第十五話 景虎の上洛(後編)

 景虎のやまと御所参内は、近衛前久の働きによって成功を収めた。

 景虎は、当代の姫巫女より「越後とその隣国の治安を守るように」と綸旨りんじを与えられ、天盃てんぱい御劔みつるぎを賜り、越後守護代・長尾家の出自でありながら公に「越後守護」として正式に認められることになった。

 生まれながらに甲斐守護職の家に生まれてきた武田晴信には、わかりがたいことではあったが――下克上をなによりもみ嫌う景虎にとって、足利将軍とやまと御所より正統な越後守護として認められたことは、兄から守護代職を、越後上杉家から守護職を継承して以来、ずっと胸にわだかまっていた悩みが晴れるかのような大事だったのだ。

 東国では関東管領復興。畿内では、足利幕府復興、そしてやまと御所復興。戦乱を義によって平定するという景虎の志は、このような壮大な形で具体化しはじめていた。

 常人ならば「これらすべてを成し遂げるなんて無理だ」とじ気づくほどの巨大な使命だが、景虎は自らが天から与えられた使命が重ければ重いほど、多ければ多いほど、かえって救われたような晴れやかな気分になれる。「無私」な少女は、己に欠けている「私欲」のために、いくつもの「義」をその心に抱え込まなければならなかったのだ。

 長らく塞ぎがちだった景虎に笑顔が増えたのは、この参内の時からであった。

 お嬢さまの仕事がまた増えそうですと苦笑しつつも、上洛の成功のために心を砕いて奔走してきた直江大和が安堵したことは言うまでもない。

 次の景虎の目的地は、堺と高野山であった。

 が、その堺には、松永弾正久秀がいる。

 

 黄金都市・堺は「会合衆」と呼ばれる商人たちが自治権を持った畿内屈指の中立地帯だが、かねてより貿易を通じて三好家との関係が深く、この頃は三好家当主・三好長慶の片腕とも言うべき姫武将・松永弾正久秀が幅を利かせていた。

 松永久秀はもともと氏素性のまったく知れない堺の女商人で、管領・細川晴元に父親を殺されて四国に追われていた姫武将・三好長慶に乞われて武家に転進したという下克上の象徴とも言うべき存在である。

 三好長慶を畿内の覇者……天下人にすると誓った松永久秀は、足利幕府……将軍・足利義輝と管領・細川晴元を敵に回して、京で摂津で丹波で戦と謀略に明け暮れていた。「相国寺の戦い」では幕府方が陣取る京の相国寺を容赦なく焼いて幕府軍を敗走させた。

 景虎が本来都で謁見するはずだった将軍・足利義輝が近江の朽木谷に逃れていたのも、三好長慶・松永久秀に敗れたからだった。

 その松永久秀が、高野山を訪れる前に堺に立ち寄った長尾景虎一行を館に迎えて、盛大な茶会を開催した。

 むろん、律儀な景虎は断れない。

 足利幕府を容赦なく潰して三好長慶を畿内の女王にするべく暴れ続けている松永久秀は、乱れに乱れた日ノ本の秩序を再生復興しようとしている景虎にとっては、武田晴信や北条氏康以上の悪であり敵ではあったが、松永久秀が礼を尽くして自分たちを茶会に招いた以上は、堂々と会って幕府と天下の安寧について語り合わねばならなかった。

「うふ。わたくしとは真逆の色の真っ白い肌をお持ちのようですね。長尾景虎さま。見た目だけでなく、心に抱いている志も、わたくしとあなたとでは

水と油といったところでしょうか」

 松永久秀は、日ノ本人とは異なる、褐色の肌の持ち主だった。

 長尾方の出席者は、景虎の他に、宇佐美定満、直江大和、柿崎景家の三重臣、そして「礼節が必要な場は俺さまに任せろ!」としゃしゃり出てきた小笠原長時。

「うおおお、すげえ色気たっぷりの美人だあああ! 松永弾正といえば下克上の権化のような稀代きたいの悪女と聞いていたが、見ると聞くとは大違い! 俺さま好みだ! 弾正ちゃん! ぜひ、この俺さまと一夜のねやをともに!」

「あら。お世辞でも嬉しいですわ。天竺てんじくより取り寄せた珍品の茶をどうぞ、小笠原さま」

 目の前に、足利幕府の権威を踏みにじっている者がいる。景虎はずっとぴりぴりしていた。景虎たちは今、敵陣営の真ん中に飛び込んでいるのだ。いつ何時斬り合いになるかもしれないという緊張感は、小笠原が鼻の下を伸ばして騒ぎはじめたために、途切れた。

 宇佐美が「なにが幸いするかわからねえな」と苦笑する。

 松永久秀の側にも数名の出席者がいたが、みな、傀儡くぐつのように表情がなく、発言もしない。景虎の目には誰が誰なのかよくわからなかった。

「松永弾正どの。将軍義輝さまと管領細川さまを、京の都へ戻していただきたい。わたしはそのことをお頼みするために、高野山へ向かう途上で、この堺へ来た……むろん噂の種子島を購入するなどの仕事もあったが、足利幕府と三好家の長い対立を終わらせたいという思いも、あるのだ。都は戦乱によって荒れ果てている」

 景虎が、微笑みながら小笠原に茶をてていた久秀に、本題を切りだした。

「種子島でしたら、今井の家に千金を積めば手に入りますわ。ですが、足利幕府との戦いは、一朝一夕では終わりそうにありませんわね」

「なぜだ。三好家は、細川家の家臣。足利将軍家の陪臣ではないか。将軍家に弓を引いていいわけがない」

「世を乱したのは細川家のほうが先ですのよ、景虎さま。わが主・三好長慶さまは、お父上を主君である細川晴元に殺されたのですわ。長慶さまのお父上は、この堺で切腹し、命を落としたのです。しかも細川晴元は直接手を下さずに、本猫寺門徒に一揆いつきを起こさせ、お父上の命を奪わせたのです」

「本猫寺門徒の一揆に……」

「もっとも長慶さまは、本猫寺には恨みはありませんの。なぜならば、勢力を増した本猫寺もまた、細川晴元の策謀によって本山の山科やましなを焼き払われるという憂き目にあったのですわ。しかも、本猫寺と和睦したのちは、こんどは京の都で台頭していた法華宗門徒を焼き討ちするために、叡山の僧兵に京の都を襲撃させた。管領・細川晴元とは、そういう京に巣くう化け物のような男。わたくしの家族もみな、天文法華てんぶんほつけの乱に巻き込まれて死にましたの」

「では……長慶さまと弾正どのは、同じ細川晴元というかたきを持つ者同士ということなのか……」

「そういうことですわね。長慶さまとわたくしとは、二人で一人ですわ。ただ、長慶さまは下克上を恐れるお優しいお方。父親の敵である細川晴元をどうしても殺せないのです。あの者を殺し、長慶さまが名実ともに天下人になれば、畿内の戦乱は収まりましょう。歯がゆいことですわ」

 景虎の父・為景もまた、越中の一揆と戦って命を落としている。

 自分と三好長慶とが実は同じ境遇を持つ姫武将だと知った景虎は、

「お会いしたことはないが、長慶どのには義の心があるのだろう。父の復讐よりも、天下の秩序を壊さずに守り抜くことのほうがたいせつだと、知っておられるのだろう」

 と思わず久秀に訴えかけていた。

「恨みに対して恨みで返していれば、いつまでも戦が続き、世の乱れは終わらない。どこかでこの連鎖を断ち切らなければ、京の都は完全に灰燼かいじんに帰してしまう……都の荒廃はひどいものだった。それに、今の将軍さまは細川と三好の因縁とは無縁のお方のはず。本来ならば長慶どのの家臣である弾正どのこそが、この連鎖を断ち切るべき立場であるはず」

「うふ。長慶さまとあなたとは似ておられるようですわね。心の澄み切った、

かわいいお方。人を憎みきることのできないお方。しかし、家臣たる者は、そのような主君にできぬ汚れ仕事を肩代わりしてこその家臣。あなたに仕える宇佐美さまと直江さまは、どうやらあなたに甘すぎるようですわ」

「弾正どの。個人的な復讐のために、戦を起こし町を焼き民を苦しめていいはずがない。そのような戦には、義がない。戦は、秩序と正義を回復するためにのみ許される必要悪であるべきだ」

「秩序とは、足利幕府のことですか、景虎どの?」

「やまと御所が神権を。足利幕府が王権を。はるか昔から、決まっていることだ。この秩序が応仁の乱によって崩れたことから、日ノ本全土が戦乱の世となったのではないか。信濃では武田晴信が守護の小笠原長時を追い、関東では北条氏康が関東管領の上杉憲政どのを追った。肝心の畿内で、足利将軍と管領に弓を引いて都を破壊しているそなたこそが、この下克上の中心にいると言ってもいい」

「応仁の乱から、何年が経っているとお思いですか、景虎どの? 統治能力を失った名ばかりの足利幕府など、潰してしまったほうが早いとは思いませんこと? あのようなものを中途半端にあがめて生き残らせているからこそ、乱世はいつまでも終わらぬのです。誰かがすべてを焼き尽くして、まっさらにしなければ、新しい秩序は生まれませんわ」

「新しい、秩序?」

「すでに将軍には権威はなく、叡山の僧兵たちは利権を守るために京を襲う私兵と化し、管領は台頭してくる己の家臣や民衆を粛正して自分の権益を守るために好き放題に陰謀を巡らせております。景虎どの。あなたが関東管領を復権させても、将軍を京に呼び戻しても、なにも変わりませんのよ。すでに人々の心は……民の心は、足利幕府から離れきっておりますわ。古き秩序を形ばかり再興すれば世の乱れが収まるというあなたのお考えは、あまりにも甘く、幼い。それは、武家の考え方ですわ」

「武家の……」

「わたくしは商人の考え方をいたします。新しき秩序を作る力とは経済であり、銭ですわ。それ故に、堺を抑えておりますの。わが主・長慶さまを天下人の座に据えて新しい世を切り開くためには、古き亡霊の如き将軍家と管領家は、潰してしまわなければ……その仕事は、お優しい長慶さまには不可能。いずれわたくしが、長慶さまにお仕えする家臣として、きっとやり遂げてみせましょう」

 経済こそが民の暮らしを安定させるために必要なものであることは、景虎も理解していた。

 景虎が民を搾取することなく大義の戦を続けることができるのも、越後長尾家に青苧あおそ交易による莫大な富があるからなのだ。

 しかし、銭は人の飢えを満たし命を与えてくれるが、銭だけでは人の心は癒やされず、救われることはない。だからこそ、本猫寺をはじめとする幾多の新興教団に、心の安寧を求めて人々が殺到するのだ。

 久秀が都の秩序を燃やし尽くした後、久秀がそのような人々を救うための新たな秩序を作ることができるとは、景虎には思えなかったし、久秀自身も自分にはそのような構想はないと知っているようだった。

「わたくしには慈悲心、信仰心、神への畏れがありません。そこはしかし、わが主・長慶さまの領分。わたくしが古き秩序を壊し尽くしたあかつきには、長慶さまが新しき秩序を生みだしてくださいますでしょう」

「三好長慶どのがわたしと似た姫武将なのであれば、それはできない。自分の家臣が幕府をないがしろにして主筋しゆうすじを殺したりすれば、自分は下克上を為してしまったと戸惑い、苦しむだけだと思う……わたしならば、苦しむ。わたしを支えてくれる忠臣の中には、わたしに謀反した家臣を討てと薦めてくる者もいるが、わたしにはとてもできない……」

「義理堅く、正義感に溢れたお方ですこと。わたくしが直江津の商人であれば、おそらくわたくしはあなたにお仕えしていたことでしょう。宇佐美さまと直江さまほど、甘くはありませんわよ。わたくしがあなたの家臣となれば、まずは獅子身中の虫である長尾政景を毒殺いたしますわ。あの者は、長尾家の分家筋にて、あなたの姉婿。しかも今この隙をついて春日山城を奪い取っ

てしまいかねない野心家ですもの。うふ」

 直江大和が、松永久秀を思わずにらみつけていた。

「われらがお嬢さまは、姉婿を暗殺するような非道の真似はいたしません。わたくしがどれほど勧めても……ならば家臣たるわたくしたちは、ぎりぎりまでお嬢さまのご意志を尊重するのみ。弾正どの。あなたは僭越せんえつすぎる。主君と家臣との区別が、ついておりません」

 まるで久秀に自分の腹のうちをすべて見透かされているかのような不快感を、直江は覚えていた。

「直江さま。野心を抱いた同族こそが、家を乱すのです。長尾政景を殺さねば越後は必ずや乱れましょう。景虎さまがこうして畿内へ上洛している隙に、きっと足下の越後で謀反が起こりますよ」

「起こりますか? 長尾政景はそこまで愚かではありません。誇り高く扱いづらい者ではありますが、お嬢さまに戦で敗れて以来、己の分をわきまえております」

「政景ではなく、他の者が、武田晴信に調略されますわ」

「……武田晴信に……」

「わたくしの目と耳は遠くまで効きますのよ。晴信は、北陸の一揆衆ともよしみを通じている様子。先の川中島の合戦で越軍の強さを知った晴信は、これからはからめ手を用います。越中一揆と、越後武将の謀反。越後を内と外から締め上げるおつもりでしょう」

 直江大和は(軒猿たちが越後諸将を監視してはいるが……武田にも真田忍群がいる。監視の目をすり抜けることは可能だ)と唇をんでいた。自分が、宇佐美定満以上に悪辣な越後一の策士だという自負はあった。だが、松永久秀の目には、そんな彼も赤子同然に見えるらしい。それほどに遠くの国の情報まで自在に手に入れるとは、如何なる忍びを用いているのだろうか。

「景虎さまの武をもってすれば、謀反の鎮圧など容易いことでしょう。ですが――長尾政景が許され続ける限り、謀反劇は終わりません。長慶さまが細川晴元を殺さねば、畿内の戦いが終わらぬのと同じです。禍根かこんは、家臣たる者が、主命に逆らってその手を汚してでも断たねばなりません」

 あなた方も何年か京の都であの化け物どもと戦っていれば、必ずわかります。越後や信濃や関東のような田舎の武家たちはみな、荒々しいけれども純朴ですわ。畿内の……とりわけ京の権力者どもはまるで違いますのよ、彼らは一種の妖怪なのですよ、義だの慈悲だの神への信仰だのといった美しいものをすべて飲み込んで己のために利用し、捨てる。それが京にかれた化け物どもの能力です、と久秀は怪しく笑った。

 かごに入れていた虫が、鳴いた。

 久秀が飼っている鈴虫だった。

「この鈴虫、三年ほど生きております。わたくし、長寿の法を探し求めておりますの。五十年しかない命が五百年に延長されれば、人間の心ももっとましなものになるのではないかしら。黒い憎しみに取りつかれているわたくしも、父上の仇討ちと主家への忠義心との間で悩まれ続けている長慶さまも……」

 ああ。極悪人と噂されている松永久秀の心もまた、飢えかわいている。わたしに弾正どのの心を癒やすことはできるのだろうか。景虎は、武田晴信の面影をなぜか年の離れた久秀の中に、見出していた。権謀術数を用いることを躊躇ためらわず、己の手を汚し、悪人という評判をものともせずに己の野望のために突き進む姫武将。しかしその心の中には、なにか大きな穴が、開いている。その穴を埋めるために、戦い続けねばならないのだ。景虎には、それが永遠に終わることのない堂々巡りのように思われて、悲しかった。それでもまだ、武田晴信には家族がいる。松永久秀には、その家族すらいないのだ。もしも主君の三好長慶が死んでしまったら、久秀はどうなってしまうのだろうか、と景虎は久秀の心身を案じていた。もう、久秀を悪人として成敗する意志は、なくなっていた。ただ、旧怨を水に流して、流浪の将軍・足利義輝と和解してほしかった。三好松永と管領・細川晴元の争いは、やはり、幼くして名ばかりの将軍職を継いだ義輝自身にはなんの責任もない話なのだ。

「細川晴元の息の根を止めるには、あの者に荷担する丹波の国人どもを押さえ込まねばなりません。わたくしはしばらく、丹波平定のために奔走することになりますわね。長慶さまもわたくしも婿を取って子を産むような時間がありませんの。三好家にはいくらでも養子にとれる子供がいますし、わたくしも義弟を迎えて家の体裁は整えていますけれど、景虎さまは生涯不犯ふぼんを誓われているとか。ですが……恋のひとつも経験せねば、あなたが追い求めている理想のあなた、長尾景虎の完成形を見ることはできないでしょうね。せっかく堺に来られたのですから、風流な恋を経験しておくのも一興ですわ」

「弾正どの。オレたち家臣団も、景虎には婿取りを勧めてはいるんだぜ。関東に信濃にと義戦を続けている今は無理だが、やがて落ち着けば」

「うふ。越後には姫武将の伝統がございませんでしょう? 女であることと戦国武将として生きることとの両立は、まことに難しいもの。しかも、敵を許し城を奪わぬ義戦などを貫いていては……武田晴信や北条氏康との戦いは終わることがないでしょう。その『やがて落ち着く』時が景虎さまに来るとは思えませんのよ、宇佐美さま」

「ああ、困難だ。だが、あんたみてえに下克上を生きがいとするような姫武将には、景虎はなりたくてもなれねえよ。景虎は復讐のために姫武将になったんじゃねえんだからよ」

「花が散るのはあっという間。とりわけ景虎さまは失礼ながらご短命なお方とお見受けいたしますわ。わたくしが飼っている鈴虫のように、命と若さを延長するおつもりが景虎さまにあるならば、薬をお譲りいたしますけれども」

「……命を延ばす、薬か……」

 もういい、宇佐美。あやかしの薬など要らぬ。恋など「源氏物語」を読んでいればそれでいい、と景虎は答えていた。

「新しい世の秩序も持たぬ者が、今の世の秩序を壊してもいいという道理はない。弾正どの。それではあなたは、この世のすべてを焼き尽くすまで破壊を止めることができなくなる」

「あなたも同じでしょう。長尾景虎さま。男女の愛憎も知らぬ者が、日ノ本の人々のすさんだ心を癒やし救おうなどと。あなたこそ、終わることのない虚しい義戦を止めることができなくなりますわ。不世出の戦の天才でありながら、その生涯を、無為な義戦に浪費してしまうことになりますわよ」

 あなたがそのおつもりになれば、畿内も天下も、いえ、海の外の世界すらも、掌中に収められるほどの戦の才を持ちながら、あなたの人生は孤独と徒労のままに終わってしまいます、それではあまりにも惜しい。あなたほどの美しいお方が――久秀が浮かべた微笑の真の意味を、この時、景虎たちは読み取れないでいた。久秀自身もまた、京の都を舞台に妖怪たちと暗闘を繰り広げてきた、海千山千の妖怪なのだ。


「むう。松永弾正め、まことにあやしい女であったな。景虎さまの茶に毒を入れられるのではないかと冷や冷やものだったが、畿内で覇権を争っている三好家と、東国戦線で義戦を重ねている長尾家とは水と油のような関係ではあれど直接は敵対してはおらん。毒殺は免れたようじゃ。これも景虎さまへ与えられた御仏のご加護であろう。南無阿弥陀仏なむあみだぶつ!」

 商人町である堺の宿泊先は、京での宿よりもさらにいくつかに分散した。

 宇佐美、直江、柿崎の三家老は同宿となり、景虎は単身で別宿を取った。もっとも、景虎が泊まる屋敷には加藤段蔵を密かに配置してあるので、景虎に暗殺者の魔手が伸びることはないはずだった。

「……堺商人たちは海千山千で、お嬢さまが兵を率いられて戦う武家の合戦よりも、はるかに手厳しいものでした。本猫寺の懐柔も、なかなかに難しい。当主が幼いけんにょどのに交代する時期が迫っているということで本猫寺内部がごたごたしていて、しかも、このけんにょどのがすでに武田晴信と肝胆相照らしているようです。宇佐美さま。あなたも少しは働いてくださいませんか」

 青苧座商売の交渉と、大坂本猫寺との交渉に奔走した直江大和は、珍しく疲れ果てている。

「悪いがオレは叡山と高野山に景虎を登らせる交渉で手一杯だ。どちらも公式には女人禁制だからな。麓までは認められても、頂上までは難しいな。特に、叡山は。そもそも、叡山の根本中堂なんぞに景虎を入れたら、あいつは感極まってそのまま出家しかねない」

「越後の財政を支える商いの主、東国で合戦を戦う武家、敬虔な信仰者、と、お嬢さまはいくつもの世界に興味を抱きすぎです。その上、足利義輝さまや近衛前久さまにも深入りしすぎです。東国と畿内の双方の軍事情勢に同時に首を突っ込むなど不可能ですのに。それなのに、恋愛と祝言とは未だに拒み続けておられます……松永弾正などに心配されるとは」

「あの女はなぜか景虎に好意を抱いてはいるようだが、深情けをかける女だな。かえって面倒なことにならなきゃいいが」

「もう会わなければよいでしょう。これ以上、畿内の政争にお嬢さまを関わらせてはなりません。ただでさえ、越後諸将は分裂しているというのに。関東遠征派も信濃派も、お嬢さまが東国を放りだして長々と畿内に居座り続ければ、いずれ怒りだします」

 数珠を手に念仏を唱えながら、柿崎景家が目を細めた。

 この男は、戦場では野人の如き膂力りよりよくを震う凶暴な殺人鬼と化すが、戦をしていない時には徳の高い禅僧のように物静かになる。

「宇佐美定満と直江大和。そこもとたちは景虎さまにあれもこれもとものを教えすぎ、理想を説きすぎたのだ。景虎さまは、誰よりもお優しきお方故、二人の夢をともに背負い込んでくださったのだ。村上、小笠原、上杉憲政を受け入れたのも、景虎さまのお優しさ故。困窮した将軍さまや関白さまに頼まれれば、否とは言えまい。が、このままでは景虎さまは生涯不犯のまま……それではあまりにもお気の毒。良き殿方があらわれてくれるよう、私は御仏に祈るばかりだ。南無阿弥陀仏」

 お嬢さまの評判を高め、見識を深めていただくために上洛を計画したわたくしが言うのもなんですが、京との関係が必要以上に深まればお嬢さまの仕事と負担を増やすばかりです。少なくとも東国の戦線が片付くまでは、上洛はこれを最後にしたほうがよさそうですねと、直江大和がため息をついた。

「お嬢さまは人が良すぎるのです。慈悲を説いたのはたしかにわたくしですが、人の身体はひとつしかないというのに。東国と畿内で同時に義戦を遂行するなど不可能です。川中島と関東の二正面作戦ですら、無理がありますのに」

「しかし青苧の販路は目論見通りに拡大できそうなのだろう、直江? 武田晴信はすでに先手を打って三条西家や本猫寺を押さえていたが、お前がこうして直接畿内へ乗り込むことで、その豪腕で情勢をひっくり返したはずだ。武田晴信にも、弱点はある。慎重すぎて、自ら少人数のみを率いて強攻上洛するような危険は決して犯さない」

「宇佐美さま。むしろ、お嬢さまの義と武に期待をかけてくださる将軍と関白・近衛さまのほうが問題でしょうね。お嬢さまがあのお二方の要請に応えてしまえば……」

「景虎の戦の才能は、唯一無二のものだ。景虎のいない越後軍は、豪族国人がめいめい好き勝手に集まっただけの烏合うごうの衆。複数戦線は無理がある。川中島での武田晴信との合戦に絞らなければ、景虎の義戦は……松永弾正が言ったように、千日手になるぜ」

 宇佐美も直江も、武田晴信との合戦がこれほど激烈な、そして困難なものになるとは当初は予想していなかった。甲斐信濃という山国に押し込められて海路を持ち得ない武田家には、畿内にまで介入する力はないと思っていた。ところが京と堺に来て、晴信の政治力に舌を巻いたのだ。甲斐にいながらにして、晴信は畿内の情勢を掴み、調べ上げ、長尾家を経済的・軍事的に封じ込めるために先手先手を打っていた。

「景虎を高野山に登らせたら、すぐに越後へ戻ったほうがいいな。国人の謀反は、あるかもしれねえ」

「武田晴信が越後でも蠢動しゆんどうしているということですね、宇佐美さま」

「ああ。松永弾正は、なにかを掴んでいるのかもしれない」

 松永久秀にはたしかに、景虎への殺意はなかった。むしろ、清廉可憐な景虎に「あなたの澄みすぎた夢は成就することはない」と忠告しつつも、自分とは好対照すぎる景虎に好意を抱いたらしい。武田晴信が景虎を憎みきれず、むしろ惹かれているのと、同じである。

 だが松永久秀の稀代の悪女らしい「深情け」癖は、宇佐美と直江の想像の上を行った。

 深夜。商家の個室で眠りに落ちつつあった景虎のもとに、密かにい寄る者がいた――。

 元信濃守護の、小笠原長時であった。

 松永久秀は、小笠原長時の茶に、一服盛っていたのである。その薬は、毒ではない。ただ、小笠原長時の理性を吹き飛ばし、押さえ込まれている欲望を解放する類いの麻薬だった。

 もともと景虎を「絶世の美少女」と萌え狂っていた小笠原がこれまで自分を律していたのは、景虎の寝込みなどを襲ってもしも拒まれれば越後に留まれなくなり、逃げだす他はなくなるからだった。

 越後諸将は「景虎さまは五年間、操を守られる」「誰が景虎さまの婿となるかは、その五年間というみそぎの期間が過ぎた時に決まる」「抜け駆けする者は許さぬ」と、景虎争奪戦について一種の不戦協定を築いている。自分こそが勝者になると信じて疑わない長尾政景が、諸将に睨みを利かせているのだ。長年景虎に恋し続けている政景をこの件で切れさせれば、政景は確実にその者を殺すために挙兵するだろう。景虎が止めても、収まるまい。そうなれば、もはや越後にはいられなくなるのだ。

 さて、領地も兵も失いほとんど身ひとつで越後に寄宿している小笠原長時。

 いくら稀代の女好きであろうとも、景虎の寝込みを襲う危険を冒すことは不可能なはずだった。

 だが――。

「むほおおおお! 弾正ちゃん家での茶会のあと、なぜか全身が火照ってもはや辛抱たまらん! もう、信濃に戻れなくなっても構うものかーっ! やはり景虎ちゃんは俺さまの女になるべきなのだ。高野山なんぞに登られてしまったらもう口説けなくなる。今宵こよい、一世一代の夜襲をかけてやるぜえええ! ぐふふふ!」

 常に長時の暴走を止めてきた家老の爺を越後に残してきたことも、仇となった。

 そんな旅先で一服盛られ、さらには松永久秀から、密かに、

(越後では諸将が信濃派と関東派でめているとか。もしも越後を追われることとなりましたら、三好家に駆け込まれますよう。わが主・長慶さまはまもなく天下人となられます。わたくしは細川晴元を討った後、長慶さまを将軍に押し立てて三好幕府を開かせるつもりです。しかしながら、四国の三好家の武将は荒くれ者が多いのです。礼法を極められた小笠原流継承者はきっと歓待されますわよ。うふ)

 と口頭で「亡命先の保証」をもらっていた。

 むろん、すべてが「長尾景虎がこのまま生涯不犯を貫くのは不憫ふびん、恋を知らしめてあげたい」という余計な深情けを景虎にかけてきた松永久秀の企みなのであるが――。

 茶会の席で、景虎の恋の相手として小笠原長時を選んだのは、明らかに簡単に暴走させられる男だったからである。直江大和と宇佐美定満の二人は明らかに景虎を「女」ではなく自分の「娘」として愛していたし、それに茶に一服盛られればすぐに見破る用心深さと知力を持っていた。柿崎景家は一服盛られても「邪念よ去れ! 南無阿弥陀仏!」と気合いで耐えきってしまう堅物だった。

 景虎ちゃんを俺さまのものに! という欲望を抑えることなく悶々もんもんとしていた小笠原長時が、最適だったのだ。

 むろん、小笠原長時は浮気癖が酷くて景虎の生涯の伴侶などにはなり得ぬ男ではあるが、いちど恋を覚えればもう殿方を拒む必要もなくなる。いずれは運命の殿方に出会うことになるでしょう、と久秀は景虎のために計らったのである――まことに、余計な計らいではあったが。

 春日山でたいせつに育てられてきた景虎は、寝込みなど襲われたことがない。

 旅の疲れもあって、寝室ですやすやと眠っていた。

 小笠原長時は長い犬歯をき出しにして「ぐふふふふ。景虎ちゃ~ん! いっただっきま~す!」と眠っている景虎めがけて「ぴょん」と飛び上がり、文字通り突撃した――。

 しかし。

「フフフ。あっけなく妖婦にはかられて正体を現したな、小笠原よ。もっとも、うぬは最初から正直者であったがな。貴様のような裏表のない者は俺は嫌いではない。が、任務は任務よ」

 景虎ちゃ~ん! と宙を舞っていた長時めがけて手裏剣が飛んできた。長時は「うおっ!?」と脇差しを抜き放ち、手裏剣をかろうじてぎ払った。

 この動作のために空中でバランスを崩した長時の身体は、障子を突き破って部屋から飛びだしていた。

 熟睡している景虎の身体の上にのしかかるという長時の野望は、ついえた。

 庭先に転がり落ちながら、

「ぐおおおおお! 誰だてめえええええ! 俺さまの邪魔をするんじゃねえええ! ブチ殺すぞ!」

 とえた。

 暗い室内から、音もなく「鳶加藤とびかとう」こと加藤段蔵が長時のもとへと駆けてくる。

 まるで蜘蛛くものように細長い手足の持ち主だった。

 ケッ。俺さまとは比べものにならねえ醜男ぶおとこだ、と長時は毒づきながら、脇差しを加藤段蔵めがけて投げつけ、太刀を手にしていた。

「てめー、忍者か! 景虎ちゃんをさらいに来たのか! 俺さまが成敗してくれる!」

「馬鹿者め。俺は景虎の護衛役だ。松永弾正の勢力圏であるこの堺で、宇佐美と直江が、景虎を一人きりにするはずがなかろう。貴様が突撃してくるとは思っていなかったようだがな」

 長時が振り下ろした鋭い太刀は、段蔵の胴体を捕らえたはずだった。

 しかし、実際には空を切っている――。

 段蔵の跳躍力は、異常だった。

 気づけば、段蔵は長時の頭上を奪っていた。

「鳶ノ術」を用いているのである。

 ゲッ! なんだこの化け物は。俺さまの豪腕が通じねえ! と長時は焦った。

「ちょっと待ったーっ! おい、醜男忍者! 俺さまと組もう!」

「醜男という言葉は、山本勘助にこそ相応しい。俺は、異形なだけよ」

「まあ待て! てめーもそんな異形の持ち主では、美しい景虎ちゃんに横恋慕している哀れな男に違いない! 任務なんて捨てちまえ、二人で協力して景虎ちゃんを宇佐美と直江のボンクラどもから奪い取ってどこか山の中にでも隠しちまおうぜ! 越後じゃあ攫う機会はねえ。景虎ちゃんが堺まで出張っている今しか機会はねえぞ!」

「黙れ。俺がその気になれば、貴様などの手を借りずとも、独りで景虎を攫う。だが今はまだその時ではない。景虎自身が武家を捨てると音を上げた時こそが、その時よ」

「だああああ! いつの話だ、それは! そんな時をいつまでも待っていられるかあああああ! 人生は短いんだ、絶世の美少女も時を経れば劣化する! それでは景虎ちゃんがかわいそうだ! 今この瞬間に、俺さまは俺さまの心の命ずるままに愛を貫くのだあああああ!」

 加藤段蔵は、「凄まじい女人への執念だ。信濃はあっさり捨てたが、女に関しては絶対にへこたれぬな、こやつは」と舌打ちしながら、

「仕方がない。殺すか」

 とつぶやくと、宙から長時めがけて、急降下した。

 畜生! こんなもん、人間の動きじゃねー! 空を飛ぶ敵を斬る剣法なんぞ俺さまは知らねーぞ! と吼えながら、長時がなおも「天下一の美少女を目の前にしながら、絶対に退か~ん!」と太刀を振りあげて段蔵と雌雄を決しようとしたその時。


「やめろ、加藤段蔵! その者には、わたしへの殺意などない。殺してはならない! この宿から追い出せば、それでよい!」


段蔵の身体は突然浮遊力を失って、庭園の池へと落ちていた。

この喧噪けんそうで目覚めた景虎が、眼力を用いて段蔵の術の力を奪ったのだ。

「……む……景虎め。相変わらず、甘いことを……」

 長時は、

「おおお! 景虎ちゃん、俺を助けてくれたのか! ということは、俺さまの求愛が通じたのだな! さあ、夢のような愛欲の一夜を俺さまと! この小笠原長時が景虎ちゃんに男の味を教えてやろう、がはははは!」

 高笑いしながら景虎へ迫ったが、景虎が突き出して来たてのひらに「ぽん」と腹を押されると同時に、凄まじい速度ではね飛ばされて池へと落とされていた。

「ギャー!? 気がついたら、すっ飛ばされて……なんじゃ、こりゃあああ?」

「段蔵から教わった合気の術は、すでに会得した。わたしを襲おうなどという悪心は捨てよ、小笠原長時。五年の猶予は方便。わたしは毘沙門天びしやもんてんの化身としての力を保持するために、生涯不犯を誓った身だ。力ずくでわたしを奪おうなど、無駄だ。せめて言葉でも尽くせ」

 言葉なんぞ尽くしている暇があるかーっ! と長時はずぶ濡れになりながら吼えた。

「だ、だが、景虎ちゃんは強すぎる! なんだ、今の術は? 誰がどんな攻撃をかましても、まるまる弾き飛ばしちまうというのか!? そうだ、種子島なら……いや、それじゃ景虎ちゃんの美しい身体に傷が! それじゃ意味ねえ! だーっ! 千日手だーっ! ああ……天は俺さまにこれほどの美少女を見せておきながら、指一本触れさせてもくれねえというのか! こんな不条理があるかーっ! せめて唇だけでも……畜生、呪われろーっ! 天も地

も裂けろーっ!」

「……段蔵……薬でも飲んでいるのか、この男は? 言動もおかしいが、目つきが妙だ」

酩酊めいていして本音を漏らしているのだ。この男は、決して諦めぬ上に、欲しいと思った女を手に入れるためならば死をもいとわぬ。殺しておいたほうがいい。放逐すれば、失敗しても殺されぬと知った越後の男どもが、うぬを狙って夜這いをかけるようになるかもしれぬぞ」

 加藤段蔵が長時の背後を取って首筋にクナイを突きつけたが、景虎は、

「ならぬ。不要な殺生だ。殺生を避けられぬ場所は、人の命を奪わねば生き延びられぬ戦場のみ。小笠原長時は、解き放て」

 と、認めなかった。

「甘いぞ景虎。そのような情けをこやつにかければ、次はこの俺がうぬの寝込みを襲うやもしれんぞ」

「そなたの鳶ノ術は、わたしの眼力で封じてしまえるのだろう。ならば、そなたはわたしに対して、なにもできぬ」

「フン……力押しではうぬは誰にも落とせぬな。行け、小笠原。おおかた貴様は松永弾正に一服盛られて踊らされたのだ。景虎が情けをかけても、直江大和がこの件を知れば貴様を見逃すまい。明らかにのちのちの面倒の種になるからな。今すぐに松永弾正の屋敷に駆け込めば、命だけは助かる」

「な、直江か。あいつはそういう男だな……ちっ! しかし後悔はねえ! 信濃よりも景虎ちゃんのほうが俺さまにはだいじだーっ! 信濃なんぞは景虎ちゃんにくれてやる! 今宵俺さまと祝言を挙げれば、もれなく信濃守護職がついてくるぜ景虎ちゃん!」

「断る」

「ぐわあ、即答か!」

 小笠原長時は「くっそー! 景虎ちゃんの護身の術、必ず破る! 修行を重ねてきっと破ってみせるぜえええ! 俺さまはいずれ景虎ちゃんの武を越える! 生まれてはじめて本気を出す時が来たぜえ! それまで、さらば

だ!」と叫びながら、壁を登って屋敷から逃走していった。

 景虎は、

「……ふう……信濃の守護殿が、長尾家から逐電ちくでんしてしまった……これで、川中島で晴信と戦い続ける大義が半ば失われてしまった」

 と眉を下げながら、

「松永久秀が一服盛って、わたしを襲わせたのか……わたしを滅ぼすためか?」

 と段蔵に問うていた。

「なに。深情けよ。お前が高野山を訪ねれば、発心して出家しかねぬ。出家まで行かずとも、生涯不犯の思いはますます固まる。それまでに弾正はお前に恋の道を教えたかったのだろう……どうしても高野山へ登るのか?」

「むろんだ。霊山は女人禁制ということは知っているが、せめて途中まででも霊山に登り、高僧たちから教えを請いたい。乱世の民心に慈悲を知らしめ秩序を回復するための義戦を戦わねばならぬというわが心の矛盾。仏道修行によって……とりわけ真言密教の加持祈祷かじきとうによって、乗り越えられるかもしれない」

「真言密教か。フフ。あれもまた、結局は芥子けしという薬物の力による酩酊よ。神仏などどこにもおらぬぞ。毘沙門天はお前の心の中にいるのだ、景虎よ」

「信濃の地底には、地龍がいるのではなかったのか?」

「地龍や海龍は、いわゆる生き物ではない。天地の『気』の流れそのものを、陰陽道おんみようどうで『龍』と呼んでいるだけだ。人格のようなものは、ないのだ。毘沙門天に至っては、自然のうちに生まれでたものですらない。人格を持つ神や仏というものはな、すべて、人間の心が生んだのだ――そのような神仏がいてほしい、己を救ってほしい、という人の心がな」

 そのような迷いからめれば、人はみな小笠原長時のように人に救いを見出すことになる。あれはあれで、乱世の中で迷妄から醒めてある意味悟りを開いた男よ、と段蔵は苦笑していた。

「あれが悟りを開いた人というのであれば、わたしは悟りからは程遠い。毘沙門天が人がこしらえた観念にすぎぬとしても、それはこの乱世を鎮めるために必要なものだと、わたしは思う」

「さて。どこまで貫けるかな。武田晴信と山本勘助は、野望に憑かれている。しかし野望とはただの我欲ではない。己の心の傷を克服するために、人は野望に憑かれ、己に打ち勝つために戦うのだ。お前がどれほどに義の心を示しても、あの二人は決して折れぬぞ」

 それでもわたしは武田晴信を必ず「父を追放した娘」という苦しみから解放したい。そのためならば、何度でも川中島で戦い、いつかきっとわたしが信じる義こそが晴信にとって必要なものなのだと理解してもらう――景虎はそう答えていた。


 そして――松永久秀が示唆していた通り、謀反は、起きた。

 謀反の主は、懸念されていた長尾政景ではなかった。

 北条きたじよう城(現在の新潟県柏崎市)の城主、北条高広きたじようたかひろが反乱を起こしたのである。ちなみに、すでに述べたがこの北条高広は安芸の毛利氏と同族で、関東小田原の北条ほうじよう氏とは無縁である。

『それがしは景虎さまには個人的な恨みはございませぬが、関東管領と村上・小笠原ども信濃諸将の双方を越後へ受け入れて益なき義戦を繰り返す景虎さまのもとではこれ以上奉公は続けられませぬ。戦には銭がかかるのです。春日山城の財力は無尽蔵に近いとはいえども、われわれ越後国人衆は感状だけでは働けませぬ。なにとぞお考え直しあれ――さもなくば、それがしは武田晴信どののもとへ走りますぞ』

 高野山を訪れ、禅と密教について景虎が学んでいたその時に、北条からの書状が届けられたのである。

 戦の日々から解放されて神仏のもとで修行を重ねるという夢がついに叶い、できることならばあと半年は高野山に留まっていたいと望んでいた景虎は、(まさか、あの知恵者の北条が?)と戸惑い、途方に暮れた。

「以前から、北条が利益なき義戦の連続に不平を抱いていたことは知ってい

た。しかしまさか、武田晴信のもとへ走るなど、できるはずもない。北条城と武田領の間には、政景の坂戸城が挟まっているのだぞ。勝ち目のない反乱だ……」

 書状を景虎へ渡した宇佐美定満は、

「北条は計算高い男。本気でお前に逆らっているのではないだろう。晴信にあおられたのは事実だろうが、この晴信の謀反の誘いに乗ったふりをして、二方面での義戦を繰り返し国人衆を疲弊させるお前のやり方に釘を刺すつもりだ――お前が結局は北条を許すことまで、もう読まれている」

 と景虎に告げた。

「小笠原長時の逐電は、すでに越後に知れ渡っている。もはや信濃で戦う大義はない。戦線を関東に絞れ、そして関東の城を自分によこせ、と北条は言いたいのだろう。それがおそらく、あいつが直江に出してくる降伏条件だ」

「軍議の場で言葉として申せばいいものを、わざわざ謀反など。晴信め……! わたしは霊山で神々に近づく修行をしていたのだ。生まれてはじめて世俗から離れることができた。人の世のけがれから自由になれた気がしていた……それを、このような搦め手で邪魔するとは」

 いっそこのまま高野山に留まってしまいたい、と景虎は言いたかった。が、越後を捨てることはできない。自分を育ててくれた宇佐美定満のためにも。

「景虎。辛いだろうが、すぐに帰国したほうがいい。だが北条をひとたび許せば、また背く。越後一国の統制力を高めるために、北条を処断しろ」

 それはできない、と景虎は首を振った。

「そもそも、それは直江大和の言うことではないか」

「直江は反乱を起こした北条、そして留守を預かる長尾政景との交渉のために、急いで越後へ舞い戻った。もしも魚沼の長尾政景が北条と武田の側に乗れば、北条の謀反は嘘から出た実になる。魚沼から北条、柏崎にかけての中越一帯を武田晴信と北条氏康に奪われるぞ。越後は分断される」

「……政景は謀反などしない。姉上のお子は病で亡くなったが、また新たなお子を授かったそうではないか。政景が抱き続けている越後守護の座への野

心が破裂しそうになっているところを、姉上がつなぎ止めてくださっているのだ……」

 北条を討伐する。が、降伏すれば許す。しかし武田晴信との戦いはやめぬ、と景虎は頬を赤らめて言い放っていた。

「青苧座の件といい、北条謀反の件といい、晴信のやり方はわたしは決して認めない! 川中島で堂々と決戦して、わたしに勝てばそれで済むことではないか! どんな手を用いてでも勝てばよいという晴信のやり方は、不義だ」

「それじゃあ、また川中島へ出兵するつもりか」

「むろんだ。北条を下したあと、再び川中島へ全軍を率いて布陣する。次は、決戦を回避するであろう晴信の耐久策に備え、万全の兵站へいたん線を構築して百日でも二百日でも対戦する! 晴信が決戦に応じるまで、何日でも……!」

「しかし、信濃守護の小笠原長時はもういない。三好家にはしっちまった」

「大義名分ならば、ある。村上義清たち信濃諸将は、なお越後にいる。彼らの失地を奪回する! 小笠原長時とて、晴信を信濃から追い払った後に、丁重に呼び戻せばよい」

「呼び戻すって、お前……」

「宇佐美。乱世に義を示すためのわが戦いではなかったのか。武田晴信を捨ておいて、義もなにもない。あの者を捨ておけば、やがては松永久秀のようになってしまう。そうなる前に、わたしが、晴信を止める」

 景虎は、感情の起伏が激しい。とりわけ武田晴信という姫武将に対しては、景虎は過敏だった。同じ、父親の愛情に飢えている姫武将同士として、愛憎半ばしているのだろう。これほど景虎が怒ってしまえばもう、宇佐美にも止められない。

「いよいよ婚期が遠ざかるな、景虎。この上洛で、よい出会いがあればいいと願っていたが」

「宇佐美。わたしは誰にも嫁がぬ。すでに身体が三つあっても足りぬのだ。関東、信濃、畿内、霊山……この上、夫婦生活に割ける身体も時間も、わた

しにはないぞ」

「そうだ。うさちゃんの縫いぐるみをたくさん作って、お前の影武者にしよう!」

「武田晴信や北条氏康が、わたしと縫いぐるみを見間違えるか!」

「女人を知らない高野山の坊主なら、だませるぜ」

「縫いぐるみが座禅を組んで、なにが悟れるというのだ!」

「……悟れるかもしれないのに……」

 北条の旦那。あんたの芝居は藪蛇やぶへびになったぜ、北条城の兵糧はすべて川中島へ提供させられることになるだろうよ、と宇佐美は北条高広のためにも嘆いていた。



 景虎が北条高広の謀反を鎮圧にかかった、その間隙を縫って――。

 駿河、善徳寺。

 東国の三雄とそれぞれの軍師が、この一カ所に集結していた。

「景虎上洛の隙に、魚沼・坂戸城主の長尾政景を調略することができれば、越後を分裂させることができるはずだった。しかし、政景は予想に反して動かなかった。北条高広もまた本気で景虎と戦うつもりはない――あたしと勘助は何度も話し合ったが、やはり川中島で次こそ景虎と雌雄を決する他はない」

「左様。この三国同盟が成立すれば、武田は東海道筋への道を失いまする。しかしながら、長尾景虎と長尾政景率いる越軍を押し返すこと、容易ではありませぬ。両者の離間がならぬならば、越軍決戦し、直江津へと抜けて北の海に出る他はなし……と、御屋形さまはご決断なさいました」

 武田晴信と、山本勘助。

 二人にとって景虎の上洛は、川中島での合戦を行わずに越後に勝つ乾坤一擲けんこんいつてきの好機だった。景虎が上洛して越後を不在としている隙に、勘助は越後国

主の座を景虎と奪い合ってきた野望の男・長尾政景に「離間の策」をかけたが、乗ってきた者は北条高広だけだった。

 長尾政景は、

「フン。俺と景虎との戦いは、俺自身の戦いだ。武田などの手は借りん。他家の力などに頼った瞬間に、俺は景虎に敗れることになるのだ。貴様らには理解できんだろうがな」

 と、調略の使者をすげなく追い返したという。

 北条高広についても、

「信州と関東の二正面作戦に続いて、京の将軍家の走狗そうくとされてしまえば、景虎さまは身体がいくつあっても足りぬ。この上、高野山へ近づけるのはまずい……あのお方は、元来、乱世の民の心を救う宗教者として生まれついたお方。修羅の如き戦国武将をやめて霊山にもり、神々との交信に没頭しかねない。それでは、それがしども越後の国人衆は主を失い、越後は危うくなろう。それがしにとっては大損」

 と、武田への寝返りを口実として、景虎を高野山から越後へと呼び戻すために反乱の誘いに乗ったにすぎなかった。

 事実、上洛以後、越後での姫武将としての厳しい戦いの日々から解放されて高野山で真言密教と禅を学んでいた景虎は急遽越後へと舞い戻り、「武田晴信は許しがたし」と川中島への長期遠征の準備をはじめているという。

 勘助にとっては、藪をつついて蛇、という結果となっていた。

 次の川中島決戦は、景虎が上洛を控えていたために水入りとなった前回とは違う。

 どれほどの時間とどれほどの犠牲を払わねばならないか、軍師・勘助にも見当がつかなかった。

 ただ……東海道侵略という武田の悲願とも言える大目標を一時的に凍結してでも、北条氏康、今川義元との「三国同盟」を成立させなければ、武田は越軍には勝てない。

 主従の意見は、ここに一致したのだった。

 駿河に寄食している父・武田信虎が、「川中島などどうでもよい。このわしの存在など無視して、駿河を盗ってしまえばよかったものを。晴信め、臆病にも程がある」と愚痴りながらも太原雪斎たいげんせつさいと山本勘助の間に立って交渉の取り次ぎを務め、ついにはこの善徳寺で三国同盟の締結が行われることとなったのである。

「わが北条家としても、魚沼の長尾政景が勘助の調略に動じなかったことは想定外だったわ。魚沼を長尾が押さえている限り、景虎はいずれ必ず関東管領・上杉憲政を押し立てて関東に遠征してくるはず。上洛したことによって、あの女の義だの秩序だの権威の復興だのといった時代遅れで的外れな夢とやらはますます大きく膨らんでいることでしょうから……景虎が川中島で晴信と死闘を繰り広げてくれると、私は助かるのよ。関東の支配を固めていく時間が手に入るもの」

 景虎の関東遠征に怯える北条氏康は、一も二もなくこの誘いに乗った。年齢不詳の軍師・北条幻庵とともに、善徳寺にいそいそと乗り込んできている。関東管領を越後へ追い払ったとはいえ、広大な関東にはまだまだ、北条に従わない敵は多い。里見、佐竹らとの抗争は激しさを増す一方だった。

 越後と関東の狭間・魚沼を押さえる長尾政景が景虎から離反すれば、景虎の関東遠征は立ち消えになるはずだった。

 しかし、政景は誰に調略されるつもりもないという。

 景虎と決戦に及ぶ時が来るとしても、それは政景自身が独力で蜂起して勝たねばならない決戦であり、ましてや景虎が越後を留守にしている隙に泥棒のように盗み取るような卑劣な勝利では意味がない――政景はそう思い定めているらしい。北条氏康もまた、何度も政景に調略の手を伸ばしていたが、景虎が遠く高野山に去っているこの好機に政景が立ち上がらないことを知ると、ついに調略を諦めたのだった。

「ふぉっふぉっふぉっ。政景とやらは、どうも景虎に惚れ込んでおるようじゃのう。景虎の武に対して己の武で勝てねば、勝ちとは言えぬ、と信じておる。景虎率いる越軍と正面から激突しても勝ち目なしと、謀略に走るうち

の姫とは大違い。あの者、悪人ではあるが、好漢じゃな」

 北条幻庵が笑った。

「おばば。余計な茶々を入れないで頂戴。留守を預けている妹の氏政が心配だわ……どうしてあの子は、ご飯に何度も汁をかけるのよーっ!? いちどで済ませなさいよ、いちどで! もしも私が胃病で倒れたら、氏政が小田原城主に。それでは北条は危ういわ! なんとしても、私が元気な今のうちに三国同盟を!」

「おやおや。景虎が越後へ舞い戻ってきたことで、いよいよ余裕がなくなってきたのう、姫も」

「……政景が越後を乗っ取れば、神がかりの景虎はそのまま高野山で出家して二度と戦の世界に戻ってこないと思ったのに……かえって闘志満々になっちゃったじゃないのよ。勘助、晴信! あなたたちが無能だから、藪蛇になったのよー!」

「あいや。それがし一人の責任にござりまする! 御屋形さまは決して、空き巣泥棒を企んだわけでは。むしろ……このまま景虎どのが高野山で得度し悟りを開けば、御屋形さまにとっては無念なれど、景虎どのにとっても民衆にとっても、それはそれで良きことであろうと……」

「よく言うわね! 太原雪斎! すでに約定は完成しているわ。あとは、三人の姫大名がそれぞれ花押かおうを書き入れるだけよ。確認しなさい」

 御意、と今川義元の宰相を務める太原雪斎が微笑んでいた。

 この同盟で得をする者は、ありていに言えば、今川義元ただ一人なのである。北条・武田との不戦同盟が成立すれば、三河の松平家を飲み込んだ今川義元はいよいよ尾張の暴れ虎・織田信秀との決戦に全力を注ぐことができる――東海道の要を塞いでいる織田信秀さえ倒せば、あとは上洛あるのみなのだ。

 川中島で景虎と決戦をはじめねばならない武田晴信は、駿河進出を断念することになる。晴信と勘助は、野望のためならばなんでもやる。いずれ父・武田信虎を亡命させている今川家をも裏切り東海道を求めて南下してくるに

違いないと雪斎は常にこの二人の動きを警戒していたが、長尾景虎の出現がすべてを変えたのだ。あとしばらくは、晴信と勘助は川中島に釘付けにされるだろう。決戦に挑めば、もはや「軍神」とまで呼ばれるようになった景虎に大敗して、命を落とすやもしれなかった。

(晴信どのに死なれてしまっては武田は滅びる。それでは東国が乱れ、かえって困るが……武田の軍師・勘助どのが川中島で倒れてくれれば、拙僧せつそうとしては好都合)

 関東制覇を目論む北条氏康もまた、その景虎率いる関東管領復興軍といずれは戦わねばならないだろう。組織的でかつ粘り強い武田軍と、神がかりで瞬間的な爆発力を誇る越軍とは、水と油のように噛み合わない。結局のところ晴信には景虎は倒しきれないと先読みしている氏康は、すでに「 」の旗を翻した関東遠征軍の影に怯えていた。

 景虎は上洛の折、やまと御所を参内し、隣国の乱れを鎮めよ、という綸旨を頂いている。関白・近衛前久にも痛く気に入られているという。

 この、近衛前久が実質的に作成して景虎に渡した綸旨の文面が問題だった。そう。「隣国」とは、「信濃」だけではなく「関東」をも含んでいるのだ。むしろ近衛は、関東管領が事実上失われた関東をこそ、景虎の武によって鎮圧させ、やまと御所と足利幕府を強力に支える東国の兵站基地と為したいらしい。さすれば、三好松永のやからと戦い勝つことも可能だ、と踏んでいるのだろう。それにひきかえ信濃・川中島は、広大な関東の平野と比べれば、あまりにも狭すぎる。

(北条氏康どのは利口すぎる。しかも、悪しき未来ばかりを想定して、負けを前提に戦略を組み立てるお方。こたびは近衛前久の「関東遠征」の意図を汲み取って、守りを固めるために先走ったのだ。ここに、今川が上洛する機会が訪れた。長尾景虎は今川家にとって福の神やもしれぬ)

 晴信どのか氏康どのが直接上洛して御所と幕府に対して政治工作をしておれば、情勢はまるきり変わったであろうが、もっともまつりごとに興味を持たない景虎どのが真っ先に上洛を果たすとは……いやはや。軍師の性格とい

うものが表れておるのだろう、越後には宇佐美と直江という二人の軍師がはべっている。その分、景虎どのの政治感覚のなさは十二分以上に補われているのだ……と、雪斎は苦笑していた。

 来たるべき織田信秀との尾張決戦の戦略を思い描きながら。

(東尾張を調略によって徐々に奪い取ってしまえば、あとは沓掛くつかけから熱田あつたへと至る道を如何いかがするかが最大の課題となるだろう。熱田まで盗れれば、あとは平坦な尾張平野が続くのみ。簡単に奪える。織田はせいぜい、奇襲に賭けるくらいしか策がないはず)

 三国同盟が成立した以上、あと二年、いやあと一年で、今川は上洛軍を興すことはできる。尾張を盗れば、将軍を庇護ひごしている近江の六角ろつかくと同盟を組んで、東海道を突き進み都に義元さまを入れることができる。京の都に義元を連れ帰り、日ノ本史上もっとも艶やかな「女王」として光り輝かせるという雪斎の夢までは、あと一歩だった。

「太原雪斎。ずいぶんと嬉しそうに酒をめるのね。あなたももう高齢なんだから、酒には注意したほうがいいわよ」

 北条氏康が、嫌みを言ってきた。

 老境の雪斎には、しかし、氏康のそんな小娘らしい嫌みも愛らしく聞こえる。

「たしかに。目出度めでたき場故、つい酒が進んでしまいますな。義元さま。これでもう北条も武田も、今川領へは侵攻してきませぬ。われらはついに、堂々の上洛軍を率いて尾張を併呑へいどんする大詰めの戦をはじめられますぞ。天下は、義元さまのものに」

 と目に涙を浮かべながらうなずいていた。

「ほ、ほ、ほ。雪斎さんが京に戻るのは、久方ぶりですわねえ。これまで、雪斎さんには苦労をかけてきましたわね。わらわは……今川家の後継者争い以来、京に隠れなき名僧である雪斎さんに、戦の采配から外交、内政、謀略に至るまで、あらゆる雑事を押しつけてきましたもの。上洛を果たせば、今川家は新たな管領職に。ようやく、雪斎さんに楽隠居していただける日が、

迫ってきたのですわね」

 ますます派手な美人に成長していた今川義元は、「天晴れ」の扇子を広げて高笑いしていた。

「いえ、義元さま。京には妖怪が多数住み着いておりますれば、将軍・足利義輝さまの身になにが起こるかもわかりませぬ。われらの上洛軍が迫ってくれば、焦った三好松永らが将軍をしいするという可能性すらございます」

「あらまあ。いくら松永さんが稀代の悪女でも、まさか?」

「そうなった場合は、将軍職任官をも視野に入れて参りましょう。足利が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ。それが、将軍職の順番にございますれば――」

 吉良家は三河に割拠していた名門中の名門であり、今川以上の高家だった。かねてより義元将軍宣下せんげの可能性を探っていた雪斎はその吉良家をすでに今川家内に取り込み、吉良家の姫武将・吉良義安きらよしやすを人質としている。吉良義安はいまや、松平元康の髪切り係だ。

「しょせん甲斐の猿源氏・晴信さんには将軍位を継ぐ順番は回ってきませんものねえ、おかわいそうに。氏康さんに至っては、伊勢氏ですものねえ……しょっぱい家柄ですこと」

「この女は! 私は関東にしか興味がないから、どうでもいいわよ! 上洛して畿内を支配したいのなら、勝手にすればいいわ。その代わり、関東は北条のものよ!」

「ええ、ええ。よろしいですわよ氏康さん。わらわは太っ腹ですもの。京で風流暮らしができるならば、東国はあなたにお任せいたしますわ」

「北条による関東平定はいずれ達成されましょうな。景虎どのの唱える関東管領復興など、絵に描いた餅。しかしながら晴信どのは、果たして越後へと出られますかな。拙僧、それだけが心配の種でして。川中島を抜いて直江津・春日山城へと至る北上の道は、距離的には近くとも、あまりに分厚い壁のように思えますれば」

 やはり北上は無理だった、駿河を奪って東海道へ出るほうが楽だ、と晴信

どのの気が変わられると今川家にとっては一大事、おちおち上洛軍も興せませぬ、と雪斎が勘助を睨みながら切りだした。

「雪斎どの。それがしと御屋形さまが、いずれ今川を裏切ると?」

「景虎どの上洛の隙をついて調略をかけ、また自らの父親を駿河へ追放する主従ですからな。まさに『兵は奇道』を地で行くお方たち。あなた方は、今川の上洛を助けるために川中島で貴重な時間と兵力を潰している己の境遇に見切りをつければ、三国同盟の一方的な破棄をも、やりかねませぬ――拙僧に言わせれば、景虎など本気で相手にせず『村上義清どのに城を戻しましょう』と適当にあしらっておけばよかったものを、むざむざ自分たちから景虎との戦いに首を突っ込んでいっているように思えますが」

「あいや。駿河には、その御屋形さまのお父上・信虎さまがおられます。妹の定さまも、義妹として駿河に。武田が駿河を攻めることはありませぬ」

「しかし定どのはすでに病で亡くなられた。信虎さまは、いつ何時駿河国内であなた方と歩調を合わせて反乱軍を興すかもしれぬ危険なお方。やはり……こたびは武田家と今川家との間で、婚姻が必要になりましょうな。が、われらが姫も晴信さまもともに姫大名なれば、大名同士の婚姻は不可能」

「ですが、次郎信繁さまは御屋形さまのもとを決して離れぬと。次郎さまを駿河に嫁に送ること、できませぬ。末の妹ぎみ・信廉さまも同じこと」

「承知しております。姉とともに、父親を追放した妹。よほど晴信さまを慕っておられるのでしょう。こちらより今川家の姫を送りましょう。なにぶん、この同盟でもっとも得をするのはわれら今川家。その程度の誠意は見せましょう」

「以前にも、その話は出ていましたな。独身を守る御屋形さまの弟ぎみ、太郎義信どのに、義元さまの妹ぎみをめとらせる……ということですな」

「その通り。義元さまには、松姫さまという妹がおられます。そろそろ祝言を挙げてもよいお年頃。こちらでは信虎さまを引き続き預かり、そちらには松さまを。これにて、お互いに――」

「――人質を取り合った形となり、不可侵同盟は守られるというわけですな。

雪斎どの」

「左様」

 勘助は、苦渋の表情を浮かべていた。

 太郎義信はたしかに独り身だし、晴信・次郎信繁・孫六信廉の武田姉妹が揃って男性に興味を示さずにいっこうに祝言を挙げようとする気配がない今、そろそろ太郎義信に子が欲しい。武田家の「次世代」を、義信に急いでもうけてほしかった。また、大名の家たるもの、そうでなければならぬ。

 なにより、武田の姫を今川へはやれぬ。晴信が景虎に勝って越後の海へと北上できるかどうかという問題とは別に、武田が上洛するならば東海道を押さえるために今川をいずれ裏切って攻め潰さねばならないのだ。

 しかし、太郎義信は――守り役で姉代わりを務める幼なじみ・飯富兵部おぶひようぶと惹かれ合っているようだった。

 色恋沙汰に鈍い勘助といえども、さすがに、わかる。

 あの二人の互いへの想いは、ただの姉弟という関係を越えたところにある、と。

 晴信は、この土壇場となってもなお、躊躇していた。

 会盟を行う前に、あらかじめ、義信に「今川から嫁を迎えることになるだろう」とは言ってある。義信も、「仕方ねえな。長尾景虎との決戦に敗れれば、武田は滅びる。武田家にとって、のるかそるかって正念場だ」と笑顔で承知していた。飯富兵部も、「べ、別にかまわねーぜ。なんであたしにそんな話をしてくるんだ御屋形さま?」と口では承諾していた。

 だが……。

 武田家を守り生き残らせるためとはいえ――義信と飯富兵部を引き裂いていいものだろうか、と考えすぎる晴信は甲斐から善徳寺への道中、悩み続けていたのだった。

「御屋形さま。お気持ちはわかりますが……今は、三国同盟を成立させねばなりませぬ。景虎と戦うとは、そういうことなのです。政景が調略に乗らなかった以上は、川中島で次こそ雌雄を決せねば、武田は甲斐信濃に閉じ込め

られてしまうのです。よろしいですな」

「……勘助。どうせならば、長尾景虎と同盟を結びたかったな」

「それは無理な話です。景虎どのは、筋目と義を重んじる姫武将。越後と同盟するためには、信虎どのを甲斐へ呼び戻さねばならぬでしょう。むろん、信濃の征服地のすべてを、信濃諸将に返還せよということにもなります。信濃を手放して甲斐一国の国主に逆戻りしてしまえば、甲州の盆地に押し込められてしまった武田はなにもできませぬ」

 景虎さんというお方は浮き世離れしておられますのねえ、と今川義元が扇子をあおぎながら笑った。

「越後は駿河以上の大国だと伺っておりますわ。おそらく、お米も取れず塩すら満足に手に入らない貧しい貧しい甲斐の国がどのような有様なのか、知らないお方なのですわね。おーほほほ」

「ええ。私と義元が塩を止めれば甲斐の領民はみな干上がって飢え死にだものね」

「あら。塩を止めただけで? そうですの、氏康さん?」

「もちろん。山国では塩が取れないのよ。いくら晴信が金堀衆を集めて金山を掘っても、塩がなければ人は生きられないわ」

「まあまあ。想像を絶する未開の地ですのね、甲斐は……晴信さん……あなたほど戦好きで謀略好きで野望に満ちたお方が……駿河かせめて小田原に生まれていれば、今頃は天下人でしたでしょうに。おかわいそうに」

「……貴様ら二人と同盟しなければならないのは、まったくしゃくに障るな! わかった! 越後の海まで北上し、塩の道も米も港も手に入れてやろうじゃないか! 越後が手にしている青苧の利益は、膨大なものだという! 貴様らは、あたしが越後を奪ったその時に、青ざめるのだ!」

 思わず挑発に乗ってしまった。いや、義元は挑発しているのではなく、天然で失礼なだけなのだが。

(しまった。太郎に、どう申し開きすれば……)

 が、太原雪斎が「それでは花押を」と義元に囁き、義元がすらすらと花押

を書き入れてしまった。氏康もすかさず花押を書き込む。

 もはや、後戻りはできない。

「……御屋形さま……申し訳ござらぬ。必ずやこの勘助が、次の川中島決戦にて越軍を打ち破りまする。わが、命にかけても!」

「仕方ない、勘助。甲斐という国が天下盗りに致命的に不利だということは、はじめから承知の上ではないか。景虎に深入りしたあたしの過ちだったのだ……」

「ですが、深入りせずとも、あちらから信濃へ攻め寄せて参ります。義という、形のない観念のために。観念による戦には、利害がない。利害がなければ、戦は終わりませぬ」

「……天はなぜあたしをこの戦国の世に生まれさせておきながら、景虎をも生まれさせたのだろうな……」

 晴信は、決意していた。絶対に、次の一戦で景虎に勝つ。勝てねば、義信と飯富兵部の恋を引き裂いただけに終わる。

 義信と飯富兵部には、あたしから重ねてびる。詫びて、承知してもらう。それでいいな勘助、と晴信は勘助に告げていた。

 それがしが景虎に勝つ策を立てねば! と感極まった山本勘助は、

「……御意。それがしは生涯、独身を貫いて死にましょう。それがせめてもの」

 と涙ぐみながら口走った。お前はもともと大人の女に興味のない変態ではないか、と晴信は半泣きになりながらも思わず愚痴っていた。

「ほう、衆道……」

「あいや。雪斎どの、それは誤解でござる! 幻庵どの、なぜそれがしの手を握ってくるのだ!?」

「おなごをやめてしもうた婆が好みというわけじゃな。勘助どのは、世間的には醜男と言われておるが、人生経験を積んだおばばが見ればそれはもう苦み走ったよい男じゃ。人生の悲哀、喜怒哀楽、煩悩、野望、そのすべてを抱え込んだ隻眼がたまらぬわい。このおばばと一晩をともにせぬか。ふぉっ

ふぉっふぉっ」

「いっ、いやじゃーっ! 絶対に断るーっ! 妖怪退散!」

 三国同盟は、成立した。

 義信の嫁取りという大きな犠牲を武田家に強いることで背後の憂いを断った武田晴信と山本勘助は、目の前に迫っていた長尾景虎との決戦に、すべてを注ぎ込むことになった。

 再び、川中島へ――。

 今川義元は上洛準備を開始し、北条氏康は関八州の平定に乗り出した。

 武田家に与えられた残り時間が、失われていく。

 川中島に封じられたまま、これ以上天の時を逸することは、許されない。

 勘助にとっても、そして晴信にとっても。

 晴信と景虎は――再び川中島で、相まみえることとなった。

 景虎は反乱を起こした北条高広を許し、晴信は今川・北条と甲相駿三国同盟を結び、ともに背後を固めての、総力戦である。

 互いに一歩も退くつもりはない。

 これが、対陣二百日にも及ぶ、前代未聞の長期戦。


「第二回川中島の合戦」である。

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