夏コミュニケーション(3)

 先輩との昼食の後、夏期講習のない俺は自転車に跨り帰路についていた。

 照り付ける日光を背中に感じながら、それだけのことで背中にじっとりと汗が滲んでいく。

 そんな道中、シャァと軽快な音を立てて走る自転車と、風を切って進む感覚だけが心地良い。

 下り坂を自転車で駆け降りながら、俺は一つ心に決めていた。

 帰ったらちゃんと、浅緋に「ただいま」と、声を掛けようと。





 家に帰ると俺はまず、家のがらんとしたガレージを目指す。

 日中は母さんが職場へ行くために車を出し、広く感じるその場所に自転車を停めるためだ。

 キィッと高いブレーキ音を鳴らし、俺は自宅の門の前で自転車から降りた。

 そして、そのままガレージへと向かおうとしたのだけど。


「あれ?」


 ふと、家の玄関と庭先の間に白っぽい人影がうずくまっているように見えて足を止めた。

 その人影は大きな麦わら帽子を被っていて、それが白いワンピースを着た浅緋だということには直ぐ気付いた。


「浅緋っ!」


 思わず、俺は大声を上げる。

 この熱い日中に、家の外で浅緋がうずくまっている。

 頭の中に脱水症状や熱中症といった言葉が浮かんできた。

 どうして? 家に入れなくなった?

 そんな疑問が浮かぶや否や、俺は自転車を放り出して彼女の元へ走った。

 しかし。


「浅緋っ――」


 浅緋の元へ駆けつけてみると、彼女は俺の声に反応して驚いたような顔でこちらを見上げる。

 顔色は頬がほんのりと赤く染まっている程度で、体長が悪いように見えない。

 それに、よく見ると浅緋は首からステンレス製の水筒を下げていた。

 その水筒のほんわかとした猫のイラストが、彼女の無事を俺に伝えているようで、緊張が解けていく。

 どうやら、水分補給も問題ないみたいだ。

 と、そこでホッとしたのも束の間。

 俺を見る浅緋の目が、とても親族間に向けられているものではないと気付く。

 さっきの一連の行動は、俺にしてみれば彼女を心配してのことだった。

 しかし、浅緋からすれば何の問題もない自分の名を急に大声で叫び、勢いよく走って寄って来た変な人なのではないか?

 と、いう考えに至った俺に、浅緋はまるで不審な人でも見るような視線を向け続ける。

 そんな彼女に対して、俺は――


「た、ただいま」


 ――とりあえず、当初の目的だけは果たそうと思った。

 だが、俺達二人の間には無言の時間が流れていく。

 おかげで、ミンミンと鳴く蝉の声がよく聞こえた。

 そんな中で。


「…………おかえり」


 騒がしい蝉の声にかき消されそうになりながら、浅緋の声が確かに聞こえる。

 ただの挨拶と侮っていたが、久々に浅緋の口から聞けた言葉に思わず胸が熱くなった。


「なあ、のど乾かないかっ?」


 俺は辺りの蝉に負けじと声を張るが、浅緋から会話が返ってくることは無い。

 ただ、彼女は無言で水筒を差し出して見せ、これがあるから大丈夫。とでも言いたげだ。

 そのまま、じっと浅緋の顔を見つめてみると、お構いなくと、書いているようにも思えた。

 だからだろうか、俺はふと、無言でも意思疎通は出来るんだな、なんてことを考える。

 挨拶以上の会話が無かったことは少し残念だが、一応のコミュニケーションが取れた。

 そのことに安堵し、アドバイスをくれた先輩に心の中でお礼を言う。

 そして、最後にもう一歩、と思って浅緋に質問を投げた。


「じゃあ、飲み物以外になんか、ほしいものあるか?」


 すると、浅緋はほんのひと時考える様な素振りを見せて静止する。

 首筋を汗が伝う束の間、じぃっと俺の顔を眺めたかと思えば、ふるふると首を横に振った。


「そっか」

「……あたし、もう戻る」


 そう言って浅緋は立ち上がると、ぱんぱんっとワンピースの裾を掃って玄関の戸を開ける。

 引き留める理由もない。俺は彼女が家の中に入り玄関戸が閉まっていくのを見送った。

 しかし、急にまた戸が開き、浅緋がこちらを振り返る。


「ねぇ、家に角砂糖って置いてある?」


 その直後、唐突な質問を投げかけられた。

 質問の意図が理解できないまま、俺は家の台所事情に思いを巡らせる。


「いや、ないと思うけど」

「そう……」


 それだけ訊くと、要件が済んだのか浅緋はまた静かに戸を閉め、家の中へと入って行った。

 今のは……一体なんだったんだろう? 普通の砂糖じゃダメなんだろうか?

 そんな考えが頭を過りはするが、結局質問の意図は解らずじまいだった。

 代わりに、こんな夏の日中に浅緋がわざわざ水筒を持参してまで外で何をしていたのかという疑問が降って湧く。

 浅緋がうずくまって……元い座り込んでいた所に目を遣った。

 すると、何か黒いモノがもぞもぞと動いたのを見つける。

 その黒いもぞもぞは、小さな穴に吸い込まれたり吐き出されたりというのを繰り返していた。

 遠目では正体が解らず、近寄って目を凝らす。

 すると、穴と黒いもぞもぞの正体は、アリの巣と、そこへ出入りしているアリ達だった。


「……アリの観察してたのか?」


 もしや、と思って巣の周りを見る。

 だが、今しがた命を絶たれたようなアリの姿は見当たらなかった。

 どのアリも熱された地面の上を、右に左にと元気に動き回っている。


「純粋に、アリの観察をしてたのか」


 巣を出入りするアリ達を眺めながら、俺は状況から推察して結論付けた。

 そうしてアリの出入りを眺めていると、ふと、頭に思い浮かんだことがあった。

 そう言えば、俺は浅緋が越してきてから彼女の部屋に入ったことがないな、と。

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