月見ヶ丘

 今日から学校が始まる。

 始まるといっても休み明けだとか進学だとかそういう意味じゃない。ついさっき入学式を終え、文字通り現在の自分にとっては初の学園生活が始まろうとしていた。

 だが、正直なところそんなイベントはどうでもいい。

 俺はさっきから黒板のほうをぼーっと眺めながら学校とは関係ないことを考えている。

 数か月前に起きた謎の現象≪境界≫。

 二十日町という町を数分間のあいだ包み込んだ光は、住民たち全員の記憶を消し、さらには居場所までをも奪い去った。

 現在、二十日町は立入禁止区域に指定され、元々住んでいた人々は以前より建設が進められていたこの町──月見ヶ丘への移住を余儀なくされた。そして数か月が過ぎたいまとなっても立入禁止の理由は公表されておらず、様々な憶測や噂が飛び交っている。

 だが、俺はその理由を知っている。

 二十日町には化け物がいるのだ。これはほかの誰でもない自分自身が目撃したのだから間違いない。

 あの町には化け物が巣食っている。

 しかし、この話には一つ疑問が生じる。

 どうして化け物は二十日町を出て、この月見ヶ丘に侵攻してこないのか。

 数か月前に化け物を見たとき、そいつは人間を襲っていた。でもいまは二十日町に人はいないし、月見ヶ丘で化け物が目撃されたという情報もない。

「なぜ化け物はあの町から出ようとしないんだ」

 集中するあまり、周りに人がいることも忘れてつい口に出してしまう。まあ、小声で発したから誰も聞き取れていないはず……

 気にせず考察を続けよう。

 と、思っていたら、ふと右隣の席から声をかけられ、思考を中断させられる。

「久しぶりだね、私のこと覚えてる?」

 唐突に話しかけてきたものだから、自分に向けられた言葉なのか怪しい。

 だが、横目でその生徒の顔をチラっとだけ確認すると、その子が自分に話しかけているのだとすぐにわかった。

 それと同時に嬉しさが込み上げる。

 この教室にいる生徒はみな、二十日町に住んでいた頃のクラスメイトであり当然ながら記憶喪失だ。

 実質、全員が初対面のようなものなのだが、唯一この子──隣にいる女子生徒だけは顔見知りだったりする。

 彼女は自分のことを覚えているかと尋ねてきたが、もちろん忘れているわけがない。

「ああ! 覚えているよ、≪境界≫の日に会った子だよな」

「う……うん」

 女子生徒は恥ずかしそうに顔を赤く染めていたが、理由は不明だ。

 彼女と会ったのは数か月前、≪境界≫が発生した日のことだ。

 真っ暗な町。少女が黒い沼に襲われているところを救い出し、身代わりのように自分が沼の中に沈み、意識を失った……

 しかし次に目を覚ますと、黒い沼は姿を消していて、街を包んでいた暗闇も嘘のように晴れていた。

 それからすぐに自衛隊がやってきて、俺たちは保護され、それっきりその少女とは会っていなかったのだが。

 数か月が経ち、俺たちはこうして再開した。

 いまこの教室にいる生徒は二十日町にいた頃のクラスメイトでもあるため、当然ながらこの少女も昔からクラスメイトだったということになる。

 ひょっとすると記憶を失う前から親しい間柄だったのかもしれない……

 なんて妄想を展開していた俺に向かって、女子生徒は自分の生徒手帳を広げて一ページ目を見せてくる。

「前に会ったときはお互いに名前も言えなかったね。これが私の名前、清水音羽しみずおとはだよ」

 俺もそれに応えるように自分の生徒手帳を広げて清水に見せた。

「俺は月読御言つくよみみこと。よろしくな、清水」

「清水じゃなくて音羽でいいよ。よろしくね御言くん」

 よくよく考えたら少し変な自己紹介だが……

 ひとまず互いの名前を知ることができ、俺たちはようやく正式な出会いを迎えたと言えるだろう。

 それにしても月読御言という自分の名前がどうもしっくりこない。

 一般的な名前じゃないのがつくづく残念だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る