『蟹地獄』【人】







【救いの御手みては蟹によりて】


 ――あの日、運命の日。

 配属署の忘年会、誤ってカニミソのつまみを食べてしまった私は、アレルギーによる発作を起こした。

 場所はよりにもよって、誰も気付いてくれない、個室トイレの中。起き上がることすら困難な重症状。緊急コールのボタン……高くて届かない。人知れず、私は確実に、死へと死へと、近付いていた――。

 だが。

 倒れ伏し、意識を失いかけていた私の眼前に、唐突に現れた生き物。その光景を見て、我が目を疑った。

 目の前には、小さく円らな瞳が、二つ並んでいる。

 にょっきりと立った二本の眼柄がんぺいの先端に付いた、黒くて真ん丸な瞳。愛くるしいその視線を送ってくる主は、なんと――――生きた蟹だった。


 ――なぜ、こんな場所に蟹が……?

 私は一瞬、それが、死への恐れと苦痛のあまり己の脳が魅せた幻覚なのではないかと、疑ったほどだ。

 だが、すぐに、あることを思い出す。


 ――ああ、そうか。そういえばさっき、廊下ですれ違った板前が言っていたっけ。「厨房から蟹が逃げ出した」とか何とか。その逃亡者が、まさにこの蟹なのか――。

 

 その蟹(あまり大きくはない。第四歩脚が船のオールのような形をしているのは、泳ぎに特化した種である証――どうやらワタリガニのようだ。そういえば、今の時期はメスが旬か)は、不思議そうな顔で、私を見つめてくる。

 ひょっとしたら、わざわざ私の死を看取るために、厨房から逃げ出してきてくれたのかもしれない――そう思うと、目の前のこの蟹が愛おしくて堪らなくなり、「このまま彼女に見守られながら死ぬのも、悪くはないかもしれない」とさえ思えた。

 ところが。

 そのワタリガニは、少しの間、私のことを観察するように見ていたかと思うと、急にくるりと方向転換し、背を向けてその場を去ろうとする。

「え――――」

 無慈悲にも、彼女は掃除用具入れの下の隙間から、その中へと消えてしまった。

 そんなバカな――――ここにきて、いよいよ蟹にまで見放されるというのか?

「待ってくれ……行かないで……」

 どうか、そばに、いてくれ。私は心の底から、哀願した。

 こんな所で、一人ぼっちにしないでくれ……。愛する者からも見放され、苦しみながら孤独に死ぬのは、嫌だ――。


 末期まつご――。

 そのまま意識が薄れかかった時、私の手に、何かが当たった。

 これは、まさか――。


 蟹のハサミによってつままれていた、その物体。

 まさしく、錠剤と、注射器。


 蟹だ。

 なんと、彼女が、拾って来てくれたのだ。

 ――「渡りに舟」ならぬ、「渡りに蟹」。(ワタリガニなだけに)

 その昔、クルス教の宣教師としてこの国に渡ってきたフランシスコ・ザビエルの逸話にも、彼が渡航中、海に十字架を落とした時、蟹がそれを拾ってきて届けてくれたという伝説が伝わっているが、これはまさに、それに匹敵する――いや、それ以上の奇跡だ。

 私は神よりも奇跡よりも、何よりもまず、一匹のワタリガニに感謝した。そして、すべての蟹という蟹、種そのものに感謝の念を抱かずにはいられなかった。

 これは、もしかすると蟹という種の、総意なのかもしれない。彼ら、彼女らは、まだ私に「生きていてもいいよ」と、――そう言ってくれているような気がしたのだ。

 アドレナリン注射とステロイド錠剤で、どうにか命を繋ぎ止めた私は、その数分後、従業員に発見され、急ぎ病院に運ばれた。医者の話では、あと一分でも発見が遅ければ、本当に死んでいたかもしれなかったらしい。

 全ては、「蟹」のおかげだった――。

 そしてこの時、私は確信した。

 そう――私には、〝特別な力〟があるのだと。


 それは、選ばれた者だけが持てる、〝特別な力〟――――。







 この地域を所轄する普警警察署は、F町の中心にあるいかにも厳めしい、コンクリートずくめの無個性な建物だった。

 ――その中途半端に寂れた署内の、取り調べ室の一室で。今まさに僕は、ハリヴァと一緒に事情聴取を受けていた。

 話をさかのぼると、F’町の空き家で蟹澤の死体を見つけた時のハリヴァの悲鳴(まぁ、これは僕のゲロのせいでもあるかもだけど)を聞き付けたご近所さんが駆け付けてきて、いろいろゴタゴタしたあと通報されて、こちらに連行され、そして今に至っているというわけだ。

 

 僕らの向かいに座っていた若手刑事が嫌味ったらしく口を尖らせて言った。

「ねぇ、アンタらホントに警察関係者? 勝手に死体のまわり荒らした挙句、あんなに盛大にゲロ撒き散らかされちゃうとお巡りさんたち、困っちゃうんだけどさ。『現場保全』って言葉知ってる?」

 その横には、もう一人、屈強な体つきのいかにもベテランといった感じの中年刑事が、黙って腕組みしながら座って「うーん……」と唸っている。きっと、同僚から「チョウさん」とか「ヤマさん」とか呼ばれてそうなタイプだ。

 若い刑事は構わずに続けた。

「そもそもさあ、現場ゲロで汚すわ、あげく警察手帳は失くしたっていうわ、あのガイシャも指名手配犯だったっていうけど、そんな情報、警視庁のデータベースにだって無いしさぁ。そのうえアンタら黒ずくめで恰好からして怪しさMAXだし、所持してるのは改造したリボルバーと、お手製のチタン合金特殊警棒ときたもんでしょ? もうさ、お巡りさん的には拘束せざる得ないよね? 色んなキャパシティ超えちゃってるよね。分かるよね?」

 若手刑事は早口で一気に捲くし立てた。

 しかし、中年刑事のほうは太い首をひねりながら、どうにも解せない、というような顔をしていた。

「だがなぁ……腐敗と損傷が激しいせいで正確には分からんが、死体はどう見ても死後一週間以上経っていたしなぁ……。もしこいつらが犯人だったとしたら、一体何のためにそれだけの期間放置していたホトケさんとこにわざわざこのタイミングで戻って来て、あまつさえ通報されても仕方ないくらいのバカ騒ぎをしでかしたってんだぃ?」

「ハァ? こんな頭のネジがオール外れてそうな全身真っ黒けコンビの改造リボルバー偽警官眼鏡男とホストみたいな恰好した銀髪チャラ警棒野郎に、そんな常識論当てはめようとしたって無駄っしょ、無駄。即刻タイーホですよ、タイーホ」

 ……なかなかに酷い言われようだ。


 と、そこに唐突にドアが開き――


「鉄砲や警棒くらいでガタガタ騒ぐんじゃねえや。なんなら俺のコイツも、銃刀法違反で取り締まるかい?」


 ――聞き慣れた低音ダンディボイスと、刀の鍔鳴りの音。

 そこには、松葉杖とコルセットを装備し、腰に日本刀を佩いたサムライ刑事――王先輩の姿があった。先輩の隣には、付き添いでイオ君も一緒に来ている。

「おぉ! ワンの旦那に、イオじゃないか!」

 ハリヴァが嬉しそうに手を上げた。

 そう。さきほど警察署の電話から、《アフターダーク・セキュリティ》に電話を掛けさせてもらって、大至急、先輩に迎えに来てもらったのだ。身元保証人として。

「少しは申し訳なさそうにして下さいよ。こうやって警察に拘束されるの、何度目ですか……」

 イオ君は疲れた顔をしていた。今までも何度か似たような状況があったらしい、どうやら。

 一方、先輩は、明らかにゲッソリしているであろう僕の顔を一瞥、そして部屋いっぱいに酸っぱい異臭を拡散させているハリヴァのほうに顔をしかめてから、


「カイン、お前……」


 と、失望と憐憫の入りじった表情を向けてきた。

 ぐぅ。正直、自分でもかなり凹んでいる。だから今、ゲロ云々そこには触れないでほしい。

 ……まあ、それはともかくとしても、普警側からしてみれば事態はさらなる混沌である。あろうことか三人に増えてしまった黒ずくめの凶器所持者。オーマイゴッド! アメイジング! クールなサムライニンジャ=チャンバラソード・ポリスメンの登場に泡を喰った若手刑事は、ガタッ! と椅子を鳴らして立ち上がる。

「ヒェッ! な、なんなんだアンタは……今は取り調べ中だぞ!」

 けれど、そんなことはお構いなしよとばかりに先輩、僕たちのそばへと歩み寄ってくる。そして取り調べ机の上に、腰から取り外した愛刀と、コートの内ポケットから取り出した書類――東都普警警視総監直印の通門許可証および特殊捜査令状を差し出し、敵意のないことと、自分が決して怪しい侵入者ではないことを相手に示した。

 目の前に置かれた本物の日本刀と、総監印の捺された証書おすみつき。唖然としている若手刑事をよそに、先輩は僕らのほうを向いて苦笑した。

「すまんな、カイン、ハリ坊。上から普警のお偉いさんにナシつけてもらうのに、ちっと時間食っちまった」

 そう言ってから普警刑事二人に向き直り、己の警察手帳を開示する。普警のものとは少し違ったデザインの、特警仕様の警察手帳。

 中年刑事は、普・特 各部署に配給される官製スマートフォンにインストールされた、警察用マルチコード・リードアプリを起動。

 今しがた先輩の提示した印やバーコードを携帯のカメラで読み込み確認しながら、

「どうやら手帳も書類もハンコも、全部ホンモノみたいだぁな……」

 青ひげ肌をジョリジョリとさすりながら、そう言った。

 あらゆるアンチコピーテクノロジーが組み込まれている警察幹部用のIDや印章を偽造することは、精巧な偽札を造るよりもはるかに難しいと言われている。

「あんたら、ナニモンなんだ……?」若手刑事は、片眉を吊り上げながら、先輩の手帳を凝視した。

「ここに書かれてるオレの名前とIDを調べてもらえりゃ、オレ達が『何者』なのか、すぐに分かると思いますがね……」

 先輩が、開いたままの手帳を相手に渡すと、刑事は部屋の隅に設置されていたパソコンの前まで行き、手帳に記された先輩のIDを検索し始めた――けど。

 彼はすぐに、

「んぁ? 『非』ィ……?」

 ――と、素っ頓狂な声を上げた。

「なんだこれ……どういうことだ……?」

 それもそのはず。検索結果の画面にはただ、真っ黒な背景に「非公開特殊情報欄」であることを示す赤文字――マル印の中に「非」の一文字――が映し出されただけだったのだから。

 それを見た中年刑事が、ここにきて初めて驚いた表情を見せて口を開き、たった一言だけ、呟いた。

「『マル非』――そうか、アンタらぁ、〝ゲジゲジ〟かぃ……」

 ……その隠語っていうか蔑称、あまり好きじゃないんだけどな……。まぁ、普警と特警の仲を考えると、仕方ないか。

 若手刑事が、「ゲジゲジィ?」と裏返った声で聞き返した。中年刑事が答える。

「うむ。知らねぃのも無理はねぇ。本来、滅多に日の当たるところにゃあ出てこない輩だからぁな。ゲジゲジっつうのはな、隠密に処理されるべき事件を担当する〝裏の警察〟、つまりは公安部の特殊捜査員や、政府直轄の秘密警察……そういった日蔭者のことだよ。ほら、この『非公開』って意味の『マル非』じるしだけどぉよ、『非』の字面がゲジゲジに似てんだろぅ? だから、俺達〝表の警察〟では、ヤツらのことを、そう呼んでるのさ――」

 中年刑事が、キッ、と鋭い目で王先輩のほうを睨みつけながら言った。その射竦められるような視線に、先輩が、投げ遣り気味に肩を竦める。

「フンっ、どうせオレらは岩下や床下をコソコソ這い回ってる嫌われ者だよ」

 しかしそのあと、机に手をついて、身を乗り出した。

「――で。このゲジゲジじるしの『マル非』マークを見たなら、アンタら普通警察がどう対応しなくちゃいけないのか、もちろん分かっているよな?」

 あくまでも強気に、二人の刑事に迫る先輩。今度は中年刑事のほうが、「やれやれ」といった具合に目をつむって、肩を竦めた。

「……捜査活動に対する詮索・妨害の禁止、各要請への無条件協力体勢、そして必要資料や情報の公開。だったかぃ?」

「ああ。まずはそこに捕まってるうちの間抜けな後輩と、何でも屋のあんちゃんを解放してもらいたい。そのあとでいくつか、聞きたいことがある」

「決まりだからぁな、仕方なぃ――」そう言って、中年刑事は椅子から立ち上がった。「ついてきなぁ。一応、釈放と協力事項の件で正式な手続きを踏ませてぇもらう」

 苦虫を噛み潰したような顔でドアのほうへ向かう中年刑事と、あからさまな苛立ちを隠せない様子の若手刑事に向かって、王先輩は申し訳なさそうに頭を下げた。

「そう嫌そうな顔せんで下さいよ。こっちだって、ほんとは同じ公務員どうし、どうせなら仲良くやりたいと思ってるんですよ。上のほうが仲悪いからって、オレ達下っ端どうしまでツンケンしあう必要ねえじゃないですか」

 中年刑事は立ち止まり、落ち着いた声で答えた。

「そっちだって仕事なんだろ、分かってらぃ。だったら、デカとして俺がアンタらに望むことは一つだ。アンタらみたいな裏のモンが出張らなくちゃならねえような案件がこの街に転がってるってんならぁ、一刻も早く片付けてくれぃ。街のみんなが安心できるようにな」

「……ああ。一般人に被害は出させない。約束する」

 相手刑事の真剣な言葉に、負けじと真剣に答える先輩。熱い展開。でも先輩、思いっきりケガ人姿なのがちょっと説得力に欠けるけど。

 ――そんなわけで、ようやく、狭苦しい取り調べ室から解放されることになった。

 もとはといえば、僕が特警手帳を紛失してしまったせいで話がややこしくなってしまったのだ。大変に申し訳ないと思う。蟹澤が死んでいたあの部屋での大混乱のあと、気付けば、なぜかコートのポケットが破けており――いや、正確に言えばそれはまるでチョキチョキと「切り取られた」かのようだったのだけど――、そこに入っていたはずの手帳も消え、部屋中どこを探しても見つからなかったのだ。

 間抜け極まりない、警察官として恥ずべきミスだと思うけど、まったく、どうしてこんなことになったのか。

 先輩たちのあとについて、すごすごと申し訳なさそうに部屋を出ていく僕と、伸びをしながら「座りっぱなしで疲れたなー」と背骨をゴキバキ鳴らすハリヴァ。

 けど、ハリヴァは若手刑事に「いや、お前はゲロ臭いからとりあえず宿直室でシャワー浴びてこい」と止められた。……何かもう、ホントごめん。


 それにしても――。

 異能脱獄犯、蟹澤 漁の死。彼によって切り落とされたと思われる、謎の手首。そして、大量の蟹。

 事件は一体、どこに向かおうとしているのか……まあ、すでに迷走気味っていうか、どこに向かおうとロクな展開にはならなさそうなんだけど。






【蟹を司るもの、カルキノス】


 ……私が得た、この超能力とでもいうべき力。

 例えば、風を操る者は「風使い」と。水を操る者であれば「水使い」とでも呼ばれるべきだろう。――ならば、私の場合は「蟹使い」ということになる。

 しかし。この、我が能力。蟹を〝操る〟――などという生易しい次元のものではない。それは、まさに蟹を〝司る〟と言って差し支えないほど強力なものだった。

 カニ類との意思疎通、行動操作、強化などはもちろんのこと、含有物質の抽出、卵の孵化から成長速度の促進、さらには短い世代交代を繰り返しての傾向進化まで――――私はいつの間にか、『蟹』という種族に対してのみ発揮する、〝絶対神的支配力〟を手に入れていた。

 そう――ネ申、いわゆるゴッド。

 私は狂喜した。そしてこの能力で一体どのようなことができるのか完璧に知り尽くすため、ありとあらゆる試行錯誤を行った。実験のつもりで交配と繁殖を繰り返しまくった結果、なんだかよく分からない新種の蟹が大量発生してしまい、この近辺の生態系を著しく崩すはめになったりもしたが、それもまぁ仕方がないことだろう。

 なぜ自分に、このようなことが出来るようになったのか。それは分からない。どうやらこの力が『異能』と呼ばれるもので、自分以外にも少なからずその使い手が存在しているらしいことを、私はあとから知った。

 私は、自分の勤める署の管轄内で起きたとある事件で、指名手配犯を追っていた時、そのホシを匿っていた〝整形屋〟と呼ばれる男に出会った。裏社会でプロの闇医者兼逃がし屋として生計を立てていた犯罪者だ。そしてそのような商売を続けながらも、一度たりとも捜査線上に挙がったことのない、一流の犯罪者でもあった。

 私に見つかったあとなどは、〝整形屋〟の名が示す通りの腕前で、他人の顔を自分のものへ弄り変え、何人ものデコイを作り出し、なりふりかまわず捜査攪乱をかましてきたほどだ。

 だが、我が能力により五万匹以上もの蟹を従え情報収集とトラップを張っていた私の捜査網の前には、そんな小細工も無意味に終わる。逃走に次ぐ逃走の末、敢え無く敗れ、追い詰められた〝整形屋〟は、心底驚いた顔をしていた。それはまるで〝蟹の穴入り〟――そして、〝うろたえる蟹穴に入らず〟だ。

 いよいよ観念した〝整形屋〟は、私の能力を見て、「同類か――」と呟いたのだった。

 どうやら、この〝整形屋〟なる男も、私と同じように超能力――『異能』という名称は、この時この男の口から初めて聞いたのだが――を持っているらしかった。やつの異能は、その字名の通り、「人間の顔面構造を自由に造り変える」という能力。だが、自分自身にその能力を適用することはできないらしい。確かに、それが出来るのなら、とっくに整形を済ませて私から逃げおおせていたはずだ。

 〝整形屋〟は、私に対し、「どうだ? ここは異能者どうし、手を組まないか?」と、取引を持ちかけてきた。ちょうどその頃、私は危険のわりにはどうにも儲からない警察という商売(飼っている蟹さんたちのエサ代すらもままならない)に嫌気がさしていたものだから、二つ返事でその提案に乗ることにしたのだった。

 裏社会の住人として生まれ変わった私は、コードネームを〝カルキノス〟と名乗った。これはギリシア神話にて、英雄ヘーラクレースに退治された化け蟹の名だ。親友ヒュドラがヘーラクレースとの格闘中、不利になり、助太刀のために参戦したが、気付かれもせずに踏み潰されてしまったという、哀れな、かに座の伝説――――私はその名を、今この時代、真に畏れられる者の名として、昇華させてやるのだ。

 私が警察の捜査活動を利用して、逃亡中の犯罪者や、事情あって顔を変えたがっている暴力団関係者などを探し出し引き合わせることで、〝整形屋〟は表に出るリスクを冒す事無く『整形』という商売ができる。そして、警察情報・裏社会、両方のコネやルートを使い、安全な場所まで逃がす。報酬の取り分は半々。実にいいビジネスだった。

 我ながら、とんだ悪徳刑事だと思う。もし正義感の強い警察官だった父がこのことを知れば、怒り狂い泣き喚きながら勘当を言い渡してくるかもしれないが、そんなことは正直、どうでもよかった。もともと刑事などという職業に対しても、私を理解しようとしなかった家族に対しても、こだわりや未練など一切ない。

 もっとも、裏社会と深くかかわることによって敵が増えたことに関しては、いささか面倒ではあったが、慣れてしまえば然したる問題でもなかった。

 身辺を嗅ぎまわる公安や、秘密組織からの刺客。マフィアの雇った殺し屋。逃がした顧客を追ってきた追跡者。その他ヤクザ者や、単なるゆすりたかり――――次から次へとハエのように湧いてくる邪魔者達は、どんどん海に沈めて蟹のエサにしてやった。

 その中には勿論、異能の者も、少なからず存在していたが。所詮私の敵ではない。

 無敵。無敗。痛快愉快。

 このまま異能者としての頂点を極めてみるのも悪くはないかもしれない。


 ――――私にはもう、怖いものなど何も無かった。






「――お前も見た通り、脱獄犯蟹澤の死に様は尋常じゃあなかった。オレはこの事件、少なくとももう一人以上の異能者が絡んでいると見ている」

 普警署内の刑事部屋へと案内する中年刑事のあとに続きながら、先輩がそう言った。前を歩く彼らには聞こえないように、小声で。

 僕は一人、その言葉に頷いた。ハリヴァはたぶん今頃署内のシャワー室で、イオ君は、家事洗濯、晩御飯の準備があるからと言って、先に帰ってしまった。本当に良く出来た子だと思う。でも、おかげで遠慮することなく血腥い事件の話ができる。

「確かに、現場には切り落とされた何者かの手首――蟹澤が能力シザー・ハンズを発動したと思われる痕跡――が残っていました。おそらく蟹澤は異能者どうしの戦闘に敗北し、殺害されたと見るのが妥当でしょう」

「ああ。それに、ヤツの死体にぎっちり詰まってた大量の『蟹』についてだけどよ。イオ君から聞いたんだがな、実はこの街で既に、似たような事件が三件ほど起こっているらしいんだ」

 先輩はその事件に関係する普警の捜査記録を、今から聞き出そうとしているわけだ。それにしてもイオ君、「町の何でも屋さん」の助手を一人でこなしているだけあって、なかなかの事情通だ。

 ひそひそ話しているうちに、刑事部屋に到着。ドアを開けて中に入ると、刑事達からの一斉集中した視線が痛い。分かってはいたことだけど、どうやら僕たち特殊刑事は、ここでは完全なアウェー状態らしい。

「えーと……確か、蟹の大量発生による連続傷害事件? についてだったよな? アンタらみたいな国家警察の暗部が、こんな珍妙な事件に興味を持つなんて、意外だったがよぅ……」

 そう言って、中年刑事は資料のファイルが詰まった棚をゴソゴソやりだした。

「……お、あったあった。これだったな。ほら、自分の目で確かめてくれぃ」

 渡された分厚いファイルの表紙には、『蟹地獄連続傷害事件』――と銘打ってあった。そんな、まるで三文推理小説のタイトルみたいな……。

 えっと、なになに……

 第一の被害者、浦邊うらべ 善雄よしお、63歳、職業漁師。

 第二の被害者、谷崎たにざき 久美子くみこ、38歳、主婦。

 第三の被害者、仲田なかた 良彰よしあき、50歳、飲食店店長。

 それぞれみんな、まるで軍隊のように統率のとれたカニの大群に襲われて、重軽傷を負ったらしい。

「うーむ……住んでる地区、事件時の時間帯もバラバラ、か。職業・人間関係・所持品等、特に共通点も見られない。通り魔的犯行か?」と、先輩。

「カニ相手に動機も通り魔的もあったもんじゃない気もしますけど……」

 さらに資料を読み込んでみても、他に分かることと言ったら、犯人に繋がる証拠は一切見つからなかった事と、大量発生したあげく現場をカサカサと逃げ回る蟹の始末がえらく大変だった――ということくらいだ。この大量の蟹たちも、一応は証拠品扱いになるのだろうか? 報告書には「とても手に負いきれないのでほとんどを川に放流した」と書いてあるけど。(川の生態系大丈夫だろうか)。

 と、そこへ――。

「――チュウさん、このカニなんですけど、いい加減どうしましょうか?」

 ……また、『蟹』か。今度は一体なんだろうと振り返ってみると、さきほどの若い刑事が、小さめの水槽を抱えて、こちらにやって来た。「チュウさん」と呼ばれたのは、どうやら中年刑事のことらしい。

 水槽の中には、生きている蟹が数匹、ちょこちょこと動き回っていた。土が敷かれ、そこに小さなタッパーを埋め込んで作られた簡易的なプール、小石や、中が空洞になった枯れ枝(隠れ家用か)などがセットされている。ずいぶん本格的に飼育しているみたいだけど……。

「それ、もしかして事件の証拠品のカニですか?」

 僕が尋ねると、チュウさんは「いんや」と首を横に振った。

「こりゃあ、身内のモンがデスクで飼ってたカニだよ。つい先月、いきなり辞表を出してぷっつり消えちまったんだが……えらくカニ好きの変わったヤツでなぁ。仕方なく、俺らで世話を続けてたんだが、引き取りに戻ってくる気配もないし、いい加減、川辺にでも逃がそうかって話してたとこだったんだな」

「アイツがいてくれたら、喜んでこの蟹事件の捜査を続けてくれたかもしれないのになァ……」と、残念そうにつぶやく若刑事。

 水槽には、「飼育責任者:須藤」と名前の書かれたシールが貼ってあった。なんか小学校の生き物係みたいだ。おそらくは、そのカニ好き刑事の名前だろう。

 そこで僕はあることに気付く。

「あ!ひょっとして……この資料にもある、蟹事件の捜査担当欄に記載されている須藤すどう 將臣まさおみ刑事って、そのカニ好きの須藤さんのことですか?」

 僕は、資料の中から、三件全ての事件に捜査班として加わっていたらしい「須藤」という名前に目を付けた。

「おお! そうだった。なんでも蟹の博士号? 持ってるとか何とかで、その知識を活かして捜査にも参加してたんだよぅ。しかしこれがまた……なぁ? フジ山にカニ歩きで登ったりとか、ホッカイドウに蟹喰いに行くって言いながらわざわざ飼ってるカニ連れて行ったりよ、とにかくまあ奇行も目立つ野郎だったんだ。そこらへん目ぇつぶれば、仕事自体はデキる優秀なヤツだったんだけどよぅ……やれやれ……」

 へぇ。普警にも変わった人がいるものなんだなぁ……。などと思っていると、シャワーを浴びてきたらしいハリヴァが戻ってきた。どうやら僕の吐瀉物による臭気は、完全に排除できたようだ。……あとでお詫びにプリンでも買ってあげよう。

「おっ、なに見てんの? ケーサツの捜査ファイル? オレにも見せてくれよ」

 ずいと顔を近付け、遠慮なく極秘情報を覗き込んでくるハリヴァ。まだ少し湿った髪から、ほのかにシャンプーの香りがした。服のほうは、着替えを持ってきてくれるようイオ君に伝えていたそうなので、いつも通りのノーネクタイの白シャツに、黒いスラックス。ボタン二つ外しているシャツの襟からは、相当に鍛え抜かれたことが分かる、形のいい鎖骨と胸筋が覗く。上着の黒スーツは、シャワー直後でまだ体が火照っているのだろう、着ないで肩に引っ掛けていた。首を固定していたギプスは、体を洗う際に邪魔臭かったのか、外してしまったらしい(大丈夫なのか?)。

「いや、本来、一般への公開不可な情報ですし……それに、これ以上の深入りは、危険というか……」

「まぁまぁ、今さらそんなつれないこと言わないでさ。消化途中の酸っぱいカニチャーハン浴びせかけられた仲じゃないの。ねぇ?」ニコニコしながら、ハリヴァは言う。

 ……あれ? やっぱり? 実は結構根に持ってます?

「ふぅん、『蟹地獄連続傷害事件』……ね。そうそう、さっきカインにも言ったんだけど、カニの大量発生、最近よく聞くんだよ。ウチへの依頼でもさ、『庭にわんさかカニが湧いてっから、ささっと駆除しちゃってくれー』とかさ。原因不明、別に生態系に影響を及ぼすほどの環境変化や異常気象なんかも起きてないらしいし、一体どうなってんのかね?」

 ハリヴァは不思議そうにページをめくっていたが、あるところでピタリと手を止め、「お?」と声を上げた。

「なぁ、これ見てくれよ」と、文面を指差して、僕と先輩に促す。

「ほら、一件目の漁師の爺さんは、早朝のカニ漁の後、下船してから帰宅途中に襲われているだろ?」

「――ん? ああ、そういや湾口で獲れるよく分からんカニがこの街の特産物だって、商店街のおばちゃんも言ってたな、確か」

 先輩が顎に手を当てて唸る。

 ハリヴァはこっくり頷いてから、続けた。

「そ。んで、さらに二件目、主婦の久美子さんはお昼時、スーパーでの買い物帰りで事件に遭ってる。買い物メモの写真が資料にも載ってるけど、家族でカニ鍋でもするつもりだったのかな、鍋の素に、白菜を一玉、生しいたけ一パック、長ネギ一本、しらたき一袋、豆腐を二丁、そして……タラバガニを三杯購入している」

「ちょ、ちょっと待ってくれないか。また、蟹……?」僕にも、ハリヴァの言わんとすることが、なんとなく分かってきた。

「ああ。そいでもってラスト、三件目の仲田さん。こちらは飲食店――なんとカニ料理専門店『かに極楽』の店長だ……」

 事件は全部、『蟹』で繋がっている。そう、カニづくし――だ。

「なるほど……あの家で死んでいた蟹澤だって、名前に『蟹』が付くうえ、顔もカニに似てる……」

 ……いや、自分で言っておいて、そんなこじ付けさすがにどうなの、とは思うけど。

 でも、ここまで来ると、もはや偶然とは思えない。

「なんだぃ、アンタら? さっきからカニカニ、カニカニって――」

 怪訝な顔をしている中年刑事をよそに、僕たちはあるひとつの答えに辿り着きつつあった。

 出揃った情報の中で、一番怪しい人物――

「この須藤という刑事が『蟹事件』全ての捜査に参加していたのだったら、幾らでも証拠の回収や隠滅の機会があったはず」

「ああ。大量発生した蟹の関わる襲撃事件、そして全ての事件に係わりながら、その後姿を消した蟹マニアの刑事……。こいつはいかにもキナ臭くなってきたぞ」

 もしこれが異能の仕業だとするならば……。

「すみません。この町でのカニの大量発生というのは、大体いつぐらいから起こっているものなのか、分かりますか?」

 僕は、中年刑事のチュウさんに、それとなく訊いてみる。

「あぁ、そうさなぁ……この町にはもう五十年ばかしも住んでるけどなぁ……こんなことがぁ起きたのは、そう、わりと最近……つい三ヶ月ほど前からのことだなぁ」

「三ヶ月前……ですか。その頃、この須藤刑事に何か変わったことはありませんでしたか?」

「うーん、変わったこと……って言ってもなぁ。もともと変なとこだらけな奴だったからなぁ……」

 そこで、若手刑事が「あッ!」と大きな声を上げた。

「ほら、三ヶ月くらい前といえば、なんか須藤が忘年会の時に持病の発作起こして病院に運ばれたことあったじゃないですか! そういえば、それからじゃないですか? この町でやたらカニを見かけるようになったのって……」

 チュウさんもそこで、「思い出した!」というように、ぽん、と手を打った。

「ああ! 確かにあの時は大変だったわなぁ。下手すりゃあ命に係わってたって医者も言ってたくらいだからよぅ。言われてみりゃあ、『蟹地獄連続襲撃事件』の発生と時期が重なってるがぁ……まさかぁアンタらぁ……」

 どうやら、この普警刑事たちにも、僕たちの言わんとする疑念が伝わったらしい。

「ビンゴだな。その時が須藤の〝覚醒〟の時と見て間違いないだろう」と、王先輩。

「問題は、どうやってその須藤元刑事の足跡を追うか……ですね。腐っても優秀な元警察官――おそらく証拠を残すようなヘマは一切していないはず」

 僕が真剣に考え込んでいるのを尻目に、ハリヴァは「そうか? オレはこの須藤ってヤツ、案外簡単に見つかると思うけど?」と楽天的な様子で言った。

「――その根拠は?」

「――ん。これさ」

 ハリヴァは紙切れを一枚取り出し、不敵な笑みを浮かべた。

 なにこれ、チラシのようだけど……。

「えっと、なになに……『F町漁業組合主催・第十七回・大漁祭』、目玉イベントは『カニづくし大食い選手権』……?」

 下には小さく「カニが獲れすぎて困ってます!><; どうかふるってご参加ください」と書かれていた。開催日は明日。大食い選手権のエントリー締め切りは今日の夕方6時迄。参加費は三千円。優勝賞品は金三万円と、カニの形をしたトロフィー(うわ、いらない……)だそうだ。

「そそ。アンタらとのゴタゴタのせいで忘れてたんだけど、たった今思い出したよ。ここんとこウチの台所事情も厳しくて、実はオレも優勝狙って出ようかと思ってたんだ。

 ……んで、だ。もし、『蟹地獄連続襲撃事件』、次に狙われる人物がいるとしたら……この大食いイベントの優勝者が襲われる可能性高いと思わないか?」

「なるほど、つまりその大会優勝者の近辺を張り込んでおけば、高確率で、犯人のほうから姿を現してくれるかもしれない――と」

 妙案かもしれない――などと感心していると、

「いーや、そんなまどろっこしいのよりも、もっと手っ取り早い方法があるな」

 先輩が言った。

「え? ……と言うと?」

 どんな方法だろうか。

「さすが旦那。実はオレもそう思ってたところ」と、ハリヴァもニヤニヤしながら先輩に乗っかる。

「フフッ、だろ?」ドヤ顔の先輩。

「ああ。あの食べっぷりなら間違いないね」興奮気味のハリヴァ。

「いったい、先輩もハリヴァも、何の話してるんですか? 二人だけ勝手に納得し合って……」

 何の事だかさっぱり分からないでいると、先輩が、

「決まってるだろ……?」

 僕の肩をポンと叩いた。


「――カイン、お前この大会で優勝しろ」


 ああ~、なるほど! はいはい、僕がこの大食い大会に出場して、優勝すればいいんですね! ……って、はいぃ!?

「え? あの、ちょ、なんで? ……お、俺ですかぁ?」

「よし、そうと決まれば、大会は明日だ! さっそくエントリーしに行くぞ!」

「漁業組合ならここから10分くらいの船着場にあるから、今ならまだ締め切りに間に合うね」

 ……あ、ダメだ、この人たち、まったく聞く耳持っちゃくれない。

 こうして僕は警察署を出たその足ですぐさま漁業組合へと向かわされ、明日の大会エントリーを済ませるハメになったのであった。






【蟹は甲羅に似せて穴を掘る】


 ――『F町』と『F’町』を隔てる河が、運転席の窓から横手に見える。その河に沿って敷かれた道路を、私たちは盗んだ軽トラックに乗って進んでいるところだ。運転は私が、助手席には怪我をした相棒が座っている。

 今私たちのいるのは、『F’町』側。そこから、『F町』へと繋がっている橋を目指す。この隣町どうしは湾口へと流れ込む河を境界として仕切られており、行き来するにはいくつか架かっている橋のうちのいずれかひとつを渡らなくてはならない。

 ハンドルを握りながら、私は対岸の街並みにちらと目をやる。『F町』――あそこに、今私たちがワケあって追っている男が、逃げ込んだのだ。この案件には、早急なる始末が必要とされた。

 それだけではない。私にはもう一つの目的があった。

 本日、『F町』で行われるイベント――『カニづくし大食い選手権』。その優勝者に、天罰を下さねばならない。これだけ蟹を愛している私を差し置いて、カニを食べたい放題暴食しようなど、許し難いことこの上なく、悪鬼羅刹の所業他ならない。ああくそ、悔しい。出場できていたら、絶対私が優勝できたのに……。

「この一刻を争うときに、そんなことどうでもいいだろ」と、相棒は言ったが、そうはいかない。

 今までだって、私の制裁から逃れられた者はいないのだ。

 ――浦邉善雄。蟹が嫌いなくせに、儲かるからと蟹漁を続け、色や形の悪い蟹を、逃がすことも食すこともせず、腹いせに打ち殺しては海に捨てていた、極悪漁師。

 ――谷崎久美子。何の当てつけか分からないが、いつも私が買い物をするスーパーで、毎回新鮮な蟹を買っては嬉しそうにしていた、蟹好きの主婦。

 ――仲田良彰。蟹専門の飲食店を営んでいるにもかかわらず、蟹への感謝の気持ちを忘れ、彼らをまるでモノか何かのようにぞんざいに扱っていた、蟹料理専門店『かに極楽』店長。

 腹立たしい。思い出しただけでイライラする。

 そして、ただでさえイライラしている私を逆撫でするかのように、隣からは「うぅ……」と苦悶に唸る相棒の声が、三秒おきくらいに聞こえてくる。


「うおお……痛ってえ……痛てえよクソがぁ……」


 ……さきほどから助手席で、失った右手を苦しそうに押さえながら、蟹の念仏のようにぶつぶつぼやいているこの相棒の名を、私は知らない。名前などさほど興味もないし、便宜上〝整形屋〟という呼び名があるので、特に問題も無いからだ。向こうも向こうで、私のことを本名で呼ぶことは無い。

「うーうーとやかましいな、〝整形屋〟。腕の一本くらいで狼狽たえるな。蟹の多くにも『自切』と言って、自分からハサミや脚を切断することがある。これは外敵や天敵による捕食または捕獲から逃れるためであり、捕捉されてしまった体の一部分を切り捨てることにより逃走の確率を上げる、もしくは自切された部位をオトリとして、天敵がそれを捕食している間に離脱する為の生存戦略であるといわれている。関節部に分節面があり、任意のタイミングで切り離すことが出来る構造になっているんだな。こういった例は、トカゲのしっぽや、昆虫の脚などにも見られる。そして驚くべきことに、蟹はこの行為によって失った手足を、脱皮を繰り返すことによって次第に再生していくことが出来るのだ」

 素晴らしいと思わないか?

「うるせえ!! 俺は蟹じゃねえんだよ!」

「そうか。蟹だったら良かったのにな」

 実に気の毒な話だ。

「ふざけんな、スベスベマンジュウガニ食わすぞこの蟹バカ野郎……」

 ほう。スベスベマンジュウガニときたか。なかなかやるな。

「ふむ。スベスベマンジュウガニに含有される毒性は、フグ毒として有名なテトロドトキシンを筆頭に他、サキシトキシン、ゴニオトキシンなど麻痺性の貝毒が挙げられる。これらは採餌捕食行為によって体内に蓄積されるもので、なかには優に成人男性10人分もの致死量に至る毒を持つ個体も存在する一方、地域や生息環境によっては限りなく無毒に近い個体も……」

「分かったから、少し黙っててくれ」

 〝整形屋〟は半泣きになりながらも、手首より先が無くなった包帯グルグル巻きの右腕に鎮痛剤を注射している最中だった。流石は闇医者。手際が良い。

 ……して、なぜこのようなことになってしまったのかと言うと、私たちは客――といっても凶悪な逃亡犯だが――の潜伏先である空き家まで赴き、いつものように二人で逃がし屋としての仕事をしていたわけだが、まさにその最中、ブチギレた客とトラブルになってしまったのだ。運の悪いことに、相手はどうやら人体破壊に特化した異能者だったようで、〝整形屋〟はワケも分からないうちに右手をすぱん、と切り落とされてしまった。

 争いの原因は、確か、あの蟹のような顔をした脱獄犯――名をカニザワと言ったか(うむ、実にいい名だ。羨ましい)――に対して、私が開口一番


「お前、蟹みたいな顔をしているな」


 と言い放った際、〝整形屋〟が「ブッフォゥプwwwwwww」と盛大に噴き出してしまったのが、何故だか相手の逆鱗に触れてしまったらしい。

「くっそ……だから俺はあんな切羽詰まってそうな人相悪いクソ異能犯罪者の整形はゴメンだと最初から言ってたんだ……なんだよアイツ沸点低すぎだろどうしてくれんだよこの手ェ……」

「……? 人相はそれほど悪くなかったように思うが。蟹みたいで」

「それはお前が蟹好きだからだろ、この蟹バカ」

 また「バカ」と言われた。どうもこの男とは話が噛み合わないことが多い。困ったものだ。

「そもそもなお前、〝整形屋〟としての仕事中は、クライアントの顔に関する話題はマジで御法度だって何度も言ったよな? ホンット地雷なんだからさぁ……」

「……反省はしている。だが、あのとき笑ったお前にも十分責任はあると思うのだが?」私は、笑ってない。

「ああん!? こっちはアイツに会った瞬間から必死にこらえてたんだよ!! それをお前な、あの一言で全部ぶち壊しだよっ!!」

 そんなことを言われても。自分としてはむしろ褒めたつもりだったのだが……。

「もういい。それよりも、どうするんだよこれから……。あの空き家に置いてきた死体、それと現場に残してきちまった俺の右手、いずれは警察に見つかるだろ。もうこの町で仕事はできないかもしれないぞ? せっかく異能犯罪が少なくて特警の監視も行き届いてないこの町に逃れてきて、バレないように上手く商売やってきたっていうのによォ……」

 オールおじゃんだ――と、〝整形屋〟が嘆いた。

「その、お前が恐れている特警だが――」

 私は、配下の蟹の一匹がこっそりと奪ってきた、一冊の警察手帳を、ポケットから取り出した。それもただの警察手帳ではない、独特のデザインをした手帳である。

「どうやらあの脱獄犯を追って、この町にまでやって来たらしい。死体の中で繁殖させておいた蟹が持ち帰って来てくれた」

 死体に近寄る者へのトラップ代わりに、そして警察への捜査攪乱も兼ねて、むくろに仕込んでおいた大量の蟹。もしもカニザワを調べており、かつ我々に近付こうとするような何者かが現れた場合、その者達の身元を証明できるものを採取してくるように命令をインプットさせていたのだが、これが功を成した。

 カイン・イワザキ――特警本庁支部属、巡査部長相当。それがこの手帳の持ち主のようだ。

「おいおい、ただでさえ早く〝あいつ〟の始末を付けないといけないってのに、どうするってんだよ……シャレにならないぞ!? 特に本庁属の特警は精鋭揃いだ! 一度目を付けられたらヘビみたいにしつこい、そうなるともう逃げ続けるのは困難だ……!!」

「逃げる必要は無いな。私達は今こうやって相手の顔を知っているが、相手はまだおそらく私達にまで辿り着いてはいないだろう。これは大きなアドバンテージだ。こちらから先手を取って仕掛ける」


 戦闘準備は万全に整っている。座席の後ろのスペースには、専門家に特注で作らせた、特注のフルフェイスヘルメットも積んであった。蟹の意匠でデザインされたこのヘルメットは、私が「奥の手」を使う時にどうしても必要になるものだ。蟹甲をもとに独自開発した超硬化生体プラスチックによる防御性能と、潜水も可能なように水中戦を想定したエラ構造フィルターも完備している。

 しかし、戦闘を苦手としている〝整形屋〟は、私の提案に対して「うぅぅ……」と本気で嫌そうな顔をした。それでもやがて決心したのか、諦めたようにかぶりを振った。

「そうだな、それしかないか……。どうする? 俺は自分自身の顔を〈整形〉することは出来ないからな……念のためお前の顔だけでも変えておくか? 奇襲の成功率も上がるかもしれない」

 なかなか良い案だ。だが私はその申し出を却下した。この男が能力を使って他人の顔を造り変えているところを何度も見てきたが、あまり気分のいいものではない。自分がそれをされるとなれば、尚更だ。

「……そうか。まぁ、あんたがイヤだっていうなら、別にいいんだが……。でもそんな嫌そうな顔しなくてもいいじゃん……けっこう便利な能力なんだぜ?」

 と、〝整形屋〟。

「あんたも知ってるように、拷問にだって使えるし、あと、女の子の顔、好みに作り変えて遊ぶことだってできるしさー」

「使える能力だという点は同意だ。お前の異能の有用性はすでに実証されている。そうでなければ私がパートナーなど組まないからな。そのゲスの発想にも感心するよ」

「褒められてねえな……まあいいか」〝整形屋〟は不貞腐れた表情で、右手首から先がまだくっ付いていた頃、本来利き手が存在していたであろう位置に、ナーヴァスな視線を漂わせた。

「しかしこれから先、片手だけでどうやって商売しろっていうんだよ……。ほら? 俺ってこう見えてけっこう完璧主義じゃん? だからさ、クライアントの顔変えたとき、出来が悪かったりすると、なんかこう、胸クソが悪いわけ。創作において〝製作者〟と〝完成度〟の関係っつうのはさ、つまり、一生追いつくことのない『アキレスと亀』なんよ。分かる? まっ、まっさきにその競争から降りることになるのが、俺みたいなザコなんだけどさ」

 急に饒舌になったが、何を言っているのか、さっぱり分からん。

 言われてみれば、〝整形屋〟がその能力を使うにあたり、依頼者の顔の形を〈造り変える〉作業自体は、この男自身の造形師としての腕前に依存しているようであった。実際、粘土べらや彫刻刀などの道具を器用に使い、実に巧みな『整形手術』を施す。

 なんでも昔は手先が器用なことだけを頼りに、彫刻家志望の美大生などをやっていたらしいが、才能に限界を感じすぐに中退してしまった――という話を、本人から聞いたことがある。そのあとは、実家に呼び戻されて看護師や薬剤師の資格を取り、親の仕事である開業医の手伝いをさせられていたそうなのだが、これも「自分には向いていない」と、失踪同然に家を飛び出してしまったらしい。

 この男が異能によってのも、おそらくは人体の中で最も人目に晒される機会が多く、審美の対象となりやすい「人間の顔」を――つまりは他者の顔を「素材」としか見ることができず、そして〝整形後〟の顔を「作品」として見ているからなのだろう。自分が「変わる」ことよりも、他人を「変える」ことに強い興味が向いた結果に発現した異能であり、さらには、「己は変化したくないから、周りが変わればよい」という、この男の甘えた性根の発露でもある……と、私は考える。

 そのモラトリアムの末に行き着いた果てが裏社会の犯罪稼業とは、何ともやりきれなさそうなものだが、本人は「天職見つけたぜ」とでも言わんばかりに、そこそこ楽しんでいる様子だった。事実、変にプライドとプロ意識の高いわりに責任を負うことを嫌い、常に言い訳と逃げ道を探しているようなこいつのような者にとっては、「向いている」世界なのかもしれない。

 つまることろ、その者が求めるべき居場所、抱くべき望みは、蟹が自らの甲に合わせて巣穴を掘るのと同じように、己の身の丈と性分に見合ったものでなければならない――。


「んなことはまぁ、この際いっそどうでもいいとしてだな」――と、〝整形屋〟が話をぶった切った。

「とにかくな、特殊警察の連中は捜査時、よほど特別な任務の場合を除いて、必ず二人以上のチームで動く。もしこのカインってやつだけを見かけたとしても、迂闊に手を出すんじゃないぞ? 囮の可能性があるし、仮に一人だけ仕留められたとして、残ったヤツに顔を覚えられたり、増援を呼ばれちゃ始末に負えない。狙うならパートナーが一緒の時だ。まとめて始末する。〝カルキノス〟、あんたの腕ならそれが可能だ」

「了解した」

 私は両手でダブルピースしながら指をチョキチョキ動かして、「了解」の意思表示をとる。それを見て〝整形屋〟は、「頼むから前見てハンドル握っててくれ」と頭痛そうにこめかみを押さえた。

 車を走らせているうちに、橋が見えてきた。

 とりあえずは、船を奪うために、『F町』の海岸沿い、漁港付近を目指そう。陸路は目立つうえ、要所要所に仕掛けられた監視カメラの目を掻い潜って移動するのは難しい。それに、早くどこかしらで本格的な治療を受けさせなければ、〝整形屋〟の腕がまずいことになりそうだ。一応は「応急措置」で、止血と切断面の保護は済ませてあるが、あくまでも応急に過ぎない。

 少し速度を上げて、橋を目指す。空はどんよりと曇ってきていた。ちらりと河のほうに目を移すと、川面かわもから突き出している岩や、コンクリート護岸の、比較的高い位置にまで、サワガニたちがトコトコと這い上がって来ているのが見える。


「『蟹の高這い』か――大雨になるな」


 そうつぶやいてから、しばらく。

 案の定、ぽつり……ぽつり……と雨が降りはじめてきた。

 ――まるで、何かの前触れを告げているかのような雨だ。

 やることは多い。特殊警察の介入も確かに厄介だが、それよりも先にまず、済ませてしまわねばならない案件も残っている。


「――急いだ方が、良さそうだな」


 トラックはいよいよ、橋に差し掛かった――。







(【餓鬼道】へ堕つ――)



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