ。だがな。守護を補佐する守護代であるお前の親父が、主君

である守護を殺し、関東管領まで殺して越後の王を自称しているのが現状さ。

為景は、守護を自分のいいなりになる他の上杉家の男にすげかえたが、こん

どはそのお飾りの守護が為景を倒そうと蜂起。そいつを黙らせたら、また別

の上杉家の男が、長尾政景と組んで守護の座を狙いはじめた。そんなこんな

で、戦は終わらない」

「うさみも、昔からおとちゃと戦っていたと聞くが。おとちゃは、うさみは

昔からの長尾の仇敵だからみだりに関わるなってうるさい」

「まあな。オレは確かに、長らく長尾為景の仇敵だった。もっともオレだけ

じゃなく、越後に割拠するほとんどの豪族国人がそうだがよ」

 馬はしずしずと進み、二人は直江津の港に着いた。

 これが海か、広いな、そして青い、と虎千代が歓声をあげた。

 宇佐美は、「山を下りるといやな話が多くてな。申し訳ねえが」と頭をぽ

りぽりとかきながら、虎千代をそっと下ろした。

「うさみとおとちゃは、なぜ戦っていた? 教えろ」

「かつて宇佐美の一族は、守護の上杉家を守るために、お前の親父さんと

戦ったんだ。その時、兵を率いていたのはオレの親父さ。まあ義戦といえば

義戦だったんだろうよ。そして、一族はお前の親父さんに負けて、皆殺しに

なった。城に籠城していた宇佐美一族、全員ぶっ殺されちまった。生き残っ

たのは、ガキだったオレ一人だ」

「か、家族が? 全員? おとちゃに?」

 そんな、と虎千代が目に涙を浮かべる。

「ひどい!」

 あわてて宇佐美は虎千代の頭をわしゃわしゃと撫でた。

「泣くな。戦ってのは命のやりとりだ。死ねば殺されても文句はいえねえ。

それが武家の常だぜ。そうでなきゃ、百姓や商人から年貢や税を取り立てる

資格などねえ」

「それで宇佐美は、どうした」

「その時のオレはまだガキだったから、越後中の村や山を逃げ回って生きる

ので精一杯だったさ。武士なんぞやめて故郷の琵琶島でのんびり釣りでも

やってそれで終わりにしちまおうとも思ったが、いっぱしの大人になってみ

るとなんとなく納得がいかなくてな。宇佐美家の元家臣団の生き残りなども、

ちらほら集まってきた。そいつらを養うためには旧領を奪回しなくちゃなら

ねえ。だからよ。長尾為景、つまりお前の親父さんをぶっ倒して復讐しよう、

宇佐美家のために、いや、為景が踏みにじりやがった義のために、などと柄

にもなく立ち上がっちまった」

 そんな壮絶な過去がこの陽気なうさみに、と虎千代は震えた。

 現実の世の、なんとすさまじいことか。

 自分がはぐくまれてきた春日山は、もしかすると極楽浄土なのだろうか。

「そうか……だから、うさみはおとちゃと戦ってきたのか」

「ありゃ一種の化け物だ。戦場での狂いっぷり、暴れっぷりは、甲斐の武田たけだ

信虎のぶとらといい勝負だ。戦えば戦うほどに強くなる、戦で敵を殺さなければ生き

てはいられない、そういう悪鬼みてえな人間だぜ。オレは何度も為景と戦っ

てきたが、オレが兵をあげればあいつはますます喜ぶだけなんだ。宇佐美家

再興だの長尾為景への復讐だのといった過去に引きずられながら、あの戦狂

いの化け物の相手をし続けているうちに、オレはすべてがむなしくなっち

まった」

「……」

「そもそも、戦場で戦って勝つ、という目的がよ。為景と同じになっちまっ

てたんだよ。同じ土俵で戦ってたんだよ。つまり、オレさまも戦場で血を浴

びているうちに為景と同類の悪鬼になりかけていたってことさ。その矛盾に

気づけたオレさまはさすがは越後屈指の軍学者だと自分で自分を褒めたね。

うひひ」

 釣りを教えてやる、と宇佐美は岸辺に座って、糸の先の針に餌をつけはじ

めた。

 魚は食べない、生き物はみな仲間だ、と虎千代が首を振るが、

「じゃあ、釣った魚は逃がしてやろう。それでどうだ」

 宇佐美はあくまでも釣りをやりたいらしい。

 虎千代はしぶしぶ竿を持って、宇佐美の隣にちょこんとお尻を下ろした。

 初めて味わう磯の香りを胸一杯に吸い込む。

 生臭いような、妙な香りだ。だが、心地よい。

「なあ虎千代。釣りってのは一見なにもしていないように見えて、実は魚と

戦っているわけだ。というか、時間との戦いだな。なにもせずに魚を釣り上

げる瞬間をじっと待ち続ける……魚という目的があるのに動かないってのは

辛いことだぜ。だが、この我慢こそが勝ちにつながるんだなあ」

「ううう……もう我慢できなくなってきた……じれったい遊び」

「今座ったところだろうが! 意外と気が短いな、お前ッ?」

「とらちゃは、じっとしているのは嫌いだ。がるる」

 少しは元気になってきたってことか、いいことだ、と宇佐美は笑った。

「なあ虎千代。少し難しい話だが、お前ならわかるだろう。越後の武家ども

は、みな、欲に取り憑かれて多かれ少なかれ悪鬼になっちまっている。大本

はお前の親父さんだが、上田の長尾政景もまだガキだが悪鬼さ。お前の親父

さんを倒しても、次は政景が。政景を倒してもまた。そもそも上杉家にはも

うまともな人材が残っていねえから、守護の復権なんぞ無理だ。関東の事実

上の支配者だった関東管領も、下克上の波に呑まれてさらに没落するだろう。

悪鬼羅刹らせつ輪廻りんね とでも言うのかな。きりがないんだ」

 とはいえ、仏の教えなんぞで悪鬼どもが調略できるはずがない。言葉はた

だの言葉だ。問答無用に悪鬼を踏みつけ黙らせる「力」が必要だ。つまり、

義のために悪鬼と戦い踏みつけて従える者が。

「本猫寺はどうだ。生き神さまがおられるし、一揆をやれば強いぞ」

「生き神ったって、猫の耳一族の血を崇拝しているだけだろう。そういうの

は、ほんとうの信仰じゃねえんだ。血への信仰じゃなく、そういう因縁を超

えた無償の義が必要なんだ」

「とらちゃには、ちょっと難しいぞ」

「まあ聞け。今の乱れた越後には、義のために戦う者が必要さ。オレみてえ

に一族の復讐とかそういうドロドロとしたものを背負っていない、心の美し

い者がな。軍神・毘沙門天びしやもんてんのような存在が。悪鬼どもの穢れた心を、誰かが人間の心に戻してやらなければならねえ。こいつはオレみてえなおっさんには無理だな。ひひひ」

「……このとらちゃに、毘沙門天のようなものになれと言うのか? 無理

だ。とらちゃは、ただの子供だ。おかちゃから、とらちゃは毘沙門天の力を

授かっている、と言い聞かされてきた。だが、毘沙門天そのものではないと

も」

「お前は頭がいいな。神として生まれてくる子供など、たしかにこの世には

いねえ。お前はただの人間だよ。だが、毘沙門天のような存在には、なれる。

人間ってのは、てめえ自身の行いによって己が望むものに『なる』ものなん

だ」

「なる、もの……」

「そうだよ。人間の中身ってのは、生き様だ。行動だよ。名前や血筋じゃね

え。オレは宇佐美家なんぞという家名にこだわっていたばかりに、悪鬼の戦

を長引かせてしまったんだ。無欲。正義。高潔。無償の義の心。それら言葉

の上では美しいが誰も実際に行うことのできないすべてを行うことができる、

そんな純真な心ってのは、オレみてえな大人には持てない。子供でなきゃあ

な」

「……しかし。とらちゃには、おとちゃの血が流れている……罪深い長尾家

の血だ……とらちゃは……うさみの、かたきだ」

 なんという純真さ、と宇佐美はつい涙ぐみたくなったが、こらえた。

「だいじょうぶだ。いいか? オレですら何年もお前の親父と戦ってきて、

そういう恩讐を乗り越えた。むしろ、あの悪鬼から高潔な義将が生まれたと

なれば、越後から義を奪い取った為景の子が越後に再び義をもたらせば、そ

の時こそほんとうにオレの勝ちさ。わかるか?」

「うさみがわたしをおとちゃと正反対の者にしたいのは、復讐のためではな

いのだな」

「たぶんな。復讐というなら、虎千代、お前を今ここで海に沈めれば済むこ

とだ」

「……やるがいい……おとちゃは、それだけの罪を犯した……」

「おいおい! 素直すぎるだろっ!」

 やはりとらちゃは出家して、うさみの一族たちや、おとちゃが殺したみん

なの菩提ぼだいを弔うべきなのだろうか、と虎千代が肩を落とした。

 宇佐美は、そんな虎千代の頭をそっと撫でた。

「宇佐美の家の怨念からオレは解脱した。しかし、すべてを捨てて琵琶島で

釣りに興じて人生をぶん投げるような資格は、さんざん戦ってきたオレには

ねえ。なあ、虎千代。お前に出家はもったいねえ。たしかに、お前は釈迦牟

尼になれるかもしれない。山の獣までがお前に懐いている。あいつらは人間

と違って魂が純だからな。お前がどういう者なのか、わかるのだろうな」

 宇佐美はそこで息を継いだ。

「だがな。仏の道をきわめても、言葉だけで乱世を終わらせることなんてで

きねえんだ。為景が死ねば、上田の長尾政景が為景以上の悪鬼となり、国人

豪族たちとさらに戦い続け殺し続ける。ありゃガキだからいったんそうなれ

ば果てしない地獄だぜ。虎千代、為景が死んだらお前が越後を平定するんだ。

お前は為景の娘だ、血筋的にも文句はつけられねえ。お前の心が汚れてしま

いそうな厄介な仕事は、オレさまが補佐して処理する。義のために戦う、越

後の真の王になってくれねえか」

「無理だ。わたしは……とらちゃは、女だ。越後に、姫武将はいない。女は、

子を産むのが仕事だと言われている」

「だからこそだ。越後の豪族どもは男だけで、獣の論理で生きている。あい

つらに獣の論理とは違う義というもののなんたるかを直接見せてわからせる

役目は、姫武将こそふさわしい。それに、言っちゃ悪いが、お前のその真っ

白な見た目はまるで神の化身に見える。もともと男は女の中に神性を見て怯

える連中さ。この国も、女神・天照大神あまてらすおおみかみからはじまっている。男はそれがお

そろしくて、素戔嗚尊すさのおのみことのように暴れ狂うしかねえのさ。お前は天照大神のよ

うな眩しい存在になるんだ。だがしかし、素戔嗚尊を打ち倒す力も持たな

きゃならねえ。誰が暴れても、天岩戸あまのいわとに隠れることはするな。打ち倒すんだ。

獣ども、悪鬼どもに、義の力を知らしめるんだ」

 ぴくり、と虎千代の竿にアタリがあった。

「……うさみ。幼い子供に向かってああしろこうしろと、あつかましいぞ。

お前が女になって、自分でやれ」

「ええええっ? オレさますげえいい言葉を長々と吐いていたのに、すげえ

感動的な語りだと自分で自分を賞賛していたのに、お前の返事はそれっ?」

「うんしょ、うんしょ。魚が釣れそうだ。でも、重くて竿があがらない。手

伝え」

「……しょうがねえな。とにかく、出家だけはすんなよ。宇佐美家の話なん

ぞ忘れてくれ。いいな?」

「どりょくしよう」

 そう。

 宇佐美定満は、かつて、一族を長尾為景に滅ぼされた子だった。

 武家でありながら村や町の民と強いつながりがあり、村から子供を小姓と

して取り立てて人材を育成しているのも、かつて一族が滅んだ際に家臣の多

くが討ち死にするなり四散するなりしたためだ。

 宇佐美は、虎千代に「家や血の因縁を解脱しようとあがいている人間」と

いう見本を見せたくて、自分の辛い過去を語った。

 言葉だけでは人は説得できない、言葉はただの言葉。生き様だけが、人を

納得させることができる。

 そういう自分の信念を貫くために、敢えて自分のこれまでの生き様を伝え

た。

 虎千代もまた、「主殺し」長尾為景とはまったく別の人間であり、父親と

は異なる生き様を貫くことができるのだ、と教えたかったのだ。

 虎千代はそんな宇佐美の本心を察し、理解し、「人間はただいがみ合い殺

し合うだけの禽獣きんじゆうではない」と感動した。

 敏感すぎる虎千代の心にはしかし、「おとちゃはうさみの一族を皆殺しに

した」という罪の意識もまた、深く残ることになった。

 宇佐美が明るくふるまえばふるまうほど、自分に優しくすればするほど、

申し訳なさでいたたまれなくなった。

 なんと爽やかな男だろう、と宇佐美の生き様に虎千代は深く感動したが、

それゆえに虎千代は自分を許せなかった。

 この日から虎千代は、真剣に出家について考えるようになった。



 為景と政景の戦いは続いた。

 為景という男は実におよそ三十年にわたって、越後国内で戦い続けてきた。

 それでもなお越後の王になることができないのは、越後の守護は「上杉」

の人間でなくてはならず、「長尾」はあくまでも守護代の家柄であったから

だ。「主殺し」を犯した者は、決して王者として認められない。これは、ど

れほど義が廃れ人心が乱れても変わらない、人間の世界における掟だった。

 下界で、同じ長尾一族同士が血を流し合っている間――。

 春日山城という安全な箱庭で、虎御前と綾に愛されながら過ごしていた少

女・虎千代は(出家して越後の人々の心を救いたい。父上も政景も、まるで

禽獣だ。いや、山の獣たちはこんな意味のない殺し合いなんてしない。あら

ゆる生き物の中で人間こそが、もっとも野蛮なのだ。「上杉」や「守護代」

などという、生きるための自然の掟とはまるで無縁な、勝手な幻のために戦

うのだから)と日々思い悩んだ。

 父・為景がかつて戦に敗れた宇佐美定満の一族を皆殺しにしたという事実

も、感受性が強すぎる虎千代を苦しめた。

 しかも、戦乱は、宇佐美定満が自らの苦悩から解脱した今も、終わってい

ない。

「とらちゃ。最近、つらそうにしているけど。なにかあったの?」

 ある日。心配した綾が、虎千代に「ちょっと早いけど」と、読み物を贈っ

てくれた。

「このご本は、『源氏物語』と『伊勢物語』。恋と愛についてのお話なんだ

よ」

「恋?」

「とらちゃも、いつかはお嫁さんになるんだから、そろそろ恋についても勉

強しておこうね」

「……男は嫌いだ。とらちゃは、誰のお嫁さんにもならない。なれというの

なら、おねちゃのお嫁さんになる」

「姉妹同士で夫婦にはなれないの。面白いから読もう? 若紫わかむらさきちゃんが光源氏ひかるげんじに誘拐されるくだりとか、この先どうなるんだろうとどきどきするよ?」

「やっぱり、こどもさらいがでてくるのか」

「興味ない?」

「い、いや。おねちゃが読んでくれるのなら、読む」

「わたしもまだ経験がないけれど、恋っていいものだよ。とらちゃ。恋を

知っている人間は、戦で殺し合うことだけが生きることじゃない、って風流

な心を得られると思うんだ。相手の幸福を願う心、相手を慈しむ心っていう

のかなあ」

「……たぶん、越後の武士どもは恋などしない」

「たとえば長尾政景さまも、恋をすればきっとお優しい人になってくれると

思うの。あのお方はまだお若くて恋を知らないから、子供のように戦に夢中

になっているだけで……」

「おねちゃは、政景のお嫁になるのか。いやだ。あんなやつに、おねちゃを

盗られるなんて。とらちゃが許さない」

「もののたとえよ。おねちゃは、とらちゃが大人になるまで絶対にここから

出て行かないからね~」

 仲のいいこと、でも綾はそろそろ嫁がないと行き遅れてしまうわよ、と部

屋の奥で兎のぬいぐるみをぬっていた虎御前が苦笑いした。

 虎千代は、やっぱりおねちゃを捨てて出家するわけにはいかない、と綾の

手を握りながらひとりごちていた。

 直江津にほど近い三分一原さんぶいちがはらに、長尾為景率いる春日山軍と、長尾政景・宇佐美定満ら、上杉家を旗印とした反為景連合軍が、睨み合っていた。

 守護代・長尾為景と守護・上杉家。

 三十年に及ぶ越後内乱の、相も変わらぬ繰り返しだった。

 為景がいくら上杉方を倒しても、また別の上杉家の旗頭が出てくるので、この内乱は終わることがないのだ。

 今回、長尾政景が新しい守護にしようとして担ぎ出した「上杉」は、上条じようじよう城主の上杉定憲うえすぎさだのりという男である。

 もはや、どうせただの旗頭だから上杉の血筋ならば誰でもいいという状況

になっている。

 この三分一原を突破すれば府中、そして春日山はもう目の前なのだが、反

為景連合は統制がとれていない。

 めいめいが好きなところに布陣し、勝手に行動している。

 旗頭にすぎない大将の上杉定憲が中央に布陣し、後衛には荷駄隊を率いる

軍師役の宇佐美定満。

 右翼には若き猛将で実質的な総大将の長尾政景。

 左翼には柿崎かきざき城主でこれもまた若い武将の柿崎景家かげいえ。日頃は「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」と

物静かに唱える信仰心篤い美丈夫で、柿崎城では自らは窮乏しながら

も善政をしき民百姓から「生き仏さま」と慕われている越後の貴公子――な

のだが、このたび生まれて初めて戦場に出て槍を振るい敵の足軽を突き殺し

た瞬間、柿崎景家は惑乱して人が違ったかのように凶悪になった。

「うわあっははははは! 待ち焦がれたぞ、わが初陣だあああ! 罪深き長

尾為景よ、いいかげんにその白髪首を置いて地獄へといぬがよい! 南無阿

弥陀仏!」

 戦が人間性を変えてしまう極端な一例なのかもしれない。

 柿崎景家は長尾政景の命令を無視して突出し、三分一原で暴れ狂った。

 あまりにもこれまでの人柄と違ってしまった柿崎景家の狂乱ぶりに、春日

山軍の兵士たちは恐怖して逃げ惑い、初戦は反為景側の勝利に終わった。

 戦鬼・長尾為景が病を得ていて、春日山軍の動きが鈍いこともあった。

 だが、柿崎景家に命令を無視されたため、当初に練っていた戦術を実行で

きなかった長尾政景は激怒した。

 その夜の本陣で、大激論となった。

「柿崎景家! 貴様、一騎がけなどしおって! 戦は、狩り場ではない

ぞ!」

 長尾政景が激高すれば、まだ興奮状態にある柿崎景家も黙っていない。

「かああああっ! 長尾為景の首を盗る、それがこの戦の大義ではないのか

ああ? 政景、うぬは戦をじゃれあいだと思っているのではないかあああ

あ? 為景に逆らってみせて、いい和睦条件を引き出して手打ちにする、い

ずれまた反旗を翻してさらに条件を引き出す――そのような貴様のこざかし

い政治のために合戦があるのではないいいいい!」

「な、なんだとっ? 初陣に出たばかりのひよっこが、なにを偉そうに!」

「笑止! 貴様のほうが私よりも年下だあああ! 政景よ、貴様は上田の城

主として自らの子供たちを、民を慈しんだことがあるかあーっ? 聞いてお

るぞ! 民をさんざん搾取し、戦の道具にしおって!」

「フン! 土民のことなど知るかっ! 貴様、あくまでも俺に逆らうの

かっ?」

御仏みほとけは、そのような慈悲なき戦を繰り返す者にいずれ罰をくだすであろう

ぞ。南無阿弥陀仏!」

 殺伐とした軍議の席のすみっこでは、上条城からひっぱりだされてきた上

杉定憲が「とても味方同士の軍議ではない」と震えている。

 反為景軍を仕切っている長尾政景が性暴虐なのにくわえて、新顔の柿崎景

家がまた強情な男なので、とても統制がとれる状態ではない。

 そして。

 柿崎景家を反為景軍に引き入れた張本人である軍師・宇佐美定満は虎千代

から贈られた兎のぬいぐるみを腕に抱きながら、「そろそろ頃合いかな」と

つぶやいていた。

「明日こそは俺の命令通りに動け、柿崎ッ! さもなくば殺す!」

「おう、殺せ殺せ! 為景を討ち取る度胸を見せてみよ、小僧!」

 長尾政景と柿崎景家の反目は、お互いの性質から出てくるたぐいのものら

しく、修復は困難だった――。

 帰陣した柿崎景家のもとに、宇佐美定満が「うひひ」と笑いながら忍び込

んできたのは、その日の深夜のことだった。

 不意を突かれた柿崎景家は、丸太のような腕で自分の上半身を抱きしめな

がら、怯えた。

「南無阿弥陀仏! 血迷ったか宇佐美? 私には衆道趣味など、ないーっ!」

「誰が衆道趣味か! アホかお前! 気色悪いこと言うな!」

「では、なんだあああっ?」

「静かにしろ。人変わりしすぎだろ、お前……さっきの軍議でわかったが、

柿崎景家、お前はこの越後内乱に義憤を感じているな?」

「常々言っていること! 為景には越後を治める人徳がないし、政景も同じ

よ! 上杉家の人材もあらかた為景に殺されるなり逃げるなりで、守護にふ

さわしい器量を持つ者はすでにおらぬ!」

 私はこのような戦に振り回され続ける越後の民が哀れでならない、だから

明日こそ為景を殺してこの三十年の内乱に決着をつけるううう!と柿崎景家

は槍をしごきながら凶悪な笑顔を浮かべた。

 柿崎城での心優しき明君ぶりしか知らなかった宇佐美にも、柿崎景家のこ

の外道武将としての覚醒は計算外だったらしい。

 だが、流れがこっちに来ている、幸運かもしれない、と判断した。

「宇佐美よ。私は、越後に義を取り戻そうというあんたの言葉に賛同して戦

に出てきた。だが長尾政景は失格だあああ! 上杉定憲などは政景の傀儡かいらい

なっているだけで、論外!」

「ああそうだ、柿崎の旦那。その目で見て理解できたろう、越後の内乱が終

わらない理由が。為景が壊してしまったものは、もう元には戻らない。守護

上杉家の復興は、上杉の血にこだわる限り、不可能なんだ」

「……あんたは、宇佐美一族を皆殺しにした為景へ復讐したいのではないの

か?」

「うひひ。復讐を超えてこその義さ。信仰心の篤い旦那なら、わかってくれ

るだろう。旦那をこっちの陣営に引っ張り込んだのは、為景と戦うためじゃ

ねえ。この内乱を手早く終わらせるためなんだぜ」

「ふむ。どういうことだ、宇佐美よ」

「今すぐ返り忠して、本陣で寝ている上杉定憲を襲え。反乱の旗頭である上

杉定憲を蹴散らし、敵陣へ駆け込み、為景に合流しろ。それで旗頭を失った

政景も抗戦をあきらめ、戦は終わるさ。オレさまが両軍の間に立って、和睦

に持ち込む」

「なんだと……血迷ったか宇佐美。寝返りなど、できいいいいん!」

「ところが政景が担いでいる上杉定憲は、正式な守護じゃねえ。誰もが忘れ

ているが、越後のほんものの守護は、為景のところにいる。府中にな。だか

らこいつは寝返りじゃねえ、返り忠だ」

「宇佐美。私が、あんたをこの場で殺すことは考えておらんのか? 寝返り

を進める不忠者は死あるのみとひとたび私が叫べば、槍の穂先があんたの胸

板を貫くぞ」

「結界は張ってある」

 柿崎景家がふと頭の上を見ると、きらりと光る筋のようなものが、いくつ

か確認できた。

「鉄で作った紐だよ。ほとんど見えない上に、よく切れる。こいつを何重に

も巡らせてある。オレさまが指を動かせば、旦那は細切れさ。ひひっ」

「……忍びの術か? 武人とは言いがたし!」

「こちとら、生き延びるためにはなんでもやってきたんでな」

「そのような脅しで寝返る柿崎景家と思ったか?」

「いや。ただの用心さ」

 柿崎景家は、豪胆にもにやにや笑いを浮かべて兎のぬいぐるみと遊んでい

る宇佐美を眺めながら、ため息をついた。

「ふむう……驚いたぞ。つまりは最初から、為景と政景、両長尾家を和睦さ

せるために立ち回っておったのか、宇佐美よ。私を引き入れたのも和睦のた

めか。これまでも為景と政景、両者の和睦のためになんの得にもならない奔

走を重ねてきたとは聞いていたが」

「その先は綱渡りになるがな。すべて思い通りにいくなんて思っちゃいない

さ。だがとにかく、老いた為景が家督を正式に誰にも譲らぬうちに病かなに

かでいきなり死ぬのがいちばんまずい。越後が滅ぶ。急いで、為景死後の体

制を定めなければ。その席に為景をひっぱりだすための、この戦なのさ」

「ふふふ。立派なものだな、宇佐美よ。なぜにあんたは一族の恩讐を超えて、

そこまで義を貫こうとする。戦の果てにあんたはなにを見た。

阿弥陀如来あみだにょらいか?」

「いや。毘沙門天みてえな顔をした、人間の子供さ」

「……神の子と噂されている、虎千代さまか?」

「ああ、そうだ。かわいいぞ。返り忠したら、いちど春日山城に顔を出して

みるんだな。兎のぬいぐるみを差し入れると喜ばれるぜ。ひひっ」

「女人は武人にはなれぬ、それが越後の掟だが……ふーむ」

 わかった、あんたの義の心にこたえよう、これから上杉定憲を蹴散らして

くる、と柿崎景家は即答して立ち上がっていた。

「返り忠の汚名も、越後に義を取り戻すためとあれば、御仏も許してくれよ

うぞ。南無阿弥陀仏!」

 今日が初陣のお前はまだ悪鬼にはなりきっていない、越後期待の星だぜ柿

崎の旦那、と宇佐美が笑った。

 柿崎景家、返り忠!

 戦況は一変した。

「越後の守護は、府中におわす! ならば守護をいただいている長尾為景こ

そ正統の守護代! 長尾政景が担いでいる上条の上杉定憲は、偽者であった

わあああ!」と突如翻心した柿崎景家が、上杉定憲の本陣をいきなり夜襲。

 驚いた上杉定憲は所領へと逃げ帰り、柿崎景家は兵を率いて為景方に合流。

「あの男、よくもこの俺を裏切ったな! 許せん! この三分一原を、血の

海に染めてくれるわ!」

 窮した長尾政景はなおも残存兵を統率して激しく戦ったが、宇佐美定満が

「為景は病を発している。今が頃合いだ」と政景を説得して交渉の席へ着か

せた。

「宇佐美! さては、貴様が柿崎を寝返らせたな!」

「守護代の座を狙うなら、為景が病で衰えている今が好機だ。今を逃せばお

前には二度と回ってこないぞ」

 こうして、春日山城に長尾為景・長尾政景・宇佐美定満らが集まり、和睦

と越後支配体制の今後についての交渉が実現したのだった。

 宇佐美も、ここまでは念入りに下準備してきたが、この先はぶっつけ本番

である。長尾家の人間ではない宇佐美自身の発言力は、ほとんどないに等し

いのだ。

 しかし宇佐美のほうに、風は吹いていた。宇佐美も読み切れなかった要素

が付け加わっていた。

 交渉の直前に、隣国の越中でまたしても反為景一揆が起きたという急報が

国境から届いたのだ。

 一揆勢は、春日山を目指し進軍してくるという。

 この場で政景と和睦を成立させなければ、為景の命運は尽きるだろう。

「俺は隠居して、息子の晴景に家督と越後守護代の座を譲る。が、それは名

目だけで、実権は渡さん。生きている限り、俺こそが越後の王だ」

 為景は咳き込みながらも、なおも野望の炎に燃えていた。

 しかし、あれほどの巨体の持ち主だったはずが、ずいぶんと痩せていた。

 政景も、これはあまり長くない、少なくとも戦に出られるのはあとわずか

だろう、と為景の衰えを一目で理解した。

「だが晴景には子がいないな。しかも、晴景は病で伏しがちだという。こん

どの三分一原の戦にも顔を見せなかった。晴景が子を残さずに終わったら、

どうする」

「……その時は、政景。長尾の分家である貴様が守護代を継げばよかろう」

 為景は忌々しげに、吐き捨てた。

「フン。俺はしょせん分家だ。守護代を継いだとて、越後の国人どもを統率

できるかどうか。それに、口約束だけでは保証がない」

「なにを要求するというのだ。こほ、こほ」

「かつていちど流れたあの話を今こそ実現しよう。婚姻同盟だ。春日山長尾

家の娘を、俺の嫁とする。これで俺は本家の一門衆だ。春日山と上田の両長

尾家は完全につながる。仮に晴景の次の守護代が俺になっても、いずれ守護

代の座はお前の血を引く孫に戻ってくることになる。どうだ」

「だが、それだけでは一方的だ。政景、貴様が晴景を裏切らぬという保証が

ないぞ!」

「これから言う俺の要求をのんでくれれば、俺は絶対に晴景もあんたも裏切

らない。先陣を務め、ただちに越中の一揆勢を蹴散らしてやろう」

「要求とはなんだ。どこぞの領地でも欲しいのか」

「虎千代を、俺の嫁にする。今宵こよい、俺は府中の館で待つ。夜明けまでに、虎

千代をよこせ」

「虎千代だと? 貴様、本気であいつに執着していたのか? 綾ではないの

か?」

 為景は政景がいったいどのような無理難題を言いだすのかと警戒していた

ので、むしろ気が抜けてしまった。

「あれも大きくはなり体力もついてきたが、身体の色は抜けたままだぞ。生

涯あのままであろう。それに、あれはなにやら気むずかしい。出家したいと

いつもつぶやいて思案にふけっている。男には懐かぬぞ」

「いいから、虎千代をよこせ! あんたにとってはどうでもいい娘だろうが、

長尾家の存続と晴景の命の保証が娘一人で済むのだぞ! それともまだ俺と

戦をするか、ジジイ!」

「……わからぬ。虎千代のなににさほどにこだわるのだ、貴様は。あれは、

女としては出来損ないだぞ。そもそも俺の実子かどうかすら」

 短気な政景はぶるぶると震えだし、「貴様にはわからんのだ。もうろくし

おって!」と激高した。

「為景! 次に虎千代を侮辱するような言葉を吐いたら、貴様をこの場で刺

し殺すぞ! 俺はな! 天下に嫁とすべき女は虎千代ただ一人と、あいつが

生まれた時から思い定めてここまで独身を貫いてきたッ!」

「な、なんだと?」

 為景は、あっけにとられた。

 為景の傍らにはべっていた宇佐美も、政景が見せた異様な執念に息をのん

だ。

とびたかを生んだようなものだからな、貴様のような野獣にはあの娘の美と

いうものがわからんのだ! 越後の王には、王にふさわしい女が必要だ! 

ただ血筋が高いだの見た目が麗しいだけだのでは足りんのだ! 虎千代のあ

の赤い瞳から放たれる神聖さ。あれこそ、この長尾政景の伴侶にふさわしい

光よ!」

 ただの女ではだめなのだ、ただの女では、と、政景は熱にうなされたよう

に立ち上がって叫び続けている。

 完全に、狂乱していた。

「虎千代は特別な女だ。人でありながら神。あの聖なる者を、春日山から引

きずり下ろして、この俺のものにしたいのだ!」

 もはや、越後守護代の話などはどうでもいい、と言わんばかりだった。

 策士の宇佐美ですら、政景がこれほど鬱屈うつくつした感情を虎千代に抱いていた

ことを、想定できなかった――。

「……そうも虎千代に執着されると、否と言ってやりたくなってきたぞ。な

にやら不意に虎千代が不憫ふびんにもなってきた。ただの嫁入りではない、これはもっとおぞましいなにかであろう」

 政景の狂乱ぶりを見ているうちに、虎千代への親としての愛情と憐憫れんびんを抱いたのだろうか。

 為景が、生理的嫌悪感を剥き出しにして、政景をにらみつけた。

 宇佐美が「わけがわからねえ」と頭をかきむしっていると、座のいちばん奥に隠れるように立っていた一人の痩せた武士がいきなり、

「その婚儀の話、承知いたしました」

 と為景を制して返答してしまった。

直江なおえ大和やまと、ひかえい!」

 為景が怒鳴ったが、「直江大和」と呼ばれた青白い顔の男は、「先日、殿

はわたくしを虎千代さまの守り役に任じられるとおっしゃいました。ならば、

虎千代さまの嫁ぎ先についてはわたくしにも発言する機会があります」と無

表情のまま淡々と答えて受け流す。

 直江大和守やまとのかみ実綱さねつな

 長尾為景に仕える側近中の側近。

 叛服つねない越後国人の中で、直江大和は為景を主と仰ぎ決して裏切らな

い、珍しい男だった。

 ただ、身体は細く、顔は青く、女のように静かできゃしゃで、全身から発

する存在感というものがない。

 その上、口数もこれまでは極端に少なかったために、為景も政景も宇佐美

も、これまで直江大和の存在を意識したことはなかった。

「な、直江大和よ、そなた。よもや最初からそのつもりで、年頃となった虎

千代のお守り役を志願したというのか?」

「御意。長尾政景さまは、以前より虎千代さまを所望しておられましたので。

すべては、越後の内乱を終わらせ越中一揆勢の侵入を防ぐためです」

 宇佐美が、だめだ! だめだ! と直江大和の胸ぐらを掴んだ。

「おや。宇佐美さま。あなたは長尾家の内乱を終わらせるために奔走してい

たのではないのですか。今こそがその時です。やっと迎えた婚姻同盟を結ぶ

好機を、自ら潰されるのですか?」

「政景がこれほど虎千代にいかれているとは知らなかったんだよ! なんか

やべぇだろう! こいつに虎千代を渡したらどうなる? それにな、虎千代

は越後初の姫武将にすると決めているんだ! 越後に義を知らしめるための、

特別な武将にするんだ! そこまでが越後を平定するためのオレの策だ! 

今、政景に嫁がれちまったら台無しだ!」

画竜点睛がりようてんせいを欠くとはあなたのことですね、宇佐美さま。虎千代さまを義を

掲げた姫武将として押し出せると気づけたのなら、そのありがたい虎千代さ

まを私物化しようとする男が続々と現れることくらい予想できたはずです

が」

「あいにく、オレさまにはそういう特定の女への執着がねえんでな!」

「たいていの男には、あります。ことに越後の武士はそうです。すべてにお

いて『私』というものが強いのです。義よりも、私のために生きているので

す。そういう者には、虎千代さまは餌にしか見えません。宇佐美さま、あな

たは人間というものを過大評価しすぎて失敗したのです」

「……ぐ……」

「これで決まったな! ふ、ふ、ふはははは! 長らく戦ってきた甲斐が

あったぞおおお!」

 政景は「それでは今宵、虎千代を送ってこい」と言い捨てて、笑いながら

立ち去っていった。

「俺は今ッ! 最高の気分だ!」

 残された為景は「飼い主の手を噛みおって」と直江大和をにらみつけてい

た。

 だが、越中の一揆勢はこうしている間にも春日山へ迫っている。

 柿崎景家の返り忠でどうにか勝てた今しか、政景と和睦する機会はない。

「……仕方があるまい。直江大和、虎千代のことはお前に任せる」

「御意」

 宇佐美は、為景に猛抗議した。

「なんてこった。おい為景! だから、虎千代のお守り役はオレにしろって

言ってたんだ!」

「もう遅い。あと十年若ければ、政景ごとき小僧に屈服することなどなかっ

た。越後で俺は三十年も戦ったのだ、もう終わりにしよう……政景はどうい

うわけか虎千代に入れあげている。虎千代をくれてやれば満足し、越中の一

揆勢を蹴散らすだろうし、晴景を殺したりはせんだろう」

「敵を殺し尽くす修羅が、こんな時だけ弱気になりやがって! 虎千代が不

憫じゃねえか! あんた、いちどくらいは父親らしいところを虎千代に見せ

てやれよ!」

「虎千代が不憫ではあるが、俺は、老いた。悔しいが、これから雄としての

絶頂期を迎える政景との戦いを、勝ち抜けん。まして虚弱な晴景にはどだい

無理だ。晴景には子は せんだろう。たとえ女系であろうが、春日山長尾家

の血を将来の守護代へつなげるべき時だ。虎千代が俺の血を引いていると信

じてみたくなった」

「このジジイが。もうろくしやがって! 俺の一族を皆殺しにした時のあの

気合いはどこへ行っちまったんだ、百まで生きて戦うとほざいていたあの執

念を見せろ!」

「……貴様の一族にはすまぬことをした、宇佐美。三十年戦って敵をひたす

らに殺してきたが、どうやら最後まで越後の王にはなりきれなかったようだ。

主殺しの代償は高くついた。俺の身体に、長尾ではなく、上杉の血さえ流れ

ていればな」

「オレが聞きたいのはそういう言葉じゃねえ! てめえも人の親なら、最後

くらい親らしくしろ! 長尾政景、あいつは異常だ! 虎千代を守れ!」

 宇佐美は、吠えた。

 そうだ。

 もう死んでしまった一族のために、こいつを謝罪させたかったんじゃない。

 そんな言葉をいくら吐かれても、死んだ者は生き返らない。

 オレが求めていたものは、未来だ。

 越後の未来を開くために、オレは――!

 宇佐美が為景に食らいついているうちに。

 直江大和が、部屋の周囲に槍隊、弓隊を配置し終えていた。

「宇佐美さま。今宵一晩、あなたを軟禁させていただきます。邪魔をされて

はたまりませんからね」

「ちっ。てめえ、ただの青っちょろい小姓もどきじゃなかったんだな」

「どうやら、そのようです」

 宇佐美は舌打ちした。目立たない直江大和がこれほどの切れ者だったとは。

 いや、逆だ。これまではわざと目立たないで過ごしていたのだろう。

与板よいた城主・直江大和――父の代から、為景に仕えてきた男。もとの主は、

たしか、為景に滅ぼされているはず。宇佐美一族と同様にな。だが直江大和

の父親は、主とともに討ち死にする道を選ばず、為景に命乞いして屈服した

――直江大和はその時、まだガキだった。幼い頃から旗本として為景に仕え、

これまで目立つことなく淡々と職務を遂行してきた。大きな失敗もなければ

まばゆい戦功もない。底が知れないやつだ、正体がわからねえ。こいつは為

景に本気で忠誠心を抱いているのか?)

 宇佐美にも、読み取れない。

 直江大和自身の目的が、意志が、どこへ向かっているのか、その無表情さ

とその真っ白い地味な経歴からはまるで読み取ることができない。今もなお。

「てめえ、今の今まで爪を隠していやがったな! 直江大和! いったいな

にが目的だ! 事と次第によっちゃあ……」

「宇佐美さま。わたくしはただ、虎千代さまにお仕えする者です。わたくし

の内面には、『私』はありません」

 これほどの重大事です、両家が約束をたがえぬように書面を作り約定を交わ

しましょう、わたくしがすべて準備いたします、と直江大和は感情を交えぬ

ままに言った。

 春日山城の虎御前館は、驚愕に包まれた。

 突如訪れた為景が「今宵、虎千代を政景の嫁にやる。対立してきた長尾の

本家と分家が、一体となる。これで越後の戦は終わりだ!」と忌々しげに怒

鳴りはじめたために、驚いた虎千代は怯え、綾は「まだとらちゃは子供で

す!」と虎千代を抱きしめながら必死でかばい、母・虎御前も「虎千代はま

だ女になってもいません。あと数年のご猶予を」と為景に正面切って反論を

挑んだ。

 為景は「もう決まったことだ」と譲らない。

「政景と戦っている隙を突かれて、西の越中でまた一揆が起きた。俺の親父

を殺した越中の豪族どもが、性懲りもなく本猫寺門徒と組んで越後との国境

に入ってこようとしている。猶予はできん。急いで政景と婚姻同盟を結ばね

ば、越後は危うい。虎千代一人で皆が助かるのだ。この春日山が落城すれば

一族離散、あるいは皆殺しではないか!」

 為景は、刻一刻と抜き差しならない状況に陥りつつある。

「ですが、御館さまは虎千代を捨ておかれてきました。愛情を注いできませ

んでした。それを、今になって」

「文句なら、政景に言え! なぜ虎千代なのか、俺にはまるで見当もつかん

のだ! 四の五の言わずに今すぐ出立させる! よいな!」

「そんな。虎千代を、猫の子のように扱うなんて」

「猫の子とは思っておらんわ! だが、毘沙門天から選ばれた者とも思わ

んっ! そなたらがそうやって虎千代を神の子のように扱うから、政景のよ

うなおかしな気を起こすやからが出てきたのだぞ!」

 虎千代は、綾の腕の中で震えながら、「とらちゃは、出家したい。あの政

景がとらちゃのチチオヤになるなんて、いやだ。きっと、怖いことをされ

る」と勇気を振り絞って父親に逆らった。

「そうよ! とらちゃは渡さない! 嫁に出すなら、姉のわたしが先のは

ず!」

「……あねちゃ……」

「とらちゃが大人になるまで、ずっと一緒にいて守ってあげたかったけれど

……政景さまが嫁ぎ先ならば、これで戦が終わり春日山ととらちゃが救われ

るのならば、わたしは納得できます!」

「だめ。あねちゃ。行かないで!」

「とらちゃ……とらちゃ! ずっとこうしていたい……放したくない。ごめ

んね、ごめんね」

 為景は「綾、虎千代を放せ。お前たちが甘やかしすぎたから、こうなった

のだ」と顔をしかめ、綾の腕から虎千代を引き離した。

「とらちゃ! とらちゃあああ!」

「おねちゃ……! いやだああああ!」

「直江大和! 虎千代を籠へ放り込め! 俺はすぐさま越中征伐の準備に

移る! 越後に踏み込まれる前に一揆を蹴散らす! 今宵は一睡もできん

ぞ!」

「御意」

 為景が去るのと入れ替わりに、虎千代輿入れの件をすべて委任された直江

大和が、青白い顔を月光に照らされながら館へと入ってきた。

 小脇に、為景から手渡された虎千代を抱えている。

「放せ! 放せえええええ! いやだ、いやだああああ!」

「やめて! とらちゃに乱暴しないで!」

「虎千代をさらうなんて、母であるあたしが許さないから!」

 直江大和は、母と姉の猛抗議をさらりと聞き流して、やはり無表情のまま

だ。

 泣き叫び荒れ狂い小さな手足をばたばたと振っている虎千代をまるでぬい

ぐるみでも抱くかのように抱えたまま、淡々と、なにごとも起きていないか

のように事務的に言葉を紡いでくる。

 心がないのか、この男は、と綾も虎御前も唖然とした。

「綾お嬢さま。虎御前さま。お聞きいただけますか」

 一刻ほどが過ぎた。

 春日山のふもとにある武家館のひとつに、「勝利者」長尾政景が宿泊して

いる。

 三分一原では、柿崎景家の「返り忠」があって敗れ、為景の息の根を止め

ることはできなかった。

 だが、大局的には政景の勝ちだった。

 越中一揆の凶報を聞いた為景は、虎千代を嫁にやり政景を一門衆にするだ

けでなく、隠居して嫡男・晴景に家督と守護代の座を譲る、と折れたのだ。

 政景に大幅に譲歩したことになる。

 結局、すべてを戦で決しようとした為景は、四方に敵を作りすぎたのだ。

 戦には強くても、政治感覚に欠けていたといっていい。

 政景は(その点俺は聡い、為景のように武辺一本槍で行くつもりはない。

これまでは上田の分家の出という劣った血ゆえに越後の国人どもを支配でき

なかったが、為景の娘を妻にした俺にはもう弱点はない)と自負していた。

「明日から越後守護代の座は、あの病弱な晴景に移る。やつには子供がいな

い。あと数年待てば、守護代の座は俺のものだ!」

 もしも、のちのち晴景に子が生まれれば、その時は親子ともども殺してし

まえばいい。

 まあ、それまで晴景の身体がもたないだろうがな。

「フフフ。この俺が晴景に酒を教えて、溺れさせたのだからな。だが、酒に

呑まれるなんぞしょせんはそこまでの男よ」

 深夜の庭園で酒を飲みながら、政景は己に酔いしれていた。

「ついに! 虎千代と越後守護代の座! 二つを俺は手に入れた!」

 そうだ。俺はあの虎千代という不思議な娘に心を奪われていた。予感がし

たのだ。この娘を手に入れれば、俺のものにすれば、越後一国を支配できる

と!

「守護代の娘という血筋! 常人とは異なるあの神秘的な姿! 坊主ども、

山伏どもが集まってきては伏して拝む神性! 虎千代を手に入れた者が越後

を支配できると、最初にあいつを見た時に電撃的にひらめいたのだ! 掌

中に玉を掴んでいながら、最後まで気づかなかった為景は愚か者だあああ

あっ!」

 笑いが止まらなかった。

 役者のように美しい顔立ちの中から野獣のような下卑た笑みが浮かび上

がってくるさまは、文字通り、異様だった。

 かつて上田長尾家の長だった長尾政景の父には、同族の本家・春日山長尾

家の長尾為景と主筋の上杉家が繰り広げた戦の折りに、ここ一番というとこ

ろで上杉家を裏切って長尾為景側に寝返ったという暗い過去があった。

 政景の父は、この効果的すぎる寝返りのためにかえって為景率いる春日山

長尾家に根強い不信感をもたれ、出世はそこで頭打ちとなってしまった。む

しろ「上田長尾家は土壇場で主を見捨てた裏切り者よ」「長尾家といえども

しょせんは分家、なんたるあさましさよ」と上田長尾家全体が越後中から白

眼視される結果となった。

 当時幼かった政景が本家・春日山長尾家に劣等感を抱き、憎悪とともに春

日山長尾家の血を求めるようになったのは、父と一族が受けた屈辱の結果

だったかもしれない。

 政景が、春日山長尾家から妻を娶るという考えに執着したひとつの理由は、

このどうしようもない「血」の問題にあったといえる。

(そうだ。俺は絶対に成り上がってみせる。春日山長尾家から守護代の座を

奪い取ってみせる。俺は、親父とは違う……!)

 柿崎景家の返り忠というこしゃくな策をろうして俺と為景を強引に和睦させ

ようとした宇佐美も、今宵はあの直江大和とかいう幽霊のような痩せた男に

軟禁されて手も足も出ない。

 この婚姻が成立するまで、宇佐美は解放されないという。

 直江大和。なにを考えているのかわからない得体の知れんやつだが、俺が

守護代となった暁には取り立ててやってもよかろう。

 ひたすら飲みながら待っていた政景のもとに、ついに籠が、到着した。

「フン……来たか。長かったぞ、この時が来るまでずっと俺は待っていた」

 政景は、舌なめずりしながら、御簾みすを開いた。

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