『蟹地獄』【天】





「さて、残るはお前一人だけだな――カイン・イワザキ巡査部長?」

 ――相棒の須藤が、若干の余裕さえたたえながら戦況を有利に進めていた、その頃。

 呼吸すらできなくなった蟹澤に対して一方的な暴力をふるい続ける〝整形屋〟は、相変わらず、すこぶる不機嫌だった。

 すでに敵のうち二人までを欄干から河の中へとに叩き込み、残すところはカイン一人のみ。しかし〝整形屋〟はその成り行きには興味を示さず、ひたすらイライラした様子で、蟹澤を、執拗に執拗に、いたぶり続けていた。

 蟹澤は必死の抵抗で、目の前の足首に掴みかかろうとするが、

「おぉ~っと! あぶないあぶない」

 〝整形屋〟はわざとらしくギリギリで躱してみせる。

 〝整形屋〟の能力で口腔と鼻孔を塞がれてしまっている蟹澤は、酸欠症状でいよいよ意識も朦朧としてきた。このまま放置すれば、わざわざ手を下さなくとも窒息死は時間の問題だ。

「(意識が……だめだ、死にたく……ない……)」

 彼はほぼ本能的に、自分の口元へと手をやった。

 ザシュッ、という音がして、鮮血が飛び散った。

 そう、自らの能力――〝鋏手男シザーハンズ〟で、塞がれた口腔部を切開したのだ。

「ッヒュ……ッパッ……ボハッ!!」

 蟹澤の顎から下は、ほとんど外れそうな状態でぶら下がっているだけの有り様で、だぱだぱと止め処なく流れる血のせいで、息をするのも苦しそうだった。

 〝整形屋〟は驚いたように「ヒュ~ゥ」と口笛を吹いた。

「おっほ~う、やるねぇ。意外と根性あるじゃない」

 しかしそんな言葉も、当の蟹澤にはもう聞こえていなかった。彼の頭の中は「どうやって生き延びるか」――それだけで一杯一杯だった。

 追いつめられた人間の行動は、時として、驚くほどの爆発力を生む。

 ――窮鼠、猫を噛んだ。

 蟹澤が全力を振り絞り、〝整形屋〟に飛び掛かる。

「あ!?」

 予想外の反撃に〝整形屋〟の躰が一瞬、固まった。まともな反応をすることさえできなかった。しかし、千載一遇のチャンスだったにもかかわらず、瀕死の蟹澤の手は、〝整形屋〟の胸にかする程度が、精一杯だった。それでも、軽く触れただけの箇所がぱっくりと裂け、噴水のように血が噴き出す。

「ひっ……ひぎぃぃいいいいいいい!!!!!」

 〝整形屋〟が喚き叫ぶのを聞きながら、ざまを見ろと思ったのも束の間、蟹澤は最後の力も使い果たし、糸の切れた人形のように倒れ込んだ。

 須藤の率いる蟹の大群が、わらわらと集まってくる。肉を啄み、口をこじ開け、中へ中へと、入ってこようとしてくる。

 蟹澤は、今までの自らの行いを全て悔いて、涙した。

 危機に瀕して極度の興奮状態にあった脳も今は醒め、思考もひどく冷静に働いている。それに伴い、意識の遠く彼方に追いやっていた体中の痛みも、ゆっくり波が押し寄せるかのように戻ってくる。

「(痛い……死ぬ……? 俺が…………?)」

 どのくらい、時間が経ったのか――。一秒か、一時間か。

 自分の躰は今、上を向いているのか、下を向いているのか――。

 上下の感覚も喪失し、地に伏す感触すらも消え失せ、朦朧し、ひどく曖昧になった時間の流れの中で。

「(嫌だ――)」

 と、蟹澤 漁は強く思った。

 いくら悪人だからって、こんな死に方はあんまりだ……絶対に嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ――――嫌だ!!!


「ホンギャァアアアアーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!!!!!」


 蟹澤は両手を地面に突き、獣の断末魔のような咆哮を――いや、己の全存在をかけた覚醒の産声を、虚空へと、高く高く、ぶちまけた。







 ――僕が須藤のシザーズ・ピンチでいよいよ意識を失いかけたそのとき、空も割れんばかりに響き渡ったなげきの声と一緒に、とてつもない轟音と衝撃が、橋全体を揺るがした。

 崩壊と浮遊感。混乱と失神。

 一瞬の、ブラックアウト――――。

 たぶん、意識を失っていた時間は、数秒にも満たない。

 僕が次に思考と感覚を取り戻した時、躰は浮いたり沈んだりしながら、冷たい水の中を漂っているのを感じた。息を吸おうとして、思いっきり水を飲み込んでしまった。がぼがぼと、肺の中の空気が、口から水泡となって逃げ出していく。

「(まずい――)」

 パニックになってはいけない。泡の立ちのぼっていく方向が上方、つまり水面側だ。冷静に周囲を手探り、河底に手をついて、上下の位置関係を正確に把握した。足をつけて、立ち上がる。浅かった。流れも強くない。まだそれほど増水していないおかげで、助かった。水面から顔を出すと、大雨の降りしきる黒い空が見えた。

「ぷっ……は!!」

 いったい橋の上で何が起こったのか分からないが、どうも、僕は河に落ちて、流されていたらしい。

 上流のほうを振り返ると、100メートルほど先に、崩落した鉄筋コンクリート橋の残骸が見えた。さっきまで、僕はあの上で須藤と戦っていたはずだった。それが今や、橋の上を走る舗装されたアスファルト道路ごと、支承から橋脚にめがけて、すっぱりと斜めに『切断』されている。自重に耐えられなかった橋は、真ん中から真っ二つに折れ、頭から河に突っ込むかのように崩れ落ちていた。

「……もしかして、蟹澤の能力……なのか?」

 『切断』の異能、〝鋏手男シザー・ハンズ〟。まさかあれほどの力を覚醒させるとは――予想外の事態だったけど、そのおかげで、須藤の拘束からもカニの大群からも逃れ、命拾いすることができた。

 僕は、先輩とハリヴァが犬神家の一族スタイルで仲良く並んで川面に突き刺さっているのも見つけ(橋の崩落には巻き込まれなかったらしい。よかった)、続けて自分の右手にしっかりリボルバー拳銃が握られているのを確認し、ひとまず安心した。

 残弾は二発。心許ないので、シリンダーを開き、プラス四発、バラの弾から補填しておいた。それに加えてまだ、六発セットのローダーも充分残っている。――大丈夫、今時の銃や弾薬は、30分程度水の中に浸けていても問題なく発砲できる性能のものがほとんどだ。念のため、撃鉄と銃身の間にカニや異物が入り込んでいないかだけ、確認しておく。

「須藤は……いったい、どこに……」

 斜めに崩れた橋の上に蟹澤がうつ伏せに倒れているのと、気絶した〝整形屋〟が水面に浮かんでいるのを見つけることはできたが、須藤の姿が見当たらない――。

 僕が周囲を警戒していると、ハリヴァの大声が聞こえてきた。

「カイン! この状況、気を付けたほうがいい!! 峨眉派拳法の発祥地、四川省峨眉山の東にも長江の支流が流れている! カニの動きを模した『螃蟹拳』は、特にそういった水域近くで発達した武術ッ!! その術理は水中戦――主に腰程度まで水に浸かった状態での戦闘を想定し、それに特化したものだと聞くッ!! 」

 どうやら、河底から頭を引っこ抜いて、無事、犬神家状態から脱出したらしい。丁寧な解説をしながらも、並行して先輩の足も引っ張って、救出しようとしてくれている。

「水中戦特化の拳法――か」

 そうつぶやいた瞬間、目の前の濁流から、ざばぁっと、須藤が姿を現した。

 彼は底這いながら水の中を進み、僕に気付かれないよう、すぐそこにまで接近してきていたのだ。奇怪なフルフェイスヘルメットも相まって、まるで低予算特撮映画の怪人の登場シーンである。ヘルメットには、側面に数か所、切れ込みが並んで入っており、そのエラのようになったフィルターから、水中の酸素を取り込める仕掛けになっているらしい。

 僕を水中に引きずり倒して、絞め技関節技に持ち込めば、敵の圧倒的有利だったかもしれないが、そうしなかったのは、先ほどは違って、自由になっているリボルバー拳銃で、密着状態から発砲されるのを警戒したためだろう。

 ハリヴァはようやくのことで、先輩を引っこ抜いて岸まで運んでくれたようだ。こちらにも加勢しようと水泳選手ばりの綺麗なクロールで向かってきてくれているのが見えた。果たして、彼がこちらにたどり着くまでに、僕一人だけで須藤の『蟹型十六拳』をいなし続けることができるだろうか。

 ――――ここが、勝負どころだ。

 しかし――――


「 ――螃蟹パァンシィエ捕鱼式プゥユィシイ!!

 二指アージィ鉗穿・チィェンチュアン

 蟹刀シィエダオ鋏打・ヂィアダー

 爪抓ヂァオヂゥア押潰・ィアクェイ!!」


 やはり、というか、案の定、というか――――僕は、数手打ち合っただけで、己の不利をまざまざと実感することになる。

 まず、当然のことだが、腰の高さまで水流に晒された状態では、蹴りが出せない。必然的に手技のみの勝負になる。そうなると須藤の蟹拳は、その豊富な手技のレパートリーがモノをいう。そして腰の入れたパンチの打ちにくいこの状況下でも、須藤の指先に込められた破壊力は少しも衰えず、十全に威力を発揮する。

 須藤は、僕が左のグーで殴りかかったのを、いとも簡単にチョキで受け止め、ジャンケンのルールをも無視した凄まじいパワーで、僕のこぶしを腕ごとひねり上げた。完全に極められてしまう前に、右腕を思い切り下から振り上げて須藤の蟹手にぶつけ、振り払った。無理な体勢だったせいで踏ん張りがきかず、河の流れに押されて、よろけた。その刹那、シャコ科の甲殻類が打つパンチのように、下から閃いた、三発。フリッカージャブじみた切れ味鋭い打撃で、変幻自在の指先を打ちつけてくる須藤。目にも留まらぬ蟹拳が、僕の左鎖骨、胸骨、右第八肋骨にヒビを入れる――。

「ぐっ……つあッ」

 さすがに、水場での戦いに特化していると豪語するだけのことはある。それも、海や湖ではない――明らかに流れのある場所を意識し、そこで発達した武術だ。この足場で、よくもこれだけの動きができるものだと、感服する。きっと須藤も、これらの技を学ぶ際、河の流れにどっぷりと浸かりながら、何度も何度も、組手や散打を繰り返してきたのだろう。

 一方、こちらからの攻撃では――

「ふッ!!」

 反撃に左のフックを相手ボディーに打ち込むことができたが、下半身が不安定なせいか、踏み込みも甘く、イマイチ効いてはいないようだ。

「(特に河の流れ――上流側を取られたのが、痛いな)」

 須藤は『蟹型十六拳』の独特な構え――躰を横向きにして、水の抵抗を軽減している。そればかりか、僕に対してはモロに水流がぶつかるように、上手いこと立ち位置を斜めにズラして調節している。そういった経験の差が、今この死闘の場で、お互いのちょっとした立ち回りひとつをとっても、如実に浮き出ていた。

 蟹の四股立ちのような踏ん張りでどっしりと構えていたかと思うと、襲い掛かるときには、水流を背に受けて加速する。この緩急自在の動きに対して、僕のほうは、須藤に踏み込もうとしても、水の抵抗が邪魔をして思うように動けない……という具合。このままでは、どうにも埒が明かない。

「(よしっ――押してダメなら引いてみろ……だ!)」

 右手に持った銃底を振りかぶり、空手の鉄槌のように、がむしゃらに振り下ろした。到底、当たるような攻撃ではない。須藤は当然のように躱す。それが狙いだ。空振った右手は、力一杯水面を叩き、派手な水しぶきを上げた。

「むっ……!!」

 須藤のヘルメットのアイシールドに水しぶきがぶつかり、彼の視界を塞ぐ。子供だましだが、一瞬だけでも、目くらましになってくれれば、それでいい。僕はその隙に、あえて河の流れに逆らわず、後ろへと下がって距離を取った。

 狙うは、銃撃によるダメージだ。

 さきほどまでは常軌を逸した反復横跳びのスピードでことごとく回避されてしまった銃弾だが、今この場――腰の高さまでの水位がある状態では、はたしてどうだろうか? 僕はリボルバーを構え、トリガーを四回引いた。うち三発は標的の胴体へ、残りの一発は額に向かって、まっすぐ飛んで行った。

 そうだ。水の抵抗があるこの状態で、左右方向への素早い反復横跳び移動など、できるわけがない。弾は当たる。

 ――事実、弾丸の射線は完璧なタイミングで、須藤の体幹と頭部を捉えていた。上体の動きだけでは、たとえどれか一つは躱せたとしても、残りは必ず被弾してしまうような位置に、弾をばらけさせてある。

 あの奇妙なヘルメットへの銃撃に関しては、効果は期待薄かもしれないが、戦闘中の打撃の手応えや相手の動きを見る限り、須藤が防弾チョッキのようなものを着用している気配はなかった。

 決まった!! ――そう思った。


 チュインッ!

 チュイン! チュイン!


 僕の予想に反し、須藤は、唯一、頭部に飛んできた弾だけを、さっと首を曲げて躱した。あとの弾はすべて、敵の躰に着弾したと思われたその瞬間に、甲高い音を立てて弾かれてしまったのだ。

「――これを使うと、動きが多少鈍くなるのでな。よほどのことがない限り使わないのだが……しかし今現在、この場合のように、双方動きを制限された状況では、大したデメリットにはならない」

 ギチギチと音を響かせながら、須藤が両腕を広げた。ヘルメットの下では、きっと余裕の笑みを見せているはずだ。

「ポイントは、斜めに逸らすこと……45度くらいがベストなんだ。角度が上手く行けば彼らも無傷で済む。真正面から受け止めるのではなく、斜めに弾き、流す。角度45度だ。そうすれば、弾丸というのは、意外に簡単に逸れてくれる」

 残った二発の弾丸も撃ち込んでみたが、やはり、同じように弾かれてしまった。そこに至って、僕はようやくそのトリックを理解した。

 深く考えるまでもなく、気が付いてみれば、とても単純なことだった。須藤のコートの下では、彼の配下たちがギチギチと隙間なくひしめき合い、がさがさと高速で行き交いながら、須藤の躰の上を蠢いていた。


「大量のカニを纏った……ボディアーマーか……」


「キチン質密度の操作によって強度も上げてある――が、まともに弾丸を受けられるほどの硬度ではないよ。当然、正面から被弾すれば砕ける。しかし、前述したように、丸みを帯びた彼らの装甲は〝逸らす〟ことにはとても適しているのだ。ここまで強化された蟹たちをこれだけの数揃えるのには時間が掛かってしまったが、これでもう、お前の勝ち目は無くなった」

 さて――と、須藤が水を掻き分け、緩やかに歩み寄ってくる。

「万策――尽きたかな? カイン・イワザキ巡査部長」

 ……その通りだった。僕にはもう、歩み寄る須藤から逃げるように、無言で後ろに下がることしか、できなかった。

「カイン!! 何ボーッとしてるんだ、早くリロードしてっ!!」

 そこに喝を入れてくれたのは、たった今僕らのもとまで泳ぎ着いたところの、ハリヴァだった。がば、と須藤にしがみつき、後ろから羽交い絞めにする。

 奮闘するハリヴァの姿を見て、はっと我を取り戻した。一民間人であるにもかかわらず、命がけで協力してくれて、異能者相手にも臆すことなく立ち向かっている。そんなハリヴァを見て、僕は後退しかけていた闘志を、無理矢理にでも奮い立たせた。

「ありがとう……!」

 諦めたらそこで戦闘終了、敗北だ。

 せめて、この間にリロードだけでも――そう思い、スピードローダーを取り出すため、胸ポケットをまさぐった。

 と、その時。僕の指先は、何か妙な感触のものに触れた。そこに入っていたのは――

「ん? これは……」

 証拠用のビニール袋に入れられた、カニの茹で足――。

 これは確か――――

 ああ、そういえば、この町に来たばかりのとき、商店街で貰った……先輩に食欲失くす話をされたせいで食べるのをやめて、ビニール袋に放り込んだカニ足だ。あとで捨てようと思っていたのだけど、うっかりポケットに入れたままだったことを、ようやく思い出した。猫にあげようとして、ダメ出しされたんだったよな……食べさせちゃダメだって。

 もう、腐りかけてるんじゃないだろうか。今、こんなものに用はない。

 ほんの一瞬にも満たない思考を巡らせたあと、即座にそのカニ足を捨てようとしたところで、ふと、ある言葉だけが、僕の脳裏に執拗なまでに引っかかった。

 食べさせちゃ、ダメ。

 食べさせちゃ、ダメ。

 食べさせちゃ、ダメ――。

 なんだったっけ、普警警察署で取り調べてきた、あの若い刑事が言っていた――。


『――ほら、三ヶ月くらい前といえば、なんか須藤が忘年会の時に持病の発作起こして病院に運ばれたことあったじゃないですか! そういえば、それからじゃないですか? この町でやたらカニを見かけるようになったのって……――』


 そこで改めて、須藤の恰好に、目をやってみる。

 全身、露出度の低い格好に、革の手袋まではめている須藤――まるで、何かとの接触を避けているかのように。なぜなのか? 決まっている。ためだ。

 ならば、戦闘も大詰めというところで、わざわざ視界を狭め、呼吸もしづらそうなフルフェイスヘルメットをかぶったのにも、納得がいく。水中戦用の機能に目が行っていたせいで気付きにくかったが、あれは防具でも潜水具でもなく、「隠れ身の術」の際、カニの泡が顔面に付着するのを防ぐためのものだったのだ。

 そして、決め手はハリヴァによって斬りつけられた、刀傷だ。〝整形屋〟の怪我に対しては異能による迅速な応急措置を施したのに、自分が受けた刀傷に対しては、まったくのノータッチ。なぜなのか。答えは簡単。須藤は体質上、己の内にカニ由来の成分を取り込むことが出来なかったのだ。

 ああ。そうだったのか――。

 僕は、須藤の抱える最大の弱点――彼の背負ったその皮肉な業に、ようやくたどり着いた。

 腐りかけのカニ足をビニール袋から取り出し、グッと握りしめる。


「ハリヴァ! どうにかして須藤の口を開けさせて!! そいつ――『』だから!!」


「……エッ?」

「……えっ?」

 掴み合って縺れ合ってしていた二人は、お互い動きを止めて、ほぼ同時にポカンとした様子を見せた。

「……は? 何言ってんの? この三食毎食カニ食ってそうな全身をカニエキスで満たした、ジャッキー・チェン主演『シザーフィストモンキー・~蟹拳~ ※カニ! 食えば食うほど強くなる!』みたいなマスターオブカニ拳法カニオタ男が、よりにもよってカニアレルギーってそんなわけ……………………」

 ハリヴァがそう言って須藤と顔を見合わせようとしたが、当の須藤は、無言で睨み付けてくるハリヴァからぎこちなく首をそむけ、決して目を合わせようとしない。ヘルメットの中では、さぞかし窮した顔をしているのだろう。

「…………」

「…………」

 次の瞬間、ハリヴァは一転攻勢に回った。

「オラッ!! 口開けろ!! くちッ!! アーンしろ、アーン!!」

 フルフェイスヘルメットをずっぽりと脱がし、ガクガクゆすりながら、須藤のアゴを掴み、無理矢理口をこじ開けさせようとする。脇腹にドムドムとブローを叩き込みまくる。しかし、さすがに須藤も、生死が掛かっているためか、頑として口を開かざること岩のごとし。カチンコチンに固まって、汗ダラダラで「カッ!」と目を見開き、お口をチャックのように閉じ、「何があっても絶対に開けないぞっ!」という意思表示を全身から発していた。

 なんだか、力ずくで薬を飲ませようとする親と、全力でイヤイヤする幼児の戦いを見ているようだ。

 あ、よし! それなら……。


「……ハリヴァ! くすぐれ!!」


 須藤とハリヴァの二人は、一様に「はァ!?」という唖然とドン引きの表情を僕に向けたあと、お互い真顔で向き合った。

 須藤が真剣そのものの表情で、猛烈な勢いで首を横に振ったが、ハリヴァは容赦なかった。

「くそ! なんでこんなアホらしいことを……!!」

 脇の下を、カニアーマーの下にごそっと両手をもぐり込ませ、これでもかというくらいコチョコチョした。

 ――さすがの須藤も、これには我慢できなかったようだ。


「どあっ……ひゃヒャはひゃひゃひゃひゃっ!! やめて! 脇! うひゃひゃひゃひゃ! 脇はヤメて!! 弱いのよぉおひょひょひょ」


 さっきまでのクールなイメージも微塵に砕けろとばかりにぶち壊しながら大爆笑してくれた。よし。

 なにはともあれ、須藤、大開口。圧倒的チャンス、到来だ。

 僕は、ざばっと河から引き揚げた片足を、大リーグボール1号のごとく高々と振りかぶり、腕をしならせ、握りしめていたカニ足(腐りかけ)を、一球入魂全身全霊、全力投球した。

「いっけぇぇぇえええええええーーーーーーーーーーーーッ!!!!」

 いかんせん投げるのに適した造形ではないカニ足は、空気抵抗をもろに受けながらも、ぴろぴろと情けなく飛んでいった。それがちょうど、天に大口向けて大笑していた須藤の口の中に吸い込まれるように、すっぽり収まった。

 今度は口の中のカニを吐き出させないために、すかさずハリヴァが掌底打で須藤の顎を打ち上げ、ガチンと口をふさぐ。

「ごっくん……!!」と飲み込んだ須藤。しまった――という表情になり、みるみるうちに顔が青ざめていく。そして彼の恐れているであろう異変は、すぐに起きた。

 口の周りからぶつぶつと発疹が広がっていき、真っ青だった顔が、あっという間に真っ赤に茹だった。それはまるで、アレだ……暗褐色だったカニが鍋で茹でられて、見る見る美味しそうな赤に色づいていく様を見ているような。須藤はすぐに過呼吸になり、苦しそうに胸をかきむしりながら、河面かわもに倒れ込んでしまった。能力者本体の意識が統一されていないせいだろう、カニたちもばらばらと散らばりながら、須藤のもとを離れていく。

 僕はその様子を見て、ばしゃばしゃと水をかき分けながら、急いで須藤のもとに駆け寄った。

 仰向けで水面に浮かびながら、白目をむいて痙攣している須藤の、コートの内側を探ってみた。

 須藤が重度の甲殻類アレルギーだという予想は当たった。ならばきっと、「あれ」も持っているはず――。

 まさぐるたび、びっしり卵が、ぷちぷち潰れて、気持ち悪い。まばらに残っていた子守り蟹にも、何度か指をはさまれる。けど、泣き言は後だ。

「あった!!」

 ――筆箱くらいの、銀色の容器。それを開けると、中には注射器と錠剤が収まっていた。

 ペンタイプのアドレナリン自己注射器――エピペン。錠剤タイプの飲み薬のほうは、おそらくステロイド系だろう。

 迷うことなく、注射器を須藤の太ももにぶっ刺した。

 すると、それまでの発作が嘘だったかのように、すうっ……と、須藤の様子がおとなしくなった。よかった、薬が効いたようだ。

 ゆっくりと目を開けた須藤が、

「薬を……打ってくれたのか……」

 と、神妙な顔をして言った。

 アナフィラキシーショック症状直後のこの状態で喋れるなんて、すごい生命力と精神力だ。

「ええ。あなたの元同僚から、以前、何かの発作で病院に運ばれたことがあるのを聞いていましたし、重度のアレルギー患者なら、きっと常備しているはずだと思ったので」

 そう答えて、錠剤のほうも飲ませてやる。

 須藤は、川面にたゆたいながら、しばらく無言で空を見上げていたが、やがて、小さく口を開いた。

「どうやら……私の完敗のようだな――――」

 そうつぶやいた彼の顔は、なぜだろう――どこか、すっきりとしていた。

「礼を言おう。久々に食べた蟹、美味かったよ……」

「腐りかけで、申し訳なかったけど」

「ふふ、ひどい男だ……」須藤は静かに笑った。

 穏やかな表情だが、まだ安心はできない。抗アレルギー剤は、一時的に症状を抑えるだけにすぎず、効果もそれほど長く続くわけではない。その場しのぎだ。

「全面降伏するのなら、救急車を呼んでやる。ただ、職務上の規定により、やむを得ず異能犯罪者を一般の病院に緊急搬送しなくてはならない場合、万全の安全を期すため、対象者の身体の自由と意識を完全に奪っておかなくちゃならない。残念ながら麻酔なんかは持ってないから、少し荒っぽくなるけど……いいか?」

 ――つまりは、今から乱暴に気絶させますよ、ということだ。

「ああ……」と頷く須藤。意味は通じたようだ。

「寝てもらう前に、何か言っておきたいことはあるか?」

 そう問いかけると、彼は崩れた橋のほうに目をやって、こう言った。

「――〝整形屋〟も、助けてやってくれ……私の応急措置だけでは、たぶん、危険な状態だ。あんな奴でも、私にとっては一応、仲間なのでな……頼む」

「承知した――」

 ――強く頷いて約束を交わし、僕はぐっと握りしめた正拳を、あらんかぎりの力で、須藤の水月みぞおちへと叩きつけた。

 仰向けに浮かんでいた須藤の躰はくの字に折れ曲がり、どっと水しぶきを上げながら、1メートル近くも沈んだ。

「うぉっ、容赦ねえな……」とハリヴァ。

「仕事だからね」と、僕は肩をすくめておいた。

 空を見上げてみると、豪雨は弱まり、しとしとと小雨くらいの雨足になっている。遠くのほうでは、黒い雲が割れて、光が覗き込んでいるのも見えた。

 ――とりあえずは、嵐も去ってくれたみたいだ。


 須藤が、再びうつ伏せでぷかぷかと浮き上がってきた。ひっくり返してみると、とても満足げな表情で、完全に意識を失っていた――。







 ども。オレはハリヴァ=ロトワール。二十三歳独身、職業ボディーガード兼『なんでも屋』。――何を隠そう、今回の物語の裏主人公みたいなもんだ。

 ……え? それは言いすぎだろって? まあいいじゃないの、細かいことはさ?

 そんなこんなで蟹使い須藤との闘いから、一夜が明けた。

 なんやかんやで事件も無事解決し、今現在、カインとワンの旦那は、我が《アフターダーク・セキュリティ》の事務所にて、特警本部帰投の身支度を整えているところだ。

 昨日の激戦終了後、どうにか須藤含む犯罪者たちをまとめて病院へ搬送することができた。気絶して水面に浮かんでいた須藤を、オレとカインの二人でえっこらせっせと川岸まで引っ張っていったのは満身創痍の躰には結構な重労働だったけどな! そのうえカインのスマホが水没漏電で壊れちゃってたもんだから、オレがひとっ走りして土手を走っている車を呼び止めて、救急車を呼んでくれるように頼まなくてはならなかった。

 でもその甲斐あってか、須藤、〝整形屋〟、蟹澤の三名は、何とか一命を取り留めることができたようだ。ただ、旦那とカインの二人とも、本人たちは付き添いのつもりなのに、傍目どう見てもボロ雑巾みたいな怪我人だったもんだから、救急隊員のお兄さんに「おとなしくしててください!」なんて怒られながら、一緒になって救急車に乗せられそうになってたのには、思わず変な笑いがこみあげそうだった。でも、結局はオレたち全員、病院に着いてからすぐに治療を受けることができたんだから、よかったよかった。

 しかし驚いたのは、きっと旦那もカインも入院が必要だろうと思って、イオと一緒にお見舞いのプリンを持って行ってみたら、まさかその日の夜に無理矢理退院してしまったことだろう。特警権限ってやつもあるのだろうけど、あの怪我で動けること自体は本人らの肉体強度の賜物。やっぱり鍛え方が違うみたいだ。

 ちなみに須藤たち異能犯罪者トリオは、病院で手術を受けたのち、絶対安静にもかかわらず、これまた特警権限で手配された緊急搬送ヘリコプターによって東都まで運ばれていってしまった。最新鋭の大型機体で、飛行中の揺れも少なく、内部設備には大病院顔負けの最新医療機器まで揃っていたそのヘリを見て、ドクターの皆さんも「いったい何事か」と目を丸くしていた。

 ――と、まあそんなことを回想してるうちにカインと旦那の荷造りは終わり、オレとイオは、駅まで歩いて、二人を見送ることになったわけだが。

 外に出てみると、時刻はもうすっかり夕方だ。この時間、買い物客で混んでるけど、駅までは商店街を突っ切ったほうが近道だ。

 途中、魚屋の前を通り過ぎたとき、番頭のおばちゃんがカニの味見を執拗に勧めてきたのには、屈強な特殊刑事の二人も血相を変えて逃げ出してしまった。これにはさすがに、イオと顔を見合わせ苦笑するしかなかった。まあ、あの蟹地獄のあとだから、無理もない。

 さてさて、歩いてるうちに、F町の駅はだんだん近づいてきた。

 名残惜しいものだけど、別れの時間はやってくる。

 駅に着いたカインと旦那は、県中央都心までの切符の購入を済ませた。そこから、予約しておいた新幹線に乗り換え、東都に帰るのだそうだ。

 ケガ人ペースでゆっくり歩いてきたため、駅に着いたのは予定していた時間ギリギリといったところだった。

「……では、短い間ですけどお世話になりました、イオ君」

 カインが、イオと優しく握手をした。

「こちらこそ、うちのハリヴァさんがお世話になりました」

 とか言いながら微笑み返しているイオ。お前はオレの保護者か。

 カインは続いてオレのほうを向き直り、

「捜査協力感謝するよ――『何でも屋』さん」

 と、手を差し出した。

「ああ。依頼料はしっかり払ってくれよな?」

 オレはその手を強く握り返す。

「そうですね。経費で下りるか、上と相談してみます」

 冗談めかしてカインが笑った。

「――でも、ハリヴァがいなきゃ、きっと俺も先輩も、須藤にやられてた。本当に感謝してる」

 急に真面目顔でそんなことを言うもんだから、なんだか照れくさい。

 そこへ、松葉杖をついたワンの旦那もやってくる。

「じゃあな、イオ坊。楽しかったぜ」

「はい。またいつでも来てください。それまでには将棋の腕、上げておいてくださいね」

 ――てな具合で、すっかり仲良しになってる二人。

 旦那はイオの髪をクシャクシャと撫でてから、オレと軽くグータッチした。

「ありがとよ、助かったぜハリ坊。この恩は必ず返すからな! 困ったことがあったらいつでも呼んでくれ」

「なんの。旦那こそ養生して、早く怪我治せよ。奥さん泣かせないようにな」

「この、生意気言いやがって!」ヘッドロックを仕掛けてきた旦那とじゃれ合っていると、イオが「ホントに子供みたいなんですからもう……」とため息を吐いた。

 そして、電車の到着を告げるブザーとベルが鳴り響く。


「それじゃ……」

「達者でな」


 二人は背を向けて、駅構内へと歩いていく。

 ――が。改札機を通り抜けたところで、ワンの旦那が立ち止まり、神妙な顔で振り返った。


「……なあ、ハリ坊。お前さん、こっち来て特警、やってみる気ねえか? それほどの腕だ、町の『何でも屋さん』に身をやつすには惜しいと、オレは思う。イオ坊も一緒に住めるとこだって用意できるし、給料だっていいぞ? もちろん、すぐに決めろとは言わんが――」


 ――まさかの申し出に、一瞬、面喰ってしまった。そして旦那の隣でカインも、オレと同様に面喰っていた。

 ……いや、でも。確かに、悪くないかもしれない。今の不安定な収入だと、健康な成年男子と育ち盛りの少年の二人暮らしは色々と厳しいものがある。この誘いを受ければ、福祉厚生に保険もバッチリ、おまけに公務員の肩書き付き。退職金も貰えて老後も安泰。これから毎日風呂上がりのプリンだって食えるだろう。

 けど――――。

「気持ちは嬉しいけど、遠慮しとくよ。気ままな自由業が一番性に合ってる。それにオレさ、この町が好きなんだ」

「そうか――」旦那は少し寂しそうに笑った。

「俺も、それがいいと思いますよ。この町はなんだか、ハリヴァとイオ君のお二人に合ってる気がします」と、カインも言ってくれた。

「うん。そんなワケだからさ。秘密警察? にはなれないけど、もしアンタらから依頼があったら、『何でも屋』として、すぐさま飛んでくよ」

 オレは懐から名刺を取り出し、改札機向こうのカインに向けて、シュッと飛ばした。その名詞手裏剣を、カインは難なくキャッチし、頷いた。

 名刺には、こう書いてある。

『昼間のうちは何でも屋 日が暮れてからはボディーガード 身辺護衛からワンちゃんの散歩まで あなたの町の笑顔を守る』――――


「今後とも、《アフターダーク・セキュリティ》をヨロシク!!」


 オレは、夕日に映えるとびきりプライスレスの営業スマイルをプレゼントしてやった――。







【エピローグ】



 ――――「今後とも、《アフターダーク・セキュリティ》をヨロシク!!」

 そう言いながらハリヴァは、歯茎を見せて、夏休みを謳歌する小学五年生男子のように、屈託なく笑っていた。


 あれから――■県■市の、『F町』と『F’町』をまたぐ、とても奇妙な〝怪事件〟……もとい、〝蟹事件〟が解決してから――二日が経った。

 僕と先輩は今現在、仕事帰りで、並んで夜道を歩いているところだ。先輩の骨折も、僕の怪我も、沙帆ちゃんのおかげですっかり完治している。色々な事後処理と、ミスに対する始末書などに追われながらも、なんとかキリのいいところまでこぎつけて、夜の九時には退勤することができた。

 今日は出張の労いも兼ねて、先輩の家で食事をするらしく、僕も呼ばれた。沙帆ちゃんとアキラさんも来ているらしい。

「それにしても、どこをつついてもカニだらけの、ホント厭な事件だったよなぁ……。もう、とうぶんのあいだカニはごめんこうむるよ……」

 先輩が嫌気のさした顔でぼやいた。本当に「蟹」の「か」の字も見たくない――というようなしかめっ面をしている。

「脱獄犯の蟹澤も、今回のことでよほどの思いをしたんだろうな……一切の抵抗もせず、憑き物が落ちたみたいに大人しくなってるそうだ。刑期も潔く受け入れると言ってるらしいぜ。今は病室のベッドの上で、頭丸めて手合わせて、『百鬼夜行事件』で亡くなった被害者たちにひたすら念仏唱えてるんだとさ」

 妖怪【蟹坊主】が、ホントの坊主になっちまったな――と、先輩は溜め息を吐いた。

「さ、辛気臭い話はいったん切り上げだ。今日はとにかくウチ上がって、ゆっくりしてくといい。あったかいもん食わしてやるって女房も言ってるからよ」

「なんだか、いつもすみません。御相伴にあずかります……」

 先輩の住むマンションは、もう目の前だ。その高層マンションは吹き抜けの中央エントランスからそれぞれ東西南北に住居棟が突き出していて、上空から見ると、太くて均等なギリシャ十字、もしくは漢字の「亞」のような形をしている。中央エントランスへの入り口は、十字で言うところの交差部分、北東、南東、南西、北西の四方向にあった。

 まずは住人専用の認証カードを使って南西入り口からエントランスに入り、そこから棟別に設置されたエレベーターで上にあがる。先輩ご夫婦のご自宅は、西棟の地上七階だ。

 無事、玄関のドアの前まで到着。先輩がカギを開けて、僕も「お邪魔しまぁす」と、あとに続いた。居間のほうから、明るい談笑が聞こえてくる。特にアキラさんの声がひときわ大きい。どうやらもう、相当出来上がっているようだ……さすがは女傑で酒豪。

「ただいまー。……おーい、帰ったぞー」

 先輩の淋しげな、何度目かの呼び声に気付いて、ようやく瞳さんと沙帆ちゃんが玄関まで迎えに来てくれた。瞳さんは何やら両手で、発泡スチロールの大きなクーラーボックスを抱えている。アキラさんはといえば、玄関までは来てくれなかったけど、廊下の奥からは相変わらず「わはははは」と大きな笑い声が響いてきていた。かなり酔ってるみたいだ、笑い上戸の絡み酒も覚悟しておこう。

「あらあなた、おかえりなさい。カイン君も、出張お疲れ様だったわねぇ」

「王さんカインさん、お帰りなさいです!」

 奥さんと沙帆ちゃんが、労ってくれた。それにしても本当に、姉妹のように仲の良い二人だ。

「瞳さん、沙帆ちゃん、こんばんは。お邪魔します」

「シャオさん、怪我したって聞いたけど……カイン君、ごめんなさいね? うちのひとが迷惑かけなかったかしら?」

「あはは……」と笑って誤魔化しておいた。ねえ、ホントに。

「その話はもういいだろ」と、ばつが悪そうな先輩。

「結局今日は何作ることにしたんだ? メシだよ、メシ」

 よっぽど話を逸らしたいらしい。

 瞳さんは、ぱっと顔を輝かせ、「そうそう!」と切り出した。

「ほら、五人もいるでしょう? それにまだちょっと外も寒いくらいじゃない。だからね、お鍋を囲んじゃいましょう、って話になったのよ」

「ほぉ、鍋か。そりゃいいな」先輩は靴を脱ぎながら、コートをハンガーにかけた。

「……それでね、これ見て、すごいでしょう? 今日タイミングよく届いたのよ、新鮮なのが。実家のお父さんお母さんが送ってくれたのよ」

「……へえ、何だろうな。またお礼言わないとな」

 先輩がクーラーボックスを覗き込もうとすると、瞳さんと沙帆ちゃんが、満面の笑みで蓋を取り外し、御開帳した。

 開け放たれる冷気。中からのぞく、赤い脚。

 二人は嬉しそうに声をそろえて、


「「じゃじゃーん!! カニでーっす!!」」


 ……絶句した。

 そう、分厚い発泡スチロールに囲まれ、ぎっしりと敷き詰められた氷の中央には、大きく立派なズワイガニが三杯も、長い脚を広げ、威厳あるダブルピース姿で、威風堂々、鎮座ましましていた――。


「「かんべん、してください――――!!!!」」

 僕達二人の叫びはマンションの壁という壁を突き抜け、夜空にむなしくこだまする。




(―蟹地獄―完)


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