第10章 LIFE IS MUSIC

 8月に入ると蝉の鳴き声は一層うるさくなっていた。蝉たちはその生命の最期に、自らの生きた証を主張するように、躍起になって声を振り絞っている。駅に向かい歩く。歩道を歩けば、いくつもの固くなった蝉の死骸が転がっていた。歩く視線の前に転がる蝉の死骸を踏んでしまわないように注意を払いながら、慎重に歩みを進めていった。駅に着くと切符を買って電車に乗り難波駅へ向かう。手にはオカザキから貰ったチケットを握りしめていた。

 難波駅の改札を出るとスマートフォンをジーパンのポケットから取り出し、Google Mapで目的の会場を検索した。ミナミの繁華街は人混みでごった返している。その賑わいが僕には蝉の鳴き声よりも鬱陶しく感じる。道行く人と肩がぶつからないように、人混みをすり抜けて歩き続けた。


 目的のライブハウスはすぐに見つかった。ライブの開始時間が迫り、ライブハウスの前には行列ができていた。学校のクラスメイトの女子の姿もあった。ライブハウスの扉が開き、雪崩のような行列に押されながら僕は地下へと続く階段を下りていく。ライブハウスは大勢のファンで満員になっていた。会場の最後尾の壁にもたれるように立って周りを見渡した。壁際にDJブースがある。そこでは最新の洋楽ヒット・ナンバーが流されて、DJが途切れることなく巧みな指先を駆使しレコードを回し続ける。会場中に音楽が大音量で流れていた。ファンは騒がしく何かを話し合っているが、音楽の音にかき消されて聴こえない。そして中央の奥に、フロアよりも一段高くなったステージがあった。

 ステージの手前には大型のアンプが4台並んでいる。ステージの中央にはマイク・スタンドがセットされている。そしてステージ奥の壁際には、要塞のような佇まいのドラムセットが、その存在感を示すように鎮座していた。左手の腕時計を見ると開始時間を過ぎている。

 突如、大音量で会場中に流れていた音楽がピタッと鳴り止んだ。音楽が鳴り止むと会場が静寂に包まれる。一瞬の沈黙があった。会場中にざわめきが起こる。ざわめきは次第に大きくなっていく。緊張が走る。そして沈黙を切り裂く。耳に刺さるようなギター・ノイズが響くと会場からわぁああああ、と大歓声が沸き上がった。その歓声に包まれてギターを手にしたオカザキが、長い髪を振り乱しながらステージ上に現れた。

 会場中のファンが歓喜に沸き上がる。フロアでは、オカザキー、オカザキー、という女性ファンの歓声も聴こえた。オカザキはエレキ・ギターを肩から提げてマイク・スタンドの前に陣取った。オカザキに続きベース・ギターを手に持つメンバーもステージ上に登場し、所定の位置に立つ。それから最後に、ドラムセットの椅子にドラマーが座った。ステージ上に3人が揃った。オカザキがマイクを握る。

「みんな、お待たせ! KURENAIだ~! みんな盛り上がっていけよ~!!」

 オカザキの絶叫に合わせ轟くような歓声に会場中が包まれた。すぐさま地を這うようなドラムが鳴り響き演奏が始まる。重低音の激しいドラムのリズムに観客は身を踊らせる。観客は激しく頭を振った。狂ったように踊る。きゃあああ、と悲鳴にも似た絶叫が聴こえてくる。オカザキはギターを演奏しながら、スタンド・マイクに向かって熱唱し続ける。メロディが会場を包み込む。観客はステージ近くに押し寄せていく。ステージの手前では観客が群がり揉み合いながら首を振り続けている。おい、お前どけよ、しばくぞ、と怒号が飛び交う。

 身を寄せ合いながら、押し合いながら、密集した空間で観客はリズムに乗り首を振り乱す。今にも殴り合いが始まりそうだ。怪我でもしないかと心配になる。蜂の巣を突いたように会場は熱気に溢れている。アンプの上にオカザキが右足を乗せて観客を煽る。サビの部分に差し掛かりオカザキの声は絶叫へと変わっていった。

「空を飛び越えろ~ 空を飛び越えろ~ おら、お前らも歌えよ! COME ON SAY!」

 オカザキがフロアにマイクを向けると

「空を飛び越えろ~ 空を飛び越えろ~」と観客も一斉に歌い出す。会場中のファンが拳を突き上げながら、熱唱する。歌声がひとつの塊となり押し寄せる。会場に一体感が生まれる。会場全体に新しい生命が生まれたように勢いは増していく。ステージの手前ではモッシュ・ピットが巻き起こり、観客の頭上に男性ファンが飛び乗る。上半身裸の男性。ファンの突き上げた手の上を神輿のように運ばれる。男性ファンは観客たちの頭上を渡り、宙を舞いながらフロアの中央まで運ばれて、そこでバランスを崩し背中から落下した。落下した男性は周りの女性ファンからスニーカーで腹を蹴飛ばされ、悶絶しのたうちまわる。転がってきた男性をまた別の女性ファンが蹴りつける。

 天井に向かってペットボトルが投げつけられ、水飛沫がファンの頭に降り注ぐ。会場の至るところで押し合いをしている。女性ファンが押されて吹っ飛ばされる。喧嘩をしているみたいだ。それでもファンは狂ったように踊り続ける。頭を振りながら踊る。手を鳴らせば太鼓を叩き続けるオモチャのように壊れている。首を縦に激しく振り乱す。オカザキが再びマイクを握り歌い続ける。

「空を飛び越えろ~ 空を飛び越えろ~ 今~ 鳥になるのさ~ 夢を掴むた~め~ YEAH」

 わぁああああ、キャァアアア、という男女入り混じった歓声で会場は狂乱している。会場中の観客が押し合って取り憑かれたように体を振り乱していた。何かに取り憑かれている。音楽に熱狂している。グルーヴに身を委ねる。竜巻が巻き上がったような光景だ。会場の熱気で額から汗が滴り落ちる。会場中に汗臭い匂いが充満している。腐敗したオイルのような臭気。その匂いがつんと鼻を突く。湯気が立ち上がるほどの熱気で会場中が沸騰している。歓声が津波となってステージへ押し寄せる。会場がひとつの混沌となる。

 そんな光景をフロアの最後尾で腕組みをしながら僕は黙って見ている。ステージ中央のオカザキの姿が眩く光り輝いている。オカザキの勇姿をじっと見つめていた。





 何曲かの演奏を終え、KURENAIのライブは終演した。汗にまみれたTシャツを着た観客たちは口々に話し合い、満足そうな笑みを浮かべ興奮の余韻を残しながら帰っていった。観客が全員帰り終わるとライブハウスは沈黙した。誰も使わなくなった公衆電話ボックスのような寂寞だけが残される。日も沈み辺りは暗闇と静寂に包まれている。街は静まり返っていた。

 1つしかない会場の出入り口で、ジーパンのポケットに手を入れながらオカザキを待った。会場の周りには何人かの若い女の子のファンがバンドの出待ちをしている。しばらく待っていると、オカザキがギター・ケースを背負って、メンバーと一緒にライブハウスの階段を上ってくるのが見えた。オカザキは僕と目が合うと

「おう、カワカミ、観に来てくれてたんや」と言った。

「うん、凄く良かったな、ライブ」

 出待ちをしていた女の子たちがオカザキの周りに駆け寄る。ねぇ、オカザキく~ん、と言いながら、オカザキの両腕を引っ張る。

「なあ、僕はオカザキに聞きたい事がある」

「なんだ? カワカミ?」

「オカザキはなんでギターを始めようと思ったんかな? なんかきっかけがあるんかな?」

 オカザキは不敵な笑みを浮かべながら言い放った。

「ふっ、そんなもん、女にモテたいからに決まってるだろが」

 ねぇ、オカザキくん行こうよ~、ねぇ、こんなのっといてさぁ~、ねぇ~、オカザキく~ん。周りの女の子たちに声を掛けられ、オカザキはその場を立ち去った。オカザキは何人かの女性ファンに囲まれながら夜の繁華街を歩いていった。そんなオカザキの背中をずっと目に焼き付けていた。オカザキの姿が見えなくなるまで。





 テーブルで介護福祉系の学校のパンフレットをぼんやりと眺めていた。夏休みも中盤に差し掛かっている。僕もそろそろ志望校を決めないといけないのかなぁ、と茫洋とした頭で考えながらパンフレットのページをめくっていく。夏休みの宿題にも全然手を付けていない。9月になると「MCバトル全日本」の大阪予選がある。それに向けてサイファーや自宅でのラップの練習も真剣に取り組まなければならない。僕にはやらなければいけない事があまりにも多過ぎるのだ。

 お母さんはキッチンに立ち夕飯の魚を煮付けていた。くんくんと鼻を嗅ぐと、旨そうな匂いがふわふわと漂ってくる。海辺に打ち上げられる流木のようにふわふわと匂いが流されて、僕の鼻にまで辿り着き嗅覚を刺激する。これは鯖の煮付けかな? 

「なぁ、お母さん」

「なぁに? カグラ」

「僕ね、この前ね、オカザキのロック・バンドのライブに行ったんだよ」

「知ってるわよ」

 鍋からぽこぽこと煮立った音が聴こえる。お母さんはガスコンロの火を止めた。この前のライブで見たオカザキの後ろ姿が脳裏に焼き付いたままだ。換気扇の羽にこびり付いた脂汚れのように思考回路を占拠し、まとわり付く。

「なぁ、お母さん、やっぱりロック・バンドの方がカッコいいんかな?」

「さぁ? 私にはわからないけど、それは人それぞれなんじゃないの?」

「でも、オカザキはすっごい人気者だった…」

「そう… でも私はカグラのラップも、いいなぁと思ってるよ」

 ヒップホップなんて人気あるのだろうか? 学校でも全然流行ってないし、クラスメイトもみんなアイドルの音楽やロック・バンドの音楽の話題ばかりで盛り上がっている。それにオリコンチャートを見てもヒップホップの曲なんて全然、上位にランクインしていないじゃないか。

「なあ、お母さん… 僕、ラップやっててもいいんかな?」

「なんでそんな事を聞くの? 私はラップを練習している時のカグラが好きよ。今までで一番、熱心にやってるんじゃない? 中学のサッカー部の時は、毎日、泣いて帰ってきてたじゃないの? ほら、練習が嫌だ、って言って…」

「そりゃ確かにラップをやっている時は楽しいけど…」

 ラップをやっている時は楽しい。時間が経つのを忘れるくらい夢中になれる。でもオカザキの姿を見て、やっぱりロック・バンドの方がカッコいいんじゃないか、と頭を悩ませる。僕もラップという音楽をやっている。でも… ラップなんかやってても誰も認めてくれない。それにラップなんかやってても全然モテないじゃないか。こんなんだから僕はいつまでも童貞なんだ。ラップを辞めて今からギターの練習でもすればモテるようになるのかな? 葛藤していた。 

「なあ、お母さん、ラップってカッコいいと思う?」

「私はヒップホップが大好きよ」

「そっか、やっぱりお母さんがそう言うのだったら、やり続けた方がいいのかな…」

 お母さんはできあがった料理をテーブルの上に並べた。旨そうな鯖の味噌煮込みがメイン料理となっていた。それと、サラダ、白飯と味噌汁。いただきます、と言って鯖の味噌煮込みを箸で小さく千切って、口の中に頬張った。柔らかく煮付けられた鯖の身がほぐれて、口いっぱいに旨みが広がっていく。美味しい。テーブルの向かい側にはお母さんが座っていて同じように鯖を口の中に放り込んでいる。

「私はね、人と比べる必要なんてないと思うの…」

「え?」

「カグラはね、カグラなりのやり方で自分を表現すればいいと思うわ… 自分なりの表現方法で」

「やっぱりそうかな…」

 味噌汁が喉を通っていく感覚をじっくりと確かめながら風味を堪能した。もうヒップホップ中心の生活になっていて僕にはそれしか取り柄がない。もう僕にはラップしかないんだ。目を瞑り何も考えないようにした。

「ねぇ… カグラ」

「なぁに? お母さん」

「自分で決めた夢でしょ… 自分で決めた夢は、最後までやり抜きなさい」

 お母さんの言葉が身に染みた。それは手料理の味わいのように深く心に染み込んでいったのだ。





 日中よりかは幾分マシになったが、それでも夜中も蒸し暑い。ここ数日、記録的な熱帯夜が続いているとニュース番組でも報道されていた。土曜日の夜、歩道橋の階段を上る足取りも重い。これは夏バテのせいだけじゃないはずだ。いつもの木霊サイファーの仲間たちが歩道橋に集まる。コダマさんとダイソンとハマやんがいる。ミユの姿はない。ハマやんが僕に話しかけてくる。

「なあ、最近、ミユ、見ぃへんなぁ」

 そういえばあの日以来、ミユの姿を見てない。目を閉じて瞼の裏に焼き付いたままの風景を思い浮かべる。あの天王寺のホテル街で泣きながら走り去るミユの後ろ姿を思い出した。あれがミユを見た最後の姿だった。それからはミユとは連絡を取っていない。いまだにあの残像が忘れられない。

「ミユ、もう3週間、サイファーに来てへんやないか? 珍しいなぁ?」

「そうですね… ハマやん」

「LINE送っても返事けぇへんし… なあ、カグラ、ミユの事知らんか?」

「さぁ…」

「ほんま、あいつ、どないしたっちゅうねん、なんかあったんかいなぁ?」

 やっぱりミユは落ち込んでいるのかな… あれはやっぱり僕が悪かったのかな…。僕にはわからなかった。考えても答えなんて何も見つからなかった。ペットボトルのコーラをごくごく飲んだ。

「う~ん、心配だな、急にミユが来なくなったもんなぁ… もう『MCバトル全日本』の大阪予選まで残り1ヵ月を切ってるというのに… こんな大事な時期にサイファーに来ないなんて… 俺もLINE送って誘っているんだけど、全然、返信もないし…」とコダマさんも眉間に皺を寄せながら深刻そうに呟く。

 なんて言っていいのやらわからなかった。申し訳ない気持ちに苛まれる。ただ、もう一度ミユの、元気にラップをする姿が見たい。ミユに会いたい。それしか望んでいなかった。

 ハマやんが話しかけてくる。よく見るとハマやんの目は赤く充血していた。赤い目? どこかで聞いた事があるような… 気のせいだろうか?

「まあ、もう、ミユの事はええわ。あいつは、もうラップを辞めたんかも知らん。でも俺らは『MCバトル全日本』で頂点を目指すんや。俺らマイメンやろ?」

「はい、最高のマイメンです」

「俺もカグラが最高のマイメンや。まずは大阪の頂点を目指すで! 今のカグラのスキルやったら十分、狙えるで、一緒に頑張ろうや! 一緒に大阪予選出るでぇ!」

「はい! 頑張りましょう!」

 もう一度、ハマやんの目を見た。やっぱり目が血走っていて赤い。赤い目だ。プランクトンが大量に発生した海のように真っ赤に染まっているのだ。まあ、ハマやんの事だ。絶対にクスリには手を出したりはしないだろう。ハマやんを信じる事にした。日頃からハマやんを兄貴分のように慕っているのだ。信じるしかない。

 

 コダマさんがステレオデッキのスイッチをオンにするとビートが流れた。ビートの上に乗りながら僕は蝶のように舞うラップを歌い続ける。汗が滴り落ちる。ダイソンも必死にラップを歌い続ける。ダイソンの眼鏡が白く曇った。ハマやんも王冠のネックレスをじゃらじゃらと揺らしながら渾身のラップを歌い続ける。コダマさんも全身全霊の力を振り絞ってラップを歌い続ける。何度もビート・チェンジを繰り返し、ラップを歌い続けた。みんなが歩道橋の上で輪になって高らかに響くラップを歌い続けたのだ。


 もうとっくに終電の時間は過ぎていた。それでも僕らは帰ろうとはしなかった。歌い続ける事しかできなかった。もう失うものなど何もない。前だけを見て、ただひたすら歌い続けるんだ。誰も認めてくれなくたっていい。笑われてもいい。自分で選んだ道だ。それが正しい道かどうかはわからない。正解や不正解なんてわかりやしない。そんなもの誰にもわからない。でも一度走り出したら最後まで走り切らなければいけないんだ。マグロのように一生止まる事なく泳ぎ続けるしかないのだ。どこにゴールがあるのかもわからない。もしかしたらゴールなんて初めからなかったのかも知れない。でも僕にはこれしかない。これしかできない。もう、僕にはラップしかないんだ。


 何時間ぐらい歌い続けたんだろう。気が付けば夜明けを迎えていた。徐々に空が白んでいく。東の方角からゆっくりと太陽が昇ってくる。眩いばかりの朝日の光に目を細めながら僕たちは歌い続けた。歩道橋にひとつの生命が宿っているようだった。そしてこれからもまた新しい生命を生み出していくのだ。





 目が覚めたら、もう夕方になっていた。朝方までサイファーをやっていたので全身の節々が痛かった。ベッドから起き上がった。それからリビングに行って眠い目をこすりながら、お母さんと一緒に夕飯を食べた。今日はテーブルにとんかつが並んでいた。サクサクとした食感が歯触りいい。お母さんが作る料理はいつも美味しい。

「昨日は朝までサイファーやってたのねぇ… カグラ」

「うん、だって9月に『MCバトル全日本』の大阪予選があるじゃない。それまでは猛練習しないといけないからね」

「体には気をつけてね」

「うん、大丈夫だよ、ありがとう、お母さん」

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