あたしが決めたこと(3)
あさぎちゃんのお母さん――尼崎さんの手術から十日後。
ちょうどトキとかおるさんの休日が重なった今日は、尼崎さんの退院日だ。
そして、あさぎちゃんが、自分の家に帰る日でもある。
朝の内にあさぎちゃんの帰り支度を済ませた後、あたしはあさぎちゃんと一緒にかおるさんの車に乗りこんだ。
尼崎さんを迎えに行くために。
あさぎちゃんは、お母さんの退院がよほど嬉しいんだと一目でわかるくらい、今日は特別テンションが高い。
かおるさんが運転席にいるにもかかわらず、病院に向かう道中ずっと方言を隠すことなくあたしとおしゃべりをしていた。
時折、笑い声を織り交ぜながらハキハキと語るあさぎちゃんの話に、あたしは耳を傾ける。
けど、今日の彼女はとにかく落ち着きがなかった。
大人しく座って窓の外を眺めていたかと思えば、膝立ちになって窓を開けたり。
あたしに寄り掛かって口を開いたかと思えば、急に抱き着いて甘えた声を出す。
そんな具合に、あさぎちゃんは
その内容は、お母さんが退院したら一緒に出掛けたいとか、お母さんの好きなものをいっぱい食べさせてあげたいとか、一緒に本を読みたいとか……。
久しぶりの、お母さんと一緒に過ごす時間へのささやかな希望ばかりだ。
可愛らしい声で紡がれるそれらの小さな願いが微笑ましく、ついあたしの頬は緩んでしまう。
けど、胸の奥では
◆
病院に着くなり、あさぎちゃんはお母さんの病室へ一直線だった。
彼女は、あたしの手を引っ張りながら、急ぎ足で尼崎さんの待つ病室へと向かう。
そして、病室に着くなり、あさぎちゃんは小さな手でスライド式のドアを開いた。
「おかあさんっ」
その第一声は、四人部屋の病室に響き、すぐに彼女の母親に娘の存在を知らせる。
「あさぎ? なんや、もう来たん? えらいせっかちさんやね、あさぎは」
呆れたようにも、そして、嬉しそうにも聞こえる声で、尼崎さんはあさぎちゃんを出迎えた。
あさぎちゃんはあたしの手を離すと、一目散に尼崎さんの所に向かって飛んでいく。
尼崎さんは、軽く手を広げてあさぎちゃんを迎え入れると「まだまだ甘えんぼさんやね」と、優しくこぼして、彼女の頭を撫でた。
あたしは、そんな二人を病室の入り口から眺めている。
母親に抱かれるあさぎちゃんを見るのは微笑ましい。
けど、せっかく鳴りはじめたオルゴールが止まるような。
そんな、ぎこちないせつなさをあたしは胸の奥に抱いていた。
これは、しょうがないことだ。
その後、遅れてかおるさんが病室に到着すると、あたしはかおるさんと一緒に病室に入った。
かおるさんが尼崎さんに声を掛けると、病室は急に賑やかになる。
それこそ、ここが病院だということを忘れそうなくらいだ。
それをあたしがいさめようとすると、何故か二人の話題は思いがけずあたしのことになった。
どうやら、以前からかおるさんは職場であたしのことを話していたらしい。
そして、二人の話題にあたしの名前が登場すると、そこにあさぎちゃんも参戦した。
あさぎちゃんは、尼崎さんにあたしのことをつたないながらも一生懸命に紹介し始める。
一緒に遊んだことや、過ごした時間。
短い夏の思い出話を、ただただ一生懸命に、彼女は母親に聞かせた。
見る分には和やかでたいへん結構だ。
けど、自分のことを話されているんだと思うと、気恥ずかしくて目を伏せてしまった。
しかし。
「ねぇ、浅緋さん」
突然、尼崎さんに声を掛けられて、あたしは顔を上げる。
「あさぎと一緒にいたってくれて、ほんまにありがとうね」
ふと視線があった拍子に、面と向かってそんなことを言われると照れてしまう。
「あ、いえ……そんな」
あたしは思わず、さっと視線を逸らしてしまった。
年上の女性に感謝されたり、褒められたりするのは、なんだかこそばゆく感じる。
そんな恥ずかしさを胸に秘めてしまえば、せつなさと混ざって、少々寂しい気分が薄まった。
その後、あたし達は尼崎さんのベッド周りをもろもろ片付け、退院の手続きを済ませる。
そして、かおるさんの提案で退院祝いを兼ねて家で食事をしようという話になった。
ちなみに、これはあさぎちゃんとのお別れ会も兼ねているのだ。
◆
尼崎親子を招いて食事会は、台所ではなく居間で行われた。
台所だと、イスが人数分なかったと言うのが主な理由だ。
トキとかおるさんが作る料理を、あたしとあさぎちゃんで居間の木目テーブルに運んでいく。
その際、尼崎さんも手伝うと言ってくださったけど、病み上がりの人にそんなことをさせられる筈もない。
それに手伝うも何も、お母さんに良いところを見せようと張り切るあさぎちゃんのおかげで、食事会の準備はすぐに整ってしまった。
そして、食事会という名の尼崎さんの退院祝いと、あさぎちゃんとのお別れ会がささやかに始まったのだ。
食卓に並ぶのはオクラの和え物や、あさぎちゃんも気に入ったトキの特製オムライス。
それにチーズたっぷりのドリア。ちなみに、オムライスとドリアは同じご飯ものということで、普段よりも小さいお皿に盛られていた。
丸いグリンピースがワンポイントのシューマイは大皿に人数分盛りつけられ、そんな和洋中と見境なくあさぎちゃんの好物が並ぶ中に一品、あたしの好物が置かれていた。
コロッケが盛られたお皿を見た後、あたしはトキの方に目線を向ける。
彼はあたしをじっと見つめ返し、少々満足げに笑って応えた。
これは、トキなりの励ましのつもりなんだろうか?
気持ちは嬉しくない訳じゃないけど……まさか、この歳になって食べ物で励まされるとは思わなかった。
これは、ただ気遣われているのか、それともこども扱いされているのか……判断が難しい。
そんなことをぼうっと突っ立って考えているとあたしはあさぎちゃんに手を引かれた。
彼女に促されるままあたしはテーブルに着くと、あたしの隣にあさぎちゃんが座る。
そのあさぎちゃんの隣には尼崎さんが座っていて、あたしと尼崎さんにサンドイッチにされて座るあさぎちゃんは、とても満足げだった。
そんな彼女を見ていると、さっきの考え事はとても些細なことのように思える。
それに、どんな理由であるにせよ、大好きなコロッケに罪はないのだ。
「じゃあ、いただきます」
かおるさんが
そしてあたしは、真っ先にコロッケに箸を伸ばした。
◆
それから、賑やかな食事会が終われば別れの時間は目前だった。
ついさっきまで沢山の好物にはしゃいでいたあさぎちゃんは、帰り支度を済ませた途端にしょんぼりと肩を落とし、小さな背中を丸めて縮こまっている。
そんなあさぎちゃんの後ろ姿を見るのはせつなさに抱きしめられるような気分だ。
けど、その一方で彼女に別れを惜しまれている事実が無性に嬉しかった。
尼崎さんに手を引かれながら、あさぎちゃんは渋々といった表情で玄関を出る。
しかし、背負ったリュックサックに
のろのろと歩を進めるあさぎちゃんを見送るため、あたしとトキは玄関の外で並んでいた。
けど、並んで待つあたし達や、門の外で車のエンジンをかけて待機するかおるさんを余所に、彼女は歩みを止める。
あさぎちゃんは、あたしの目の前で立ち止まってしまった。
あたしは、うつむくように彼女に目線を送る。
あさぎちゃんはあたしを見上げ「ちょっとだけ」と、今にも口にしそうだった。
きゅっとお母さんの手を握り直すように、あさぎちゃんの指がわずかに動く。
あたしは、そんな彼女に声を掛けたい筈なのに、ありふれた言葉しか思い浮かばなかった。
「あさぎちゃん、元気でね。また、いつでも遊びに来ていいから」
これは、本音ではある。
けど、いつか何かのドラマで聞いたことがあるようなセリフだ。
「ほんまに?」
そんなあたしの言葉にも、彼女は素直に応えてくれた。
「うん……本当」
だから、気の利いた言葉でなくても。
どこかで聞いた、安いセリフになろうとも。
せめて本心を口にしていたいと、そう思った。
「……ばいばい」
消え入りそうなあさぎちゃんの声に、あたしは「うん」と、短く頷く。
これが最後かと思うと、今年の夏の思い出は、あっけなく。
そして、少し辛かった。
あさぎちゃんは、とぼとぼと母親に手を引かれるまま歩き出す。
うつむいたまま言葉を発することもなくのろりのろりと歩く彼女と比べれば、梅雨の時期のカタツムリの方が元気良く見えただろう。
あたしは、そんなあさぎちゃんの背中をただ見送った。
尼崎さんが、ゆっくりと車に乗り込み、振り返る。
あたしとトキに軽い会釈をすると、再びあさぎちゃんに手を伸ばした。
そして、あさぎちゃんはその手を取り、引っ張り上げられるように車に乗り込む。
……筈だった。
「あさひおねえちゃんっ!」
唐突に、あさぎちゃんが踵を返してあたしに向かって走り出す。
あたしは内心驚きながら、体が無意識の内に反応した。
短い距離を駆け抜けて、あさぎちゃんがあたしの胸に飛び込んでくる。
ぶつかるような勢いの彼女を抱きとめると、小さな体でも、思いの外重く感じた。
それに、夏なのに。
それも、こんな午後を過ぎたばかりの外で。
ぎゅっと首に腕を回して抱き着かれては、あついし、苦しいし……嬉しい。
体を押し付けてくるあさぎちゃんの唇が、あたしの耳元に近付いたのがわかる。
静かな、気分を落ち着けるような彼女の息遣い。
そして。
「あさひお姉ちゃん……私な、あさひお姉ちゃんのこと、大好きやっ」
照りつける日差しに負けないくらい熱い想い。
あたしも、届けられた想いを、それ以上に返したい。
あさぎちゃんの耳元に唇を近づけ、声で口付けするように、言葉を贈る。
「あたしも、あさぎちゃんのこと大好きだよ……」
くすぐったそうに笑うあさぎちゃんは、ご満悦の様子だ。
「私、また遊びに来るから、浅緋お姉ちゃんも家に遊びに来てな」
「うん。わかった。絶対約束する」
くっつき合っていたあたし達は互いに隙間を空けて、どちらからともなく手を差し出し合う。
そして、二人の小指を添わせ合い、そっと指切りをした。
「絶対やで?」
「うん。絶対」
瞳を反らさず、強く頷きあう。
あたし達は、こんな約束すらせずに別れようとしていたんだと、この時思い知った。
尼崎さんに引っ張り上げられながら車に乗るあさぎちゃんの背をあたしはただ見送る。
けど、さっきよりもずっと前向きな気持ちで、その背中を見守れた。
あさぎちゃんが車に乗ると、バタンっとドアは閉められる。
彼女の姿が後ろの窓からちらちらと見え、あたしはさよならの時を実感した。
けど、後部座席の窓が開き、あさぎちゃんが身を乗り出したのを見て、まだなんだと察する。
「あさひお姉ちゃんばいばいっ」
窓の外に体を放り出すような体勢で、手を振るあさぎちゃんに、ハラハラが止まらない。
「あっ、危ないから!」
届かないとわかっていながら、彼女を抱きとめるように手を伸ばして声をあげるあたしに、あさぎちゃんは「ちょっとだけぇ!」と返した。
「また、絶対遊びにくるからぁ!」
最後に、あさぎちゃんはそう言って体をひっこめる。
後部座席の窓が閉まると、車はゆっくりと動き出した。
タイヤが
些細な日常の生活音が、今は少々寂しげに聞こえる。
車の後ろの窓から、あさぎちゃんがあたしに向かって手を振るのが見えて、あたしも彼女に応えて手を振った。
こうして、季節が過ぎ去るよりも早く夏の家族が一人とまり木から飛び立ったのだ。
でも、あたし達はきっと約束を守るから、これで終わりじゃないんだろう。
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