3章 高校生編 -浅葱色-

7話 あたしはたぶん、彼女に怖がられているみたいだった。

あさぎ色とぴっく(1)


 高校生になって二回目の二学期終業式を終えた翌日の七月下旬――今日は、夏休みの初日だ。

 あたしは夏休みの学校とは、静かなものだと思い込んでいたけど、どうやら違ったらしい。

 高校校舎三階の生物部部室。

 ここの窓から見渡せるグラウンドは運動部の部員でいっぱいだ。

 色んな部活のかけ声や部員同士の声援が賑やかにグラウンドを盛り上げる。

 時折そこに、野球部の金属バットに硬球が当たる甲高い音などが混ざった。

 また、耳を澄ませば校舎からも吹奏楽部の楽器の音色が聞こえてくる。

 目に見え、耳に聞こえる部活の練習風景というのは、見ていてなかなかに飽きが来なかった。


青丹あおにいぃっ! ペース落ちてるぞっ!」

「はいっ!」


 そんな練習風景の中で、友人の名前が聞こえてきて、あたしは彼女の姿を探す。

 すぐに、トラックの中を駆け回る陸上競技服姿のほのかを見つけた。 


「ほのか、がんばってるなぁ……」


 そう口に出すと、ぼうっと彼女を眺めているのがなんだか申し訳なくなる。

 あたしはほのかから目線を逸らして、部室の壁に掛けてある時計を見た。

 長針と短針がまっすぐに背筋を伸ばしたような時計盤は六時を少し過ぎた時刻を示している。

 今日、ほのかは練習が六時半に終わると言っていた筈だ。

 あたしは立ち上がって、自分に任された子達を部室から連れて帰る準備をし始めた。

 生物部の部室はお世辞にも整理が行き届いているとは言えない。

 今、室内は、空きスペースの目立つ棚と、生物図鑑等がぎっしりと押し込まれた本棚があり、中央には部員共有の大きな長テーブルがある。

 そして、そのテーブルの上には現在、両手で抱えられる程度の大きさであるプラスチック製の水槽と、同じくプラスチック製の小さな虫かごが置かれていた。

 時折、コツコツと壁を小突くような小さい音がする。

 あたしは「よし」と、呟いて水槽と虫かごに近寄った。


「今日からしばらく、あんた達の面倒はあたしがみるからね」


 半透明の水槽と虫かごから返事があるはずはない。

 浅い水を張られた水槽の中を泳ぐ一匹のカメと、虫かごの中でのそりのそりと動くカブトムシに一瞥くれて、あたしはこの子達を連れ帰るため室外へと運び始めた。



 自転車の荷台に水槽をくくり付けて固定し、虫かごは自転車の前かごに入れる。

 なるべく揺らさないようにと駐輪場から慎重に自転車を押し出し、あたしは校門を目指した。

 校門の外に出てしまえば数人の生徒がたむろして固まっている。

 そんな小さな集団からは少し離れた場所に移動し、ほのかが現れるのを待った。

 肩に提げたスクールバックから折りたたんだ携帯電話を取り出して開く。

 小さな液晶の隅にあるデジタルクロックを見れば、時刻は六時半の手前だと知れた。


「……あつ…………」


 何人もの生徒が校門を出て帰路につくのを見送りながら、湿るような夏の暑さを実感する。 

 夕焼けが見える時間帯になっても、刺すような日差しが弱くなったというだけで暑いことに変わりない。

 耳元に蚊の羽音が聞こえ、その度にパチンッと手を合わせて叩き、何度か不発に終わった頃。


「はあっはあっ――ご、ごめん浅緋! 遅くなっちゃったっ」


 ジャージ姿のほのかが、息を切らし、重そうに膨らんだスポーツバッグを背負って現れた。


「ううん。気にしてない。そんなに急がなくても良かったのに――あっ」

「えっ?」


 パチンっと、あたしはほのかの頬を軽く叩く。

 一瞬のことに、ほのかはぱちくりとあたしの目を見て、驚いたように表情が固まった。


「……やっぱり、怒ってる?」

「じゃなくて、蚊。止まってたから」


 恐る恐ると声を振り絞るほのかに、あたしは手のひらを見せて淡々と答える。

 あたしの手には潰れて赤と黒がマーブルになった汚い小さな丸模様が出来上がっていた。


「痛かった?」


 あたしが訊くとほのかはふるふると首を振る。

 その後「私ティッシュあるから」、と言ってポケットティッシュを取り出し一枚くれた。


「ありがと」

「じゃあ、帰ろっか」


 彼女の声に、あたしは手のひらを拭って頷く。

 自転車をゆっくりと押し始め、ほのかと並んで下校した。



「ほのか、部活がんばってるね」

「まあ、三年生引退して上がいなくなっちゃったからね。私等二年がだらけたら一年にカッコつかないからさ」


 先程部室の窓から見た光景を思い出し話し掛けると、ほのかはすっかり先輩の顔をしていた。

 そんな横顔を見せられると、あたしは彼女が部活を始めて変わったんだなと思う。


「なんかカッコいいね、ほのか」


 中学から知っている同級生の――ほのかの知らない一面を見たようで、思わずどきりとした。


「へへっ……ありがと」


 はにかみながら嬉しそうに、ほのかの歩調は軽くなっていく。

 そして、急に「あっ」と声を上げた。


「ねぇ浅緋、覚えてる? 中学の時にさ、私が浅緋をカッコいいって言ったこと」


 あたしは、隣を歩きながら何を思い出したんだか、と心がむず痒くなる。


「お、覚えてないよっ、そんな恥ずかしいこと」

「えぇ……無二の親友との淡い思い出じゃない」

「その淡い思い出が全部初対面の時のインパクトに負けちゃうんだよ」


 あたしの言葉に、ほのかは「じゃあ、しょうがないね」と答えて続けた。


「そのさ……私は、浅緋がカッコいいなぁって思ってた頃がある訳ね。だから、その浅緋に、カッコいいって言われるの。えっとね――嬉しいよ?」 


 おどけた声色とは明らかに違うほのかの声。

 静かな、自分の気持ちを相手に届けようと、小さな口から紡がれた言葉。

 そんな、聞いて恥ずかしいセリフが耳から注がれたあたしは、思わず赤面してしまった。


「もっ、もう! ばかっ! 恥ずかしいこと言うの禁止!」

「えー! 私の素直な気持ちなのにっ」

「それだと余計に恥ずかしいんだってば!」


 おどけた調子に戻るほのかの声から逃げるように、あたしは歩調を速める。

 ほのかはそんなあたしに追いつこうと早足になり、スポーツバックを背負い直した。


「ところでさ、浅緋は今日はなんで高校来てたの? 私は一緒に帰れるから嬉しかったけど、お休みでしょ?」


 隣に並び直すなり話題を変えたほのかと目を合わせ、ちらりと水槽の方へ目線を誘導する。

 その意図に気付いたのか、ほのかはあたしの目線を追って、自転車の荷台に目を遣った。


「生物部で飼ってるいきもの?」

「そう。この子達連れて帰らなきゃいけなくてさ。迎えに来たんだ」


 ほのかはまだ不思議そうな顔をしながら水槽の中を覗いている。


「夏休みだとお世話しに学校行くのが大変だから?」

「そうそう、そんな感じ。うちは普段、土日も部員の持ち回りで学校に世話しに行くんだけどね。夏休みとか、ゴールデンウィークとか、長い間お休みの時は部員で担当決めて家で生き物の面倒みるんだ」


 確信がなさそうに呟くほのかに答えると、彼女は「なるほど」と、首を縦に振った。


「つまり今年は、夏の間、小さい家族が増える訳だね」


 ぽんっと手を叩いてしたり顔をするほのかに笑いを誘われ、思わず吹き出してしまう。


「あはは、そうだね! カブトムシとカメだけどね」



 けど、この時あたしは、ほのかが言った「夏の間、小さい家族が増える」と言う 言葉が、比喩でもなんでもなく現実になろうとしていることを知らなかった。

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