第5話・訓練開始

 道具がひとそろいできあがっても、さあいよいよ作品づくり・・・というわけにはいかない。その前に、粘土を練る練習がまっていた。なんと地味な訓練もあるものだ。しかし陶芸の道は、まず基本的な土ねりの技=「※菊練り」ってやつを修得しないことには、第一歩が踏み出せないのだ。

 その日の授業がはじまると、なすび顔になすびボディをくっつけたような風体のしゅが先生は、ゴンガラゴンガラと大きな台車を押して登場した。台車には粘土のかたまりが山と積まれている。それは器の材料というよりは、建築資材と思えるような物量だった。先生はそこからサッカーボール大の土玉を取り分け、訓練生ひとりひとりに手わたしていく。そして丸メガネの奥に鎮座するビー玉のような瞳になんの色を宿すこともなく、こう言い放った。

「とりあえず、当分はそれを練るだけね、いかな~」

ーげげっ、粘土を練るだけ?・・・つまんなそう・・・ー

 希望に輝いていたクラスメイトたちの表情が、いっせいに沈んだ。無理もない。オレたちは一刻もはやくろくろを回し、素晴らしい作品づくりにとりかかりたいのだから。

「いいといわれるまで何日でも練りつづけてね、いかな~」

 与えられた課題にも驚いたが、「何日」という時間の単位には腰が抜けそうになった。説明がおくれたが、「いかな~」というのは、もちろん「いいかな?」のことである。彼はこうして同意を求めるポーズを装いつつ、問答無用の刀をばっさばっさと振りおろすのだった。

 しゅが先生は、指導員というよりも管理者だ。もっとふさわしいいい方をすれば「看守」という役まわりになるだろうか。色白むちむちの腕を四十代なかばの出っぱった腹の上にのっけて組み、遠くまで通るが抑揚のない声で話す。その指導には、ひとかけらのユーモアもエンターテイメントも含まれない。上意の下達こそが自分の役目と割りきっているかに見える。作業意図の解説も、具体的な指導も、ほとんどしない。平板な声で語られるのは、手順の形式的な説明と指示だけだ。

「練りつづけるうちにきっと上手になるからね、いかな。じゃーはじめっ」

 有無もいわさず、作業開始をうながされる。こうなったらやるしかない。

 途方もない反復がはじまった。わたされた粘土を練って、練って、ひたすら練って、練りまくる。土の表面が体温を吸収してひび割れ、乾いたモチのように固くなり、組織がボロボロに崩れるまで練ったら、水を打ってぐちゃぐちゃの泥にもどし、ねっとねっとと再び練りこむ。練りに練ってやっといい状態まで回復させると、さらに練りこんでまたまたコチコチになるまで組織を破壊する。その残骸に水を打っては練り直し、再生しては崩し、練り、崩し、練り、崩し・・・そのくり返し、エンドレス。

 午前中の学科の授業がおわってから日が傾くまで、製造科訓練生は土と格闘しつづけた。なんとバカバカしく、つまらない授業だろう。聞き分けのいい粘土を役立たずの土塊に変えるために、全精力を打ちこみ、全体力を大盤振る舞いしているのだ。「賽の河原」の話を思い出した。この土練り作業はまるで、鬼が蹴り崩すとわかっていて積みあげる川石の塔のようなものだった。だが、オレは高をくくっていた。

ー修行ってのはだいたいこんな理不尽な雑用からはじまるもんだー

 むずかしいことを考えず、目の前の命令をきまじめにこなすしか進むべき道はない。とにかく今は練るのだ。

 酒びたり生活でゆるみきっていた肉体はたちまち筋肉痛の集中攻撃を受け、腕や腹筋が鋼のかたさを帯びていった。一週間もたつと体重は激減し、体脂肪の数値も急降下した。すさまじいエクササイズもあったもんだ。筋力をフル稼働させつつも、退屈きわまる反復運動に眠気をさそわれる。なにも教えてくれない。会話もない。拷問に近い。無意味に思える作業だが、鬼(しゅが先生)の監視のもとで休むこともできず、ただ視界のすみに時計の針を追って淡々と時間をやりすごした。

 思考停止状態だった。そう、指示を鵜呑みに、この作業をただの体力仕事とあなどっていたときまでは。しかし何日間も練りつづけるうちに、あるときふと、この苦行が自分自身の解体作業だということに思い至った。考えもなしにひたすら手を動かしていたオレは、不意に悟った。半可な芸や余計なクセを取っぱらっていき、感覚を練りあげるという、これは行為なのだ。

ーひょっとしてオレ、土のことがわかりはじめてる・・・?ー

 それに気づくと、唐突に視界がひらけた。気の遠くなるような反復は、ただ技術だけをこねくりまわしているわけではなかった。

ーなるほど。つきつめて考えてみようー

 単純肉体労働は意味を帯びて、頭脳労働へと変質していった。オレは土と語らうことを覚えはじめていた。作業の意図を理解するようになったのだ。

 今、自分は「菊練りの正しいフォームを修得するための技能訓練」という取っかかりで動いている。また、粘土の中に閉じこめられた気泡を抜いたり、固さのかたよりをなくすためという目的ももちろんある。しかしそれにまさる、より本質的なものが練り跡の中に見えてきた。練っていくうちに、菊練りという作業手順の一切が合理的につくりあげられた、一個の作品の構造へと連結する運動であることがのみこめてきたのだ。専門的なことをいえば、土を構成する最小単位である粒子の方向をそろえ、正確な土目をつくるわけだ。・・・と、たしかこないだ窯業学概論の講義で聞いたこともついでに思い出した。

 つまりこうだ。菊練りとは、ひたすら土のキメを進行方向に向けて編みあげていく練り方なのだ。菊練りを完了した土は、巻貝のようにらせん状の円すい形になる。まさにろくろに対応した形だ。そいつを実際にろくろのターンテーブルにのっけて回転させる。手のひらで圧をかける。するとその抵抗と摩擦で巻きがしまって密度が増し、さらに土のキメがそろって、正確で、美しく、かつ堅固な目の配列になる。つまりろくろが挽きやすくなるのだ。最終的な作品を高層ビルにたとえれば、今はそれを築くためのレンガの目を、つめて、そろえて、積み上げる作業をしているというわけだ。レンガの目があっちこっちでたらめな方向を向いていたら、構造的にまともなビルは建てられっこない。

 その理屈は、目の前のクタクタの土を練りこむうちに、不意に感覚がすくいとった。手が理解をはじめたらしい。このときオレは、すでに作品づくりが手の中ではじまっていることを、リアルに体感したのだった。実に喜ぶべき発見ではないか。だらだらとグチョグチョとわけもわからず土をこねていたはずが、いつの間にか、まだ見ぬ大傑作の制作をはじめてたってことなんだから。感覚的な作業でありながら理づめ。合理的でありながら精神的。陶芸の奥深さにふと触れた瞬間だった。

 オレの気持ちは、いっきに座禅や行といった禅的世界に飛んだ。菊練りの往復運動のなかに、土の分子が構成する小宇宙が見えてくる。肉体の一定のリズムで、手のひらの中に秩序立った世界をつくっていく。押して、巻いて、押して、巻いて。往きつもどりつ、悟りつ悩みつ・・・。無我の境地ははるかに遠いが、それでもスコンといっこ抜けて「カンジ」で土が練られるようになれば、きっとすばらしく美しい菊の花びらが旋律となって刻まれるはず。無心ってやつはいい仕事をする。そうなるために、今は悩んでみてもいいか、と思った。


 図1・※菊練り=菊練りという作業を解説する。添付図を見てイメージしてほしい。図上部のロールケーキの部分を左手で時計回転に巻きこみながら、右手で根っこを押しつぶしていく。それを反復すると、どんどん右側に花びらのようなひだがくり出される。その押し出された花びらは、下部を回転寿司の皿のように時計回りに進み、左側でロールケーキの内側へと飲みこまれていく。ロールの中で花びらはどんどん圧縮されていき、鏡の中の永遠のように遙かな深淵にフェードアウトする。ところが粘土の可塑性はその永遠を渦の中に圧縮して消し去りつつ、彼らを右外へ新たな花びらとして輪廻させるのだ。閉じきった永久機関の中でこの一連の流転が、驚くほどシンプルな反復運動によって実現するわけだ。この美しい流れにより、土の内部に残った気泡を圧搾してひだから抜きつつ、水分や原料の組成を均質化する。それが菊練りなのだ。

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