第十三話 川中島への道(前)

 武田晴信と山本勘助が、北信濃の村上義清を相手に壮絶な戦いを繰り広げていたその頃――。

 越後では、あの野望の将・長尾政景が再び、長尾景虎ながおかげとらに反旗を翻していた。

 景虎に越後守護職を譲ると宣言していた、越後のご老公――越後守護の上杉定実がついに没したことが、発端であった。

 室町幕府の若き将軍・足利義輝あしかがよしてるは、畿内の実権を握る戦国大名・三好長慶みよしながよしとの抗争のために京を追われて近江に逃れることたびたびという苦難の人生を歩んでいたが、上杉定実の生前の根回しによって、長尾景虎にすみやかに「白傘袋と毛氈もうせん鞍覆くらおおいの使用」を許可したのだった――これはつまり、足利将軍が、景虎を越後の正統な守護=国王として認めたということである。

 越後初の姫武将・長尾景虎が父親・為景をも超える「軍神」らしいという評判は、すでに、畿内にも鳴り響いていたのだ。

 宰相・直江大和の工作が功を奏したのだ。

 この頃、直江大和は、景虎を電撃的に上洛じようらくさせて天下に大号令をかけさせるという、大計画を練っていた――練るのみならず、すでに実行していた。「景虎上洛」という路線を敷いて、やまと御所や足利幕府などへの工作を進めていた。もっとも、景虎自身は上洛にはさほど乗り気ではないのだが――。

 ともあれ、長尾政景は、越後国内における反景虎派を糾合し、兵を挙げた。

 反景虎派といっても、すでに越後の国人の大多数は景虎を支持しているの

だから、少数派である。しかしこれまで、長尾家はあくまでも「越後守護代」であり、越後の国人たちの代表という立場にすぎなかった。その長尾家が「越後守護」すなわち越後の「王」になってしまったのだから、景虎があまりにも強大になってしまうことを危惧する国人たちも出てきた。

 直江大和との権力争いに敗れて、景虎政権から外された宇佐美定満が、琵琶島びわじま城で政景方の副将として兵を挙げたことによって、越後は再び二つに割れたのだった。

 宇佐美定満は、これまでも何度も敵味方の間をうろうろとしてきた、叛服はんぷく常ない武将である。

 長尾政景も、この男には何度か煮え湯を飲まされている。

 信用はできないが、ある夜、反乱を起こすか否か政景が逡巡しゆんじゆんしながら立て籠もっていた坂戸さかど城へ宇佐美自らが単身乗り込んできて、

「政景。オレはよ、直江の野郎の首をる! 景虎にはいっさい恨みはねえが、直江が純朴な景虎をだまして横取りしやがったのが許せねえのよ! 共同戦線を張るぜ!」

 と騒ぎ立てたので、政景の心は大いに動いた。

「宇佐美。貴様の軍師としての役目は終わった。悔しいが、景虎は戦の天才。軍師などいらん。直江がいてもいなくても、寝返り常習者のお前は景虎の政権から外される運命だったぞ」

「そいつはてめえも同じことだ、政景。景虎はオレやお前を粛正しようなどとはしないだろうが、直江大和は違うぜ。軍師役を奪われて失脚したオレは、いずれ直江に暗殺される。てめえもだ、政景。直江は、政治に興味のない景虎をお飾りの軍神として、自らによる越後独裁をもくろんでいる」

 芝居か、と政景は疑った。

 宇佐美と直江は最初から八百長を仕込んでいて、俺を乗せようとしているのではないか、と。

 しかし、宇佐美のこの言葉が、政景を切れさせた。

「マジだぜ! 直江の野郎がなぜ、あのとしまで独身を貫いてきたか、わかるか? あいつは、越後を独裁しようとしているだけじゃねえ。景虎をめとるつもりだ。景虎の兄貴代わりのオレと、景虎に求愛し続けているてめえとは、そういう意味でも邪魔なのよ! オレのほうは完全なとばっちりだがな! 時間がてば経つほど直江の権力は増大する。互いに、生き残れねえぜ!」

「……景虎を、娶る? 直江が? あいつは為景の小姓あがりで、衆道趣味の持ち主ではないのか? 女になど興味はないとばかり」

「いやいや。あいつが女に興味を持たない振りをしているのは、すべては景虎の隣にはべっても周囲に疑われないための演技なんだ、計算ずくなんだよ! 思いだせ政景。かつててめえと、景虎の父・為景とが他ならぬオレの仕切りによって和睦しようとしていた際、その和睦会議に割って入ってオレを排除し、てめえと景虎とのうその祝言をでっち上げたのは誰だ?」

「……直江大和だ」

「そうだ。直江は、景虎と偽って、てめえのもとに景虎の姉・綾を送りつけた。景虎は林泉寺へとかくまわれ、仏の教えにかぶれ、潔癖な男嫌いの娘に育っていった。てめえが自分の身代わりに綾を奪い取ったことが心の傷になったんだな。以来、景虎のてめえへの印象は最悪になった。だが――」

 それは誤解だ。俺は景虎の代用品としてあいつから姉の綾を奪い取ろうとするような男ではない、直江の策謀に俺は引っかかっただけだ、と政景は吐き捨てていた。

「……もっとも、綾をぞんざいに扱うこともしなかったがな……あれはあれで、健気けなげな女だ。俺の子も産んだ……あれほどの覚悟を背負って嫁いできた者を、飼い殺しにして捨てておくことはできなかった。が、景虎にとっては、俺は景虎に求愛しておきながら、姉の綾を奪い取り、子まで産ませた裏切り者だな……」

「今にして思えば、直江大和があの二人をすり替えたあの時、てめえは、直江にはめられたんだ。綾を妻とし、子まで成した以上、林泉寺で潔癖に育てられた景虎は、てめえのものにはならねえ」

 政景は用心深く、人を容易には信じない男だが、景虎が妻としてやってきたはずがいざ対面してみたら景虎の「姉」であったというあの一件は、今思いだしてもはらわたが煮えくり返る。綾に対しては憐憫れんびんこそあれ憎しみなどない。だが、鬼畜にももとる直江大和の所行は――。

「直江への疑いはまだある。景虎と兄貴・晴景の仲違なかたがいを収めるために上杉定実のじじいを担ぎ出したのはこのオレだが、爺が『景虎に守護職を譲る』と言いだしてすぐに、つまりうまい時期にぽっくり死んだのも、もしかしたら」

「フン。上杉定実はいつ死んでもおかしくない老体だったから、偶然だろうが……あるいは、後継者を見つけられて安心して大往生したのかもしれん」

「ともあれ直江の独裁体制を崩すには、一旗揚げるしかねえぜ、お互いに。黙っていれば、あいつは景虎になにも伝えずに独断でオレたちを処分しちまう。政権から排除されたオレと、一門衆の最下位へと席次を落とされたてめえとの、政権中枢への復帰が、今回の反乱の落としどころだ」

「相変わらずだな宇佐美。俺は落としどころなど考えていない。戦うからには、景虎に勝つ。俺が越後最強だと国人どもに知らしめ、越後守護の座を実力で奪うまでよ。俺が単独で景虎と戦ったならば勝敗は五分五分だが、琵琶島城の貴様と坂戸城の俺とで景虎軍を南北から挟撃すれば、勝ち目は大いにある」

「勝ったあと、景虎をどうするつもりだ?」

「むろん、妻にするのよ」

「そいつは無理だろう。てめえには綾がいるし、子供だっているのだろう。てめえの世継ぎ、上田長尾家の嫡男がよ」

 坂戸城の御殿には、妻の綾と、そして生まれたばかりの嫡子・義景よしかげがいる。本来ならばまだ幼名で呼ぶ習わしの赤子だが、政景はこの長男に早くも武将としての名を与えていた。自分に似た猛将に育て上げるためであり、将来に期待をかけていた。

 もしも俺が強引に景虎を娶らなければ、自らを毘沙門天びしやもんてんの化身と信じる景虎は誰とも祝言を挙げられまい。生涯不犯ふぼんを貫くだろう。しかしそうなれば、景虎の代で長尾宗家たる春日山長尾家は断絶する。その時には、せめて景虎の従弟いとこにあたるわが子を後継者に――俺の子は誰にも「裏切り者の血筋、上田長尾の血筋」などとは呼ばせぬ。そんな思いもあった。

 が、景虎にとっては、自分に求愛していながら実の姉を娶りはらませた政景の行動は――薄汚い所行に映っているはずだった。

「フン。まあいい。勝ったあとのことなど、今から計算したところで皮算用だ。勝つまでは手を組んでやる。勝った瞬間からは、敵同士よ。宇佐美定満」

「神将の景虎を粉砕できるか?」

「どうせあいつはぐだぐだと迷って、俺と貴様を相手に本気では戦えぬ。兄の晴景と戦った時のように、無駄に時間を浪費するだろう。その間に包囲網を完成させてしまえばいい。坂戸城は越後から三国峠を経て関東へ連なる南の要所。琵琶島城は海に面した北の要所。春日山城から景虎が進軍してくるとなると、両軍による挟撃は可能だ。長尾政景と宇佐美定満が組んだとなれば、こちらにつく国人も増えるかもしれん。が……まだ、足りぬな。下越(北越後)の揚北衆あがきたしゆうを引き込めれば、三方向から景虎を包囲できるが」

 政景は、立つと決めた。宇佐美は、例によって例のごとく「落としどころ」を探るために戦をして、ほどほどのところで和睦に持ち込むつもりらしい。だからこそ、「いつもの宇佐美のやり口だな」とむしろ信用できた。それに、もしも宇佐美が直江と裏で手を結んで自分を謀反に駆り立てて滅ぼそうとしているのだとしても、戦場で景虎を破ってしまえばそれでよいのだ。すべては「武」によって決着がつく、それが越後という国なのである。

 それに、宇佐美定満は、いかなる悪謀を練ろうとも、「暗殺」だけはやらない。命をかすための謀略しか実行しないのだ。「義」の精神とやらがこいつを縛っているのだ、と政景は冷笑していた。

 暗殺をやらかすとすれば、むしろ冷血の宰相・直江のほうだろう。

「揚北衆は難しいな。神将の景虎に合戦で勝つことは難しいと信じている。しかし、直江がオレたちを潰す合戦を手助けすれば、揚北衆の独立性も脅かされる。しばらくは傍観を決め込むようだ」

 すでに、宇佐美も軍師の表情に切り替わっていた。越後の地図を開きなが

ら、宇佐美が敵味方の城に駒を配置していく。

「宇佐美。戦局を優位に持っていけば、問題ない。春日山城は上越にあり、信濃と越中に隣接しているが、関東と奥州からは遠い――なにしろ、関東への道はこの坂戸城が塞いでいる」

「関東はダメだ。上野こうずけの関東管領・上杉家は北条の圧迫を受けて、もう死に体だぜ。越後の合戦に引き込むのはとても無理だ」

「奥州がある」

「天文の大乱で懲りている伊達はもう越後には関わってこないだろう。あいつらは越後守護に伊達家の者を送り込む件でめて親子で相争って、奥州をぐちゃぐちゃにしちまった。名実とともに奥州の覇者となる目前だったのにな。惜しいことだぜ」

「いや、伊達ではない。会津の蘆名あしな家を引き込むのよ」

「……会津か……! 蘆名家は今、伊達のくびきを逃れて、独立大名としての力をつけようとしているところだ。越後の内乱に首を突っ込ませれば……だが、蘆名を説得できるか? 蘆名は今、常陸の佐竹と対立しているようだが」

「フン。それがわれらに幸いしているのよ。背後に上田長尾家という強力な同盟相手が現れれば、佐竹との争いも有利に運べるというもの。同盟を結ぶならば、今だな。会津の蘆名が動けば、揚北衆も日和見はできまい。景虎が、姉上の夫を討つことはできないだの、宇佐美と戦いたくはないなどと、いつもの調子でぐずぐずと躊躇ためらっているうちに――この俺が戦略的に勝つ」

 宇佐美定満が、「そうか。てめえには、武人としての才だけでなく、軍略の才もあったんだっけな。これで直江をへこませることができるぜ」と笑った。

「しかし越後の王に求められるものは、あくまでも武だ。最後は、合戦で決着をつける」

 政景は、会津へと向けて使者を放った。

 だが――。


 政景が会津へと放った使者が、蘆名家のもとに到達することは、なかった。

 宇佐美定満がひそかに放った軒猿のきざる――上杉定実が残していった忍びたちが、この使者を妨害し、一人残らず捕らえ、抵抗したものは斬ったからである。

 またしても宇佐美に引っかかった、と気づいた政景が「宇佐美のやつめ! 殺してやる!」と激高した時にはもう、宇佐美はけろりとした顔で「蘆名からの援軍は来ねえな。やっぱりオレ、景虎陣営に戻るわ」と坂戸城へ向けて出立していた景虎軍に合流していたのである。

 こういう時、寝返り癖があると思われている武将はかえって動きやすいのよね、うひひ、と宇佐美は久々に再会した直江大和の前でうそぶいていた。

「宇佐美。お前のことだから、どうせ戻ってくるとは思っていたが、よりによって政景をきつけて挙兵させておきながら、のこのことわが陣営へ戻ってくるとは……お前は、ろくな死に方はしないぞ」

 断腸の思いで坂戸城を包囲した景虎は、直江との小芝居を終えて政景を蜂起させ、坂戸城に孤立させるという計略を終えて戻って来た宇佐美に思わず苦言を呈していた。

「そうは言うがよ、景虎。ほんとうは政景を殺してもよかったんだぜ。そこをよ、命を奪わずに、手打ちで済ませようとしているんだ」

「そなたには無理だろう。政景は荒れ狂う虎のような男だぞ」

「相打ちならば、できるさ」

 不吉なことを言うな、と景虎は顔をしかめた。

 景虎の本陣からは、戦場が見渡せる。魚野川の清流が広がり、その清流の向こうに、坂戸山がある。坂戸城はこの山を城塞化した巨大な山城である。

「坂戸城にはわが姉上と、その子もいるのだぞ」

「お嬢さま。お嬢さまが正式な越後守護として国人たちの上に君臨するためには、どうしても最大にして唯一の政敵である長尾政景の反乱を抑えねばな

りません。これはお嬢さまが越後守護、すなわち越後の女王になるための儀式のようなものです。政景に反乱を起こさせるためには、宇佐美さまに暴れてもらうしかなかったのです」

 直江大和が、無表情のまま、景虎に告げた。景虎も、宇佐美と直江がよもや本気で仲違いしているとは信じてはいなかったが、はじめから政景を騙して蜂起させるための芝居だったと知って、頬を膨らませていた。

「お前たちは、越後の女王であるわたしに無断で勝手な謀略を練る。今後は、このような真似まねは許さない。姉上に万が一のことがあったら、いったいどうするのだ。越後の国主の座など、わたしはいつだって捨てていいのだぞ……だいいち、守護代ならまだしも、守護とはなんだ。定実さまの遺言であれば逆らえずお受けするしかなかったが、上杉家の人間ではないわたしが越後守護など、僭越せんえつの極みではないか」

 政景は愚か者ではありません。ある程度、こうなることを予想していながら、えて蜂起しているのですよ、と直江は笑った。

「どういうことだ直江」

「お嬢さまが晴景さまから守護代の座を、そして上杉定実さまから守護の座を移譲される際には、合戦らしい合戦は行われず、一滴の血も流れませんでした。あまりにも平和裏にことが運んだため、かえって、お嬢さまをまことの越後守護と実感できない者が多いのです。どうしても国内の強敵を相手に一戦する必要があり、しかも阿吽あうんの呼吸で和睦を結びお嬢さまに臣従を誓える、そのような便利な敵が必要だったのです。宇佐美さまでもよかったのですが、宇佐美さまのお血筋では、お嬢さまと戦う反乱軍の旗頭にはなれませんからね」

「……それが、『儀式』か。直江。だがなぜ、またしても謀反した政景が今更わたしに臣従すると言い切れる。あの男は姉上に続いてわたしを無理矢理妻にするために、意地でも戦い続けるかもしれないのだぞ」

「いいえ。本人は認めないでしょうが、あれは、お嬢さまを越後の王にするために自ら悪役となってあくせく動いている男です。ああいう気位の高い男

故に、自分がなにに突き動かされているかに気づいていないだけです。ですので、遠慮なく利用させていただいたのです――お嬢さまが守護代から守護へと駆け登るための登竜門役に、なっていただいたのです」

 お前はほんとうに血が通っていないな、まるで蜥蜴とかげのような男だ、と景虎はいよいよ憤慨した。

 宇佐美が、「だが最後の最後になって、想定外の事態になっちまったようだ」と頭をいた。

「あとは政景が奥方の綾さまと息子を春日山城に人質として差し出せば丸く収まるんだがな。それが、いくら使者を送っても承知しねえ」

「なぜだ、宇佐美」

「どうやら、生まれたばかりの息子が、大病を患ったらしい。身体の弱い赤子にはよくあることだが……間が悪かったな」

「……病!?」

「景虎。赤子の何割かは、体力がなく、生まれてすぐに死ぬ。それが人間という生き物の定めだ……生きて成人できた者は、身体が強いということだ。お前だってそうだ。お前は生まれながらにひ弱いが、それでも成人できた。が、政景の子は、そうではなかったらしい」

 お嬢さま。男武将が正妻以外に側室を複数とる習わしも、子が無事に成人する確率が低いためです。血筋を絶やさぬために多妻が常識となっているのです、と直江が付け加えた。

「幸い、綾さまのほうはご無事なようです。運が悪ければ、出産の際に母子ともに死んでしまいますからね。出産とはそれほど危険な作業なのです」

「……いずれにしても、少々つらいことになりそうだぜ。子はまた作ればいいが、死んじまった子は二度と戻ってはこない」

 そうか。それであの好戦的な政景が、一戦も交えずに坂戸城に籠城してしまったのか、と景虎はつぶやいていた。

「……わたしは、姉上を不幸にしている。これ以上、坂戸城を包囲していては……」

「お嬢さま。もはやわれらが包囲していようがいまいが、赤子の病とは関わりがありません。これは残念ながら、天命です」

 だがまだ死んではいないのだろう、と景虎は告げた。

「死んではおりませんが、それ故にかえって事態が混乱しているのです」

 赤子が死んでくれれば幸いだと言いたげな物言いはやめろ、と景虎は思わず直江の肩にぴしりと青竹を振り下ろしていた。

 景虎は、すでに子供ではない。少女に……乙女になっている。

 望めば、子を成せる身体になっている。

 むろん、生涯不犯を誓った身として、自分が子を産む姿など想像したこともない景虎だが、政景に嫁いだ綾が文字通り自分の命を賭して赤子を産み落としたこと、その子が生まれてすぐに命の危機にひんしていること、綾がかつて病弱だった自分をあやし育てるかのように自分の子を介抱しているであろうことを思い描くと――到底、これ以上政景との合戦を続ける気にはなれなかった。

 そのような戦は不義であり、慈悲の心に欠けた悪行だ、と思った。

「わたしの身代わりとして政景に嫁がされた姉上を、この戦を期に春日山城へと取り戻したい、というわたしの思いは、私欲にすぎなかったのかもしれない。姉上はすでに、一人の女として……大人の女性として、政景を夫と認め、子まで成したのだ。これ以上坂戸城を囲み続け、姉上のお子が命を落とせば、まるでわたしがその子を殺したも同然ではないか」

 越後の外の国ではすでに大勢輩出されている「姫武将」――特に姫大名は、婚期を逃し子を産めずに生涯を終える可能性が高いという。戦に次ぐ戦の日々。その合戦の合間に、子を孕み産みそして育てるという「もうひとつの合戦」を同時に行えるほど、心身ともに強い人間は、そうはいないのだろう。

「わたしは決めた。宇佐美。直江。坂戸城の包囲を解き、春日山城へ戻るぞ。この戦は水入りとする。長尾政景から、人質は取らない」

 それはなりません! と直江が青ざめながら、景虎の袖をつかんでいた。

「宇佐美さまのお働きで、会津の蘆名と政景との同盟を水際で阻み、こうし

て坂戸城を包囲できたのです。今、兵を帰しては、蘆名と政景の同盟が成立してしまいます! それでは、台無しです! この片八百長としてはじめたはずの越後の内乱が、会津を巻き込んだ大がかりなものとなってしまいます――」

「人々に慈悲を示せとわたしに教えたのは、直江大和、お前だ」

「包囲網を解いても綾さまのお子さまの運命は、変えられません。お嬢さま。あなたは越後の統一と平和という大名としての大義名分よりも、ご自分の情を取るのですか?」

 宇佐美さまもなにか言ってください。お嬢さまは政略というものをまるで考慮してくださいません、と追い詰められた直江が宇佐美に助け船を求めた。

「最大の政敵である政景を謀反させてこれを鎮圧・恭順させ、なるべく早いうちにお嬢さまを上洛させて、天下にその武名をとどろかせ、越後諸将の忠誠心をより高めるという遠大な計画が、これでは」

 直江大和ほどの者でも、これほどうろたえることがあるのだ、と知った宇佐美定満は、苦笑するばかりだった。

 たしかに、直江と宇佐美が練りに練ってここまで進めてきた計画を、景虎はひっくり返そうとしているのだ。

「いつだってものごとは計算通りにはいかねえさ、直江。必ず、不測の事態が起きて頭の中でこしらえた計算は反故ほごにされてしまう。だが、計算通りにいかない遠回りの道に見えて、実は、景虎が進んでいる道こそが――もっとも『正解』に近い道なのかもしれないぜ」

「合戦に関してはそのとおりでしょう。お嬢さまは戦の天才です。われわれが口を挟めることなど、戦場においてはなにもありますまい。ですが、お嬢さまはまつりごとに関しては、まるで童女のままです」

「そういう厄介な主君だからこそ、仕えがいがあるってもんだぜ。一人でなんでもできちまう主君ならば、宰相や軍師などいらねえ。そうじゃねえか?」


 景虎軍が、包囲を解いて、退いていく。

 一方的に、景虎から坂戸城の政景のもとに「この合戦は終わった。政景を不問に付す」という「終戦報告」の書状が届き、いきなり、越後の真の王を決定する最後の決戦は、打ち切られてしまったのだ。

 坂戸城の御殿で、妻の綾とともにわが子を介抱していた政景は、

「あの小娘めが……なんという愚か者なのだ!」

 と激高していた。

「なんのために俺を策にはめて謀反させたのだ! この坂戸城は、越後と関東との間に立ちふさがる要所だぞ。ここで俺を見逃して、会津と俺との同盟が成立すれば、景虎は春日山に押し込められて追い詰められる。越後は再び麻の如く乱れる! 自分がなにをやっているのか、わかっているのか。これでは宇佐美も直江も、やりきれんだろう……!」

「景虎は、この子を、義景を案じてくれたのね。この容体では、人質に取られることが命取りになりかねないと……」

「なにが、人質だ。お前の実家に――春日山城に戻るだけではないか」

 綾が、高熱を発して泣くことすらできなくなっているわが子を抱きながら、

「武将としては景虎は優しすぎるの。あの子も、幼い頃から身体が弱くて、いつ死んでもおかしくなかったから……赤子が忍びなくなったんだわ。坂戸城を合戦の重苦しい空気が覆っている限り、この子の容体は持ち直さない、と思ったんだわ。もう、これ以上、景虎と戦うのはやめて」と政景に懇願してきた。

 政景の心中に宿る景虎への執着は、いまだ断ち切れず、それどころかいよいよ炎のように燃えさかっている。

 だが、綾を、景虎の代用品だと思う気には、なれない。

 これが夫婦というものかもしれん、と政景は思った。

 悪いものではなかった。

 ただ戦場で殺伐として荒れ狂い、敵兵の首を盗り、命を奪うだけだった政景の日々に、綾は、「家族」というものを持ち込んできた――野望と現実の狭間はざまで荒ぶる政景を癒やすことを、妻である自分の使命だと信じて、政景に尽くしてきた。

 裏切り者の家系・上田長尾家に生まれてきた自らの血と運命を呪う政景を、越後守護代の家である春日山長尾家に生まれた綾は、まるで二つの長尾家をひとつに束ねることで救済しようとしているかのようだった。

 今、命が尽きつつある義景は、政景にとっても綾にとっても、分裂した長尾家をひとつにするための大切な子供であるらしい。

(妙な話だ。俺は、綾と子を成す仕事を……嫌だとも、当主としての避け得ない義務だとも思わなくなっている)

 ならば、俺の、景虎への執着は――ただの男と女の仲というものを越えた、なにか違う性質のものなのかもしれない、と政景は思った。

 だが、綾にそのことをうまく伝える言葉を、政景は持たない。

「フン! 俺はいちど、戦場であの娘っ子に一瞬心を奪われて、不覚を取った。あれ以来、俺の武名は地に落ちた! どうしても、武名を取り戻したかった。たとえ宇佐美の謀反の誘いがわなだとしても、それでも再戦したかったのだ!」

「ならば、春日山城へ引き返そうとしている今の景虎に、追い打ちをかけるの?」

「……フン。景虎は本気で合戦を終えたつもりになっているだろうが……宇佐美と直江は、景虎に無断で俺を討ち取るためのさらなる罠を仕掛けているかもしれん」

「罠にひるむあなたではなかったはずよ。謀反を起こしていながら、結局は景虎と決戦せずに、こうして坂戸城に籠もったのも、この子を案じてのことだったのでしょう?」

「それは、宇佐美に蘆名との同盟を阻止されたからだ」

 どうする。

 このまま景虎を帰しては、俺もまた、子煩悩の甘い男だと越後諸将にめられるのではないか。

 景虎を、追撃するか――。

 そうなれば景虎も、むざむざ俺に討たれはすまい。無抵抗のまま、自軍を壊滅させたりはすまい。

 無理矢理に、玉砕決戦に持ち込んでやるか。こんどこそ、越後最強がどちらであるかを諸将に知らしめるために――。

(しかしもしも敗れれば――綾とこの子はどうなるのだ。俺が討ち死にすれば、綾は自害するかもしれん。ちっ。妻子など、合戦にすべてを賭ける俺のような男にとっては、足手まといになるばかりだ。これでは、生涯不犯を誓い合戦にすべてをささげている景虎には勝てん! 今の俺は……綾とその子に、牙を抜かれつつある)

 そうか、直江大和め。俺を「家族」によって縛ったな。あの男は、合戦を采配できる軍師ではないが、もっと厄介ななにかだ。

 政景は、迷った。絶対に景虎に勝てる自信がない。敗れれば失うものが大きすぎるのだ。

 そして、景虎には、失うものがない。

 景虎が戦死によって失うものはただ、自分の命だけだ。

(毘沙門天の化身にとって、戦場での討ち死にこそが、唯一許される死に方なのかもしれん。だとすれば俺がやつを倒せば、奴の『毘沙門天の化身として生きて、そして死ぬ』というくだらん願いを、手助けすることになる)

 だが、政景が逡巡するうちに、事態は誰も予想していない方向へと急展開したのだった。


「なんだか長尾家同士で内輪もめをしていたみたいで足止めを食らっていたが、やっと越後に入ることができたよ。きみが坂戸城主の政景くんかい? ずいぶんと頭が高いね。僕ぁ、関東管領・上杉憲政だ。名前くらいは知っているだろう? 越後に亡命してやるから、さっさと景虎のもとに僕を案内するんだ。いいね?」


 坂戸城包囲戦の勃発によって越後入りを阻まれていた、若き関東管領・上

杉憲政が、景虎が撤退した直後にその坂戸城へとわずかな手勢を率いて転がり込んできたのだった。

 政景が屈折する理由となった「血筋」という点では、東日本において、関東管領・上杉憲政ほど高貴な血筋をひいている人間はいない。例外は足利将軍の分家である関東公方かんとうくぼうだけだが、足利将軍や関東公方などは、政景にとってはやまと御所の姫巫女ひみこにも似た侵しがたい存在で、到底嫉妬できるようなものではない。ただの武家を越えた貴い身分だからだ。政景が「同じ武家でありながら」と嫉妬できる身分の上限は、関東管領である。

 政景がこれまで憎悪しその地位を奪うことを渇望してきた春日山長尾家など、関東管領・上杉家の分家である越後守護・上杉家の、そのまた家老筋にすぎないのだ。

 越後守護・上杉家は、しかし、その血筋が途絶えて、景虎が越後守護職を事実上継いでいる。

 長尾家の生まれでありながら主筋の上杉家から守護職を譲られた景虎にとって、もはや、彼女の「上」に立つ存在は、関東管領のみだ。

 その関東管領・上杉憲政が、なぜ俺の坂戸城に転がり込んできたのか? と、政景はいぶかしんだ。わけが、わからない。これも直江の罠か? いや。直江は景虎を上洛させて将軍に謁見させ、はくをつけさせようとは画策しているが、関東管領に関してはなにも工作していないはずだ。なにしろ、景虎の親父おやじ・為景がかつて関東管領を攻め殺しているのだから、関東管領家にとってその為景の子である景虎は不倶戴天ふぐたいてんの敵であるはずなのだ。工作など、できようはずもない。

 ともあれ、わが子の容体が気がかりではあったが、上杉憲政は坂東武者の頂点に立つ貴種であり、主筋である。形の上では景虎との合戦が終わっている以上、会わないわけにはいかなかった。「上野へ追い返せ」と怒鳴りたかったが、耐えた。

 綾からも、

「きっと、越後に、あなたと景虎に、重大な転機が訪れたのよ。義景のこと

はわたしに任せて、関東管領さまにお会いして」

 と勧められた。

 だから、会った。

 気障きざな男だった。

 まだ若い。八歳にして名ばかりの関東管領に就任し、数年をかけて関東管領としての実権を奪取していった貴公子だ。その、涼しげだが嫌みったらしい笑顔を張り付けた外見も、色白の肌も、武家の棟梁とうりようというよりもむしろ公家くげだった。

「俺が坂戸城主、長尾政景だ。越後に、亡命とは? 正気か? 関東管領といえば、北条と武田を相手に敗戦を繰り返し、上野の平井城に巣ごもっていたのではないのか」

 越後に野獣が二匹いる。老いた野獣が長尾為景、若い野獣が長尾政景と聞いていたが、たしかに人というよりもきみは虎だな、と上杉憲政は笑った。高慢な笑い方だ。人に頭を下げたことのない貴種の笑い方だ、と政景は思った。このような男を前にすると、腸が煮えくり返る。

「平井城も維持できなくなったのでね。守りの要として雇い入れていた真田一族が忍びたちを連れて丸ごと抜けて、武田に寝返ったのさ。北条氏康ほうじよううじやすと武田晴信は、関東管領などに価値を認めない。彼女たちはさしずめ、女の皮をかぶった獣だよ。北条氏康は相模の獅子しし。武田晴信は甲斐の虎、といったところだね。むろん、小娘は小娘さ。北条、武田の強さは、いずれも先代の働きが大きいのだけれどもね……残念ながら、越後の梟雄きようゆう・長尾為景との合戦で当主が討ち死にして以来、関東管領・上杉家は没落の一途さ」

「フン。お前が関東管領を継いだ時にはもう、すでに死に体だった、だから武蔵どころか上野を維持することもあきらめて、はるばる越後まで逃げてきたということか?」

「ふふふ。残念だが、世間的には河越夜戦かわごえよいくさで北条氏康に敗れた僕の責任だね。あの戦では関東中の諸将を呼び集めて大軍をかき集めたが、坂東武者はどいつもこいつも身勝手で、統制など取れたものじゃなかった。あの戦に敗れた

ことが、転落の契機さ。連中は、こぞって北条へと寝返っていったよ。上野から退去して武田へ寝返った真田などは、まだましなほうだよ。城を奪ってはいないからね」

 僕が籠もっていた平井城はもう落ちたよ、関東管領・上杉家はもう事実上滅びたんだよ、と上杉憲政はそしらぬ顔で口走っていた。

 ならば、こいつはもはや落ち武者ではないか。俺ならば屈辱のあまり切腹したくなるほどに無様な境遇だが……貴種たる者は、こういうものなのかもしれん、と政景は顔をしかめていた。苦手な男だ。

「待ちたまえ。平井城は失ったが、上野の拠点がすべて陥落したわけではないんだよ。僕の家臣のうち、きみたちと同族の長尾家の者たちが、まだ、上野で北条への抗戦を続けている。越後の長尾景虎を頼れ、と彼らにも勧められてね。父親は主筋を主筋とも思わぬ虎狼ころうだったが、景虎は違うと。必ず主筋を敬い義を貫いてくれる、義将であり神将だと。僕自身も常々そう思っていた。なにより、生涯不犯を誓っている点が、信頼できるね」

 嫌みな笑い方だ。

 利用できる、と言いたいのだろうが、と政景は思った。

 この男――己の血筋と美貌を利用して、景虎を籠絡するつもりだ、と、すぐに気づいた。

 よもや景虎がこのような上っ面と血筋だけの男に騙されるとも思えんが、虫が好かん。

 なにより、関東の騒乱に景虎を引き込もうとしているのが気にくわない。

(直江大和は景虎を上洛させ、畿内を統括する天下人への道へつけようと動いているのだ。関東など捨て置けばいい、と思っているのだろう。仮に俺が景虎の参謀だったとしても、同じことを考える。この乱れた世で、関東と畿内を同時に望むのは、無理だ。人間は、身体をひとつしか持たぬのだからな。たとえ景虎が神がかりだとしても、同じことよ。そして、景虎が義将として生きるというのであれば……どちらを優先すべきかと言えば、むろん、天下であり、畿内だ)

 上杉憲政を、くびり殺すか――。

「政景。僕ぁ平井城落城以来、放浪の身でくたくたなんだ。早くしてくれたまえ。もう揉め事は終わったのだろう? きみと景虎とは何度も戦っているそうだが、いつだって景虎の越後国主としての名を挙げるための八百長のようなものだったと聞いているよ。きみは、自ら望んで景虎の引き立て役を演じているのだとか。天晴あつぱれな忠義心だねえ。春日山城の景虎のもとに、僕を案内したまえ。あとね、僕は腹が減っているんだ。湯漬けを所望するよ」

「誤解だ。俺と景虎は、不倶戴天の敵同士なのだ。景虎の左右に、直江大和と宇佐美定満がいる限りはな。しょせん上田長尾家なぞ、春日山の景虎家臣団にとっては、裏切り者であり鼻つまみ者よ。今や景虎は越後の守護だぞ。それに引き替え、俺は……」

「……ならば関東管領たるこの僕が、きみの後ろ盾になろうじゃないか」

「フン。所領も失ったお前が、か?」

「僕には関東管領という地位がある。越後守護は、越後では王だろうが、関東管領に仕える家臣だ。その関東管領をきみが擁している――越後におけるきみの力は大幅に増大することになるよね。どうだい?」

「……なるほどな。この俺が関東管領と結べば――宇佐美と直江も、俺を容易には排除できなくなる」

「そういうことだ。この坂戸城が関東と越後の境界にあったことが、きみにとっては幸運だったわけさ。僕に感謝するんだね」

 あまりにも一方的で、そして、これっぽっちも自分に負い目がないと信じている男だった。奇矯と言えば奇矯だが、これが貴種なのだ。

 政景は、殺さずに景虎とみ合わせてみるか、と考えを改めた。

(フン。虫が好かない男だが、殺そうと思えばいつでも殺せる。景虎がこいつをどう扱うか、いちどてみたい気もする。あいつがまことの義将であり続けられるかどうか、毘沙門天の化身だとかいうくだらん戯言ざれごとを、この男を前にしても貫けるかどうか、確かめてやる)

 もしも「関東管領」という輝かしい肩書きに目をくらまされて、上杉憲政な

ぞに籠絡されるような馬鹿な娘であれば――その時こそ、俺は景虎に見切りをつける。もはや景虎に憧れ続ける意味などなくなるからだ。ともどもに殺して、俺が越後の王になる、と政景は思った。

(景虎が、武も持たず、血筋と美貌だけを頼みに生きているこのような無能な男に籠絡などされるはずがない。どこかで俺はそう信じたいのだろうな)

 まるで恋する乙女のような甘さだなと己自身をあざ笑いながら、政景は「承知した。俺と景虎とは些細ささいなことで合戦に及びかけたが、その行き違いは解けた。俺と景虎とはそもそも、義理の兄と妹よ。わが妻は景虎のおいを産んだばかりだ――越後の両長尾家はすでに本日よりひとつとなった。上杉憲政。貴様が、関東管領として俺と景虎の関係を取りなすのだ。そう約束するならば、貴様を、景虎のもとへ紹介してやろう」とうなずいていた。

 わが子が死の運命に直面し、綾が憔悴しようすいしている。景虎との決戦に踏み切れなかったのも、関東から「主殺し」の娘のもとへ逃げ込んできた上杉憲政などを受け入れたのも、すべては「間が悪い」ためだ。家族は、殺伐とした合戦の日々でささくれた男の心を癒やすと同時に、野望を果たそうとする際には重い足かせになる諸刃もろはの剣だ――と政景は思った。

 が、不思議と、それが苦痛ではなかった。

 あの主殺しを繰り返した「鬼」の長尾為景ですら、晩年は、歳の離れた妻・虎御前を慈しんでいた。そうせねば、正気を保てなかったのだろう。為景は、老いてから唐突に生まれてきた異形の景虎をわが子ではないのではないかと疑いながらも、ついに景虎を殺すことができなかかった。自ら妻子を得た今になって、わが子の死という運命を前にして、為景の老いとそして人としての迷いとが、痛いほどにわかる。

 むしろ、己を毘沙門天の化身と信じるためにあの若さで生涯不犯を誓う景虎と、その景虎に宰相として付き合うように自らも独身を貫いている直江大和の主従のほうをこそ、哀れに思う自分が、政景は不思議だった。

 かくして、関東管領・上杉憲政が、長尾景虎と対面する運びとなった。

 政景はのちに(やはり憲政が俺のもとへ転がり込んできた時にくびり殺しておくべきだった。はじめての子を失いかけていて、あの時の俺はらしくもなく、弱気になっていたのだ)と悔いることになるが、父親が殺した「関東管領」を自らの義と武によって復権させるという景虎にとっての「運命」は、政景がたとえ初対面の場で憲政を殺していたとしても、逃れられないものであっただろう。なぜならば、「関東管領殺し」という為景の罪をあがなうことに景虎がとらわれていると察した直江大和が、景虎の心を関東から引き離すべく京の都へと上洛させてもなお、その「運命」は景虎をより深く関東へと縛り付けることになったのだから――。

「やあ政景、もっと虎狼のような男だと聞いていたが、存外に律儀じゃないか。いいとも。越後への亡命を認めてくれたお礼に、きみと景虎とのこじれた仲は、この僕が仲裁してあげよう。関東管領の名のもとにね。そうだとも。北条と武田の北進を防ぐべく、越後は今こそひとつにならねばならないんだよ。景虎ときみとの内紛は、これで打ち止めだ。これより越後は安泰。やっと僕も、安心して眠ることができる。は、は、は」

 この時、若い野心家であり自分の血筋と美貌に酔いしれていた上杉憲政は、政景を籠絡して越後を乗っ取ることで頭がいっぱいだった。景虎は、彼にとっては家臣筋にすぎず、しかも「主殺し」の娘にすぎなかったのだから。



 春日山城。

 宰相・直江大和は「坂戸城の包囲を解いたことが、このような事態を招くとは……」と柄にもなく舌打ちしていた。

 北条氏康に追われ、上野から逃げ延びてきた関東管領・上杉憲政が、こともあろうに坂戸城の政景のもとへと転がり込んでしまったからである。

 政景にとっても、直江にとっても、この「亡命者」の登場は想定外だった。上杉憲政が北条勢に押されて青息吐息となっていることは知っていたが、まさか越後へ亡命してくることにはなるまい、とお互いに思っていたのである。

 律儀な景虎が「関東管領さまをお迎えして、御館に住まわせるよう。すぐに対面させていただく」と喜んだことも、直江にとっては頭痛の種だった。

 直江は、対政景戦と同時に、上洛の準備を進めていたのである。およそ二千の精鋭を率いて上洛し、景虎を足利将軍に拝謁させ、越後の支配権を幕府に――都に公式に認めさせるという計画を練っていたのだ。

 最大の政敵・政景を坂戸城に追い詰めて帰順させるとともに電撃的に敢行されるこの上洛は、景虎政権にとって効果絶大のデモンストレーションになるはずだったのだ。

 直江は、できることならば景虎を畿内へ――天下へと近づけたかった。関東には興味を抱かせたくなかったのだ。三代を経て「関東の覇者」の地位を固めている北条家と関東を舞台に戦えば、泥沼の戦いになる。

 それなのに、景虎は「関東管領は主筋だ。わが父上がかつて関東管領にそむいてこれを討ち果たしたことが、関東管領・上杉家の没落を招いたのだ。父にずっと監禁されていた越後の先の守護・上杉定実さまは、わたしに守護職を譲ってすぐにみまかられてしまった……しかし、上杉憲政さまはまだお若い方と聞く。丁重に府中へとお迎えし、忠節を尽くさねばならない」と、上杉憲政を迎え入れてしまった。

「お嬢さまの悪癖が出てしまったようですね。宇佐美さま。いかがいたしますか。わたくしは、お嬢さまが関東出兵などに駆り出されぬうちに上杉憲政を暗殺してしまうべきだと考えていますが。ようやく牙を抜いたはずの政景が憲政を担いでいるという状況も最悪です。上杉憲政は、政景を政権中枢に復帰させよ、長尾一族は関東管領の家臣として結束すべし、とお嬢さまを説得するつもりのようです。転んでもただでは置かない男です、あれは」

 直江大和の隣にあぐらをかきながら、宇佐美定満はあくびをしていた。

「直江よ。こうなった以上は、仕方あるまいよ。てめえの計算通りにはことは運ばない。景虎は、為景の旦那がたたき潰してしまった関東管領家を復興したい、そのために働きたいとずっと毘沙門天に祈っていた。これも、天命だろう。だいいち、憲政が今いきなり死ねば、先の越後守護の爺の死まで、景虎がやったことだと疑われる。義将の名声は地に落ち、親子二代続いて関東管領を殺す下克上をやらかした謀将だとささやかれるようになっちまうぜ。それじゃあ、景虎は救われない」

「……関東出兵のほうがまだしも、お嬢さまのお心の安寧にとっては、よい選択だと言われるのですね」

「最善手とは言えないがな。父親の代の恩讐おんしゆうを捨てて、関東管領が景虎に頼ったとなれば、景虎の義将としての評判はうなぎ登りだ。上洛前の景気づけとしては、これはむしろ幸先さいさきよしだぜ。問題は、関東出兵を本格的な規模に広げちまわないことだ……関東の大地の広さは尋常じゃねえ。あの身体ではるばる小田原まで遠征などということになれば、景虎が危うい」

「まことに」

「しかし、関東管領を拾い上げちまうと、さらに厄介なことになるかもしれねえな……」

「武田晴信に圧迫されている北信濃の諸将までもが、越後への亡命を考えるのでは……ということですね、宇佐美さま」

「そうだ。景虎の義将としての名声が高まれば高まるほど、火中の栗を拾わされる機会も増える。武田晴信と北条氏康を同時に敵に回して二正面作戦なんぞやらかせば、いくら景虎が戦の天才でも、もたないぜ」

「お嬢さまは義と慈悲という観念によって動かれるお方ですから、現実的な計算などできません。常識ではありえない二正面作戦も、義のためならば平然とやりかねませんね」

「オレたちがそういうふうに育てちまったんだから、しょうがねえ。あとは……上杉憲政の野郎が景虎を口説こうとした時に、どのあたりで止めるか、だが」

 お嬢さまは、男の地位や、まして容貌に惑わされるお方ではありませんよ、と直江は久々に笑っていた。

「わたくしという美青年がずっと隣に侍っていても、まったく興味を持ちませんからね」

「それは冗談で言っているのか、それとも本気で言っているのか?」

「さあ。どうでしょう。むしろ憲政が無粋な真似に及ぼうとしてくれたほうが、殺す理由ができてわたくしにとっては好都合ですが、八歳の頃から関東管領の位にあった上杉憲政はほとんど公家のようなものです。残念ながら、そのような野暮な真似はやらかさないでしょう」

 それにしても、坂戸城の包囲を解いていなければ、こんな厄介な事態にはならなかった。宇佐美定満は「天命としか言いようがねえな。関東管領と景虎とは、切っても切れない縁があるようだ」とつぶやいていた。


 景虎はため息をつきながら、上杉憲政との対面の間へと廊下を進んでいた。

 政景と綾の子は、かろうじて命を取り留めたらしい。

 坂戸城包囲の中断によって少しでも生き延びられる可能性が出てくれば、と景虎は祈っていた。

 だが、景虎が坂戸城へ出陣している間に、兄・晴景の容体が悪化していた。

 景虎が政景と再び相争いはじめたことを気に病んだために、なにも食べられなくなったらしい。

 薬師くすしの見立てでは、衰弱が著しく、もう長くないという。

(兄上はお優しすぎるのだ……わたしは兄上の言うとおりに、武将をやめておくべきだったのだろうか……だが、運命は、わたしのもとに関東管領さまを。定実さまに尽くせなかった分も、憲政さまには尽くさねばならない。父上の犯した下克上の罪を、わたしが)


 愁いに満ちた表情で、小柄な景虎が対面の間に姿を現した時。

 琵琶びわを弾きながら退屈を紛らわしていた上杉憲政は、思わず絶句していた。

 琵琶を教え歌を教え、「源氏物語」の講義などもしてやれば、景虎という戦しか知らない小娘はおよそ簡単に籠絡できるだろう、と憲政は甘く見ていた。いくら「越後に並ぶもののない美貌の持ち主」と言われてはいても、そんなものはおべっか混じりの田舎武士たちのうわさにすぎない、と。関東では、

憲政はいわゆる美人などは腐るほどに見てきた。誰もが自分の高貴な血筋と美貌とそして関東管領という目映まばゆいばかりの肩書きとに、結局はなびく。女はたいてい、そのようなものだと思っていた。戦場で戦う姫武将ともなれば、北条氏康がそうであるように、もっと現実主義的な者が増え、扱いづらくはなるが、越後の外の世界を知らない景虎はそうではないだろうと思っていた。

 しかし、景虎は、まるで人間ではないもののように見えた。

 あの食わせ物の上杉定実が越後守護の座を僕に無断で景虎に譲った理由も、わかる気がする、と驚愕きようがくした。

「憲政さま。わたしが、長尾景虎です。畏れ多くも、越後守護の名跡を継がせていただいています――越後へ来られたからには、二度と憲政さまに危険が及ぶようなことはさせません。北条氏康とかいう下克上の蛮族は、この景虎が成敗いたしましょう。これよりしばしの間、憲政さまには府中の御館にてお暮らしいただきます。本来は、定実さまのために建設していた御殿でしたが……」

 そうか、と憲政はやっと声を発することができた。

 景虎の赤い目。異形の瞳。

 まるで魔眼だ。

 毘沙門天と呼ばれるのも、当然だった。

 到底、簡単に口説き落とせるような娘ではなかった。

 この天女のように美しい少女が、五年もの間、不犯を貫くと決めているとは。

 なんと、惜しいことか――。

 が、それもやむを得ないことだ、と憲政は理解した。婿を取ると迂闊うかつに宣言すれば、この少女を巡って、越後の国人たちはばらばらに割れてしまうだろう。誰を婿に迎えても、不満が爆発する。政景などは、景虎の姉を妻としていながら今なお景虎に執着しているのだという。

 ならば関東管領であるこの僕こそが、彼女を妻にするに相応ふさわしい唯一の人間なのかもしれないと、そのように憲政が考えたのは、生まれながらの名族だからだろう。

「長尾景虎、大義である。そなたの関東管領への忠義の心は、まことに殊勝。そなたの父の罪は、僕が許そう。過去は水に流し、ともに関東管領家復興のために北条と戦ってくれるかい」

「委細承知」

「即答していいのかい? きっと家臣団が反対するよ」

「構いません。憲政さまの領国である上野を、この景虎が奪回いたします」

「上野を僕のために奪回しても、きみの領土は増えない」

「わたしは甲斐の武田晴信とは異なります。もとより、他国を侵すための戦いはいたしません。義と秩序のためにのみ、この景虎は戦います」

「軍団を率いての三国峠越えは、大変な難行軍になるよ」

「坂戸城の政景に先導役を命じ、道を整備させ、関東へとすぐにでも出兵いたします」

 景虎には、政治感覚というものはないに等しい。

 頼られれば、考えもせずに、受ける。

 ことに、父の罪を許す、と関東管領じきじきに伝えられたことに景虎は激しく感動しているらしく、大きな目を潤ませていた。

 憲政の心は(なんということだ。戦の天才と聞いていたのに、心はまるで童女だ。一国を束ねる大名としては、途方もない馬鹿だと言ってもいい。この者を極限まで利用し尽くせば、関東管領家は復興できる)という打算と、(それは関東随一の名門の御曹司である僕が取る行動としては、あまりにも無粋じゃないか)という逡巡の間で、揺れ動いていた。

 家臣は主君のために働き死ぬものである、それが関東の秩序というものの本質であり、北条氏康はその秩序を無視して関東を侵食する下克上のやからである、僕のために戦って死んでくれる家臣だけが良い家臣である。

 それが、貴公子・憲政の信念であった。

 むろん、憲政は知っている。そのような都合のいい、楠木正成くすのきまさしげのような家臣など現実の関東にはいないのだ。空想の世界にしか存在しない、幻なのだ。

だからこそ、関東管領家は無残に凋落ちようらくした。

 だが、いざ目の前に、長尾景虎という、ほんとうに「僕のために北条と戦って死ね」と命じれば迷いもせず言うとおりに死んでいくであろう、希有けうな姫武将が現れてみると――。

 利用し尽くさせてもらう代わりに、せめて、こちらからも人間らしい返礼をせねばならないな、と憲政ほどの者が戸惑った。

 この姫武将は、おそらく、生涯、こうやって僕のような者に利用され尽くし、消耗し、そして自分自身の人生というものを見つけることなくむなしく死んでいくのではないか。

 それに、明らかに、長生きできる身体ではない。

 そう思うと、憲政は憐憫の情を覚えずにはいられなかった。

 自分のような高貴な者にもそのような感情があることに、憲政は驚いていた。

(返礼はしよう。だが、利用はさせてもらうよ。いずれ――彼女の心を僕のものにできるかもしれないという、打算もある。そう。僕は恋に落ちたのではない。あくまでも、関東管領としての打算が、僕を動かしているのさ)

 恋などではないと自分に言い聞かせなければ、僕のほうがいつか景虎のこの赤い魔眼のとりこにされてしまう、と憲政は思った。

 すべてを見透かしているかのような、それでいて相手の心の中の醜いものをなにも認識できていないかのような、景虎の瞳。

 河越夜戦での勝利によって、すでに北条の覇権は揺るがない。そんな関東になど出兵させてはならぬ、彼女の生涯を台無しにしてしまうという躊躇ちゆうちよと、関東管領として北条討伐はどんな手段を取ってでも成し遂げねばならないという義務感。

 それに――先ほどから、軒猿の気配をも、感じていた。

 僕が景虎に無粋な真似をすれば、即座に理由をつけて殺すつもりだろう、と気づいた。

 おそらくは、軒猿をこの部屋の周囲に配置した者は、長尾政景の政敵、宰

相の直江大和だろう。

 その手には乗らないよ、と憲政は苦笑した――八歳で関東管領に就任して以来、何度も、暗殺の危機をかいくぐってきた。修羅場には、慣れている。

「景虎。お礼に、きみに琵琶を教えよう」

「有り難き幸せ」

「合戦は、人の心を荒らし、虎狼のようにおとしめてしまう。故に、武将たる者、風流趣味は必須なんだよ。琵琶を鳴らせば、戦場では慰めとなり、いずれきみが上洛した際には都人との交際の席で役に立つよ」

「……げ、『源氏物語』などは、多少、たしなんでおりますが……」

 景虎は、そのような自分の乙女趣味を恥じているらしい。

 雪のように真っ白い頬がほんのりと桃色に染まっていた。

「ならば上洛した折に、都の源氏物語通たちの講義を聴いてくればいい。僕が紹介状を用意しよう」

 だが、関東出兵が先だね、と憲政は微笑ほほえんでいた。

「承知しております。上野へと出兵し、遠征中の北条軍を急襲いたします。この一戦で北条氏康を捕らえ、あるいは討つことができれば、関東の秩序を回復させることができるでしょう」

「この一戦で倒せなければ、越後と北条との関係は泥沼になるけれどもね。たとえ神将といえども、はるばる小田原城まで逃げる北条を追撃することはできないからね。覚悟はできているのかい?」

「はい。父が壊した関東の秩序を再興するためならば、この景虎、生涯を賭ける覚悟でおります」

「平井城はすでに北条の手に落ちている。僕の家臣団は、沼田城に籠城中だが、この沼田城もまた陥落寸前だ。沼田城が落ちればもう、上野全土が北条のものとなってしまうよ。そうなれば、関八州すべてが北条に靡く」

「坂戸城でにらみ合っていたわたしと政景が和睦できたのも、憲政さまの天運のおかげでしょう。ただちに沼田城を救援し、平井城を奪還いたしましょう」

 こともなげに、景虎がうなずいた。

「きみはほんものの義将のようだね、景虎。だが、きみが予想している以上に北条は大敵だ。情勢によっては――きみに、関東管領職を譲ってもいい。北条から関東管領家が関東の覇権を奪い返せるのであればね」

「関東管領職を!? 憲政さま、それはなりません! わたしは上杉家に仕える長尾家の人間です。まして、わが父は先の関東管領を戦場で討ち果たした、そのような血筋の――」

「ほんとうに、きみは、ほんもののようだ」

 上杉憲政は、(まるで赤子のような心根の娘だ。僕は上杉定実のような爺さんとは違う。まだ二十代になったばかりの若武者だ。景虎の武力を、関東管領復興のために利用させてもらうよ。それに、いずれ景虎を僕の妻にできれば、関東管領家はいよいよ盤石のものとなる。宰相の直江が祝言までの期限と定めている五年のうちに、僕が景虎を……)と笑った。

 だが、どこか、苦い笑いだった。

 政治的な駆け引きの交渉ではなく、いずれ、老境の上杉定実がそうしたように、「僕の関東管領の位を、きみに譲る! 上杉家の名跡もなにもかも、きみに与えよう! 僕のすべてを、持っていけ!」と自分が景虎の前にひれ伏して叫ぶ日が来ることになるとは、この時の憲政は予想すらしていなかった。もちろん、(憲政さまはそこまでわたしを頼ってくださるのか。父上の汚名をついに晴らす機会を、わたしは毘沙門天より与えられた。たとえ戦場で死んでも、憲政さまを上野へお戻しする。あくまでも関東管領職は、憲政さまのもの。なんとしても、北条を倒す――)と感涙にむせんでいる景虎自身も。


 長尾景虎、運命の関東出兵――。

 柿崎景家や北条高広ら越後の国人衆は「おお。ついにはじまったか、義戦の日々が。なんの得にもならぬ戦をはじめられるか。南無阿弥陀仏なむあみだぶつ!」「合戦をやれば兵糧が減る。いくら義戦といえども、少しは稼がせてもらわねば困る」と驚き戸惑いながらも、上杉憲政の尽力で長尾政景との内戦が終結した以上、もはや敵は越後の外にしかいないのである。

「今こそ父の汚名をそそぐ」と景虎が訴えたことも、諸将の心を動かした。

 そうだ。景虎さまは亡き父上の汚名をそそぐために戦われるのだ。この関東出兵で大功を挙げれば、景虎さまの心を掴めるやもしれぬ、と張り切る者も続出した。

 とりわけ、揚北衆の中で最年少の少年武将・本庄繁長ほんじようしげながは、はじめて景虎の姿を見て以来、景虎をまことの毘沙門天さまと崇拝し、「ああ。なんという美しい人なんだろう。景虎さまにお仕えできるボクは幸せ者だ! も、もしも、あのお方の婿になることができれば、どれほど幸せだろうか……早く景虎さまのもとで手柄を立てたい!」と日夜景虎の像を拝み続けるくらいの熱烈な景虎崇拝者となっていたから、「関東の土塊つちくれとなってでも戦い抜くぞっ!」と本庄一族の全軍を召集して、いの一番に三国峠へと向かっていった。

 下越の揚北衆は、独立心が強い国人の集合体であり、長尾家の威名をもってしても容易には従わない厄介な武闘派勢力である。

 その揚北衆の中でも一、二を争う有力な国人である本庄繁長が、景虎の唐突な関東出兵指令に真っ先に従い、喜び勇んで出立してしまったのだから、こうなってしまえば宇佐美も直江も、景虎の「関東管領さまのご命令で、関東へ向かう。上野を奪回する。これは義戦である」という命令を阻止することはできなかった。

 ただ、ひとつ、大きな問題があった。

「お嬢さま。武田晴信の猛攻を受けている北信濃の村上義清と小笠原長時からも、援軍要請が来ております。万が一の時には越後への亡命を許可してほしいとも。こちらは、いかがなさいます」

「北信濃からも、援軍の要請が? 直江? ほんとうか、宇佐美?」

「ああ。景虎。いくら神将といえども、関東と北信濃との二正面作戦は無理だぜ」

「そうだな……たしかに、わたしの身体はひとつしかない。武田と北条とを

同時に討つのは無理だ。直江と宇佐美とで、北信濃をしばらく安定させる方策を考えてほしい」

 直江が、即座に策を出した。すでに、景虎が関東出兵すると宣言した時のことを想定して、宇佐美とともに練った策だった。

「それでは、村上・小笠原の要請に応じて、北信濃へも援軍を派遣いたしましょう」

「直江。武田晴信は倒すべき敵であり、懲らすべき悪だ。しかし今、わたしは関東へと出兵しようとしているのだぞ」

「あくまでも村上義清の戦いに多少の『見せ兵』を貸すのです。これ以上北信濃を蹂躙じゆうりんすれば越後軍が相手になる、北信濃は緩衝地帯として残しておいたほうが武田のためにもなると、武田軍を牽制けんせいするためです」

「武田晴信は智将だ。越後軍には、関東で暴れさせておいたほうが得策。わざわざ北信濃に呼び込むことはない、と兵を退くはずだ」

 直江と宇佐美が考えだした、一種の軍事的デモンストレーションであった。

「この『見せ兵』の効果は絶大です。おそらく、現在更級八幡での村上軍と武田軍との間で行われている合戦は、さほど大規模な戦闘になりますまい。越軍の旗を見た武田軍は、撤退するはずです。越軍が見せ兵だと即座に見破ると同時に、その意味をも理解し、村上勢を越後へ完全に追い落とす愚を悟るはずです」

「そうか。武田晴信は、兵を退くか。宇佐美も同意見か?」

「ああ。愚将は扱いづらいが、智将ってのはかえって先が読めるもんだ。必ず退く」

 そうか、それで武田晴信が北信濃への野心を捨てればそれでいい、と景虎はうなずいていた。


 春日山城下に「毘」の旗が掲げられ、三国峠の山道には「憲政に恭しく仕えるのだろうとは思っていたが、まさかいきなり北条とことを構えるとは、本気なのか。あの小娘め……俺の予想をことごとく覆してくる」と舌打ちし

ながら政景が先導する先鋒隊があふれ返り、そして景虎は、生まれてはじめて越後の外へと軍を率いて出ようとしていた。

 粛々と三国峠へと向かう景虎本隊の中で――。

 わたくしと宇佐美さまとが政景を操ることで達成させた越後統一が、あまりにも早すぎたようです、と直江大和は自嘲するしかなかった。

 あと一、二年ほど政景との間で片八百長の内紛を続けていれば、関東へ出兵する余裕などなかったのだ。

 しかも、越後を統一した景虎は関東管領のみならず、今や北信濃からも頼られている。

 彼らの願いにいちいち義で応えていれば、景虎の身が持たない。

 すべてがうまくいきすぎたのだ、お嬢さまが一気になにもかもを手に入れてしまったその反動なのだ、と直江は反省しきりだった。

「策士は策に溺れる――そしてお嬢さまは、自ら望む運命を、引き寄せる力をお持ちのようですね」

「武田晴信のほうは心配ねえが、とにかく問題は関東だ。景虎が文字通りの戦の天才だと知られる前に、最初の一戦で北条氏康を討つしかねえな。最初の合戦で逃がせば、以後は小田原城へ籠もられる。越後から小田原までの補給線は長い。長期間に及ぶ包囲はできねえ……そういう事態になれば、景虎は少なくとも十年は関東に引きずられる」

 宇佐美も、ため息をついていた。

「上野を長尾家の領国にしてしまえば、長期戦も可能ですが。お嬢さまは、『国盗り』はなさらないでしょうからね」

「ああ。父親を追放し、信濃を侵食する武田晴信を蛇蝎だかつのように嫌っているからな。『義戦』か……ありえない矛盾を、景虎は成し遂げようとしている。あいつの生涯が、壮大な徒労に終わらなければ、いいんだが」

「あなたとわたくしが、お嬢さまを育成したのですからね。われらがお嬢さまの矛盾に満ちた不可能を、可能となせるよう、支えていくしかありませんね」

「景虎のために死ぬ覚悟は、いつでもできているさ。オレの後継者も見いだしてある」

「ほう? それはどなたです。琵琶島城に大勢抱えている姫武将候補のうちのお一人ですか?」

「ああ。樋口村生まれの幼い娘だ。いずれ直江、てめえの養女にしてえんだ。宰相を育成する手腕にかけては、情の深いちゃらんぽらんなオレよりも、冷血のお前のほうが向いている」



 馬上でふらふらと揺られていた宇佐美定満も、覚悟を決めた。

 上野に出兵し、上杉家の本城である平井城を落城させた北条氏康率いる北条軍は、北上野における関東管領派の拠点・沼田城攻めにかかっていた。

 平井城は、上野と武蔵の境界に近い位置にあった。現代の高崎市や前橋市よりも南にある。関東管領・上杉家としては、この平井城を拠点に、いずれ武蔵を北条家から奪回しようと考えていたのだろう。

 が、その平井城は、すでに落ちた。

 合戦に対してきわめて消極的で慎重派を任じていた北条氏康であったが、平井城の陥落はその氏康をして「一気に上野から上杉家の勢力を一掃する絶好の機会が来たわ」と狂喜させるには十分な大成果である。

 絶体絶命の危機を奇襲によって勝利へと導いた「河越夜戦」以来、ついに関東管領・上杉家の勢力を関東から消し去る時が来たのだ。

 北条家はすでに伊豆、相模、武蔵の大部分を平定しており、関東管領の勢力を駆逐して上野を平定すれば、広大な関東の西半分をことごとく手に入れることになる。そうなれば、もはや関東には北条家に独力で対抗し得る勢力は存在しない。半ばまで制してしまえば、あとは転がるように統一へと向かう。

 北条三代の悲願「関東平定」が、目前となっていた。

 氏康は「この勝機を見逃す手はないわ」と軍を沼田城へと北進させた。

 沼田城は、利根川上流の山城である。

 川向こうに陣を敷いた氏康は、珍しく上機嫌だった。

「河越城を包囲された時には、もう北条家も私の代で終わりかしらと嘆いていたものなのに。あの一戦で、すべてが変わったわ。これも、武田晴信の斡旋あつせんで、今川義元いまがわよしもとと和睦を結んだおかげね。その晴信は信濃で村上義清に苦戦していて、いい気味だわ。北条家にとっては、なにもかもがいい具合に進んでいる」

 でも……この上州の空っ風は嫌ねえ、それに海の幸が採れないのは困るわ。早く沼田城を落として小田原に帰りたい、と氏康らしい言葉を付け加えることも忘れないが、そういう言葉をつぶやきながらも、氏康はずっと笑顔である。

 思えば北条家の家督を継いで以来、久しく氏康は心の底から笑ったことがなかった。常に、北条家を守り「関東独立王国」の建国という北条三代の悲願を達成するために、全身全霊、姫大名としての仕事に打ち込んできた。氏康自身が合戦に出陣する機会は少ないが、風魔衆とともに常に諸国の情報を集めて分析し、次々と謀略の手を打っていく氏康には、寝る時間もない。その上、領民を慰撫いぶするための内政にも氏康は徹底的に力を入れていた。「武」の力で一時の勝利を得て城を奪っても、領民を慰撫できなければ、一揆いつきを起こされ、あるいは隣国に逃散され、長期にわたって安定的な支配を実行することは不可能である。政治家としての天才的な感覚を生まれながらに持っていた氏康は、合戦よりも謀略と内政によってじわじわと領国を広げ、領民を慰撫していく、そのような気の長い方法論で関東の覇者になろうとしていた。

 あとは、沼田城だけだ。この城さえ落とせば、関東管領・上杉家は歴史の表舞台から消滅する。関東の覇者・北条家が、新たな関東管領家となるのだ。すでに、古河公方(関東公方)の位には、氏康のめいにあたる足利義氏あしかがよしうじをつけてある。先代の古河公方・足利晴氏あしかがはるうじは河越夜戦での敗北の痛手から立ち直ることができず、公方の位を泣く泣く北条家に譲り渡して古河城に逼塞ひつそくしている。むろん、上野の平定を終えれば、氏康はすみやかに古河城も奪うつもりだった。足利晴氏をいつまでも古河城で泳がせておくつもりなどない。公方の位を奪った以上、すでに用済みである。どうせいずれは北条に反旗を翻そうとするのだから、相模にでも幽閉してしまえばいい。

 旧関東の秩序そのものであった二大勢力、関東管領と古河公方とがともに消えれば、あとは黙って小田原城で寝ていても、関東八州のすべてが北条の傘下に収まる――容易に服従しそうにない勢力は、常陸の佐竹と、安房の里見。この両家だろう。が、それも、東関東の諸勢力を順々に恭順させていけば、いずれは膝を屈するしかない。関東管領の位も公方の位もともに北条が握ってしまえば、佐竹にも里見にも北条と戦い続ける大義名分などないのだ。

 なにしろ、北条を悩ませてきた駿河の今川も、甲斐の武田も、今では北条の味方なのである。今川は上洛を目指して尾張三河で戦い、武田は信濃統一のために戦い続けている。背後を気にすることなく関東攻略に専念できるのだから、氏康にとってはてのひらを返す如き容易な戦が続いていた。

「沼田城にはもう覇気がない。主君の上杉憲政が逃げ散ってしまったのだから、当然だわ。勝ったわね。城代は、つな(義妹・北条綱成ほうじようつなしげ)にしましょうか。それとも、つなのきょうだいから選びましょうか。なんなら、おばばが城代を務める?」

 その氏康の隣では――。

「ふぉっふぉっふぉっ。お嬢よ、常に慎重なそなたらしくもない。上野を奪うならば、こたびは平井城までで止めておくべきであった。上野全土の支配を急いで沼田城を囲んでしもうたがために、えらいことになってしもうたぞよ」

 初代北条ほうじよう早雲そううん以来、北条家の重鎮として居座っている大長老。「おばば」こと北条幻庵ほうじようげんあんが、もりもりと小田原ういろうを食らいながら大笑していた。

「えらいことって、なにかしら?」

「風魔を直接束ねている者は、このおばばじゃ。お嬢に報告が入るよりも一足先に、おばばのもとに風魔からの一報が入るようになっておる」

「知っているわ。いちいち私自身が風魔の報告をすべて聞いていたら、時間が足りないもの。なにか気がかりなことでも?」

「上杉憲政の亡命先がわかったぞえ」

「あら。古河城の足利晴氏のもとへ逃げたのでしょう? 足利晴氏から古河城を取り上げる絶好の口実だわ」

「それがのう。古河城へ逃げた管領は、影武者じゃった」

「……なんですって。それじゃ、ほんものの上杉憲政は、どこに? まさか仇敵きゆうてきだった武田晴信のもとへ逃げ込めるはずもないし。そんなことをすれば、あの女に容赦なく首をねられるわよ。いくら憲政が無能な馬鹿でも、そんな愚かな真似は」

「越後じゃ。越後の、長尾景虎のもとに逃げ込んでおったのじゃよ。上杉憲政は戦は下手じゃが、お嬢が考えているほどには愚かではない。あれは、公家のような育ちの男じゃからのう。なかなかに、したたかなものじゃ。風魔をもまんまんと騙しおったわ」

 それこそ天地がひっくり返ってもありえない話だわ、と氏康は信じなかった。

「長尾景虎の父・為景は、かつて関東管領を殺した下克上の男よ。関東管領家がかくも無様に没落したのも、為景のせいと言ってもいいわ。それなのに、いくら窮したからって、関東管領たる者が逆臣の長尾家を頼って越後へ亡命するだなんて。これまでの長尾家と上杉家とのいきさつを考えれば、助けてもらえるはずがないでしょうに」

 それは違うぞえお嬢、と幻庵が首を振った。

「長尾景虎は、父親とは真逆の姫武将よ。頼られる者はすべて助け、悪を討ち正義を実現するために戦うと宣言している、義将じゃ。天下にも国盗りにも興味はなく、領土を奪うための合戦はしないという。一種の奇人じゃろうな。そして、景虎はこの世の秩序に異様にこだわっておる」

「秩序……?」

「関東には坂東武者の棟梁としての関東公方が君臨し、関東管領・上杉家が

これを実効支配し、関東の諸将は関東管領に従う。これこそが関東の正しい秩序であり、下克上をものともせずに関東を切り取り続けている北条家は関東の秩序を乱す逆臣であると、そう常々言っておったそうじゃ」

 それは長尾家のことでしょう! どういうつもりなの、長尾景虎という娘は!? と、氏康は思わず金切り声で叫んでいた。

「長尾家は、関東管領を殺し、越後守護を殺した、とてつもない悪逆の家でしょうに。たしかにわが北条家は、下克上を上等として戦い続けてはきたけれど、主殺しの罪はなるべく避けてきたわ。初代早雲さまは、堀越公方の足利茶々丸あしかがちやちやまるを殺したけれど、それは茶々丸が正統な堀越公方を殺して公方の位を簒奪さんだつしたからよ」

「早雲が茶々丸を殺したことは、お嬢が北条家に伝わる書をすべて焼き払って改竄かいざんしてしもうて、まんまと隠してしもうたがのう。ふぉっふぉっふぉっ」

「それは人聞きが悪いからよ」

「ともあれ――上杉憲政を迎え入れた長尾景虎は、即座に、憲政の要請に応じて軍を編成し、越後を出立。三国峠より、すでに越後軍の先鋒隊が攻め寄せてきておるのじゃ。この沼田城をまっしぐらに目指してな」

「まさか。春日山城からの三国峠越えは容易ではないわ。どれほどの距離があると思っているの、おばば」

「たしかに春日山の景虎本隊は、まだ峠を越えてはおらぬ。じゃが、揚北衆の本庄繁長軍が、すでに三国峠を越えておる!」

「揚北衆? 長尾の命令など聞かない、北越後でめいめいが独立している連中でしょう? 武家というよりも、半ば山賊のようなもので……それに、三国峠を越えるためには、上田長尾家の坂戸城をとおらねばならないはず。上田長尾家は、春日山長尾家とは不仲で……」

「かーっ! 氏康、まだわからぬか! その揚北衆と上田長尾家が、景虎の関東出兵の号令を主命として受け入れ、戦意まんまんで攻め寄せてきたと言っておるのじゃ!」

「まさか」

 風魔衆が、いつの間にか音もなく氏康の背後に侍っていた。

 三国峠を越えて上野に出現した敵兵の旗印は――。

 揚北衆の、本庄繁長。

 上田長尾家の当主、長尾政景。

 春日山からの景虎本隊を待つことなく、われらを急襲するつもりでおります。

 淡々と、氏康がにわかには信じがたい情報を、告げてきた。

「どうやら長尾政景は、謀反を許されたばかりで、『いきなりの関東出兵など急ぎすぎる』とぼやきながら、義理を果たすためにやむを得ず参戦しているようですが……本庄繁長は玉砕するつもりでこの北条の大軍を恐れることなくまっしぐらに突き進んで来ます」

「兵どもも、なにか異常です。まるで、本猫寺一揆のような」

「武家の軍勢というよりは……みな、宗教一揆の如き目つきなのです」

「さらに、北条高広、柿崎景家ら、越後屈指の猛将どもが次々と三国峠に殺到しているようです」

 長尾為景の代の越後とはまるで違う! 長尾景虎はあの若さで、広大な『国人の国』である越後を統一したというの? と、氏康はにわかに青ざめていた。

 胃が、きりきりと痛む。

 河越夜戦の時の恐怖とも違う。なにか、異様なものを敵に回してしまった、決して戦ってはならないものを敵にしてしまった、そんな本能的な恐怖が、氏康を絶句させていた。

「お嬢。それほどに長尾景虎は越後の男武者どもに支持されておる! 越後国内で国人どもを相手に延々と内紛を繰り返してきた父親とは違うのじゃ! 兄が持っていた守護代の位に続いて越後守護の位までをも平和裏に与えられ、今また関東管領を迎えて忠誠を示すべく関東に迷いなく出兵しておる。われら坂東武者の常識の通じぬ、義将じゃ」

 幻庵は、おびえる氏康の手を握りながら、説いた。

「大義は――関東管領は今、長尾景虎のもとに。いかんぞえ、お嬢。景虎と戦っては、関東平定は夢のまた夢となろう。わかるのう?」

「説明は無用よ、おばば。上杉憲政……! 大人しく北条の軍門に降っていればいいものを、この関東になおも戦乱をもたらそうというのね! どれほどの兵の血が流れることになるか、わかっていないの? それとも、領民や家臣の命などはどうでもいいの? やっぱりあの男は、愚物だわ! 遠慮せずに、風魔を用いて殺しておけばよかった!」

 いかがいたす。お嬢? 北条家にとって、河越夜戦以上の試練の時ぞ。そなたの知恵の見せ所は今ぞ、と幻庵が氏康の決断を促す。

 このように追い詰められた時、氏康の頭脳は最大の力を発揮する。

 氏康の武将としての才能は、攻撃よりも、防衛に特化しているのだ。

「越後軍との衝突は回避。沼田城攻略は中断。場合によっては、平井城を放棄しても構わないわ。上野から撤兵するのよ!」

 越後軍の戦意は異様じゃ。逃げても追撃してくるぞえ、と幻庵がくぎを刺したが、氏康は「だいじょうぶよ」と微笑んでいた。

「長尾景虎が、弱き者の味方で、隣国の秩序などというどうでもいいもののために戦うことを惜しまない義将だというのであれば――秩序を踏みにじる強者と――武田晴信と噛み合わさせましょう」

「北信濃でか! あくどいのう、お嬢。実にあくどい。いい笑顔じゃのう」

「ええ。晴信の北信濃攻略は、あと少しで達成できる段階に入っていた。そこに越後軍が水を差して、村上義清を討ち損ねた晴信は、かなり立腹していると聞くわ。きっとあの女は、再度攻勢に出る。村上たちを北信濃から取り逃がさぬように真田衆をも総動員して結界を構築することでしょうね。そこで――」

「村上義清と、そして村上のもとに居着いている小笠原長時を、救うのじゃな」

「ええ。もはや信濃に居場所がなくなった小笠原と村上の両武将を、生きて越後へと脱出させる手引きを、風魔にやらせるのよ。むろん、風魔の正体は隠すわ。戸隠忍びに化けさせるの――武田、村上ともに戸隠忍びを抱えて暗闘しているのでしょう? そこに風魔を送り込んでやれば、一時的に村上方の忍びの力が有利になる。越後へ落ち延びさせることは可能よ。いくら愚直な義将といえども、北条と武田を同時に敵に回してのほんとうの二正面作戦など採れるはずもない」

「じゃが、景虎はおそらく信濃よりも関東を優先するぞえ。関東管領と信濃守護の小笠原では、家格が違う。越後守護はもともと関東管領の家臣であるしのう」

「そうはならないわ。関東は春日山城からはるかに遠い。三国峠の彼方の世界なのだもの。でも、北信濃は飯綱山、黒姫山、妙高山を隔てつつも春日山城に近接している。北信濃が武田晴信のものとなれば、春日山城は喉元に合口を突きつけられるも同然。だから、景虎は北信濃を放置できないわ」

 それに――と、氏康は言った。

「武田晴信と長尾景虎は、ともに自分の家族から家督を奪った姫武将同士でありながら、まるで水と油。景虎が古き世の秩序を馬鹿みたいに重んじる義将ならば、晴信は新しき世の秩序を自ら作るために諏訪氏であろうが小笠原であろうが平然と滅ぼせる野望の将。景虎が兄から平和裏に守護代職を譲られたのに対して、晴信は父親を甲斐から追放して家督を奪った女。私と景虎が相容あいいれない以上に、あの二人が相容れるはずがないわ。きっと不倶戴天の敵同士となって、何年にもわたって北信濃で消耗し続けてくれるはずよ」

「ふぉっふぉっ。武田は事実上の同盟国じゃというのに、お嬢は怖いのう」

「ええそうよ。晴信が越後の神がかりと噛み合っている隙に、私はさっさと関東を平定するのよ」

 長尾景虎――上杉憲政のような負け犬の頼みをあっさりと入れて、いきなり三国峠を越えて関東で私と決戦しようだなんて、どうかしているわ。絶対に、戦ってはならない相手だわ――これまで、氏康はその臆病さを武将としての「武器」にすることで生き延びてきた。危機を事前に察知し、回避する能力である。なにごとも絶対に楽観しない。いつ何時、運命が暗転するかわ

からないのが、戦国の世の定めだからだ。その氏康が、「沼田城まで攻めたのは短慮だったわ」と唇を噛みしめていた。まさか、長尾景虎がこれほどに愚かしい武将だとは想定していなかった。が、たしかに、沼田城まで軍を北上させれば、越後軍を関東に呼び込んでしまう可能性は、わずかなりともあったのだ。上杉憲政から平井城を奪った段階で、満足しておくべきだったのだ。あとは、長尾景虎を刺激せぬよう、じわじわと上野を簒奪しておけばよかった。いや、先に景虎と晴信を噛み合わせておくべきだったのだ。

「……おばば。まだまだ私も甘いわね。もしかしたら……もう、すべては手遅れになってしまっているような気がするわ。長尾景虎は……武田と北条を同時に敵にして二正面作戦をやらかすような、そんな常軌を逸した女かもしれない……そうなる予感がするの。そうなれば、私が生きているうちに、北条三代の悲願を達成する夢は……」

 氏康は破れそうに痛むおなかを押さえながら、上州の空っ風を浴びていた。

 これから先の私の生涯において、心の底から笑える日はもう来ないのではないか、そんな気がしたのだ。

 だが、北条家を継いだ時から、その覚悟はもうできている。

 今さら気弱なことを考えても無駄よ。これが私の運命なのだから、と氏康は思い直した。

 問題ない。そなたがたとえ志半ばで死んでも、おばばは死なぬ。安心して戦うがよいぞ、ふぉっふぉっふぉっ、と幻庵が笑った。

「おばばは、あと百年は生きるつもりじゃからのう」

 私もおばばのような気楽な性格の女に生まれてきたかったわね、と氏康は苦笑いを浮かべていた。

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