第11話 サガルとタクグス

 決壊したといっても騎馬民族の団結は表面上、すぐには崩れなかった。一応の後継者であるクミルの存在が理由だった。

 クミルはズタスにとって次男であり末子であった。騎馬民族は農耕民族と違って末子相続が普通である。上の者は成長して自立する力が出来たらさっさと家を出て、自力で勢力を作るからだ。実力本位の騎馬民族ならではである。ゆえに父親の勢力は、必然的に末子が継ぐことになる。

 クミルは次男だが現状は長男でもあった。彼の上には一人兄がいたのだが、すでに戦死していた。だから彼がズタスの跡を継ぐのに理としては何の問題もない。

 それでも全員が感じたのは決壊だった。

 実力本位の騎馬民族から見れば、クミルにズタスの後継者としての力はない。正確には器がないと見られていたのだ。

 彼は純粋な騎馬民族の長としては、充分な力量を持っていた。勇猛で恐れを知らず、武勇も秀でて略奪品の分配も公正だった。だがそれでは長城の北では族長を張れても、南では足りないのだ。彼ら自身に自覚はほとんどなかったが、騎馬民族も変化が始まっていた。その変化が、クミルの族長としての器量に「否」を突きつけたのだ。


 ズタスの葬儀は簡素なものだった。騎馬民族は央華文明と違って葬儀にさほど特別なものは込めない。

 だが葬儀までの期間はそれなりに長かった。ズタスの遺体は故地に葬ると決めたからだ。ズタスは波濤のように侵略した央華の大地を、南下した時に比べれば静かすぎるほどに北上していった。

 一応は馬車に乗っての帰郷だったが、央華人のようにのんびりと進むことはなかった。騎馬による全力疾走に比べれば相当に遅いが、それでもかなりの速度で進み、一ヶ月もしないうちに故郷へ戻ることが出来た。遺体を迎えるのは、老年や子供が多かった。壮年の者はほとんど兵として従軍していたのだ。それでも略奪品は定期的に彼らの元へ送られており、生活に困ることはほとんどなかった。その観点でいえば、彼らも侵略者の一員であった。


 そして分裂は実体化しはじめた。

 現在、騎馬民族が治める央華大陸の領域は、北を上に見て大陸の上方、約四分の一。北河以北と北河流域である。その領域を治めてきた将軍たちがクミルの統制から離れてきたのだ。

 クミルの召集を「庸遺民の叛乱のため」などと取って付けたような理由を告げて断ってくるが、さほど諜報に力を注いでいないクミルの耳にさえ、彼らが独自に動き、互いに争いはじめたとの情報は入ってきていた。事実上の叛乱・独立を計った将軍その他の勢力、大小あわせて実に十有余。報告に入ってこない極小勢力まで含めると、数十にすら及ぶかもしれない。これがズタス崩御から半月も経たないうちの状況で、すでに北河以北は内乱状態と言ってよかった。



「陛下、今こそ!」

 過去最大級の諜報力を北へ向けて放っていた臨時帝都・紅都は、ズタスの死から騎馬民族の分裂を、これまでにない早さで察知した。これこそ彼らが待っていた好機である。早晩必ず訪れるとわかっていた機会だが、予想よりずっと早かった。なにしろ徴兵から訓練までがほとんど終わっていない状態だったのだ。数からしてようやく十万に届くという程度である。これでも度重なる戦乱と敗戦から、国力の限界値だった。すでに壮年の男子は国中から枯れるほどの損害があり、来年や再来年の農工業・商業の壊滅状態を考えれば、たとえ勝っても国は滅亡しかねない。

 それでも将も兵も志気だけは充分だった。彼らとて、今が存亡の分かれ目だと実感している。自分たちが自分たちのままで滅亡するか、自分たちでなくなった上で亡ぼされるか。それだけの違いになりかねないとわかってすらいた。徴兵された民の故郷は、男手もなく、すでに壊滅状態なのだ。滅亡の実感は朝廷より彼らの方が切実に感じ取っている。

 それでもなお、彼らは戦おうとしていた。これはすでに生き死にだけの問題ではなく、民族として、人としての存在を賭けた戦いなのだ。


 多数の勢力に分かれての分裂状態に入った騎馬民族だったが、その中でもやはり大小はある。最大勢力と言っていいのは、当然ながらズタスの息子であるクミルのものであるが、各地に彼に匹敵する大勢力はいくつかあった。

 が、彼らは直接おのおのの大勢力に当たることはせず、周囲の少数勢力を潰し、吸収してゆく。猛々しい気性と荒々しい血流を持つ騎馬民族だが、同時に現実感覚は怜悧なほど鋭い。まずは勝てる状況を作り出すための行動を起こすのは当然であった。


 そんな中、韓嘉が死んだ。

 殺されたのではない。自害だった。

 クミルは父親の重臣であった韓嘉を冷遇した。彼は父親ほどに開明的でなく、韓嘉の「価値」がわかっていなかった。また「先王」の重臣が次代において冷遇される例は多々ある。クミルはあくまで騎馬民族の枠から出ることが出来ず、「常識的」であり続けることしかできなかったのだ。

 そうであってもクミルは父の師を殺そうとまでは思わなかった。韓嘉が彼のやることに口を出して来なかったため、殺すまでもないと考えたのだが、この時点で韓嘉は自害を決意していた。

 彼はズタスが亡くなるとわかった時点で、おのれのこの世での仕事が終わったと悟っていたのだ。彼がここまで生きてきたのは、騎馬民族に無意味に殺される、不幸にされる同胞を一人でも少なくするためだけだった。クミルの代になってもそのための勤めを果たすつもりだったが、嫡子の性情を知ると、それもあきらめざるを得なかった。韓嘉が何を進言してもクミルは聞く気がないとわかっていたし、何かを言えばそれだけで殺されることもわかっていた。

 搦め手でクミルを操ることも出来たかもしれないが、韓嘉は知性はあってもそのような奸計に類する策謀は不得手であり、効果が上がらないどころか返って同胞に悪影響を与える危険があった。

 であるならば、彼にはもうこの世に存在する意味も価値もなかった。それどころかクミルが亡父の師であり重臣だった自分を目の上の瘤のように感じ、それをもって庸人への悪感情を想起させる可能性すらあった。韓嘉が同胞のために出来ることは、自害しかなかったのだ。

 一日、彼は自邸の一室で、首を掻き切って死んでいるところを発見された。遺書も遺言もなかった。そんなものを残した場合、そこに書き残されていることを理由に、クミルが庸人への迫害を増加させかねない。また遺言がなかったことで、妻子のない彼の財産はクミルのもとへ吸収され、それにより彼の韓嘉への感情はやわらいだ。あるいは韓嘉はそこまで計算していたのかもしれない。

 彼はそれなりの礼をもって寧安の墓地に葬られた。ズタスが生存中に亡くなれば、国葬に近い葬礼を与えられたかもしれないが、師の真意を知る彼であれば、返ってそれはなかったかもしれない。韓嘉は自分が――心ならずも――同胞を裏切ったことを忘れたことがなく、そんな自分が、しかも寧安で国葬を執り行われるなど、考えただけでも死ぬに死にきれなかったことだろう。

 ズタスはそのような師の心情を知っており、また彼に祖国を裏切らせたのが自分であることも忘れておらず、師への罪悪感も思い合わせれば、むしろひっそりとした葬儀で済ませたに違いない。そこに心からの感謝と謝罪を込め、常の墓参りや供養を忘れないにしても。

 どちらにせよ、一つだけ、韓嘉を心から喜ばせたに違いないのは、自身の遺体が寧安に葬られたことだろう。同胞への限りない罪悪感はあるにせよ、生まれ故郷に葬られることを望まない央華人はおらず、おそらく韓嘉の唯一の念願であったに違いないから。


 余談だが、後世「庸史」と呼ばれる国家編纂の正式な史書において、韓嘉は奸臣の第一として銘記されることになる。国を根本から腐敗させた賢花を筆頭とする宦官や長城を開いてズタスを招き入れた張堅以上の、庸帝国最大の奸物・裏切り者としてである。

 張堅の行為は愛国の念が強すぎた上の愚挙であるため、同時代人の心情としては情状酌量の余地があった。宦官は自分たちの富貴や栄誉のために他者を犠牲にし、国を崩壊させる直接の原因を作ったのだが、最後に騎馬民族に絶滅させられたため、史家の筆もわずかにゆるんだのである。

 が、韓嘉はおのれ一人の富貴のため祖国を裏切った者として断罪された。


 だが、さらに後の「南庸史」において、韓嘉の評価は大幅に好転する。彼がなぜ騎馬民族に与しなくてはならなくなったか、なぜズタスを教示したのか、なぜ騎馬民族の世界に残って彼らに協力し続けたのか、その真意が明らかになったのだ。強いられたためとはいえ裏切りは裏切りであり、ズタスを教育して大きな意味で敵に利したことは確かなので完全に一変というわけにはいかなかったが、それでも彼によって救われた人民が万単位でいたことも知られたのである。

 なぜそのような事実や韓嘉の真意が後世に伝わったのか。

 ズタスが伝えさせたのである。

 ズタスは韓嘉の手紙や手記、事績のすべてを残し、すべてを記録させていたのだ。

 それが完全に央華化した騎馬民族国家の中で残り、さらに南庸に伝わったのである。その記録は騎馬民族ではなく――そもそも当時の彼らはそのようなことは出来ない――同じ庸人に命じて残させたもので、記録の正確さや客観性も充分に考慮されたものだったため、南庸でも真実として認められたのである。

 さらに韓嘉によって救われた者の中に南庸建国の功臣が幾人もいたこともあり、彼は一度も南庸に臣従したことがなかったにも関わらず、建国の功労者として史書に名が残ることになった。

 ズタスは師の名誉を回復せしめ、彼の人生における最大の懸念も払ってみせたのである。



 タクグスも、様々な感懐と失望の中にいた。

 ズタスの死に対するものが最大ではあったが、彼の死を冷静に分析する明晰さは衰えていなかった。

「早すぎる」

 それが唇を噛みながらの彼の結論であった。央華全土を征服するためだけではない。彼と彼の叔父にとっても、ズタスの死は早すぎた。

 もちろん戦場の雄であるズタスとはいえ、常に陣頭にある以上戦死の可能性は低くはないし、今回のように病に倒れることも充分に考えられた。だとしても、あと数年は生きていてもらわねば、タクグスの準備は何もかも間に合わない。今の段階では足場の一つを構築した程度で、彼の野心にとって何の意味もないのだ。

「叔父上、申し訳ござらん…」

 タクグスは、自分の責任ではないとはいえ、北に向かって謝罪せざるを得ない気持ちだった。彼にはこれから起こる権力争い・覇権闘争のための地盤も希薄であったし、なにより先が読めなさすぎる。叔父のバジュもまだ勢力回復が出来ているはずもなく、ここからこの場で最終的な勝利を得るためには、綱渡りどころか「糸渡り」のような危うさを覚悟せねばならない。しかしそれを渡りきる自信はタクグスにはなかった。

「これがわしの限界か」

 と自分の線の細さを自嘲する想いもあるが、彼には彼の生き方しか出来なかったし、「王佐こそが我が本懐」という自負もある。叔父を新たな央華の支配者とするために、これからの人生を使い切ることにためらいはなかった。



 その「糸渡り」を敢行しようとする者も当然いる。口裂けサガルもその一人であった。彼はズタスが死ぬまでは動かないことを自らに約していたが、彼が崩御したことでその禁も自ずから破られたのだ。

 が、それでも去就ははっきりしない。彼も不動の時間に様々に考えてはいたのだが、誰に付くのか、今後の方針を決められなかった。いかに俊英とはいえ、彼もまだ若く、絶対の正解など求めようがない。

 ズタスの息子であるクミルに付くのが最も単純ですっきりもするのだが、どうもこれは気が進まなかった。クミルは最初からサガルとシン族を自分たちの勢力と思いこんでいるようで、ありていにいえば臣下として見下している。サガルはズタスに私淑していたし、臣従していたと言われても否定するつもりはなかったが、コナレ族自体にシン族を組みしたつもりはなく、またクミル個人に臣従した覚えもなかった。ズタスの死によって、サガルとシン族とコナレ族との関係は一度白紙に戻ったと考えるべきである。

 これはシン族に限った話ではなく、他のどの族に対してもであって、そのことに思い至らず、個人的に父親に臣従していただけの相手を自動的に自分の臣下だと考えるなど、許されることではなかった。

 クミルは自分を父と同等の力を持つ族長と考えており、他の者たちの自分に対する評価も同様だと考えてもいるようだが、そんなことはまったくない。むしろ彼は父より数段落ちる存在と見られていて、それがゆえに去就に迷う者が多数現れているのだ。このあたりの客観性の無さ、思慮の浅さ、粗雑さも、彼に対する信頼を落とす原因になっていた。


 そのような訳でサガルもクミルを内心ではすでに見限ってしまっていた。しまっていたが、だからといって次はどうすればいいかがわからない。彼の経験値の少なさでは無理もなく、同じ族内に知恵者と呼べる者がいないこともあって、サガルの思考は袋小路に陥ってしまっていた。

 が、そこでとどまっていないのが彼の、ズタスが見込んだ資質の一つである。

「わからないことなら誰かに訊けばいい」と、他の族人に尋ねに行ったのだ。彼も騎馬民族特有の自尊心の高さは持っているが、必要とあればそれを曲げることが出来る強さも保有していた。これは「央華を攻めるためには央華を知らねばならぬ」と韓嘉に師事したズタスに共通する。


 そしてサガルが尋ねたのはタクグスであった。ズタスが死んだ数日後の話である。タクグスは新参に近い存在だが、それだけに他者と遺恨や確執の生まれる時間は少なく、また寧安陥落の立役者であり、ズタスが認める知恵者ということもあって、サガルもごく自然に彼の勇気と知略に敬意を持っていたのだ。加えてタクグスは比較的サガルと年齢が近いこともあり、それもまた彼の心の敷居を低くする一因にもなっていた。

「そのようなわけでタクグスどのに教えを請いたい。私はこれからどうすればよいと思われるか」

 タクグスの邸を訪ねたサガルは、素直に自分の迷いを話し、素直に頭を下げた。

 タクグスに限らず、寧安で騎馬民族の大半が住むのは、庸の要人が使っていた邸を接収したものである。が、実は彼らは、一様にそこに住みにくさを覚えていた。最初は豪奢な邸宅に興味をそそられ、豪華な家屋に自尊心や虚栄心をくすぐられていたのだが、そのような豪邸に住み慣れていないため、窮屈さや鬱陶しさを感じていたのだ。

 ズタスの存命中は、どうせすぐに南へ進撃が開始され、邸も引き払うとわかっていたため我慢して住んでいたのだが、中にはこらえきれず、庭に天幕を張って生活する者がいたほどである。

 タクグスはそんな中でも例外で、豪華な邸宅に住みにくさを覚えてはいなかった。どうやら彼は央華人の気質と似かよったところがあり、それが彼をして騎馬民族内で異質さを放つ一因になっているらしい。

 サガルもまた住みにくさを覚えている一人であるが、タクグスの応接室に通された時には意表を突かれた。家具類がほとんど置かれておらず、床に敷物、それも騎馬民族が天幕の中で使う種類のものが敷かれていたのだ。

「この方が落ち着くという方も多いので」

 と、笑うタクグスは敷物の上に直接あぐらをかき、サガルにも勧める。それをサガルは喜んで受けた。

「細かく気のつく御仁だ」

 というのがサガルの感想だが、そこに侮蔑はない。やはり武勲というものは偉大なのだ。


「なるほど…」

 山羊の乳と砂糖をたっぷり入れた北方の茶を飲みながらサガルの話を聞き終えると、タクグスは静かにうなずいた。

「いかがであろう、タクグスどの」

 タクグスのうなずきに、サガルはもう一度尋ねる。その真摯な様子にタクグスは、脳内で二つの思考を重ねた。一つはサガルの問いについて。もう一つはサガル自身について。

 この若く勇猛な族長は大きな可能性を持っている。そのことをあらためて確認した思いであり、ズタスに続いてこのような逸材が排出されるというのは、時代のうねりに意思というものがある証明かもしれない。そのようなことまで考えもしたが表には出さず、タクグスは答えてやった。

「高く売りつけてやりなされ」

「…は?」

「言葉通りの意味でござる。サガルどのはまだ去就を明らかにせぬがよろしかろう。今のサガルどのの名声は天下を覆うに等しいが、その名声のみを求めて勧誘してくる者がほとんどでありましょう。彼らはサガルどのの真価をわかっておらぬ。ゆえにサガルどのを誘うにおいての条件や報奨も過少に相違ござらん」

「いや、おれとしては充分好条件というものも多いのだが…」

 事実、彼を誘引しようとした者たちが出してきた条件や報奨は、戦場で有力な敵将を五人や十人は討ち取らねば得られぬほどのものばかりで、彼としてもまったく心が揺らがないというわけにはいかなかったのだ。

 が、タクグスは断言する。

「足りませぬ。その者たちがサガルどのにどれほどの報奨を積んだかは存じませぬが、明らかに足りぬと言い切れます」

 報奨や条件の内容を知らないのなら断言も出来ないだろうにとサガルは思うが、タクグスの言にも表情にも確信が満ちており、そこに裏打ちすら感じられたため反論は控えた。だいたい自分をより高く評価してくれているというのにそれに反論するなど、どこかおかしい。

 いささか表情の選択に困っているサガルに、タクグスは内心で小さく好意的に笑うと、表情をあらためて告げた。

「近く、庸軍が北上してきます」

 一言だけだがその内容にサガルも表情を硬化させる。彼自身、そのような事態を考えなくもなかったが、あれだけ徹底的に痛めつけられた庸軍がさらなる反攻をおこなうかどうか、半信半疑だったのだ。

「そのような情報がありますか」

「ちらほらと。おそらく我らの内乱が燃え上がったところで攻め上がってきましょう。ゆえに、そう遠くない将来になります」

 タクグスは「内乱が起こる」と言い切った。騎馬民族の半ばもその覚悟は出来ているだろう。人界に起こることのすべては、人の意志に因がある。大半がそのことを望めば、起こらない方がおかしいのだ。

 サガルもそのことは承知しており、今さら聞き返さなかった。そのサガルにタクグスは、少し表情をゆるめて続けた。

「サガルどのはその時に、存分に武勲をお立てなされ。それによりサガルどのにふさわしい報奨をもって迎え入れようとする者が必ず現れます。もし現れなければその時は北へお帰りなされ。このような場所にいてもしかたありませぬ。あなたにふさわしい長はおらぬということですから」

「なるほど…して、わしにふさわしい報奨とは?」

 タクグスの言うことにサガルは得心した想いだった。出来るだけ高く自分とシン族を売りつけるには打ってつけの状況が迫っているということだ。その好機を活かさない手はない。が、肝心の「ふさわしい報奨」がわからなければ、誰についていいか判断のしようがない。それゆえサガルはタクグスに尋ねたのだが、問われた方はさらに表情をゆるめた。

「それはその時になればおわかりになりましょう。そして失礼ながら、その段になってもおわかりにならないようであれば、サガルどのの将来はさほどのものにはなりますまい。が、サガルどのならきっとわかる。私はそう思っておりますよ」

 笑顔に近い表情でタクグスはそう言うと、少し手を伸ばして背後にある書物を一冊取り、それをサガルに差し出した。

「よければこれをお持ちなされ。こたびのこととは直接関係はありませぬが、央華における最上の兵法書です。きっとサガルどののお役に立つ」

「いや、おれは字が読めぬゆえ…」

 いささか狼狽するサガルは、常の彼らしい一人称を使ってしまう。文盲は騎馬民族では珍しくないためそのことを恥じたわけではない。単に思いもかけぬ物を差し出された困惑が狼狽の理由であった。が、タクグスはそれには何も言わず続ける。

「では読める者に音読してもらえばよろしい。あるいはこれからでも字を覚えればよろしい。これはズタスどのの愛読書であったといえば、そのための意志も湧きましょう」

 ズタスの名を聞いて、サガルの表情に緊張が走った。それは鋭かったが冷たくはなく、自身の目指すべき、超克すべき対象に対するものだった。サガルにとってズタスは、そのような存在なのだ。

「受け取ろう。感謝する」

 ゆえにそれ以上逡巡することもなく、サガルは差し出された書物をしっかりと受け取った。それを見てタクグスも温顔でうなずき、茶をすする。

 と、ここで話が終わってしまったことにサガルは気づいた。

「…そうだ、タクグスどの、礼物は何がよろしいか」

 そのことにも気づいたサガルは、相談に乗ってもらったことと、押しつけられた形だがズタス愛読の兵法書の礼について尋ねた。本来であれば最初から用意してくるべきものであったが、いささかサガルも煮詰まっていたらしい。そこまで気が回っていなかった。であるならタクグス本人に何が欲しいか尋ねた方がよかろう。騎馬民族はあくまで率直で合理的だった。タクグスは自分の問いにはっきりとした解答を与えてくれたわけではないが、それでも方針は決まったし、なぜかすっきりした気分にもなっていたため、サガルとしては充分礼をする気になっていたのだ。

 が、その問いに対してもタクグスは明確には答えなかった。

「それについては追い追い。いささか意表を突くものになるやもしれませぬが、サガルどのにとっても益となるものにするつもりですので、今明かさないのはご容赦を」

 茶をすすっていたタクグスの、澄まし顔での思わせぶりな答えに、常のサガルなら不機嫌、場合によっては怒気を発するところだが、どうにもつかみどころのない「寧安の英雄」に、苦笑を漏らすだけだった。

「さようでござるか。ではその時を楽しみにしております」



 そしてズタスが死んで三週間後、ついに内乱は勃発した。各地の軍閥――すでに軍閥と称しても構わないであろう勢力へ、クミルは再三の召集を命じていたのだが、彼らが一向に応じなかったため、早々に堪忍袋の緒を切った新族長が、近くにいた一勢力へ攻撃を仕掛けたのだ。それが文字通り切られた火蓋となり、各地の勢力が一様に相争い始めたのである。

 中には中立を保ち、漁夫の利を画策する者もいたが、攻められれば応戦せざるを得ず、一定以上の勢力を持ちながら戦乱に巻き込まれずにすむ者はいなかった。


「北狄内乱突入」の報は、三日後には紅都へ雷報として届いた。これは庸が平和で、大陸内の往来も盛んな頃ならまだしも、大混乱に陥っている現在の状況では驚異的な速さで、いかにこの情報を紅都が待ち望んでいたかわかるというものであった。

「北上開始!」

 準備が万端というわけではない。どれだけ訓練しようとも、この短期間で騎馬民族軍に対抗し得る将兵を育成しようもない。それでも庸軍は進発した。本当に、本当に最後の好機を絶対に逃さないために。



「来たか」

 が、紅都が騎馬民族の動向を探っていたのと同水準で庸軍の動きを探っていた者が寧安にもいた。タクグスである。

 この段階で北河以北の地は内乱の坩堝と化しているが、なんと騎馬民族のほとんどすべてが北河の再渡河を果たし、北方へ帰ってしまっているのである。つまり寧安を含む北河南部の占領地を放棄してしまっているのだ。

 これは異常事態であるが事情は単純だった。つまり内乱が激しくなりすぎ、戦力を遊ばせておく余裕がなくなってしまったからである。南部占領地はもちろんだが、寧安を放棄するのは彼らにとってもあらゆる意味で断腸の想いだったが、そこにこだわって覇権争いに負けたとあっては死後まで嘲笑の対象になってしまう。軍事に関して彼らはあくまで専門家としての見識を見失っていなかった。

 また、

「それにどうせ再占拠するのは庸の弱兵どもだ。最後まで勝ち残った後、再奪取すればいいだけのこと」

 クミルに限らず騎馬民族のほぼ全員がそう考えていたことも確かだった。あまりに簡単に奪取出来てしまったため、本来の寧安の堅城ぶりを忘れてしまっているのだ。

 それゆえたった一人――といっても彼の麾下である五千の兵も一緒であったが――、タクグスが寧安防衛に残ると告げたことに、驚く者はいても強いて反対する者はいなかった。それは残るタクグスを説得や脅迫する余裕もなく北へ帰らなければならなかったからでもあるが、

「たとえ一時寧安を独り占めできたとて、最後の勝者が数十倍の戦力で包囲すれば持ちこたえられぬであろうものを」

 という考えもあったからである。もちろんそのように考えるのは、自分が「最後の勝者」になると信じて疑わない者ばかりである。

 そのようなわけで現在の寧安の主はタクグスということになった。といって変わったところがあるわけでもない。騎馬民族たちも一応の満足を得たか一時の暴虐は鳴りを潜めていたし、タクグスとその将兵は比較的穏健でもある。都内はようやく秩序を取り戻し、普段の生活を営みはじめていたのだ。

「さて…」

 寧安の主となったタクグスだが、それが一時のものであることは彼もよくわかっていた。というより、それが最初からの彼の望みであった。彼には彼の精算があったのだ。



 庸軍は北上を続ける。その動きはさほど速くはなかった。訓練が不充分だということもあるのだが、基本戦略が騎馬民族同士の内乱に乗じる形で敵を各個に撃ち破ってゆくというものであることも影響してた。

 このまま北河を渡って彼らの勢力圏へ突入するのはあまりに危険すぎる。猛獣同士の争いの渦中に草食動物がまぎれこむようなもので、余波だけで弾き飛ばされてしまうだろう。

「まずは北河南岸に拠点を設け、そこで情報を収集し、北狄が内乱に疲弊し切ったところを襲撃する」

 たとえ獰猛な野獣であろうと、互いに相争い、傷つけあえば、勝者とて無傷ではありえない。その状態であれば、たとえ草食動物とて勝機はある。角で刺し、北へ追い落とすことも不可能ではないのだ。

 軍が北上する間、先行させた斥候たちは北河以南の地域から騎馬民族が姿を消している旨、報告は入っていた。連中も仲間割れに余力を残すことが出来ないのだろう。

 また北河から逗河にかけての領域は、騎馬民族が蹂躙し、そのまま北へ帰ってしまっており、その慰撫のためにも北上の速度は上げられないという事情もあった。

 そして彼らは一つの有力な情報も得ていた。

「寧安が空(から)になっておるか…」

 北伐軍の総司令官は、両腕を組んでその情報を聞いた。もちろん寧安から人がすべて消えたというわけではない。本来の都民はそのまま、騎馬民族軍の姿が消えたということである。

 考えられる状況ではあった。彼らにしてみれば戦力は一騎でも多いに越したことはなく、寧安防衛のために割(さ)くことすら惜しかったのであろう。それにしてもせっかく陥落せしめた央華随一の大都市・帝都寧安をこうも簡単に放棄するとは。

「北狄の北狄たるゆえんだな」

 侮蔑の思いもありつつも、この蛮族ぶりが今の庸人にとっては恐怖の対象でもある。彼らには自分たちの常識は通用しないのだ。そしてそのような蛮族に自分たちは勝利どころか一矢を報いることすら出来ずにいる。逃げ腰になる思いは如何ともしがたかった。が、

「とにかく寧安が空いているのならそこを拠点としよう。かの都ほどそのためにふさわしい場所はないからな」

 と、彼らは満場一致で寧安へ向かうことを決定した。


 庸軍は寧安への道を、慎重に慎重を重ねて選び、細心に細心を重ねて進んだ。とにかくこれまで彼らは騎馬民族軍に負けに負け続けている。そのほとんどすべては敵に意表を突かれ、背後から襲われたことも大きな要因だった。

 それゆえ彼らは常に斥候を放ち、前方に敵がいないことを確かめ、通り過ぎた後も後方に敵が現れないことを確認し、また隊列が細くならざるを得ない道や、視界が悪い場所は極力避けて進んだ。

 空き家に忍び込もうというのに――自宅に帰ろうというのだから酷な言い方だが――極端なほどの警戒、あるいはおびえようだが、今の騎馬民族軍はそれほどまでに強力なのである。たとえズタスがおらずとも。


 そして遅すぎるということはないが速いとは言えない速度での行軍も三日を過ぎた頃、前方を偵察に行っていた斥候が息急き切って戻ってきた。

「前方に北狄軍! 数、一万以下! おそらく五千程度と思われます」

 一万と五千では相当に違うが、これは斥候が騎馬民族軍を見つけた段階で及び腰になり、詳細を調べる前に急ぎ逃げ戻ってきたためである。これでは斥候の役目を果たせていないとも言えるが、そのことに構う余裕は今の庸軍にはなかった。

 騎馬民族軍の名を聞いただけで全軍にピリッとした空気が走る。が、その過半は緊張ではなく恐怖に満たされていた。

「どうする、進路を変えるか」

「いや、それでは敵軍に有利な土地に迷い込む恐れがある。我らにとって最適な行軍路を取っていることを忘れるな」

「そもそも敵は戦う気があるのか。わずか一万以下では威力偵察の可能性も充分あるぞ」

「わかるものか。連中は我らのことを弱兵と思いこんでおる。十分の一以下の兵力でも勝てると踏んでいてもおかしくない」

「確かにそうであろうが、しかしそれでも真正面からとはさすがに思い上がりも過ぎよう」

「我らはそこまで侮られておるか」

 首脳陣の軍議も真剣さは増すが、根底に騎馬民族への恐怖がある。最後の台詞は激昂しながら放ってもおかしくないのに、沈鬱さとともに発せられた後、全員が重苦しく押し黙ってしまう始末である。

 が、さすがにそのことに気づいた一人が、椅子蹴るようにして立ち上がると、自らを鼓舞するためにも全員に怒声を発した。

「我らはなんのために十万の大軍をもって北上してきたのだ! 北狄の影におびえ、逃げに逃げた挙げ句、何の成果も得ずに南へ取って返すためか! 諸卿、敗北とともに皇帝陛下と社禝への忠誠も、祖先への孝心も、自らの誇りも、北狄に与えられた恥辱も、すべて忘れ去ったか!」

 その声に、その場にいた面々がハッと我に返る。が、それも半ばである。それほどまでに騎馬民族への恐怖は大きかったのだ。

 だが全員がその恐怖を強いて振り払った。彼らがすべきことをしなければ、南庸帝国は滅亡への転落を止めることができないのだ。

「よく言ってくれた。我らが武器を携えてきたのは、北狄どもの不当な占拠に断固否をとなえるためだ。まして前方にいるのはわずか一万弱の寡兵。この程度の敵すら殲滅できずに北狄を長城の北へ押し返すなど出来ようはずもない。交戦あるのみ! 諸卿の存念は如何?」

 総司令官がそのように質すと、全員が力強くうなずいた。

「異議なし。我らの意志を北狄どもにぶつけてやろうぞ!」

「そうだ、大庸帝国の威信を北狄にも存分に味わわせてみせよう」

「皇帝陛下万歳! 大庸万歳! 父祖と神々も我らの戦いをご照覧あれ!」

「よし、それではこれより、前方の敵軍を撃破。そのまま寧安へ進軍する。全軍、出撃!」

 総司令官の命令が発せられ、全員が起立とともに鬨の声を挙げた。



 さて、庸軍の前方にいるという一万弱の騎馬民族軍は誰の麾下にあるものか。

 タクグスである。すべて騎兵だった。

 兵数は五千。庸軍斥候の観察は正しかった。

 この近辺で公に存在する騎馬民族軍はタクグス軍だけであり、他のほとんどは北河を渡って北へ帰っている。それゆえタクグスは孤軍で庸軍十万と戦おうとしているように見えた。いかに庸が弱兵の群といっても二十倍。しかも真正面から戦おうというのであっては、いささか分が悪すぎる。

 が、タクグスは意に介さなかった。進軍が止まっていた庸軍に再始動の動きが見え、それがこちらに向かっているとの報告を聞くと、一つうなずき、兵たちに向かって告げた。

「では、手はず通りに行くぞ。全軍出撃」

 大声だがどちらかといえば落ち着いたタクグスの命令に、全兵が鬨の声で応じ、そして進軍を開始した。

 庸軍も斥候は放っており、前方の騎馬民族軍が自分たちに向かって動き始めたと知ると、緊張を走らせた。それは恐怖と紙一重のものだったが、無理矢理奮い立たせた気力で士気に変える。

 また、騎馬民族軍と激突する戦場も彼らの士気に大いに影響した。そこは多少の起伏はあれど、十万の兵を活動させるに充分な広さがあり、周囲の見晴らしもよく、伏兵を潜伏させる場所もない。つまり詭計を弄する余地が少なく、いかに騎馬民族であっても正面から対決するしかない土地だったのだ。

「これほどの兵数差がありながら、なぜやつらは正面から戦おうとするのだ」

 庸軍首脳の中にはそう疑問を抱く者もいたが、たいていは「やつらはそれほどに我らを見下しておるのだ」という理由をもって思考を停止する。それは当然憤慨の種になるが、これまでの庸対騎馬民族の戦歴や、騎馬民族の気性からすれば、充分説得力のある理由でもあった。

 ゆえに庸軍は、誇りを傷つけられた怒りと、恐怖の裏返しから来る士気によって、騎馬民族軍へ突進してゆく。

 だが彼らは目の前にいる敵軍の指揮官が、そのような騎馬民族的気質や思考法から最も遠い場所にいる人物だとは知らなかった。


 庸軍は敵軍が見えるほど距離が縮まっても止まることはない。騎馬民族軍も同様である。五千の騎兵の疾走は確かな圧力をもって庸軍の緊張――恐怖――を強めはしたが、やはり自分たちの二十分の一の勢力であるだけに、庸兵の恐怖は臨界水位を越えることはなかった。


 矢いくさの距離になると庸軍は騎馬民族軍へ矢の雨を降らせる。が、彼らの速力は矢による被害を最小限に済ませると、庸軍へ肉薄してくる。

「よし、揉み潰せ!」

 庸軍総司令官は自軍の分厚さを背景に、騎馬民族軍の突撃を正面からまともに受けた。被害は出たが、庸兵は持ちこたえる。騎馬民族軍は、容易に逃げ出すと踏んでいたであろう庸軍が意外な粘りを見せたことで動揺を覚えたようだ。戸惑う気配を見せたのである。

「よし、行け、鏖殺(おうさつ)しろ!」

 見たことのない騎馬民族軍の弱気な姿に、総司令官をはじめ、ほとんどの庸兵が勢いづいた。二十倍の兵力をもって五千の騎馬を包囲殲滅しようとする。が、それを感じ取ったか、狼狽したままの騎馬民族は馬首を翻すと、そのまま逃走に移った。

 逃げ出す騎馬の背中が、庸軍を激しく駆り立てた。

「いけ! 逃がすな! 追え!」

 それはそうだろう。これまで勝ちに勝ち、殺しに殺し、侵しに侵し続けてきた無敵の騎馬民族が、なんと自分たちに背中を見せて逃げ始めたのだ。恐怖の裏返し、あるいは恐怖からの解放を求めて庸兵の士気が爆発するのも無理はなかった。

 暴走する士気は庸軍自身を見失わせ、目の前の逃げる騎馬民族以外、視界に入らない状態に陥らせた。


 騎馬民族軍は逃げる。ひたすら疾走して逃げる。が、全員が騎馬である彼らに庸軍の歩兵も輜重隊も追いつけるはずもない。なんとか追いすがるのは騎兵隊だけである。それでも騎馬民族軍の十倍近くの数になる。殲滅は充分に可能だろうと思えた。

「追え! 追え! 追え!」

 頭の中でそのような計算を終えた庸軍総司令官の命令はひたすら単純であった。勢いに乗らねば絶対に勝てないと思いこんでいることもあり、追っている彼らの方が心理的に追いつめられている面もあった。

 それゆえ庸軍は気づかなかった。本来、庸軍よりずっと巧みに馬を操る騎馬民族に、なぜ自分たちが引き離されず追い続けられているのかを。

 そして騎馬民族軍五千に引きずられるように、十万の庸軍が細く長い隊列を敷き始めていることを。


 騎兵隊が突出した形になっているが、後方の歩兵隊や輜重隊が追撃をやめて立ち止まったわけではない。いかに有利な態勢といえ相手は強力な騎馬民族軍である。後方部隊の援護が必要になるかもしれないし、仮にそうでなくとも、歩兵隊も輜重隊も騎兵隊同様、逃げる騎馬民族軍の姿を見て心も体も浮き立っていたのだ。止まれるものではなかった。


 突然だった。正確には突然ではなく、しばらく前から地鳴りや地響きは聞こえていたのだが、浮き立った彼らは気づけなかったのだ。

 が、気づいた瞬間に全身に鋭い悪寒が走り、反射的に振り向く。彼らが最も聞きたくなかったもの、感じたくなかったものだと悟ったのだ。

「…北狄だあ!」

 これまでの戦いで何人の庸兵が何度叫んだことだろう。込められた感情すら同じである。だが後の戦いになればなるほどその感情は、濃く、深く、彼らの心身にえぐりこみ、急速に浸透してくる。

 現れた騎馬民族軍は、その染み込んだ感情を呼び水に、庸兵たちの心と体の奥深くにもともとあった同じ感情――恐怖を簡単に噴出させた。

 敵の数は一万から二万。前方の騎馬民族軍より多い。いったいこれだけの兵がどこにいたのか。斥候は常に四方八方へ放っていたというのに。

 しかしすでにその疑問に意味はなかった。後方から突進してくる騎馬民族軍は、圧倒的な統率力をもって庸軍へ迫り来る。

「ひ、ひいぃいぃぃっ!」

 最後尾にいた輜重隊の兵は精鋭とはいえない。つまりもともと弱兵の庸軍の中でさらに弱兵であるのだ。敵軍への反撃など考えることも出来ず、それどころかほとんどの兵は逃げることすら出来ず、その場にうずくまり、頭をかかえて悲鳴をあげるだけだった。

 が、騎馬民族軍は彼らの脇を通り過ぎていった。

「は……」

 輜重隊と彼らを守る(はずだった)兵は、土煙をあげて遠ざかってゆく騎馬民族軍を、間の抜けた表情で見送る。

 もちろん彼らは、ただ見逃されたわけではない。輜重隊は物資の山、騎馬民族軍にとっては宝の山である。それをわざわざ使えなくする必要はない。今は前方の庸軍を完全に撃滅することに専念し、その後で彼らの荷を奪えばいいのだ。その間に輜重隊の兵が右往左往していれば、帰ってきた時に殺して奪う。それだけのことである。

 また彼らが物資を盗んで逃げてしまっても、この際は構わない。庸軍最後の抵抗軍を撃滅してしまえば、その後は央華大陸の大半を奪い放題、喰らい放題である。彼らが持ち去った物資など、その時まで貸しておくに過ぎないのだ。


 が、この騎兵隊の最も恐ろしいところは、それを実行してのけていることである。騎馬民族にとって、略奪は本能の域に達するほど刻み込まれている。戦いも略奪のためにおこなうもので、優先順位は後者が上なのだ。それだけに、いかに庸軍を先に叩くと決めていても、目の前の物資に心奪われ、そちらへ先に手を出す可能性も低くなかったのである。

 が、彼らは輜重隊の物資には目もくれず通り過ぎた。兵が精鋭であることも確かだろうが、率いる者の統率力が圧倒的なのだ。

 だが、取り残された輜重隊の兵たちにそんなことはわからない。呆然としたまま、へたりこんだまますぐには動けないだけである。それゆえ自分たちを見逃した騎兵隊の先頭にいた者が、少年期をわずかに越えた程度の若い男であることを見極めた者もいなかった。


 騎兵隊に置き去りにされながら、庸軍歩兵隊は健気にも必死に彼らを追っていた。隊列も崩れがちだがなんとか秩序を保ち、短いながらも訓練が無駄ではなかったことを証明している。

 だが、そんな彼らの訓練も無意味に終わろうとしていた。隊列は輜重隊、歩兵隊、騎兵隊に分断されるほど細長くなり、すでに軍隊としての体を成していない。

 そんなところを襲われたらひとたまりもないし、事実、ひとたまりもなかった。

「……?」

 輜重隊が命拾いしたことを呆然と実感している頃、歩兵隊も地響きを感じた。そして振り向いた。悲鳴を挙げた。ここまでは輜重隊と同じだった。が、その後はまったく異なる運命が彼らを襲った。

 騎馬民族軍は機動力も攻撃力も比較のしようもないほどに劣る相手を、なんの容赦もなく撃砕した。歩兵隊の有利は数の多さだけだったが、それはまったく発揮されることなく終わった。

 騎馬民族軍は歩兵を全滅させることに固執しなかった。それゆえ生き残った兵も多かったが、だとしても歩兵隊のうち二割は殺され、二割は負傷させられた。そしてその中の幾人かは、先頭で最も勇猛に戦う騎馬民族の指揮官が、思ったより若く、そして片頬が人外の笑いのように耳まで裂けているのを見た。



 最前線の庸軍騎兵隊は、後方の輜重隊が無力化されたことや歩兵隊が粉砕されたことにしばらく気づかなかった。それほど自分たちの前を逃げる騎馬民族軍に気持ちを奪われていたというのもあるが、やはり迂闊だったと言わざるを得ない。兵も未熟だったが総司令官をはじめとした将軍たちも力量不足だったのだ。

 彼らが異変に気づいたのは、それこそ輜重隊や歩兵隊と同じ理由であった。どこからともなく地響きと、それにともなう一種の圧力を感じたのだ。そこで反射的に振り向き、ようやく自分たちが歩兵や輜重隊から孤立しているのを知る。

 が、そのこと以上に彼らを戦慄させたのは、後方から迫るありえない大量の土煙であった。

「……」

 無言で、惰性で、馬を走らせ続ける。中には隣を走る馬と接触して落馬しそうになった者もいたが、他の誰もそれに構う余裕がなかった。

「まさか…」

 言葉にならない言葉が彼らの口から漏れる。今現在、この近くに自分たち以外の庸軍騎兵隊はいない。いや、もしかしたら北狄に撃ち破られた敗残兵を、誰か有力者がかき集め、援軍として参戦して来てくれたのかもしれない。

 が、彼ら自身もそんな夢想を心から信じてはいなかった。信じたくはあったが信じることはできなかった。そして現実が、彼らが最も信じたくない事態であっても逃げることはできなかった。

 ゆえに彼らは、全身を口にして絶叫した。

「…北狄だあ!!」

 ほんの少し前に輜重隊や歩兵隊が放ったのと同じ言葉が、同じ感情とともに庸軍騎兵隊を覆った。その感情――恐怖は、庸兵のギヤマンの士気を無惨にも打ち砕いた。もう、庸軍は軍隊ではなかった。

「なぜだ、北狄など他にいなかったではないか!」

 鬱積した連敗の屈辱と恐怖を打ち払えると、まるで一兵卒になったかのように遮二無二馬を走らせていた総司令官も、氷水を浴びせられたように我に返り、叫んだ。彼の疑問も当然である。このような事態にならぬよう、慎重に慎重を重ねて斥候を放ち、騎馬民族軍の動向を探らせていたのだ。その報告の中にこれほどの大軍が潜んでいるというものは一つもなかった。

「北狄どもは空を飛べるのか」

 似たようなあえぎを、かつて摂津の戦いで後背を突かれた孫佑も漏らしていたことを、彼は知らない。


 そして当然、神出鬼没の騎馬民族軍とはいえ、空を飛ぶ術は心得ていない。すべてはからくりがあり、からくりの種を作り出す男がいてこその奇術であった。摂津の戦いの奇術師はズタスだったが今回は別の男である。

 タクグスであった。

 タクグスは情報戦において騎馬民族中随一の能力を誇る。それは実戦で鍛えられた、骨太で鋭敏なものであり、平和に安住し、騎馬民族の襲来ではじめて本気になった庸軍の及ぶところではなかった。

 タクグスは南から北上してくる庸軍の動きを細大漏らさず観察していた。そして彼らの慎重な行軍と、常にない斥候の活発さに、自分たちに対する恐怖心を感じ取っていた。

 そのような相手が、どの程度の行軍速度で、どの道を通って、どの日時に、どこにいるかを予見するなど、タクグスには容易な話であった。

 また庸軍斥候の索敵範囲も調べ上げ、とある族の長に一つの提案をしていた。

「わたしが囮になり、この日のこのあたりの平野に庸軍を誘導します。それまであなたは戦場となる平野から離れたこのあたりに潜伏しておいてくだされ。ここならば庸軍の斥候にも見つからず、また当日に間に合うよう戦場へ到着することができましょう。その際、庸軍の動きはこのようになっているはずですので、こちらの方向からやってくれば後背を襲えるはずでござる」

 と、タクグスは地図を指さしながら事細かに告げた。希代の英雄であるズタスに見初められ、寧安陥落を成し遂げた軍師の言に異を唱える族長ではなかった。


 その族長とは、もちろんシン族族長口裂けサガルである。彼はタクグスの助言通り、自分を高く売りつけるため活発に動くことをやめたため、返って手持ち無沙汰の状態に陥ってしまっていたのだ。

 そこへタクグスの「庸軍北上」の話である。

「暇つぶしにはもってこいだ」と彼が思ったのは傲慢と自信が紙一重の自負からであったが、それでも自軍の損害を一兵でも少なくする算段を考えないわけにはいかない。弱兵の庸軍など正面からぶつかっても負けるはずはなかったが、被害が皆無ということはありえないのだ。それゆえサガルはタクグスの作戦を快く受け入れた。

 そしてそれは、単に自軍の兵の損失を恐れたからだけではない。サガルもまた、ズタスやタクグスを通じて用兵というものの有用さやおもしろさを感じ始めており、自然と学習と実施の機会を欲していたからでもあった。


 そして今、実施の段階で、サガルはタクグスの用兵の巧みさに全身を沸き立たせていた。

「タクグスどのが欲しい」

 この時になって初めてそう思ったのは、彼がただの猛将から知勇兼備の名将へ移り変わろうとしていたためか、あるいはさらに上の存在を目指そうとしていたためか。それはサガル自身にもわからなかったが、今の彼の意識は目の前の庸軍を撃滅することのみに収斂され、それ以外の思考はすべて消え去った。

「シャアッ!」

 全身を灼熱の猛火と化したサガルは、麾下の兵へ行動で命令を下す。先頭を切って庸軍のただ中へ突進、突撃したのだ。

「シャアッ!!」

 サガルに続き喚声を上げると、騎馬民族軍は庸軍の後背へ襲いかかった。

 その様は巨大な顎門(あぎと)が庸の馬群を食い破るようであった。

 

 すでに戦闘ではなかった。これまでの庸との戦いで何度も使われた表現だが、様相が同じである以上、使われる言葉が同じものになるのも致し方ない。

 背後から自分たちより強い兵に強襲された以上、庸軍には勝ち目どころか生き残ることすら不可能に近いものになった。現に馬群の中頃にいた総司令官も帰らぬ人となってしまう。


 余談だが彼の名を記してこなかったのは、どの史書にも残っていなかったからである。当時からそれほどに軽く見られていた人物であり、歴史上果たした役割も「第一次騎馬民族戦争において最後に撃滅された庸軍の将」以外に存在しないのだから無理はないかもしれない。

 だがそれでも、これほどの戦いの将軍でありながら歴史に名が残らなかったというのは異常と言っていい。あるいは実在しなかった人物なのではないかという意見すらあるが、軍隊に司令官がいないことはありえないのでこれは否定されている。南庸の史家たちが、ズタスが長城を越えて以来、最初からいいところなくやられている自軍の恥を少しでも薄れさせたいと、せめて最後の戦いについての記述を曖昧にしたいと筆をゆるめたのだという説もあるが、こちらの方がありそうという意見もある。

 とにかくこの件についての真相は不明であり、この「常永の戦い」の敗北から残ったのは、庸軍はこれ以後百年以上、北伐の軍を起こすことがなかったという事実だけである。


 騎馬民族軍の庸軍への攻撃は、これまでに比べると手加減がされていた。落ち延びた兵が多いことからも確かである。

 これはタクグスの指示であった。

「彼らは南へ帰り、我らに対する恐怖を庸に決定的に刻み込んでくれましょう。これでしばらくは背後に憂いなく北での戦いに集中できます」

 歩兵の多数を見逃したのと同じ狙いだったが、まさか百年以上もの長い時間、彼らが南へ引きこもったままになるとは、タクグスですら予想していなかった。


 そしてこの時から「片頬が耳まで裂けた恐ろしい北狄の将」の存在は、南庸軍のみならず、南庸すべての民衆の中にも浸透してゆくことになる。攝津の戦いに続いての暴勇とともに、彼の異名が「口裂けサガル」ということも後に知られると、その名は南庸人にとって恐怖の象徴ともなっていった。

  


 庸軍を引きずり回す役を請け負ったタクグス軍五千は、結局戦闘には参加しなかった。参加するまでもないというのが主な理由だったが、実は今回の戦いのタクグス軍は異様であったのだ。それも最初から最後まで。

 彼らの戦い方は騎馬民族のそれではなかった。騎馬民族であれば、戦いそのものが「戦い」である。情報戦や陽動など、彼らの本懐ではない。必要にかられてそれらをしないわけにはいかないこともあるが、嬉々としておこなう者は稀であった。ましてそのような役をおこなった者は先の鬱憤を晴らすため、誰よりも一心に敵軍へ突撃してゆき首級をあげるものだ。

 が、タクグス軍からそのような者は一人も現れなかった。最初から最後まで脇役としての自分を徹底して貫き、そのことへの不満を漏らそうともしなかったのだ。

 これは彼らがタクグスにとっての精鋭である証だった。彼らはタクグスが北方の高原にある頃から育て上げてきた子飼いの兵なのである。南へゆくにつれて兵数は増えてきたが、自軍になじまないものは決して容れることはなかった。

 ゆえに彼らは騎馬民族軍では異様なほどの柔軟性と視野の広さを持っていた。その一端があらわれたのが、この戦いだったのである。


 そのタクグスが、兵を率いてサガルのもとへやってきた。すでに庸軍で生き残っている者は南へ逃げ去り、敵の存在はない。だがサガルの軍からはかなりの兵が消えていた。戦死したり逃げたりしたわけではない。後方に捨て置いた、輜重隊の物資を確保しに行ったのである。あるいは輜重隊の兵が物資をちょろまかして逃げ散っているかもしれないが、つかまえられる者はつかまえ、逃げ切った者の分についてはいずれ取り返す。なにしろこれからは彼ら騎馬民族が庸人の支配者になるのだ。好き勝手、分捕り放題であろう。

「タクグスどの、あなたの助言と助力のおかげで大勝を得られた。感謝する」

「なにをおっしゃるか。我らはただ逃げただけでござる。すべてはサガルどのの御力でござるよ」

「それこそなにを。タクグスどのには献策のみならず兵まで貸していただいて。さすがスンク族の精鋭、見事な働きでござった」

 馬上、数騎を従えただけでやってきたタクグスに、同じく馬にまたがったままサガルは笑顔を向け、タクグスも同様の笑いを返す。弱兵の南庸軍など正面から激突しても負けるはずもないが、このように鮮やかに、被害もほとんどないままに完勝できればこの上ない。

 実はこれは、サガルにとって一つの初陣であった。これまでの彼の戦いは、どれほどの強敵を撃ち破るものであっても、すべてズタスの麾下においてであった。彼を歴史の舞台へ押し上げたスッヅとの一騎打ちも例に漏れない。

 だが今の彼に主君はいない。この戦いは、初めてサガル自身が主導しておこなったものなのだ。

 その「初陣」において、これ以上ない快勝を他の者に見せつけられた。サガルからすれば、タクグスにどれだけ礼を言っても足りないほどである。


 しかも前述通り、この戦いにおいてタクグスはサガルに兵を貸してすらいた。

「囮の数があまり多くては庸軍の腰が引けましょう。かといって遊兵を作っても意味がない。一時、タクグスどのにお預けいたす」

 そう言ってタクグスは麾下の騎兵五千をサガルに預けていた。その兵たちの働きは、シン族の勇者に負けず劣らずであった。

 そのようなわけでサガルとしては、タクグスにただの礼物を渡すだけでは足りない気分だったのだ。

 が、一つだけ問題があった。

「タクグスどの、実は礼についてなのだが…」

 サガルが言い渋ったのには理由がある。礼物を与えることを渋ったのではない。むしろ彼の方が「もらう」ことを告げようとしたため、口ごもったのである。

 が、タクグスはすべてを察したように柔らかく機先を制した。

「そうでござったな。確か先の件についての礼物についてもまだでござったし、この際一緒に聞いていただこう」

「…欲しいものがござるか?」

 言い渋ったまま、とりあえずタクグスの希望を聞こうとサガルが尋ねると、タクグスは同じ表情のまま告げた。

「さよう。サガルどのにお預けした騎兵五千、そのままサガルどのの麾下にお加えくだされ。それが望みでござる」

 タクグスの迷いのないその言葉の内容に、サガルは驚き、むしろうろたえた。

「それでは礼にはならん。それどころかわたしの方がもらう立場ではないか」

 当然の解釈だったが、驚くサガルへタクグスは、さらなる驚きを与えた。

「わたしは北の叔父の下へ戻ります」

「北へ!? 故郷へ戻ったバジュどののところへか?!」

 サガルにとっては重ねての衝撃だった。バジュのところへ帰るということは、タクグスは央華大陸での覇権争いから離脱するということである。これはすでに央華で甘い汁を吸い始めた騎馬民族にとって異例といっていい。

 だがタクグスは端然としていた。彼の中で熟考した上での進退だったのだ。

「はい。ですがわたしの麾下にも央華に残りたいという者がいるのも確か。実はそれがサガルどのにお貸しした兵たちなのです。彼らをこのまま放り出してはいずれ散逸して野盗になるか、各族に吸収されるか、あるいは野垂れ死にする結果にしかなりますまい。それではせっかくの集団としての力と価値が失われてしまいますし、彼らの行く末も多寡がしれてしまいます。ゆえにサガルどのにまとめてお預かりいただきたい。サガルどのであれば、彼らを存分に使いこなしてくれましょう。また彼らもサガルどのの麾下へなら喜んで参入するとのこと。どうであろうサガルどの。受け取ってはもらえぬか」

 サガルとしては半ば開いた口がふさがらない話だった。もちろんタクグスを馬鹿にしてのことではなく、にわかには信じられない話として。

 タクグスはどこか普通の騎馬民族と違うところがあると感じてはいたが、まさかここまで異なっているとは思わなかった。騎馬民族は奪える物は根こそぎ奪う、食らえる物は食らえるだけ食らい尽くす。肥大し、巨大化し、際限なく貪り抜くのが習いといってよかった。それなのに自ら目の前の美食を捨て去るだけでなく、大事な自軍の兵を他者に譲ってしまうとは。


 そしてこの「礼」は、なるほど、確かにタクグスにとってだけでなくサガルにも益になることであった。それどころか、少なくとも表面的にはサガルにとっての益の方が大きい。うますぎる話ですらあるが、すでにサガルはタクグスを信用している。受け入れるに否やはなく、またこれからのため、喉から手が出るほど兵が欲しいサガルであったが、あまりの驚きに、つい質してもしまう。

「いやしかし、叔父上にも一人でも多く兵は必要であろう。それを勝手にわたしに譲っては…」

「残りたいという者を無理に連れ帰っても使い物にはなりませぬ。不満をくすぶらせて、結局は叛(そむ)くか離れるかにしかなりますまい。それでは互いに不幸になる。叔父やわたしには後ろにいる者たちだけで充分でござるよ」

 タクグスが背後にいる五千の騎兵を顎で指し示しながら言うことに、サガルもハッとして気づく。

 そうだ、騎馬民族の習性からみれば、全員が得られる果実の多い央華に残りたいと考えてもおかしくない。むしろそれが自然なのだ。だが暖かく豊かな央華を捨て、寒く乏しい北の高原へタクグスとともに帰ろうという者が五千もいる。これがまた異常な話であった。

 彼らはタクグスを信奉しているのか、あるいは彼ら自身が央華に来て変わったのか。そのことはサガルにはわからなかったが、彼らのような存在が現れたことが時代の変化を示す一端であることを、若い勇将は感覚として理解した。


 しかしサガルとしては、このまま彼らを北へ帰すわけにはいかない。いや、五千の兵はあきらめてもいいが、ただ一人、帰したくない男がいるのだ。

「…あー、タクグスどの。わたしとしてもありがたい話だ。だが受け入れるには一つ条件が…」

「サガルどの、この件、わたしへの礼ということをお忘れなく。礼をする側が『受け取ってほしければ』と条件をつけるなど、おかしな話でござるよ」

 だがサガルの言葉を遮るように、タクグスは笑って告げる。その内容は筋が通っており、表面の柔らかさに反して絶対の拒否が含まれていた。

 そのことからサガルは、自分がなにを言おうとしたか、タクグスは知っていたのだと察する。そしてそれが完全に拒まれたことも。タクグスにはサガルの麾下へ入るつもりはまったく無いのだ。

 それはタクグスからすれば当然の権利とわかるサガルだが、あまりに無念であるにも違いない。

 が、サガルがタクグスの真価を知り、彼を欲しいと思ったのはつい先ほどである。あまりに遅い。

 それだけでもサガルは自分の愚かさを自覚せざるを得なかったが、加えてタクグスは、すでに自分に過分なまでの厚意を示してくれている。これ以上何かを欲すなど、しかもそれがタクグス自身であるなどと、恥の上塗りでしかないことにサガルはようやく気づいた。

「…なるほど、確かにそうでござるな。失礼つかまつった。タクグスどのの兵五千、確かにお預かりいたす。必ずや彼らにも富貴を味わわせてやりましょう」

 一度気づけばさっぱりと振り払う。サガルには若いながらそれだけの器量はあった。ゆえにサガルはそれ以上タクグスには固執せず、彼への礼とともに厚意も受け取った。

 そのことを知ったタクグスは、笑顔でうなずく。

「そうでござるか。感謝いたす、サガルどの」

「しかしタクグスどの、なぜこれほどわたしによくしてくれる。わたしはタクグスどのにここまでしていただくほどのことをした覚えはないのだが」

 タクグスへの未練を互いにうなずくことで打ち消すと、サガルはかねてから疑問に思っていたことも尋ねてみた。タクグスと出会ったのはコナレ族に彼が降ってきてからのもので、それ以後もさほど親しいつきあいをしてきたわけではない。タクグスになにやら裏の魂胆や悪意があるとは思わないが、それでもやはり訝しさを消すのは難しかった。

 サガルのその問いに、タクグスは笑顔に少し寂しさを加えて答える。

「そうですな、ズタスどのへの報恩…でありますかな」

「族長への?」

「さよう、ズタスどのはことのほかサガルどのを気に入っておられたようですから。そして失礼ながら、わたしもサガルどのには見るべきものがあると思っております。どうせならそのような方に与したいと思うのは、我らの性情でありましょう」

 この場合、我らとはズタスとタクグスのことである。

 おそらくズタスはサガルに自分の右腕になってほしいと思っていたのだろう。もしかしたら真の後継者になってほしいとすら考えていたかもしれない。ズタスほどの男が実子クミルの器量の限界を見極めていないはずもない。息子の限界に落胆しつつも、自分が死んだ後のことを考えれば、息子以外の次世代へ、遺すべきものを遺す算段も思案しないわけにはいかない。それゆえズタスにはサガルに自身の様々なものを伝えようとしていた節があったと、タクグスには感じられたのだ。

 だがそれもズタスの急死により、端緒にかかったところで中断されてしまった。タクグスはそのことを不憫にも残念にも思う。ゆえに、ほんの少しでもズタスが伝えたがっていたであろうことをサガルに伝えようとしているのだ。それは騎兵五千などという即物的なものではない。もっと深く雄大なものである。

 このようなことを考えるのは、タクグス自身がズタスに心酔しはじめていた証拠でもある。その自覚がある彼は、その点だけはズタスの急死に安堵していた。そしてその後ろめたさもあって、サガルによくしているのである。

 もちろん、それだけが理由ではないが。



「…さて、これで央華でのわたしの為すべきことはすべて終えました。長居をしても仕方がない。そろそろ出発するといたします」

 自分の言うことを頭の中で咀嚼し、心で吸収しようとしているらしいサガルに、タクグスは突然告げ、それを聞いて若きシン族族長は顔を上げた。

「もうでござるか。せめて分け前を受け取ってからでも遅くはありますまいか」

 今現在、輜重隊の物資を略奪しに行っている者たちが戻れば、サガルはそれを部下に分配する。部下や臣下ではないが当然タクグスにもと考えていたサガルだったのだが、タクグスは笑顔のまま首を横に振った。

「いや、我らの分はサガルどのにお譲りしたスンクの兵にお与えください。それがまあ餞別ということで。自分の懐が痛まぬゆえわたしも助かる」

 笑って言うタクグスは、そのまま馬首をひるがえした。

「ではサガルどの、ご壮健で。縁があったらまたお会いしましょう」

「…? タクグスどの、そちらは北ではなく西だが…」

「ああ、北へまっすぐ突っ切れば、内乱に巻き込まれずにはすみませぬからな。西から大きく回って帰ることにいたすよ。それとサガルどの、お預けした兵の中におもしろい男がおります。その者に目をかけてやってくださると、わたしとしてはさらにうれしい」

「あ、ああ、そのくらいはもちろん。その者の名は?」

「それは本人に聞いてくだされ。短躯の男ゆえすぐにおわかりになりましょう。では!」

 短躯とは、背が低い、体が小さいということである。それは確かに目立つ特徴だが、それ以上質す余裕をサガルに与えず、タクグスは馬を走らせ始めた。五千の兵も彼に続く。

「タクグスどの、感謝いたす! またいずれ!」

 サガルはややあわてつつも、遠ざかる騎影に大声で最後の挨拶をする。と、タクグスも背を向けたまま軽く手を振る。

 それが別れとなり、タクグス率いる騎馬群は、まだ日の高い中、西へ向けて走り去ってしまった。



 タクグスが走り去った後、サガルはしばらく西の方を見やり、それから馬首を返した。

「スンク族の兵はどこだ」

 と、サガルは近くにいた配下に訊く。今、輜重隊を襲いに行っている兵以外は、戦いの後の休息に入っている。おのおのが勝手に座り、勝手に騒ぎ、勝手に飲み食いをしているため、タクグスがサガルに与えていった旧スンク族がどこにいるかざっと見ただけではわからなかったのだ。

「あちらです」

 と、配下の一人が指し示す。そこは中心から少しはずれた場所で、まだ外様の意識が強かろう旧スンク族にすれば仕方ない。いずれ彼らも自分の配下として溶け込むだろうし、そうせねばならぬ。

 が、今はまだそこまで考える必要はない。サガルは彼らの元へ馬を歩ませると、新たな主人に気づいた旧スンク族が立ち上がろうとするのを制し、そのまま告げた。

「今タクグスどのから話は聞いた。否やはない。汝らは今日から我が族の一員だ。存分に励めよ」

 その言葉に旧スンク族から歓声があがる。旧主の行方を聞かないのは、すでにタクグスとは別れを終えているからだろう。

 そんな彼らの中をゆっくりと進むサガルは、一人の男を見つけた。馬から降りると彼に向かって歩み寄る。と、その男もサガルに気づいて立ち上がった。

 その男は若かった。充分に若いサガルよりさらに二、三歳は若く見え、全身に覇気をみなぎらせ、発散させ続けている。その気迫にサガルはややいぶかしさを覚えた。気迫が嘘や偽物というわけではない。だがどこか、常に意識して発散し続けているように見えるのだ。

 そして男の身長は、中背であるサガルの顎のあたりまでしかなかった。

「汝の名は」

 サガルは短躯の男に尋ねた。

「シジンです、族長!」

 声も大きい。顔はいかめしく、背筋は必要以上に伸ばし、頭の先から爪先まで全力で気を発し続けている。短躯でありながら鍛えられた肉体であることは一目でわかり、武にも充分に通じていそうだが、それでもどこか気を張りすぎている感は否めない。

「なるほど、そういうことか」

 ふと思い至り、サガルは心中でうなずいた。シジンは短躯の自分に劣等感があり、それを克服するため、他の何もかもを大きく見せようとしているのだ。

 騎馬民族は、悪く言えば人の外面に現れた物しか見ない。巨大な体躯、秀でた武力、示された勇気、質量そろった略奪品、赫奕(かくやく)たる武勲。そのようにわかりやすく示された物に敬意を払うのだ。

 このような価値観の中、体が小さいということは、それだけで不利だった。実際に短躯を馬鹿にされたり、からかわれたりしたことも一再ではないだろう。それゆえ侮られないよう、背伸び寸前と思われるほど背筋を伸ばし、胸を張り、表情に気迫をみなぎらせているのだ。そのような行為は滑稽さもあるが同情心も湧く。サガル自身、さほど長身ではないことを巨躯の男に侮られ、実力で相手の身長が縮むほどの教訓をくれてやったことが何度かあるため、なおさらだった。

「そうか。少しタクグスどのから汝の話を聞いたことがあるのでな。これから頼りにする。励めよ」

「はっ!」

 軽く肩を叩き、それに全力をもって応じてくるシジンに背を向けると、さすがにサガルも彼の「常に全力」と言わんばかりの大声に多少の辟易さを覚え、苦笑する。

「確かにおもしろい男だが、理由はこれだけなのだろうか」

 その苦笑を隠しつつ、去り際のタクグスの言葉を思い出し、心中で小首を傾げるサガルだった。

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