第6話
眼鏡の男が言う通り、飯村の説得は簡単だった。
どころか、桜の境遇については深くは聞かず、部屋の用意から衣服の用意までを滞りなくこなしてみせた。
何故、飯村の部屋から女物の下着や着物やらが出てきたのか、静馬はあえて聞かないことにした。
現在、静馬は自室にいる。
三蔵を手伝うつもりだったが、今日は飯村が手料理を振舞うと言う。手伝いは二人もいらないということで、静馬は畳に寝転んでいるのだった。
一日動き回ったのもあって何かをする気力もわかない。ぼんやりと天井を見上げながら、静馬は明日のことを考えた。
やるべきことは、二つあった。
一つは、桜のことである。
ひとまず衣食住の提供はできそうだった。だが、暮らすというのはそれだけで済む話ではない。最低でも半年は一緒に過ごすのだから、お客様のままにしておくわけにもいかないだろう。彼女自身、何かしらの役割を持った方が気も楽になる筈だ。
ただ、そう考えると彼女自身に問題があった。
彼女は異世界人で、当然、印の使用は不可能である。つまりは三蔵と同じ境遇にある。仕事を任せたくても限られたことしかできないのだ。
家事は三蔵と分担してやってもらい、働き口は……飯村に相談するしかないだろう。いや、飯村なら抜け目なく用意しているのかもしれない。
静馬はため息を吐いた。
一人前でもない人間が何を考えているのか。犬猫でもあるまいし、よくもまぁ断らなかったものだと静馬は思う。
結局、苦労を被るのは飯村である。主に金銭面において。それが何よりも大変なのを静馬はよく理解しているつもりだったのに。
静馬は思考を切り替えた。
やるべきことはまだある。
二つ目は、明後日の発表である。
なにをするかは決めてある。ただ時間が足りない。
何も考えず、がむしゃらに始めるには遅すぎた。無駄なく、効率的に行っても徹夜は確実なのだから、さらにうまい方法を考えなければならなかった。
完成形から逆算的に行動を考える。
なにが必要で何が不要か。
手順は大筋見えている。あとはそれをどう簡略化していくかなのだが、
「静馬、いい?」
そんな声が突然飛び込んできた。
思考を中断し、引き戸の方へ視線を向ける。
若干の間を空けてから、こんこんと扉をたたく音が聞こえた。
「あれ、いないの?」
桜の声。
静馬は慌てて上半身を起こす。
「ああ、いるよ。どうかした?」
「うん、ちょっと見てほしいんだけど」
開けるね、と言って桜は引き戸を開けた。
静馬は、ぎょっとした。
桜の恰好が、先ほどまでと変わっていたからだ。
桜は、
「これさ、なんか小さくない、かな」
頬を染めて、そんなことを言った。
薄手の布一枚。
そんな言葉で事足りるほど桜が来ている肌着は薄かった。体の線浮かび、太ももが露出している。恥ずかしそうに裾を引っ張らいながら、胸元を隠している。
意外にでかい。
深い谷間が見てとれ、腕で抑えた部分から零れるようなそれは、静馬にはあまりに強烈だった。
思わず、静馬は叫んだ。
「なんて恰好してんだ、お前っ!」
「え、だって、寝間着はこれって三蔵ちゃんが」
「下履けよ! っていうか、どう考えても丈が足りてないだろっ!」
言われて気付いたのか、桜ははっとした顔をした。照れ笑いを浮かべながら、機敏な動作で部屋を出る。
「あはっ、そうだよねそうだよね。ごめんごめん」
後から声だけが飛んできた。
静馬は声を無視して床に倒れ込む。先ほどの場面が強烈に印象に残っている。
不意に、静馬は突然のことで追い返してしまったのを後悔した。
あの場面は、笑いに変えるべきだった。
このままでは夕飯のときに気まずくなってしまう。
後悔先に立たず、静馬は夕飯時をどう迎えるか思考しなければならなくなった。
もっとも、
「ね、ねえ、静馬。悪いんだけど、着方教えてくれない?」
そんなことで済むほど、静馬の現実は甘くなかった。
引き戸の影に身を隠しながら言う桜に、静馬はどう返せばいいのかわからなかった。
*
食卓に並んだのは意外なことに刺身だった。
秋刀魚に鮭、鮪にイカ、カンパチに鮎。色は淡く、てらてらとてかっている。大根の配置や盛り方はまるで本職の板前のそれを見ているように静馬には思えた。
盛り皿の脇には白米。
人数分の小皿は既に配置につき、醤油とわさびがそれぞれ乗っている。皿の上に無造作に置かれた大きな海苔が、ひどく目を引いた。
手巻き寿司。
三蔵がみじん切りにした葱と納豆も持ってきた。
静馬と桜が席に着く。
結局、桜には洋服を薦めた。上下の組み合わせで、無地の灰色の寝間着である。
そもそも、桜が着ていたのは着物の下に着る肌着である。今日日、縁日でもなければ和服に袖を通す必要もない。桜も気に入ったのか、特に抵抗もなく身に着けた。少し丈は合わなかったが、そこは我慢してもらっている。
早速、静馬は海苔に手を伸ばす。桜と三蔵も続く。
飯村は、まだ台所で片付けをしている。捌いた魚の片付けは、思いの外大変なようだ。魚特有の生臭さを処理するにはそれなりの手間が掛かると聞いたことがある。
しゃもじで炊き立ての米を海苔に盛る。量は少なめ。ネタに鮪と鮭をのせ、わさびを塗った。
くるりと一巻きに。
軽く醤油に浸けて、いただきます。
静馬は台所にいる飯村に聞こえるよう大声で言う。
召し上がれー、と気の抜けた声が聞こえた。
一口頬張る。ぱりっとした触感と少し冷えた白米が心地いい。ネタもあっさりとしていて、あっという間に一つなくなった。すぐに二つ目の作成に取り掛かる。見ると桜と三蔵もぱりぱりと一心不乱に食べている。
しばらく無言で作っては食べる。
飯村が台所から顔出す頃には、ネタがなくなっていた。
「気に入ってくれたかな?」
「はい、すっごく美味しいです」
桜は満面の笑みで言う。飯村も笑みを浮かべて、「それならよかった」といった。
「追加も持ってきたから、たんと食べてくれ。静馬君、焼酎取ってくれないか?」
「はい」
静馬は焼酎が入った陶器を渡す。氷とコップ、水は既に用意してあったようで飯村は自分で水割りを作った。つまみはいつも通りに干烏賊である。もちろん、手巻き寿司も食べるようだった。全種盛を作ろうとしたときは、さすがに静馬が止めた。
追加のネタもなくなり、三蔵がお茶を淹れてくれた。湯呑が飯村以外にいきわたると、飯村は口を開いた。
「さて、お腹も膨れたことだし、改めて自己紹介だ。私は飯村啄木という。静馬の師匠、というと少し照れくさいから保護者と思ってくれればいい。次は、三蔵?」
「はいっ! 三蔵って言います。えっと、好きなことは料理することで嫌いなことは、その、お勉強すること、です。えっとその、よろしく、です」
ぺこり、と三蔵は頭を下げる。
意外なことに三蔵は人見知りが激しい。桜もそれを察したのか、笑顔で拍手している。三蔵は照れくさそうにうつむいた。やはりあざといな、と静馬は思った。
桜が静馬を見た。
静馬は口を開いた。
「改めて、黒賀屋静馬です。飯村先生の元で紋筆家見習いとして日々精進しています。これからよろしく」
静馬は手短に自己紹介した。
次は桜の番である。
桜は居住まいを正した。
「渡良瀬桜です。その、私自身、まだ信じられませんが、こことは別の、世界から来ました。どうして来たのかも、どうやって来たのかもわかりません。正直、混乱しています。全然知らない地名もそうだし、みんなの恰好も違う。けど言葉は同じで、文字も知っているものあります。なにより、こちらのみなさんはとても親切で、感謝しています。至らぬ部分も多々ありますが、家事手伝いでもなんでもします。これからしばらくの間、よろしくお願いします」
桜はそう言って、頭を下げた。
言葉は支離滅裂だったが、それでも十分だった。
飯村が頭を上げるように言う。
桜は、凛とした表情をしている。飯村は苦笑した。
「そう畏まることはないさ。最低でも半年は一緒にいるんだから、もっと肩の力を抜いてくれていい。自慢じゃないが、君みたいな人は良く知っている。困ったことがあればいつでも聞いていいし、三蔵や静馬君もいるからね」
「はい、ありがとうございます」
「さて、それじゃこれからの話をしたいと思うのだけれど」
飯村は静馬を見た。静馬は突然のことで飯村の意図が理解できない。飯村はにっこりと笑って言う。
「君には静馬君と同じ教育部に通ってもらおうと思うんだ。この世界のことを学ぶ上でも社会を理解する上でも最適な場所だからね」
*
夕食後、静馬は一人自室に籠った。それから、ずっと一人で筆を動かしている。
既に窓から差し込む日差しは正午のそれだ。辛うじて予定通りに事は進めていたが、それでも完成できるかどうか怪しいと静馬は感じている。三蔵が淹れてくれた珈琲を飲み、静馬は懸命に筆を滑らせる。
既に完成図はできている。
なにをどこに配置し、どう機能させるか。多種ある印の中で何がそれを行う上で最適なのか。その検討を終わらせるのに徹夜してしまった。
残っているのは地道な作業。だが、それが一番困難だった。
印を描くことは、静馬にとって既に手慣れたものである。だが、それだけでは足りないのだ。
念を込める。あるいは、思いを込めるとでもいえばいいのか。
これは印を描く上で最も基本であり、最も重要な部分である。
それぞれの印には意味がる。
その意味を正しく理解していなければ起動することは叶わない。そして、その先が静馬が目指す紋筆家にとって重要な領域となる。
印の効果はあくまで描いた人間の力量に依るものなのである。
維持、持続、範囲。
そのすべてが描いた本人の思いに応じて変化する。だからこそ、紋筆家は常に真摯に印に向き合う必要があるのだ。それこそが、静馬が紋筆家を志した理由である。
——落書き屋風情が。
ばちん、と嫌な音が聞こえた。
静馬は、失敗したことを悟った。雑念が入ったのだ。異臭が湧き、描いた箇所がぶすぶすと焦げている。
幸い、付け替え可能な部分だった。失敗した木材を用意していた水に浸す。水面が一瞬で真っ黒になった。
落書き屋。
紋筆家は世間からはそう評価されている。
特殊な炭と筆、そして印が描かれた目録さえあればだれでも使用は可能。それが紋筆である。飯村の言うことは当然正しい。誰にでも使用できるのだから何故専門家に頼む必要があるのか、理解できない人間もいるのだろう。
だが、と静馬は思う。
誰にでもできるからと言って、それを誰よりもうまく扱える人間がどうして見下されなければならないのか。
だめだ、集中力が切れた。
失敗の反省もそこそこに静馬は休憩をとることにした。時間に余裕はなかったが、こんな状態で続けても意味がない。
仰向けに寝転がると、引き戸をたたく音が聞こえた。
上半身を起こし、身構える。
誰かはすぐにわかった。静馬の部屋に入る際、そんな真似をするのは一人しかいない。静馬は深呼吸してから、どうぞと言った。
引き戸を開けて、桜が入って来た。
静馬は、ぎょっとした。
桜の恰好が変だったからではない。
顔が変だったからだ。
いや、変というよりはむしろ、
「お昼御飯だよー」
眠くて死にそうに見えた。目の下にくっきりと隈が刻まれ、目がしょぼしょしている。動作は緩慢で、掌に乗ったお盆にはお茶とおにぎりが五つ乗っている。
桜は静馬の傍に腰を下ろすと、じいっと睨んできた。
静馬も睨み返す。
不意に、
「「ひどい顔」」
静馬と桜は同じ言葉を言った。
「あ?」
「え?」
一瞬の間、静馬と桜はなぜか笑った。
「なんだよ、昨日寝れなかったのか?」
「まぁね。色々あったからさぁ。静馬はどうなの? なんか作るって言ってたけど」
「あとは地味な作業だな。少し休んで、夜までにはでかさないと」
ふうんと言って、桜は静馬の作業場を見た。が、すぐに首を傾げた。見ただけではよくわからなかったようだ。
「これも紋筆、だっけ?」
「そうだ。まだ仕込みだから、わからないだろうけど」
静馬はおにぎりに手を伸ばす。
一口頬張ると梅の酸っぱさが口内に広がった。疲れた脳みそにはちょうどいい刺激である。
桜はけだるそうに見ている。
「美味しい?」
「ああ」
「なら、よかった」
にししと得意げに桜は笑う。
静馬は不思議に思ったが、特に気にせずにもう一つ頬張った。今度は、明太子だった。
「聞きたかったんだけどさ」
「うん?」
「なんで、紋筆って使える人と使えない人がいるの? 私が使えないのは、まぁ、しょうがないとして」
桜は、既に紋筆について飯村から概要を教わっているのだろう。と言っても、静馬は夕食後に部屋へ籠ってしまったのでどの程度まで説明されたのかわからない。
質問の内容自体は説明できたが、その前提について彼女はまだ知らないのだろう。静馬は少し考えてから、
「そういうものだって考えるのが一番かな。細かいことは教育部で教えてくれるよ」
とお茶を濁すことにした。
桜は、またしても「ふぅん」と言った。それ以上の追及はない。
というよりも、いつの間にか畳に寝転がっている。手足を伸ばし、緊張感をかなぐり捨てた姿は猫のそれに似ていた。
「おい」
「ごめん、寝る」
「は?」
そうとだけ言って瞼を閉じた。
数秒後には穏やかな寝息を立てていた。
「…嘘だろ、おい」
あれほど険しかった顔がにわかに緩んでいく。しばらく見つめていたが、本格的に寝入ったようでピクリとも動かない。
電光石火の早業に、静馬は呆れるを通り越して感心してしまった。
ため息を一つ。おにぎりを全て頬張ってから、桜に蒲団をかぶせる。
不意に、気付いた。
桜の瞼から幾筋もの涙がこぼれているのを。
慣れない環境に一人で身を置くのは、半年前に静馬も経験した。最初の一週間は気を遣うばかりでひどく疲れたのを覚えている。それでも、静馬にとって見慣れた土地でもあれば友人も近くにいた。
桜は一人だ。
頼れるのは現実的な問題として、静馬だけだろう。自惚れなんて言葉は逃げと同じである。こんな部屋に引き籠られては、彼女自身どうしようもなく不安だったのかもしれない。
そっと筆を執る。
墨汁に浸けると、ぱちりと小気味いい音がした。
もしかすると夕方までに仕上がるかもしれない。その感覚を信じ、静馬は更に手を早めた。
無駄なく、速やかに。
寝息を立てる桜を意識しながら、静馬は懸命に手を動かした。
何事につけ、思いやりというのは大事である。
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