『猟域の射手』【破】




 男――復讐鬼がいだく憎悪の炎は、未だ彼の心の奥底で燻ぶり続けていた。男は満足などしていなかった。



 〝矢返し〟は成就した。ようやく、彼女の仇は討てた。

 ――だが、こんなものでは全然足りない。

 あの悪魔――メルクーアには、ありとあらゆる苦しみを味あわせてから、五体の隅々まで壊し尽くし、化け物のように死んでいく最期こそが相応しかった。

 あの日、上機嫌で奴は語った。これが、この国に来てから初めての〝お楽しみ〟なのだと。彼女と一緒に拉致された自分は、動けないように拘束され、その鬼畜の所業を見せ付けられた。最愛の人が、犯されながらゆっくりと「液体」へと変わっていくのを。

 突然襲われた際の乱闘の末、奴の能力でえぐり取られた脇腹の負傷――その痛みさえ忘れてしまうような、壮絶な光景だった。彼女は何度も「見ないで」と叫んだが、目を逸らすことなど、出来なかった。そのうち、叫び声は「助けて」に変わった。メルクーアは嗤っていた。

〈人体の液状化〉という、当時の自分にとってはまるで理解の範疇外にあった、超常の現象。それは、状況の理解すら満足に出来ていなかった己の頭を責め立て、その精神を完膚なきまでに叩きのめした。

 ただ許せなかった。目の前の鬼畜が許せなかった。自分や彼女がこんな目に会う不条理も許せなかった。何より己が許せなかった。

 心中に轟々と渦巻く感情が、怒りなのか悲しさなのか悔しさなのか、それすらもよく分からなかった。確かな殺意だけがあった。あの場で、自分のちっぽけな躰を全部飲み込んでしまいそうな圧倒的殺意の中で、一瞬彼女のことさえ忘れそうになってしまった己を、自分は許せなかった。

 彼女は瓶詰めにされた。まるで保存食のように。

 奴が言うには、あの状態でもまだ彼女は生きているらしかった。「この状態が一番そそられる」と、メルクーアは言った。彼女は瓶詰めになった後もメルクーアにけがされ続けた。

 それから一週間経っても、自分は不様に生かされていた。メルクーアにとってはお遊びだったのだろう。無力化された男の前でその恋人を弄ぶ――そういったシチュエーションに興奮していたのかもしれない。または、こんな目に遭った人間がどこまで正常を保てるか、ただゲーム感覚で楽しんでいただけなのかもしれない。

 己に生還のチャンスが回って来たのは、それからさらに三日後のことだった。メルクーアが新たに攫ってきた被害者をいたぶっている最中、作業台から偶然床に落ちた剃刀を足で手繰り寄せることができた。行為に夢中だったメルクーアは気付かなかった。

 その剃刀で、時間を掛けて少しずつ手足を拘束していたロープを切り解いて、家主の留守を狙い一目散に逃げ出した。ただただ恐怖から逃れたい一心だった。

 しばらくの間は不安で家にも帰れず、野宿をして過ごした。脱出できた安堵の気持ちと、奴が追ってこないかという恐怖感に苛まされたが、数日経ってから沸き立ってきた感情は、やはり「怒り」だった。

 ――――殺してやる。

 己の足は感情の赴くまま悪鬼の巣へと向けられたが、辿り着いたそこは既にもぬけの殻だった。メルクーアは拉致していた人物に逃げられたことで焦ったのか、隠れ家を変えたようだった。そしてそれ以降の犯行も、慎重でバレにくいものになった。

 何より驚かされたのは、自分が警察により指名手配されていることだった。二人目の被害者の部屋には、遺留物として自分のDNA情報を含んだ体液が残されていたらしかった。おそらく、液化してえぐり取った俺の体の一部を、わざと現場に残してきたのだろう。そのうえ、自分は一番目の被害者である恋人と同時に行方不明になっているのだ。疑われないわけがない。

 大切な人も帰る場所も失い、虫けらのように追い回される惨めな日々の中で、いつかあの悪魔の喉笛を切り裂ける時が来ることだけを信じ、ただひたすらに牙を研ぎ続けた。身体を徹底的に鍛え、暇さえあれば座禅を組み、野山に分け入っては自分の得意とする弓術の技能を磨き上げた。やがて、自分にも奴と同じような忌まわしい「能力」がある事に気が付いた。愚直な自分の精神がそのまま発現したかのような、力――――。

 あの化け物を野放しにした腐りきった警察、そして異能の力を我欲のために用いる忌まわしい鬼畜ども――まだ殺さなくてはならない輩は残っている。早急に事を済ませなくてはならない。

 自分はきっと、彼女と同じ場所には逝けない。ならば、地獄への道連れを、一人でも多く……。



 男はもはや、まともな精神を持ち合わせてはいなかった。

 復讐――――それだけが生きる目的。

 矢は放たれてしまった。もう後戻りは、できない。





 ペクの勤める本庁属特警支部では、まるでちゃぶ台をひっくり返され、主食も主菜も副菜も汁物も全部ごった返しにぶちまけられたかのような混乱状態に陥っていた。

「この一週間で殺された警察関係者は七人、一般の犯罪者が五人、異能犯罪者が三人――被害は甚大だな」

 険しい顔をするペク。

 先日、ペクたちが取り逃がしてしまった護送任務襲撃犯――あれから同一人物と見られる犯人が、狂ったように普警関係者、そして異能者・犯罪者を次々狩り殺して回っている。

 この事態に、普通警察上層部は、特警側への厳しい責任追及と情報公開、一刻も早い状況の改善をこれでもかとばかりに求めてくる。まさしく〝矢の催促〟と言った勢いだった。

「――そもそも普警の対応がいちいち遅すぎるのだって、戴けねえ。この国の警察機構は犯罪に対して常に受動的すぎるんだよ。それゆえに何時だって後手をとる。〝戦を見てから矢をぐ〟ってやつだ」

 ただでさえ護送失敗や襲撃犯を取り逃がした件の事後処理で忙しいのに、そのうえ立て続けに起こる箭殺せんさつ事件、おまけに普通警察からの横槍を入れられているこの状況にあっては、さすがの王も苛立ちと不満を隠せないでいた。

 メルクーアの護送に失敗してから一週間――あれから同一犯のものと思われる犯行が繰り返されている。警察関係者や異能犯罪者を標的にした、弓矢による殺害事件。使われたのは全て、メルクーアの時と同じ形の矢だった。

「使用された矢はどれも『麦粒むぎつぶ』――謂わばが流線形の、遠矢に適した形だな。現代じゃ廃れちまって使ってる流派はほとんど見ねえから、おそらくは古流の一派か……。それも、いわゆる〝弓道〟じゃなく、実戦的な〝弓術〟の流派だろうな」

 王は事件に使われた全ての弓を回収し、自ら検分した。今述べたのも、特警の中でも特に古武術や戦国時代の合戦などに詳しい、彼ならではの見解だろう。

 そこへ、狙撃手として射出武器全般には明るい知識を持つペクが、自らの意見を加える。

「いくら遠矢に適していると言っても、通常長弓の〝最大射程〟は約三〇〇メートル、クロスボウでも約四五〇メートルといったところだ。そのうえ標的に確実なダメージを与えられる〝有効射程〟となると、どちらを使ってもせいぜい一〇〇から一五〇メートル程度までに限られてくる。だが、敵の狙撃ポイントからメルクーアまでの距離は優に五〇〇メートル以上あったぞ?」

「そこが問題なんだよな……。おまえが見た限り、敵は弓のような武器を持っていたんだろ?」

「ああ。ぱっとしか見ることができなかったが、相手の身長と比較しても大きい、二メートルはある、和弓のような武器だった」

 敵が弩弓クロスボウを狙撃に用いなかったのは、おそらく有効射程距離で長弓ロングボウに劣っているからだろう。単純な飛距離、そして至近距離での命中精度、威力では長弓に勝っているクロスボウだが、矢の構造上、慣性が掛かりにくく長距離の運用では矢先がふらついてしまう欠点がある。そのうえセッティングが大変で、通常の弓に比べ連続しての速射性にも乏しい。

「――なによりこの御時世に弓などという武器を狙撃に使っているほどだ。よほどその技術に誇りと自信を持っているに違いない」

 そして犯人は、その「磨き上げた技術」を何の躊躇いもなく殺しに使うほど、堕ちてしまっているという事実――。

「どんな武器を使ってるか分からんが、五〇〇メートル離れた標的に一発で命中させ、絶命させる――常識じゃ考えられない離れ業だぞ。武士の時代の伝承ならともかく、現代にそんなアホみたいな弓取りがいるもんかね……」

 それから――と王が続ける。

「謎なのは、この〝一射目〟の矢だ」

 証拠品管理用のビニール袋に入った一本の矢を掲げる。

「メルクーア弓殺事件の当日、犯人の狙撃ポイントからメルクーア到達までの中間地点に、一本だけぽつんと落ちていた。このことから犯人は、ペクに向けて放った矢も含めて合計三本の矢を射ていることになる。しかし、なぜ五〇〇メートル以上離れた場所の標的を正確に射抜けるほどの武器と腕を持った射手しゃしゅが、こんな中途半端な距離にわざわざ証拠品を落とすような真似をしたのか――」

「思うのだが、その一射はおそらく、最初からてる気が無かった……のではないか?」

 ペクは矢を見て感じたことを、そのまま言ってみた。

 王が「はぁ?」と眉を顰める。

「殺害に使われた矢には、その棒のような部位――確か『』だったか?――に〝天誅〟の文字が刻まれていただろう? だが、この〝落とし物〟の弓にはその二文字がどこにも見当たらない。故に、最初から殺害には使う気がなかった――つまり中てる気のなかった矢だと俺は思うのだが……どうだろうか?」

「なるほどな。……まあ、分からん理屈でもないが、結局『なぜ殺す気のない矢を放ったのか?』っていう疑問への説明にはなってねえだろうがよ」

 それに関して、ペクは「ふむぅ」と唸ったあとに、口の端を歪めるような微かな笑みを浮かべた。

「もしかすると犯人は意外と信心深い男だったりするのかもしれない。その一射は、例えば願掛け――弓矢の神様に捧げられたもの……という可能性は考えられないか? 神社などでも、よく神事で矢を射る行事が見かけられる。 案外、そういった程度の理由かもしれん」

 ペクは冗談交じりに言ったのだが、その言葉に王はピンときた。

「……いや、まんざらあり得ない話でもねえぞ。そういった儀式による暗示効果で、自らの潜在能力を引き出すことが可能だとか、聞いたことがある。神憑かみがかりってやつだ。こと宗教者の連中なんかは、神が降りてきたという思い込みで驚異的な集中力や身体能力を発揮する事例も多い――そしてごく稀に、異能を発現する輩もな」

 王が最後に意味深に付け足した言葉の意味を、ペクもしっかりと汲み取った。

 敵が異能を使うとなると、今回の事件は、単なる責任問題だけでなく、まさに彼ら特警刑事の出番となる。

「つまり奴は、能力を発動する〝条件〟として、どうしても一射目を放つ必要があった。そう考えると納得がいく――か」

「ああ。なんにせよ、一筋縄ではいかない相手だ。フンドシ締めてかからねえとな……!」

 と、二人が机に手をついて立ち上がるのと同時に、電話対応に追われる同僚達から、本日の箭殺事件被害者情報が立て続けに飛び込んできた。

「……やれやれだ、一息つく暇もねえってか」

 情報係から受け取った書類に目を通す王。

「普通警察のお偉いさん一名、S区所轄の警部と警部補が一名ずつの計三名。いずれも矢による狙撃を受け、死亡――――いくらなんでも殺し過ぎだ」

 ペクも相棒からそれらの書類を受け取り、書かれてある内容に目を通す。

 ――そこに記された被害者達の名前を見た時、彼の中で何か引っ掛かるものがあった。

「これは……ひょっとして……」

 彼は穴の開くほど書類を見つめていたかと思うと、突如自分のノートパソコンのキーボードを鬼のような勢いで叩きだした。リンクしてある普警のデータベースを探り始める。

「なんだ? いきなりどうした……?」

 戸惑いを見せる王に構わず、ペクはパソコンの操作を続け、お目当ての情報を探し出した。

「――犯人の心当たりが付いたぞ」

 ペクは静かに呟き、ノートパソコンをくるりと同僚の方へと向けた――――。





武甕槌弓タケミカヅチノユミ〟。

 それが男――箭筈やはず 武紀たけのりの持つ、異能の名だった。古事記にも登場する、弓を得意とする神の名から取ったものだ。そしてその能力は、非常に単純、且つ力強く真っ直ぐなものだった。


 曇天の夜空の下、箭筈武紀は満身創痍で息を荒げていた。

「(何故か自分が警察の捜査対象になっている――)」

 ビルの屋上に逃れた箭筈は、圧倒的な危機に晒されているにもかかわらず、非常に落ち着いた精神状態を保っていた。もはや、自分に何が起ころうと、他人事にしか感じられなかった。

 体には銃創が数箇所。普通警察の特殊部隊――特別急襲部隊SATから受けたものだ。街中が厳戒態勢に入ってから既にもう、彼は自分を狙っていた狙撃手を四人も射止めている。

 街には箭筈の顔写真の印刷された手配書がいたる所に張り出され、緊急事態として街頭の巨大モニターにも同じ写真が大きく映し出されている。

 一体どこから嗅ぎつけたのか。『S区連続婦女失踪事件』の被害者関係か、もしくは弓術の道場を片っ端から洗ったのか――その調査能力をメルクーアの事件の時に発揮していてくれれば……。箭筈は少しやりきれない顔になった。

 おそらく、こんな所に居てもすぐに見つかってしまうだろう。それほどまでに、区画一帯には厳重な警戒態勢が敷かれていた。

 案の定、けたたましい音を上げながら、警察の追跡用ヘリコプターが姿を現した。箭筈の姿を見つけ、空中でホバリング停止する。

 ベル412。警視庁の警察航空隊が採用している軍用中型ヘリで、乗員二名、最大収容人数十五名。操縦席を覆うガラスは強固な防弾仕様に変更されており、キャビン内には複数名のスナイパーが搭乗している。法執行機関としての面子メンツと仲間の報復のため、どうやら警察も本気のようだ。

「少し調子に乗り過ぎたか……」

 箭筈は傷を押さえながら立ち上がり、ヘリのコックピットめがけて矢を射かけた。

 カツンッ……!

 当然、放たれた一矢は防弾ガラスに弾かれ、虚しく宙を舞う。操縦席に乗っているパイロットと副操縦士も、その結果が分りきっていたので、全く慌てる様子を見せない。

「……本部。現在B区画の建設会社のビル屋上にて捜査対象を発見。なお、犯人は弓のような武器で武装しており、体には数箇所の負傷あり」

 副操縦士が無線機に向かって報告する。後ろに積んでいる狙撃手達も、発砲許可を待ち侘びているはずだ。だが、タラップを下ろして敵に一斉射撃を加えるには、上からの命令を待たなくてはならない。

「何をぐずぐずしている。仲間の仇だ、もう殺してしまえ」

「でも、発砲するには上層部の許可が――」

 操縦席の二人がそんなことを言い合っているうちに、箭筈はヘリに目がけて二射目の矢を放とうとしていた。

「この期に及んでも、馬鹿の一つ覚えの弓矢頼みか。時代錯誤も甚だしいうえ、諦めも悪い。抵抗の意思と殺意有り――そう判断しても、問題ないだろう」

 声を低くして怒りを露わにする操縦士に対し、副操縦士は冷静に、スピーカー用のマイクを手に取り、ヘリの下にいる箭筈に語りかける。

『箭筈武紀、今すぐ武器を捨てて投降しろ! このビルはすぐに完全包囲される――』

「そんな警告、不要だ。あの顔見てみろよ、『はいそうですか』と武器を捨てるように見えるか?」パイロットが吐き捨てるように言う。

 ――無論箭筈とて、今さらそのようなものに聞く耳など持たない。ホバリングの風圧に目を細めながらも、矢をしっかりと番え、弦をきりきりと引き絞る。コートがばたばたとはためく。

 次の瞬間、「ひゅっ」という音とともに、矢が放たれた――らしかった。

「だから無駄だというのに、馬鹿らしい……よほど精神が錯乱しているのだろうな」

 呆れた表情のパイロットが眼下の犯人を見下ろしながら、隣の副操縦士に同意を求めるようにそう呟いたが、返事がない。

 そこで彼はある異変を見つけた。

「ん……これ……は?」

 いつの間にか、操縦席を覆う防弾ガラスに、小さな穴が開いている。彼はその穴とひび割れを、不思議そうに見つめた。そして副操縦士のほうを「おい……」と振り返る。

 矢。

 刺さっている。

 彼は一瞬、何が起こったのか理解できなかった。振り返ったその先には、さっきまで会話していたはずの副操縦士の死体。その首筋には、深々と突き刺さり向こう側まで飛び出している、矢。機内に飛び散った鮮血――。

「(やばいっ……!!)」

 本能的に判断した。彼は無線機からの命令を待たずに操縦桿を切り、急いで機体を方向転換する。

 なぜこんな古臭い矢が防弾ガラスを突き破って相棒を射殺すことができたのか――そんなことはどうでもいい。相手は既に三射目の矢を構えている。次に狙われるのは自分である。


「逃がさん――」


 踵を返して離脱しようとするベル412に狙いをつけ、射手は静かな殺意を解き放った。

 ――狙うのは機体とローターの連結部位。

 矢は、メインローターの激しい回転が巻き起こす強風をものともせずに突き進み、プロペラの回転軸にあたる駆動部分を貫通し、突き破った。あり得ないほどの威力――。


「これが俺の能力、〝武甕槌弓タケミカヅチノユミ〟の力だ……」


 二射目は、一射目の数倍。三射目は、さらにその数倍。同じ標的に向けて一矢射る毎に、矢の速度と威力が格段に跳ね上がる――ただそれだけの能力。御雷ミカヅチのように、はやく、つよく。その真っ直ぐな怒りのごとく貫き通る、愚直な殺意の具現こそが、彼の異能だった。


 メインローターを失っては、ヘリが飛ぶことなど出来ようはずもない。翼をもがれた鳥と一緒だ。機体は不自然に回転しながら墜落し、対面のビルに衝突した。そして、爆発。おそらくヘリのパイロットも、搭乗員の狙撃手達も即死だろう。

 火の手が上がるビルを見下しながらも、箭筈はひたすらに無表情だった。

「煙……まるで狼煙のようだ」

 そう、これは開幕の狼煙だ。謝肉祭の幕が上がったのだ。

 炎で赤く照らされた空に昇っていく真っ黒な煙を目で追ってみる。今夜は確か満月だったか。だが、曇っているため月は見えない。


 死ぬには良い夜だな――――。


 もうもうと立ちのぼる狼煙に背を向け、復讐鬼――箭筈武紀はその場を後にした。





「箭筈武紀。神前流弓術師範代。師範の神前往嵩しんぜん ゆくたかの娘である静月ジン・ユエ――どうやら母方の姓を名乗っていたらしいな――の婚約者。静月はヴァイヒ=メルクーアに殺された一番目の被害者だ」

 黒いライフルケースをスリングで背負ったペクが、非常階段を登りながら王に語りかけた。

「全部繋がった――ってワケだ」

「ああ。調べてみて分かったが、今回殺された警察関係者は、全て当時メルクーアの起こした『S区連続婦女失踪事件』に関わっていた者達、もしくは犯罪者と繋がっている汚職警官が全てだった」

「復讐――か」

 王が複雑な顔をして呟いた。

「百歩譲ってメルクーア殺害までは――な。だが、奴はメルクーアを討つ前に、氏田を殺している。これを復讐などとは、絶対に言わせない」

 氏田庸右はペクの狙撃班において副官と言ってもいい存在だった。よく無線で冗談を飛ばしては、任務中に緊張する仲間をリラックスさせていた、気の置けない男だった。

「そしてそれ以降の行為は全て、復讐ですらない……ただの殺戮だ。奴は歯止めが利かなくなっている」

「……殺人機械ってわけだ」

 王の何気ないその一言に、今度はペクが異を唱えた。


「……機械じゃない。人間、だろ?」


「そうだったな、すまない。〝殺人人間〟だ」

 王は苦笑しながら訂正した。

 相手が人間なら、それを止めるのもまた、人間――。


 ペクが屋上の扉を開ける。地上三十五階、一応、この辺りでは最も高いマンションだ。

「しかし、メルクーアの被害者リストに弓術道場の跡取り娘がいたのを忘れてたのは、迂闊だった」

 王は苦い顔で、そのあとに続けて、

「……箭筈は上手くいってりゃ、婿養子として道場を継いで次期師範になるはずだったんだろうな」

 と、わずかに憐憫の表情を見せた。

「公式では全国弓道男子選手権大会優勝、アーチェリーでもオリンピック銀メダルの成績を残している。大した経歴だよ」とペク。

 だが、箭筈武紀のまともな人生は、そこで唐突に終わりを迎えた。凶悪な犯罪者に「婚約者との幸せ」と「己の将来」の両方を奪われてしまう。そればかりか、メルクーアの工作のせいで連続婦女失踪事件の犯人として指名手配までされる始末。現場に残された、液状化した彼の一部――そのDNA情報を証拠とし、普警捜査本部はまるで的外れな捜査を展開させたのだ。そしてメルクーアが捕まった途端、警察は彼の手配を取り下げた。箭筈が名乗り出ないのをいいことに、その冤罪を無かった事にしてしまったのだ。

 その理不尽たるや、一体どれほどの怒りと絶望を、箭筈に植え付けたことか――。

「真面目な青年を歪ませてしまうには充分過ぎる人生だな……」

 ノートパソコンから携帯式のタブレット端末に転送しておいた箭筈のデータを読み直しながら、ペクはスナイパーライフルの組み立てに取り掛かる。――ドラグノフ狙撃銃(通称SVDエスヴェーデー)の改良型特警仕様。銃器全般に通じるペクだが、特に好んで使うのはVssヴィントレスSVDドラグノフなど、ソビエト連邦製の風変りな設計のスナイパーライフルだ。

 ペクは他にも、コートの裡に煙幕弾を二つ、腰にはビルから降下するためのラペリング装置を装備していた。通常、スナイパーというのは木の上やビルの上など、逃げ場のない高所に登ることを嫌う。これらの装備は、「常に逃走経路を確保しておきたい」というペクの慎重な性格の表れだろう。

「しっかし、ひでぇ有様だな……」屋上から下を見渡して、王がひとりごちた。

 地上では慌ただしくパトカーが走りまわり、あちらこちらで火の手と悲鳴が上がっている。まるでお祭り騒ぎだ。

「敵は確かたった三射で警察航空隊の追跡用ヘリを射落としたっていうんだろ? どうやったか知らんが、我が耳を疑いたくなるぜ」

「矢の威力が強すぎて、装甲車両ですら遮蔽物の意味をなさないらしい。普警連中は自衛軍の出動要請も検討してるそうだぞ?」

 どこに潜んでいるか分からない狙撃手を相手に対抗するには、空爆やミサイル、榴弾投擲などエリア単位で排除するのもセオリーのひとつだが、流石に紛争地域でもない街の中で、そのような無茶な真似は出来はしないだろう。もっとも、弓使いを「狙撃手」や「狙撃犯」とカテゴライズしていいのかどうか分からないが――。

 王が心底深い溜め息をついた。

「たった一人の弓取り相手に軍隊引っ張り出そうってか? この国の将来が本気で心配になるよ……」

「そうなる前に、俺達がカタを付ける」

 ペクは組み立て終わったドラグノフを構え、強く言い切った。その頼もしさに、王も思わず自信の笑みを浮かべる。

「オーケー、オレが矢面に立つ。そんかわし、お前は相手にドギツイのをお見舞いしてやってくれよ?」

 今回彼は、観測手スポッター兼、矢払いの役割を担い、ペクを援護する。狙撃の応酬は長距離戦の名手どうしに任せればいい。

「ジャコッ」と音を立てて薬室に初弾を装填した途端、戦場育ちの狙撃手の顔は、獲物を狙う鷹の目に変わった。


「……ああ。復讐鬼のカルネヴァーレに幕を下ろそう」

 思い知らせてやる、お祭り騒ぎがいつまでも続かないという事を――。





 ペクは改めてその場を見渡した。屋上はぐるりと転落防止用の塀に取り囲まれている。塀は胸の高さほどあるので、頭さえ引っ込めていれば、最も高所であるこの建物を狙えるような狙撃ポイントは、半径数キロ以内には存在しない。だが、敵を探すためには、たとえ相手に見つかってしまう危険を冒そうとも、どうしてもこの壁から身を乗り出す必要があった。

 スコープを覗きながらゆっくりとライフルを動かし、索敵を行う。王も双眼鏡を使って、それぞれに箭筈の姿を探す。月の出ていない曇り空の夜だが、街の明かりのおかげでスナイピングを行うには十分の明るさだ。そのかわり、電光を背にした隠遁や逆光による目くらましには充分注意せねばならない。

 狙撃戦は常に先手必勝。相手の居場所を見つけ狙いを付けた瞬間に勝負の九割以上が決まる。

「(普通警察から手に入れた被害地区の変遷と最新情報を鑑みる限り、今奴が潜んでいるのは、おそらくあの辺り――)」

 ペクは千二百メートルほど先の、河川沿いの工業地区に目星をつけた。様々な工場とオフィスビルが立ち並んでいる。

「どこだ、どこにいる……」

 自分が敵だったら、どこに潜むか。相手の思考になりきって、読み勝たなくてはならない。

「(む、あれは……)」

 ふと下方にピントを合わせる。このマンションの数百メートル手前の道路。アスファルトに突き刺さった矢を見つける。そしてずっと向こうにも、もう一本。ちょうどここから工業地帯までの、中間地点手前辺り――。

 その二点を繋いだ延長線上を辿っていくと、オフィスビルの上に佇む一人の人影が見えた。地味な色のロングコートは、コンクリートの背景に溶け込むための都市迷彩だろう。巨大な弓を構え、手には弓道用の革製指抜きグローブ〝ゆがけ〟を嵌めた男。あの顔は、間違いない――箭筈武紀。

 次の瞬間、ペクはうなじにヒヤリとした鋭い殺気を感じた。

「――――!!」

 真上―――

「危ねぇっ!!」

 王が、上空から真っ直ぐに降ってきた矢を、ペクの脳天に突き刺さるギリギリのところで掴み取った。

「そうか――しまった」

 弓矢での狙撃は基本、放物線――つまりは文字通り、弓なりの軌道を描く。頭上に屋根でも存在しない限り、遮蔽物の上から降り注ぐように射掛けることなど、合戦では常套手段だったはずだ。しかし、それはあくまでも、大量の射手が遠くから矢衾を仕掛ける時の戦法――謂わば「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」というやり方に過ぎない。マンションの屋上にぽつんと乗った一人の人間をピンポイントで狙うなど、通常、あり得ない精度である。

 驚愕するペクの表情を見て、王も引き攣った表情。手に持った矢を「バキッ」と音を立てて二つに折った。

「驚くのも無理はねえか。大昔の達人なんて、ほぼ真上に向けて射た矢を降らせて、立てた竹筒の中に通すなんて神業もやってのけたらしいぜ……って、うぉっ!?」

 最後まで言わせてもらう前に、容赦なく二射目、三射目が降り注いできた。

「こりゃあ、うかうかしてらんねえな!」

 王が屋上を囲む塀の縁に立ち、次々と降ってくる矢の雨を、抜刀した日本刀で叩き落とす。

「流石だな、惚れなおしたぞ!」

 ペクは射手に狙われないよう、壁の内に身を隠した。

「よせ、気持ちワリい! オレにゃ愛しの女房がいるんでな!」

 だが、軽口を叩いていられるのも束の間、相手の矢が、どういった訳かどんどん威力と速度を増していく――。防ぎきれなくなった王の肩口を、矢が貫通する。王は塀の内側に転がり落ちた。

 その間も次々と矢が降ってくるが、流石に見えない相手にまでは狙いが付けられないらしい。獲物を捕らえられなかったやじりは、予想外の威力で、ことごとく石の床を砕いていく。

「スコープから相手の位置が見えた。しかし、この状況での狙撃は無理だ」

「場所を変えるしかねえな……!」と、腰から外したベルトで傷口を縛る王。

 ペクと王は、マンション屋上の塀の内側に取り付けられていた手摺に、降下作戦用ラペリングロープの固定ギミックを引っ掛けた。特警武具兵器開発部門、鴨志田老人特製のラペリング装置には、特殊な鋼線を編み込んだ丈夫なロープが数十メートルにわたり巻き込み収納されていた。先端には手錠のようなギミックがあり、引っ掛けた物を決して離さない造りになっている。

 刑事コンビは躊躇うことなくビルから飛び降りた。勢いよく落下しながら、地面すれすれで、腰に巻き付けた装置を作動させ、落下速度を相殺しながらの急停止、ベルトごと装置を外して素早く着地する。

 手早くバンジージャンプを済ませた二人は、すぐさま林立するビルの群れに紛れ込んだ。建築物どうしの狭い隙間が碁盤の目状に繋がっている路地裏を巧みに利用し、移動していく。そこまではどうにか安全に進むことができたが、やがて、ビル群を二分する道幅の広い車道に直面する。

「このまま飛び出して敵との距離を詰めるぞ。俺は走りながら狙撃を、王は援護を頼む」

「了解だ!」

 身を隠していた壁面から一気に歩道に乗り出したペクは、スコープで相手に狙いを定めながら、片側二車線道路の向こう岸へと渡ろうとする。もちろん、そのチャンスを敵が狙わぬわけがない。矢が恐ろしいほどの速度で飛んでくるが、王がそれを斬り落とす。

 反撃の狙撃を行うペク。相手は驚異的な視力でペクの引き金を引く指の動きを見切り、弾丸が発射される直前に頭を下げて銃撃を躱した。

「良い眼を持っているな――戦場でもあれほどの反応には、そうそうお目にかかれん」

 ペクは煙幕弾でスモークを焚き、身を隠しながら王と二人で、道路を挟んだ反対側まで渡りきった。狙撃銃が相手ならフルオートの掃射も警戒しなくてはならないが、敵の使うのは改造を施した弓。狙いを定めるための溜めと、矢筒から取り出し弓に番える一連の動き――いくら速射しようと心がけても一矢を射るのに二秒は掛かる(もちろんその早さで百発百中というのは、通常の弓術の達人に比べても、もはや変態的と言ってもいいほどの腕前なのだが)。

 遮蔽物となるビルに身を隠しながら、二人はさらに敵へと接近していく。王が刃毀れした愛刀に目をやり、「畜生」と毒づいた。

「なあペクよ、あの矢、威力も速度もちょっと――いや、かなりおかしいぜ? しかも一矢毎にどんどん強くなってく……おそらくこれが奴の異能とみて間違いない」

「だろうな。もともとひとつの技能に長けた者が異能者になると、その特技を補佐するような能力が発現する可能性が非常に高いと言われている。奴の能力は一射、二射と撃つたびに矢の速度や強度、その威力を補正していく能力ではないだろうか? この発動条件だったら〝落し物〟の矢のことも納得がいく」

 いよいよ箭筈武紀の姿が肉眼で小さく捉える事が出来る位置まで来ることができた。複数のテナントビルや飲食店に挟まれた十字路。ペクは建物の角から手鏡を出して、敵の位置を確認した。光の反射で相手に悟られないよう、すぐに引っ込める。

「(大丈夫だ、建造物が完全にブラインドになって、こちらの位置はバレていない。チャンスを見計らって狙撃を――)」

 その時、彼は斜向かいに建っているビルの1階部分が、全面マジックミラーのガラス張りであることに気が付いた。そこには敵の陣取っているビルが映り込んでいる。そして小さくだが、屋上で弓矢を構える、箭筈の姿も――――。

 こちらから相手の姿が見えるという事は、相手からもガラスに映ったこちらの姿が見えているという事――――。

 鏡像の中で相手が弓を天にかざし構えたのを見て、ペクは大声を上げた。

「しまった! 来るぞ、王!!」

 箭筈はほとんど真上に向けて、矢継ぎ早に射を行う。

 二人とも油断していた。風を切る音とともに降り注ぐ矢。完全な奇襲。王の左腕、そしてペクの右脚の足の甲を鏃が貫く。

「っ……が!!」

 残りの矢はどうにか避ける事ができたが、王は刀捌き、ペクは機動力を――それぞれ封じられてしまったことになる。

「くそ――!!」

 ペクはドラグノフのセミオート射撃で、自分達が映っている窓ガラスを粉々に撃ち砕いた。これで相手からペク達の様子が見えることは無くなった。10発の弾倉を撃ち尽くし、即座に次の予備弾倉と交換する。

「ペク、動けるか?」

「走るのは無理だが、引きずって歩くくらいなら何とか、な」

 どうにかして移動しなくてはならないが、運悪く脚の末端部位を射抜かれてしまった。これでは箭筈のもとに辿り着くのが困難だ。

「ここからの狙撃で対応するしかないか――」

 しかし、ペクのその思惑を読みきっているかの如く、敵は既に凶悪な「次の一手」を仕掛け終えていた。

 シューシューと、何かの漏れる音。

 先ほど外れた矢のうち数本が、少し離れた飲食店の外にあるガスボンベのいくつかに突き刺さっている。

 当然、中身のガスはだだ漏れのはずだ。王も、それに気付く。

「……まさかあれ、狙ってやったのか?」

 こちらからの狙撃を妨害するために――?

「……さあな。だが、空気より重いプロパンガスは、流れ出しても下方に蓄積する。それに、最も爆発力を増すのは、密閉空間、地上70センチのあたりで空気と混合した場合だ。今この場で俺がライフルを発砲したとしても、さほど危険があるとは思えない」

 敵がその事実を知らなかったのか、もしくはただこちらの発砲を躊躇させるための牽制か――。そんな事を考えていると、警戒のため上空を見張っていた王が「おいおい、ウソだろ……」と情けない声を上げた。

 矢が飛んでくる。

 ただの矢ではない。揺らめきながら赤く光る――――あれは――

「火矢かよっ!!」

 矢の先端に、ガソリンにでも浸したのだろうか、巻き付けられた布が燃えている。当然、敵の狙う着弾点は飲食店のガスボンベ付近だろう。

「火矢とか時代劇でもあるまいし、マジで勘弁してくれよ……!!」

 王が泣き言を叫びながらペクを担ぎ、決死の勢いで十字路から飛び出した。

 背後で爆発、直撃は免れたが、爆風によってすっ飛ばされる二人の刑事。

 ガス爆発で仕留められなかったのは箭筈にとっても計算外だったが、彼はあくまでも冷静且つ冷酷な狩猟者だった。――無論、火によって巣穴から炙り出された鼠を狙わぬ手はない。

 休む間もなく、敵の矢が二人に襲いかかる。王はペクをかばうように前に躍り出る。この場で遠距離攻撃の出来る狙撃手を失っては「詰み」だ。やらせるわけにはいかない。

 眉間に目がけて飛び掛って来た矢を、間一髪、左腕でガードする王。矢は先ほどと同じように、彼の太い腕に突き刺さる。だが、何故だろうか――深く刺さったものの、先ほど射抜かれたときのように、貫通はしない。

 そこで再びペクが煙幕弾での目隠し。手持ちの煙幕弾はこれが最後だ。

 起き上がりながら、「大丈夫か、王」

「ああ、何とかな」王は腕に刺さった矢を素早く引き抜く。時間が経つと、筋肉が締まって鏃が抜けなくなってしまう。

「それに、何でだか知らねえが、矢の威力はさっきよりも落ちてやがる」

「異能のオン・オフが自由なのか……しかし、この場面で武器の殺生能力を下げる意味はない。ひょっとすると俺達からガスボンベに狙いを変えたのに関係しているのかもしれない」

「そういえば、さっきの火矢も至って普通の速度だった。狙いを変えると、溜まってた分の力が振り出しに戻るのかもな……」

 的を射た考察だった。箭筈武紀の能力、〝武甕槌弓〟は「同じ標的」に向けて矢を射るたびにその威力を上げるが、一度「標的」を変えると、その際に威力補正もリセットされてしまう。

「何にせよ、敵の攻撃力の落ちた今がチャンス――ってこった」

 王はペクを担ぎ上げ、煙幕の中を進み、安全な場所で降ろした。二人はなるべく目立たないよう路地裏や遮蔽物の多い道を進み、やっとのことで工業地区に差し掛かる。敵が陣取るオフィスビルは、もう目の前だ。ペクは物陰からライフルの望遠スコープで相手の位置を覗くが、ビル屋上の貯水タンクが死角になって、箭筈の姿は見えない。

「ダメだな。ここからじゃ狙えない」

「くそ……まあいい、ここまで近付けたらもう、こっちのもんだ。作戦変更、あとはオレがビルに突入するから、お前はその援護に回ってくれ」

「分かった――気をつけろよ」

 ペクがスコープで敵の出方を窺う。まだ敵に目立った動きはない。この場所が気付かれていない証拠だ。ペクは確信し、相棒にGOサインを出した。サインを受け、王が箭筈の居るビルに向かって勢いよく飛び出す。

 ――当然、箭筈もその初動を見逃してくれるような生易しい敵ではない。

 猛禽類や肉食動物などの捕食者は、特に動いている標的に目敏く反応する。彼はペクのトリガーのタイミングを見切った時のような恐ろしい視力で、高速移動する王を難なく発見したようだった。

 ――しかし、ここまでは刑事達の算段通り。ペクも同じように、スコープ越しの相手の動きを見逃さなかった。

 今の敵の位置からだと、王に向かって射を行うには、どうしても貯水タンクの陰から半身以上姿を見せなくてはならない。まさに、この時において他は無い――機をうかがっていた狙撃手ペクは、ライフルの引き金を絞った。

 射出された7.62mm弾が、箭筈武紀の右眼をえぐる。しかし、射殺時特有の手応えは感じられない――。

 相手はどうやら着弾寸前に顔の向きを逸らして、弾を受け流したようだ。十中八九、まだ生きている。

 敵は、その無茶な犯行の数々とは裏腹に、恐ろしく冷静で客観的な思考、平常心、そしてそれに見合った頭脳を持っている。しかし、やられっぱなしだった状態から、ようやく一矢報いることが出来た。

 ――向こうも元々傷を負っているようだし、今の決定打でさらにこちらが有利になったはずだ。あとは王が敵を倒すのを、そして仲間の到着を待てばいい――――そう思いながらも、ペクは未だ焦燥を拭い去ることが出来なかった。

 胸騒ぎを抑えきれないまま、同僚のうしろ姿を見送る。王は矢の如く駆け抜け、ビルの入口の中へと消えていく。


 ペクは先ほど視た敵の顔を頭に思い描く。

 ライフルのスコープ越しだったが、確かに箭筈武紀と、目が合った。

 自暴自棄で、憎悪と悲哀の混ざり合う、暗く暗く沈んだ目。だが、それでいて何かを哀願するような、目――。

 ペクは最初にその目を見た瞬間から、直感していたのだろう。


「奴の最期を、見届ける必要がある――」

 手負いの足に力を込め、立ち上がった。






(【急】に続く――)


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