『咎負い人の十字架』【5】




「何だ、随分と早かったのだな――」


 地下聖堂――――祭壇の前に立っていた老司祭が、乱入してきた刑事二人を振り返った。燭台の灯かりに仄かに照らされながら、静かな目で、その黒衣の敵対者たちを見据えている。

 王とカインが、周囲を警戒。目の前の老司祭のほかに、隠れ潜んでいる者はいないようだ。

 堂内に電気などは通っている様子はないが、かわりに壁に掛けられた多くの蝋燭が堂内を明るく照らしていた。内装は先ほどまでの通路とは違って石造りの煉瓦で全ての空間を囲われている。天井までは四メートル近くもあり、意外と高い。堂内の広さも畳にすると二十畳程と――結構なものだった。

 信徒の集う地上の教会とは違って椅子などは一切置かれておらず、扉から入って前方に、儀式用の祭壇と巨大な十字架像だけが安置されている。そして左側の壁には、入り口を守っていた鉄門扉と比べると幾分常識的な大きさである、これまた鉄製のドアが取り付けられていた。一体どこに繋がっているというのだろうか――。

 そして――。

 一見、中世の拷問部屋のような陰湿な空気の中、しかしその趣に恐ろしいほど馴染んでいる敵司祭の足下には、この場におあつらえ向きと言ってもいい大きな黒い棺が、さらに祭壇の上には二つの小さな棺が――双子が収められた鉄の箱が置かれていた。

 だが、その前に立ちはだかる老司祭からは、微塵の戦意も感じられない。王は身構えていた刀を降ろし、口を開いた。

「えらくカビ臭いところに招待してくれたもんだな……」

 司祭は完全に二人に向き直り、睨みをきかせる刑事達に対し、さらなる険しい顔つきで睨みつけた。

「その昔――切支丹キリシタン禁令の時代に迫害されていた伴天連バテレンたちによって作られた隠し聖堂だ。密教で言う秘仏と同じでな、信者のうちでもまっこと一部にしか知らされていなかった聖域――何せ叙階を受けた日ノ本人ジャポネゼの司祭だけに許された裏の繋がりで、細々と受け継がれてきたものじゃからの。やがて国から信仰の自由が許された後も、地上に本当の教会が建てられた後も、この地下聖堂の存在だけは極秘だった程。通路の補強や鉄門扉、祭壇のからくりなどは後の世に施されたものだが、聖堂自体にはほとんどと言っていいほど手はつけられておらん」

 カインは老人の背後にそびえる、年季の入った十字架に目をやった。金属でできた磔刑像だ。流石に時代を越えているだけあって、重厚な存在感を感じさせる。

「教会の下に作られた地下聖堂……ではなく、もともとあった地下聖堂(正確にはその通路)の上に教会を建てた――ということか」

 地上の教会自体よりも、通路やこの聖堂内のほうが明らかに古そうで不思議だったことにも、これで納得がいく。

 歴史の教科書に載るような昔の話だが、この国ではかつて、海を渡ってやってきたクルス教が勢力を強めるにつれ、公儀からのお達しでその信仰を排除、抑圧する動きが強まった時代が存在した。斯様な風潮の中、隠れキリシタン(現在で言うクルス教信者)達は政府による迫害を恐れ、摘発されないように仏像に見せかけた聖母像や、魔鏡と呼ばれる鏡(青銅を磨いたいわゆる銅鏡であり、裏に彫られた文字や形を、光を反射させることによって壁などに浮かび上がらせるトリックが仕込まれている。もちろん、裏に彫られた絵は二重底のような構造で内部に隠された)で映された救世主像を密かに崇拝したりしていたらしい。この隠し聖堂も、そういった宗教迫害によって造られた――ある意味では負の遺産なのだろう。古く、そして忌まわしい歴史を持つらしい。

「この隠れ聖堂はの、血縁ではなく師弟関係で代々受けがれ管理されていた。その何代目だかの子孫の神父が、我々の組織の末端構成員だったのでな……。その男はもう死んでいるが、せっかくなので有難く使わせてもらったというわけだ」

 しかし――、と老司祭は続けた。

「お主達、ここに辿り着くまでの時間が早すぎはしまいか? まさか、この短時間で二人の使徒を……屋古部と叉井を破ったというのではあるまいな」

「上の二人組は今、オレ達の仲間が引き受けてる。そのうち応援も到着するだろうから、お縄になるのも時間の問題だ」

 王はさきほど扉を破った際、斬鉄の居合で抜いたままだった刀を鞘に納めた。目の前の年老いた神父に、どうやら闘う気はないらしい。毛ほどの殺気も感じられず、動作も佇まいも隙だらけである。

「成程……それで、お主らはこれからどうするつもりなのだ?」

「決まってんだろ。赤ん坊を取り返す」

「それは出来ぬ相談だの――」

 一層険しい顔で老司祭は言い放った。そして――

「一応言っておくが、逃げるのであれば今のうちだぞ? 屋古部と叉井はすぐにお主達の仲間を討ち破って、ここまで来ることだろう」

 挑発するような司祭のその言葉に、王は一瞬、怒りの形相になった。

「逃げる? 何言ってやがる……? オレ達が逃げるだと? てめえら全員ふん縛るまでは、この教会から一歩足りとも外には出ねえよ」

 王のある意味自信過剰な台詞も、理解できないでもなかった。自分たちが今この老人を相手に逃げ出すことなど、彼にとってはおおよそ想像も出来ぬ範疇のたわ言であったのだし、そして何より、地上で闘ってくれているアキラの力を信頼していたからだ。

「――むしろ逃げられないのは、あなた達の方ですよ」

 既に刀を鞘にしまっている王とは違い、カインは未だ銃口で標的を捉えたまま、警戒を解こうとはしない。

 それでも、拳銃を向けられているにもかかわらず、相手の表情は少しも揺らぎはしなかった。

「ふむ、我らを倒すまで一歩足りとも教会の外には出ぬと――そう言ったのか。その言葉に偽りはないのだな?」

 まるで念を押すかのように、老司祭が二人に尋ねる。

「神に誓ってもいいぜ?」王が一歩、歩み寄る。

 その言葉を聞き、老齢の司祭は今まで感情の起伏を全く見せなかったいわおのような顔面を一瞬――奇妙な形にほころばせた。


「ほう、この場に於いて、よりによって『神に誓う』と申したか――その言葉、決して忘れるでないぞ……」


 その顔は、見ようによっては笑っているかのようにも見えたが、そうしているのも束の間、すぅと表情を元に戻した司祭は、腰の後ろで手を組んで、そのまま唐突に話を切り出した。

「まず、双子が納められたくろがねの棺だが、あれらには両方とも、内部に毒ガスを発生させる装置が仕掛けられておる。それは儀式の刻ちょうど、どちらか一方の毒殺装置が作動するよう仕組まれている。時間にして残り十二分。双子のどちらか一方は必ず死に至ることになる」

「『秤に掛けよ』――ということか」

 カインの顔がひどく歪んだ。牧俊から聞いた預言の内容――双子を秤に掛ける――とは、このことだったのだ……。

 ――そんなことは、絶対にさせてなるものか。

 怒れるカインに対し、老司祭は次なる言葉を紡ぐ。

「うむ。〝預言〟を知っておるのなら話が早い。そしてこの棺は、そこの蓋に付いておる端末から12桁のパスワードを打ち込まねば決して開かないように出来ておる。無理に開けようとすれば、その時点で両方の内部に毒ガスが発生する仕掛けだ。――つまりその刀や、もしくは溶接などで棺を切り開こうとしても、赤子は死ぬということだ」

 私の言いたいことは分かるか、と老人は見下すようにカインと王を睨みつけた。

「とどのつまりは、俺達はあんたには手出しが出来ない――ということが言いたいわけですね」

「そうだ。私を殺してしまっては赤子が救えぬことは分かっただろう」

「だが、捕まえてパスを吐き出させることはできるぜ――?」

 王がさらに老司祭との距離を縮めた。多少気は引けるが、この枯れ木のような老骨をひねり上げ、取り押さえることは造作も無いはずだ――彼がそんなことを考えていると、老司祭は相変わらず起伏の乏しい表情で、

「捕まえるだと……? 舐めるでないぞ。それにな、私がお主らにパスワードを教えるなどと言う事は、まずあり得んことだ。――誓ってもいい」

 そう言い放つと、祭壇の隣に横たわっている大きな棺桶――屋古部が人混みの中で背に担いでいた、あの頑丈そうな黒塗りの棺桶だ――を、つま先でコツンと蹴りつけた。


 それは、非常に唐突だった――。


 二人の意表を衝いて、棺桶の蓋がバネ仕掛けのように勢いよく開いたのだ。ガタン! という大きな音とともに、中から巨大なつるぎが飛び出した。

「何――!?」王が驚いて一歩後ずさった。

 老司祭はその細い腕で、宙に回転する大剣をはっしと掴み取った。手首をくるりと回し、切っ先の重みと重力を利用してそれを振り下ろす。

 王が後ろに跳んで逃れると、大剣が石造りの床を打ち砕いた。

 再び地に足を着けた王は、腰を落として居合の構えを――そして改めて、目の前の老夫の手にする尋常ならざる武器をまじまじと見つめた。

 ――――刃渡りだけで優に百五十センチは超えるであろう大剣。横に突き出した鍔も異様に長く、そのシルエットが十字架を模していることは疑う余地もない。鍔から刀身にかけては、磔にされた聖人の彫刻が施されている。その宗教的な装飾は老司祭にとてもよく似合ってはいたのだが、どう見ても短身痩躯の老人が扱うに不向きな武器であることは、誰の目から見ても明らかであった。

「おいおいジジィ、無茶すんなよ……」

 引き攣った顔で、右手をそっと刀の柄に添える王。力み過ぎぬよう、いつでも抜刀できるように――。

 対する老司祭は澄ました顔で床から大剣を引き抜き、ズズと引き摺りながら手繰り寄せた。切っ先は床に着け、柄を持つ両手は胸の前に――まるで祈るような格好だ。

「『磔刑剣たっけいけん ゴルゴダ・クロス』――遺物、『聖十字架』を模した大剣である。刀身には御子が処刑される際、磔刑に用いられた畏れ多き聖十字架――その木っ端が埋め込まれておる」

 カインは銃で相手に狙いをつけようとしたが、大剣の長い柄と大きな鍔、そして幅広の刀身に邪魔されて、急所がほとんど隠されてしまっている。照準はなかなか定まらなかった。この状態で撃っても、高い確率で防がれてしまうだろう。

「なるほど……少しは使えるようだがな、ジィさん。アンタの腕力でそのデカブツを自在に振り回すのは不可能だ。さっきみたいに遠心力や重力を利用したやり方でも、いいとこ単発を休み休み撃つのが精々ってところだろう。そんな腕じゃあ、オレ達に掠ることだって出来やしないぜ――?」

 老躯に鞭を打って大剣を振るう聖職者は、己よりもずっと若い刑事の鋭い指摘に苦笑した。

「これは手厳しいな……。お主はもう少し年寄りを労わる心掛けを持った方がいい」

 が、それはともかく――と老司祭は続ける。

「それはともかく、今のお主の言葉――私の攻撃が掠りもしないだろうというその言葉は、『私からの攻撃を一撃たりとも受けない』という決意表明と受け取っても問題は無いか?」

「……は?」

 さっきから変なことばかり訊いてくる爺さんだ、と王は思った。というよりも、その質問の意図するところ――意味自体がよく分からない。

 だが、王ももとよりこのイカレ宗教組織の連中とまともに話が通じるとは考えてはいない。いずれにせよ、老司祭の大剣が聖遺物を模した武器である以上は、屋古部と叉井が使っていた『神槍ロンギヌス』や『荊冠輪』のごとく、何らかの特殊能力を備えている可能性は高い。ならば、攻撃を受けないに越したことはない。

「――当り前だろうが。そんな訳の分からん珍妙な武器に進んで斬られてやろうっていうお人好しがいるとでも思うのか?」

 慎重に相手の出方を窺いながらも、王はそう答えた。先ほどの斬撃で、老司祭の振るう太刀筋を見切ったという自信も、彼にはあった。

 けれども、老司祭が返してきた言葉は、またもや支離滅裂なものだった。

「では、『同意した』と見なす――」老司祭は厳かに頷きながら、そう言ったのだ。

「(だからさっきから一体何を言ってるんだ、この老人は――――)」

 王は訝しそうにしながらも、摺り足で徐々に間合いを詰めていった。一方のカインは、悪寒が走るのを我慢しながらも銃を構え続けていた。こめかみから顎にかけて、つぅと冷や汗が伝った。

「先輩、気を付けて下さい……何だか、嫌な予感がします」

「何だ、カイン。お前まで何言って――」

 おそらくは相手を老人と侮ったのだろう――王が気を逸らした、その瞬間だった。老司祭は大剣の切っ先を、足払いを掛けるようにインサイドキックで蹴り上げた。

 ――「カツン!」と金物どうしが打ち合わさるような音を立てて、撥ね上がった切っ先。その勢いを利用し、手首を器用に回して斬撃に繋げる、奇襲までの一連の動作――初動はおろか、攻撃の最中でさえも殺気を発していなかったのだ。百戦錬磨の王が咄嗟に反応できなかったのも、無理からぬことだった。

「うぉをいっ!?」妙な声を発しながら、帯刀刑事は納刀したままの鞘で大剣を弾き返した。

 敵の動きが思っていた以上に速く、迎撃こそできなかったが、それでも奇襲を防ぐことだけはできた。

このあとは王の手番だ。渾身の一撃を弾かれたことによって生じた敵の「隙」を狙って、神速の居合を―――。

 だが、彼が抜刀することは適わなかった。抜刀術での反撃よりも相手の動きのほうが速かったのだ。王は刀を抜いて司祭の腕を斬り落とすことよりも、敵の次なる攻撃を防ぐことを優先しなくてはならなかった。そこに「隙」と呼べるものは存在しなかった。

 二撃目――いや、既に四撃目。そして五撃、六撃、七、八撃――息をつく暇もなく大剣を巧みに繰る古老の神父。あっという間に何合打ち合ったかも数えられなくなり、王と老司祭を挟んだ空間は剣戟の嵐と化した。その連撃は全く留まることを知らない――否、「留まることが出来ない」のだ。

 老司祭の腕力では、先ほど王が言った通り、この巨大な剣を通常の剣士のように扱う事は出来ない。故に、攻撃を弾かれた時の反発力と、武器を振るう際の慣性力――それらの運動力学をコントロールする手先の繊細な動きで、休むことなく攻撃し続けなくてはならないのだ。

 おそらく一度でも動きが止まれば、この連続攻撃は簡単に途絶えてしまうだろう。そこから再び攻勢に転じるには、先ほど大剣を蹴り上げたように、起点となる力を加える必要がある。カインと王の二人を相手に、そのような行動を起こせるチャンスがそうそう巡ってこないことは、この老君とて重々承知していた。

 一見がむしゃらに見えてその実計算され尽くした剣撃の数々を、防御に徹する王に対し、これでもかとばかりに撃ち込んでいく。老練にして老獪なその技の数々は、逐一防御や反撃のしにくい方向とタイミングから繰り出され、そして同時にポジショニングでも、王を不利な立ち位置へと追い込んでいく。そうすることによって先手先手を取り続け、後手後手に回った相手の反応を人為的に遅れさせる――それが老司祭の戦術だった。

 その間にもカインは、味方である王には当たらないよう、絶妙なタイミングで援護射撃を行ってはいたのだが、高速で転身を繰り返しながら剣を取り回す老司祭に銃弾を差し込む隙など、全くと言っていいほど見当たらなかった。攻防を兼ね備えた老司祭の剣舞は、カインの送り込んだ弾丸をことごとく弾き返したのだ。

「だ、ダメです……速すぎて、狙いが……!!」

 カインが叫ぶ。現在苦戦真っ只中である王も、それに応えた。

「しかもこの爺さん、ただ速いだけじゃねえぞ! 殺す気満々の攻撃のくせして、何故だか殺気が全く感じられねえっ!! だからいちいち次の攻撃を読めねえんだよ!」

 速さと重さの乗せられた斬撃が、横殴りに襲い掛かってくる。王がそれを、肘で押さえた鉄の鞘でガードする。老司祭は防がれた大剣を反発する力に任せて引き戻し、お辞儀をするように腰を曲げたかと思うと、大剣を背中の上で右手から左手に持ち替えながら斬り付けた。今度は右側からやって来る横薙ぎを、王は振り上げた鞘で打ち払い、防御した。続いて司祭が身体を起こしながら柄を両手で握り、右斜め上に向けて剣を振り上げる。司祭はその際、ひざ蹴りで自分の腕を打ち上げて斬撃の威力を補正した(おそらくこれも連撃の途中で勢いを失わないための工夫だろう)。それを王がスウェーバックで躱すと、そのまま大剣を振り抜く力で回転し、下段の斬り払いに繋げる。王は同じく下段に払った鞘を叩き付けて、斬り払いを退けた。だが、敵も休むことなく反転し、逆方向の回転斬りにシフトする――。

 それらの攻撃は、次々と撃ち込まれるカインの銃撃をも遮り、しかも先ほど王が言ったように、凄まじいスピードで、そのうえ殺気を微塵も発しないという、先読み不可能な状態で繰り出されるのだ。

 色即是空の覚者にとっては、瞑想も殺し合いも、本質的には同義――。

 永いときを祈りと修行の中で過ごし、感情を殺し欲望を殺し、生死観を超越した者でなければ辿り着けない、精神の安寧――――老司祭はそれを、戦闘の最中でさえ些かも失うことがなかった。

「……くそっ、まさか〝無我の境地〟とでも言うんじゃないだろうな……長く生きて悟りでも開いちまったのかもしれんが、宗派が違うだろうが!」

 王が毒づくのもお構いなしに、異郷の宗教者は攻めの手を休めなかった。先輩刑事は堪らずに、離れた場所にいる後輩を呼び付けた。

「おい、カイン――!!」

「ええ、このまま傍観者を決め込むわけにもいきませんしね!」

 カインは覚悟を決めて、自らも剣閃の嵐の中に飛び込んだ。

 大剣による中段回転薙ぎ。通過する刃の上すれすれを、前回り受け身の要領で飛び越える。ゴロン、と飛び込み前転で着地。すぐさま銃を構え振り返ったカインだったが、彼の顔面に向かって再び、老司祭の大剣が地下聖堂の淀んだ空気を切り裂きながら襲い掛かる。

「南無三……ッ!」

 カインは半ばやけっぱちに顔の前にリボルバー拳銃を持ってきて、そのバレルで司祭の剣を受け止めた。だが、回転の勢いがついた大剣での斬撃は、とても銃身ひとつで受け止められるものではなく、拳銃は強烈にカインの顔面にぶち当たり、彼の掛けていた眼鏡に深刻なダメージを与えた。

「っつたぁ……!!」鼻血を出して痛がるカイン。

 老司祭は大剣を引き戻さず、勢いに任せて振り抜こうとしたが、カインの左手が十字架状の装飾――その長く横に突き出した鍔を掴んで止めた。

「むう……ッ!」老司祭が唸る。

 これで連撃は止まった。

 カインは老司祭の左側から左手で鍔を下に引き落としつつ、もう片方の手に持った銃身で刀身を抑えつけながら立ち上がると、右足靴底で相手の頬っ面を蹴り抜いた。蹴り足はそのまま折り畳まれ、老司祭の細腕に引っ掛けられる。司祭の細腕は、カインのももの裏とふくらはぎに挟まれ、しっかりとロックされた。

「何とか止めましたよ!!」

「ありがてえっ」

 鼻血面で叫ぶカインに、王が感謝の意を述べた。そして先刻から待ちに待った居合抜きを――ようやく刀を鞘から抜き放つチャンスが与えられたのだ。

「斬る――!!」

 彼は柄に手を掛け、目にも止まらぬ抜刀術を発動しようとした―――

 ――した、のだが……。

「のぁっ! ぬ、抜けんっ……!」

 王の刀は、鞘から一たりとも抜き出すことが出来なかったのだ。まるで鞘の内側に強力な瞬間接着剤でも流し込まれたかのようだ。いくら引っ張ろうがビクともしない。

「ちょっと先輩、あんた一体何やってんですか?!」

 呆れた顔のカインをよそに、老司祭は素早くつま先で王の水月を蹴り込んだ。力はないが、最小限の威力で急所を穿つ、鋭い蹴りだ。王は咳き込むように、ガクンと膝を落とした。内臓を貫くような、予想以上のダメージ――老司祭の履く古めかしい司祭靴には、大剣を蹴り上げる際に足を守るためか、かかとやつま先、側面などに金属のプロテクトが施されていたのだ。

 敵はそこから、かかしのように一本足で立っているカインの軸足を、大外刈りのように払いながら、ショルダータックルをねじ込んだ。抵抗のしようもなく、若い刑事は老骨に突き飛ばされる。

 少林寺拳法の後受身うしろうけみのように後転しながら受け身をとったカインは、入口から見て左側にしつらえられた鉄製のドアの前まで転がった。もう一回転でもしていれば、鋼鉄のドアに背中を強かに打ち付けていたところだ。背後からは低く唸るような音と共に、ドアの隙間からひんやりとした風が漏れてきていた――。

 体勢を立て直したカインがすぐさま銃を構えて敵に向ける。パスワードを聞き出さなくてはならないから、急所は狙えない。敵の利き腕。その関節を狙い、引き金を引く――。

 しかし、王の日本刀と同じく、彼のリボルバー銃にも異変は起きた。

 引き金が異常に重い―――いや、違う。

「あれ? どうなってるんだ……引き金が絞れない――!!」

 カインは人差し指にあらん限りの力を込めたが、それでも引き金は頑として動こうとしなかったのだ。

「おいおいモヤシ、お前こそ一体何やってんだよ!」

 王がさっきのお返しと言わんばかりに呆れ顔でどやす。

 老司祭は厳かな表情で大剣を床に突き立て、跪く王を見下ろした。

「これがトバルカイン氏のお造りになられた『ゴルゴダ・クロス』の神秘だ。神の子をも磔にし、その動きを封じた十字架を模したこの大剣は、斬り付けたものの働きを封印し、『禁』ずる力を持つ。

 お主ら、自らの武器で私の攻撃を受けただろう? その際に『刀を鞘から抜くこと』を禁じ、そして『銃の引き金を引くこと』を禁じさせてもらったのだ」

 老司祭は自慢げに、自らの持つ大剣の有難い御利益を説明してくれた。

「ふん。揃いも揃っててめえら、奇っ怪な武器使ってやがる――」

 強がってはみたものの、あれで生身を斬りつけられたらどうなるのか――王にも簡単に想像が付いた。斬りつけられた部位の『動き』を封じられるに違いない……と。

 一方のカインは、右手に持った使用不可のリボルバーに即座に見限りを付け、ズボンの裾をまくり上げて、アンクルホルスターに納められた予備の小型リボルバー拳銃を取り出そうとした。――しかし、それをいちいち待ってくれるほど相手もお人好しではなかったようだ。

 老司祭は地面に突き立てていた大剣の前にさっと出て、その長い柄を肩で担ぐようにすると、背負い投げの要領で大剣を振り下ろした。力点の両腕に力が込められ、肩を支点に回転したつるぎ――その作用点であるところの切っ先が、王の脳天に降りかかる。

 とっさに飛び退く王。切っ先が霞むほどのスピードで、大剣は目と鼻の先を通り過ぎて行った。

「(あ……あぶねえ、ギリギリだったぜ――)」

 回避に成功した王は、一旦体勢を立て直そうとした。けれども、彼は異変に気付いていなかった。否、気付けなかったというのが正しいか。

 敵はしわくちゃの細い指で、王の右腕を指し示した。そこには、大剣の斬撃によって付けられた――――

 傷。

 だらしなくぶら下がった右腕を見て、王が短く驚きの声を上げた。斬り付けられた二の腕から下は、指一本でさえぴくりとも動かすことが出来なかったのだ。そのうえ、痛覚まで機能しなくなったのか、痛みも全く感じない。そのために、斬り付けられた事にさえも気が付けなかったらしい。

「畜生、動かねえ……!」

 これで右腕は〈禁じ〉られた。まずいことになったな、と距離をとろうとした王だったが、さらなる異変が立て続けに彼に襲いかかる。――なんと動こうとした瞬間、彼の左脚の太腿あたりが突然に裂けて、真っ赤な血が噴き出したのだ。その裂傷は、交差した二本の線――つまりは十字架の形をしていた。

「な、――んだと!?」

 王がさらに驚いたのも、無理はない。それは見たところ裂傷――つまりは切り傷のようでもあったが、いくら老司祭の剣撃が速いと言っても、先ほどの攻撃で王に気付かれず三撃もの斬撃を叩き込んだとは到底思えない。

 そして何より、左脚の十字に交差したその斬り傷は、右腕の怪我とは違って、ずきずきと激しい痛みを伴っていたのだ。激痛を我慢すれば何とか動かせることを考えると、どうやら〈禁じ〉られた訳ではないらしく、『ゴルゴダ・クロス』による攻撃とは思えない。

 ならば―――

「能力……!! てめえ、異能者かッ!!」

「左様、『誓い』を――破ったからだ」

 老司祭はそう言い放ち、素早く踏み込んだ。筋肉ではなく、柔軟さと脱力を利用した加速。それは一瞬だけの動きと短い距離に限定されるが、先ほど戦った使徒の連中や、王やカインのスピードさえも凌駕するものだった。不意に足に怪我を負ったことで行動の遅れが出てしまった王に、それを避ける事など出来ようはずもない。

 引き摺るように構えていた大剣の刀身を、老剣士はかかとで「カンッ」と強く蹴り上げた。くん、と回転し振り下ろされる大剣。

「(この足じゃあ躱せない。鞘で防御を――いや、駄目だ、間に合わん――)」

 詰みだな――王がそう思ったその時だった。「ガキィン!」という金属どうしのぶつかり合う音が響いた。

 カインだ。カインが颯爽と二人の間に割り込み、王の危機を救ったらしい。腕を交差して大上段に持ってきた拳銃(『ゴルゴダ・クロス』による封印で使えなくなった方だ)で、大剣の打ち込みを受け止める。重厚な強化金属のヘビーバレルが、ぎし、と軋んだ。

 もう片方の左手には、アンクルホルダーに隠されていた小型リボルバーが既に引き抜かれ、しかとその手に握られている。老司祭はこれの銃撃を警戒し、左手からの銃口では狙いにくい、カインの右側面へと廻り込んだ。

 間髪いれずにローキックで老人の足を止めようとするが、それは舞うようにひらりと転身して躱される。老司祭は回避と同時に回転しながら、カインの足を斬り付けた。その転舞の勢いに乗じて後ろ蹴りを真っ直ぐに突き出し、しゃがんでいる王の鎖骨を思いっきり蹴り付ける。王は派手に転がされ、祭壇にぶち当たった。

 右足を聖剣によって傷付けられたカインは、踏ん張りが利かなくなって片膝をつく――〈禁じ〉られてしまったのだ。

 しかし、事態はこれだけでは収まらなかった。

 一体どういうわけか――今度は大剣が掠りもしていないはずの王の右脇腹が、先ほどと同じように十字架の形にばっくりと裂けたのだ。

「な、なぜ――!?」

 どうやら王に付けられた十字の傷は、物理攻撃によってもたらされたものではないようだ。

 内側から広がるように抉れている傷口の形状から見て、斬撃や鎌鼬かまいたちのような能力でもないようだし、何か特定の条件によって発動する呪術的能力なのかもしれないな――と、カインは考察を展開した。そうでなければ、触れてもいない相手に傷を与えるなど、不可能なはずである。

 カインは驚きながらも、小型リボルバー拳銃を、ばっと老司祭に向けた。

 それは秘匿携行に優れたディティクティブ仕様――なりこそ小さいが、メインウェポンの大口径リボルバーより一回り小さい38口径相当の強装弾が6発装填可能で、その煽りを食う形で銃身が極端に短く、握り手も切り詰めて縮小されているため、射撃の精密性と弾速、銃身保持の安定性には欠けるものの、近距離の対人使用には充分な代物だった。

 そのコンパクトな見た目からは想像できない、鉄を叩くような砲火の音が、二撃――連なって放たれる。

 相手はするりと大剣の陰に隠れ、二発の弾丸をやり過ごす。そして大剣の、横に長く突き出した十字架状の鍔に足を掛け、前方宙返り。老司祭はヨーヨーのように激しく何回転もしながら、床に突き刺さった大剣の柄をタイミングよく掴み取った。空中で縦に回転した大剣が、カインに向かって叩き下ろされる。

 間一髪で横に転がって逃れるカイン。先ほどまでカインの居た位置――その石の床が大剣で粉々に打ち砕かれた。

 だが、その時カインの意識は斬撃の威力よりも、別の「あるもの」に目を奪われた。彼の動体視力は、風圧でめくれる袖の下に隠された老司祭の細い腕――そこに刻まれた古い傷跡を見つけた。

「(あれは、ひょっとして先輩に付けられたものと同じ――)」

 回避行動の最中だが、並行して敵の能力についても必死で推理する。

 インパクトの瞬間、しゃがんだ状態で着地した老司祭は、柄を両手で持って頭上に掲げ、床に叩き付けられていた刀身を水面蹴りのように蹴り払う。蹴りによって撥ね上げられる、斜め下からの変則的な刺突。きりもみ回転を加えられた鋭い切っ先が、打ち降ろしを回避したばかりのカインを追いかける。

 何とか致命傷を免れて回避したカインではあったが、今度も躱しきれずに、右腕の肉を持っていかれた。途端に右腕に力が入らなくなり、握っていた拳銃が手から滑り落ちて、ゴトッと音を立てる。

 これで四肢のうち、まともに動かせるのは左足と左腕だけになってしまった。そして頼れる武器は、左手に握った小型のディティクティブ・リボルバーのみ――。

 カインはその小型拳銃の回転式弾倉に残った四発の弾丸を、老司祭めがけて次々と撃ち込んでいった。司祭は大剣を床に突き刺し、それを支点に鍔とつかを握っての側方宙返りで弾丸を躱した。そのまま着地と同時に再び後方に飛び退き、祭壇の上に降り立った。

 真下には、祭壇に背を凭れて息を荒くする王がいる。

「しまった……!」

 カインは敵を王の傍まで追いやってしまったことを後悔した。

 しかし、状況の悪化はそれだけでは納まらない。カインの見ている前で、今度は王の右肩が十字に裂け、血を噴き出したのだ。

「神前の誓いを破る度に、戒めの傷は増え、苦しみは増していく――」

 老司祭は大剣をチャキッと音を立てて、祈るように構えた。

「誓い――?」

 もう既に虫の息の王を心配しながらも、カインは敵から目を離さずに、そう訊き返した。

「そう、誓いだ。この男は最初に宣言した――『私の攻撃は、お主達に掠りもしない』と。しかし、その誓いは破られた。私の行う〝秘蹟〟はな、聖域内で偽りを申した者、誓いを破った者に対し、神の代行として神罰を与える力だ。そしてその『罰』は、罪人の身体をアトランダムに傷付ける〈十字の聖痕〉として発現する――――〝咎負い人の十字架〟だ」

 なるほど――これでかねてよりのカインの疑問は解けた。

 確かに王は、老司祭の初撃を躱したあと「そのような実力では、『自分達』に『掠ることだって』出来ない」という旨の発言をした。さらには、それに対する「今のは『私の攻撃を一切受けない』という意思表示なのか」という司祭の問いかけに対し、「当り前だ」と『同意』したのである。

 彼――老司祭の異能は、己の前で嘘をついた者、そして約束を違えた者にペナルティを与えるという特殊能力だったのだ。

「で、『聖域』――というのは?」

 カインは何とか考える時間を稼ごうと、祭壇の上に座する尊翁に向かって問い掛けをした。

「それに関しても手は打っておる。儀式の刻まであと少し――どうせお主らも死ぬのだから、教えてやろう」

 老司祭も何とかして儀式までの時間を稼ぎたいのだろう。利害の一致ゆえ、カインの疑問に対して正直に答える。

「私や『十二使徒』達の能力には、一部の例外や、お主らが仕留めた遊夛を除いて、『聖域』の外では使えぬという制限が存在する。『聖域』――分かりやすく言うと、教会や聖堂、霊園などのクルス教における宗教施設内、もしくは聖人ゆかりの地や、一般的に聖地などと呼ばれておる場所のことだな」

「ということは、この教会の敷地内から一歩でも出てしまえば、あなた達の能力の干渉は受けない――と」

 カインはそう言うと、ちらりと背後の鉄のドアを盗み見た。

「うむ、その通り――」

 続けて老司祭はカインの思惑を見透かすかのように指摘する。

「――そしてお主が睨んでおるように、その背後のドアは隠し通路であり、無人の屋敷の庭に繋がっておる。仲間を置いて逃げようというのなら、止めはせんぞ?」

 しわくちゃの顔が、少々嫌味ったらしく歪な笑みを形づくる。

 袋小路だと思われていた地下聖堂に逃げ道があったことを知り、王は大きな声で後輩に吠え立てた。

「カイン……! オレのことはいいから、とにかく逃げろ!! どうせもうすぐ応援だって到着するはずだ……!!」

「お言葉に甘えたいところですがね、それも出来ないんですよ、先輩。――ま、それ以前に先輩残して一人逃げるくらいなら、地獄にお供することを選びますけどね、俺は」

 困ったように笑うカインに対し、王は「馬鹿を言うな!」と声を荒げた。

「何を阿呆なことぬかしやがるんだ、お前は――――あっ!!」そこで王も気が付く。

 そう、彼らは先刻既に司祭と誓約済みだったのだ。「敵を全員捕えるまで、この教会から一歩も出ない」と――。しかも、よりによって神にまで誓ってしまっているのである。

「そういうことですよ、先輩。恐らくここから一歩でも出ようとしただけで、誓いを反故にしたと見なされ、俺は躰のどこかに深い十字の傷を負うでしょうね。これ以上の失血は、さすがに生きていられる自信もありませんよ……」

 力なく王に笑いかけると、カインは空になった拳銃の弾倉から、薬莢を落として、ポケットから装填用のスピードローダーを取り出した。

 この小型リボルバーはあくまでも予備武装であるため、メインウェポンの大型マグナム実包との互換性は無い。装備を圧迫しないためにも、小型用の弾薬はそれほど多くは携行できなかった。つまり、このスピードローダーで補填できる六発が最後の六発であり、カインにとって残された唯一の抵抗手段だった。右手が『封じ』られ動かせないこの状況、ローダーのつまみ部分を口にくわえ、動かせる左手だけで弾の交換を済ませる。

 ――彼はまだ、交戦するつもりなのだ。

「やれやれ、参ったのう……」

 老獪な司祭は、本当に困ったような表情で、祈りの構えの大剣を、王の首筋に突き付けた。人質にするつもりなのだ――。

「その銃を私に向かって撃つ事を禁じる。誓え――」

 司祭は高みから冷酷に言い放つ。カインは拳銃を構えた。それを見た敵は、躊躇いなく王の肩を斬り付ける。それと同時に、傷を負ったペナルティとして王の顔面に深々と十字の聖痕が炸裂する。

 王は悲鳴と血飛沫を上げながらも、「俺に構わず撃て!」と叫んでいる。

「脅しではないぞ――?」

 睨みをきかせる老司祭の肩と脇腹は、じわじわと赤く染まっていた。先ほどの銃撃、身軽に躱したように見えたが、実は幾つか被弾していたのだ。

「私も老いたものだ――二発も貰ってしまった。本当なら直に叩き斬ってやりたいところだが、どうやらもうあまり動けそうにないのでな。さあ、誓え――!!」

「分かった、『誓う』。決してこの銃を、あんたに向かっては撃たない……」

 顔面を押さえて苦しむ王を見て、カインは耐えられずに『誓って』しまう。だが、迷っているのか、銃を下ろそうとはしない。

 彼は老司祭の腕に隠された傷跡を見た時に、あることを思い付いていた。そしてその考えは、先刻行った言葉のやりとりを経て、確信へと変わりつつあったのだ。

 さて、一か八かの賭けだが……まぁ、いつものことだ。やってみるしかないだろう――カインがそう意を決し、口を開く。

 ここからが正念場だ。坊主と禅問答をして勝てる自信はもちろんないが、相手が神父ならどうだろうな――とカインは思った。拳銃を構えたまま、彼は言った。

「俺は今まで異能者や犯罪者、決して軽くはない、多くの命を奪ってきた。あんたらと同じ罪人だ――」

 老司祭が訝しげな顔をした。

「何だ? この期に及んで最期の懺悔でもしたくなったのか」

「どうだろうな」と、カインは表情を変えずに続ける。ポーカーフェイスは彼の得意とするところだ。

「でも俺はその罪から逃げたことはないと自負してる。そしてこれからも、決して逃げない。今まで奪ってきた命は、ちゃんと十字架として、俺の背中に重くのしかかってる――」

「何が――言いたい?」

 老司祭がぴくりと反応する。こめかみや額に青筋が立っているのが見てとれる。

『十字架』というワードを使った挑発はやはり有効そうだな、とカインは判断した。ここで一気に畳み掛ける。

「だから、俺が聞きたいのは、あんたらに十字架を背負う覚悟はあるのか――ってことだよ。預言だとか救済の為だとか、そんな大層な理由を付けて正当化したところで、罪は罪、だろ? 俺や先輩から見ると、そんなものは都合のいい言い訳並べて逃げてるだけにしか見えないね」

 そのあからさまな挑発を受けて、老司祭は怒りの声を上げる。長年の間、神に仕えてきた聖職者としてのプライドを、ピンポイントに刺激されたのだろう。

「小僧、貴様――!! 見くびるなよ、覚悟などとうの昔に決めておる!! 我々を何だと思っているのだ、《十字背負う者達の結社》だぞ!? 神に代わって戒律を破り、罪を背負う――そのための結社だ!! 罪を犯す覚悟も罰を受ける覚悟も、お主に言われるまでもなく持ち合わせておるわ……!!」

 思った通り、乗ってくれたな――と、いよいよカインは仕上げにかかった。

「じゃあ、絶対逃げないんだな?」

「無論――!」

「十字架がどんなに重くても?」

「当然――!!」

「たとえ自分が押し潰されそうになっても?」

「本望である――!!!」

 老司祭は柄にもなくムキになっていた。普段の彼なら冷静に受け流せていたはずの問答だったが、戦闘中、そして怪我を負った興奮状態ということもあり、自らを律することが出来なかったのかもしれない。あるいは、それ以外にも何かしら彼を焦らせる要因があったのか――。

 カインは感情を表に出さないポーカーフェイスのまま、「よし」と心の中で頷いた。

「ありがとうございます。その言葉が聞きたかったんですよ――」

 彼はそう言って、小型のリボルバー銃を躊躇いなく発砲した。

 王の躰をかろうじて杖のように支えていた日本刀が、銃弾によって弾き飛ばされた。その瞬間、王の躰は横に倒れ込み、突き付けられていた大剣の刃から解放される。

「なん……じゃと!?」

 若い刑事の唐突な行動に焦りを隠せなかった老いた神父は、次に備えて素早く最善の手を打つ事さえも出来なかった。

 カインは銃口を老司祭に向け、そのまま残りの弾を全て撃ち尽くした。

「こやつ、相討ち覚悟か――!?」

 老司祭は慌てて祭壇の後ろに転がり込み、カインの銃撃をやり過ごした。全ての銃弾は祭壇の向こう――大きな十字架の掛けられた壁に、むなしく弾痕を穿つのみ。

 ――決死の覚悟で撃ったであろう弾は、敵に掠りもしなかったのだ。

 老人は銃撃が止んだのをいいことに、祭壇からひょっこりと顔を出し、そしてゆっくりと立ち上がった。

「ふはは、撃ちよった! 五発も撃ちよった……!!」

 勝ち誇ったかのように、皺だらけの顔が醜く歪む。

「相討ち狙いだったのかもしれんが、残念だのう……。お主には五つの聖痕がペナルティとして刻まれる。屋古部や叉井に付けられた傷、それらの失血量を考えれば、致命傷は必至!! たとえ動脈を傷つけられることを逃れたとしても、助かることはあり得んわ……!!」

 司祭は叫んだ。もはや勝ったも同然、と言わんばかりに。

 自分の能力、〈聖痕〉が罪びとの躰に発現する瞬間を、今か今かと待ち受ける。

 ――だが勝利を確信したその興奮も、束の間の幻影に終わった。彼の信じる神はどうか知らないが、勝利の女神は老司祭には微笑まなかった。老司祭が望んだ勝利は、ついに訪れなかった。

 カインの躰には、何の異変も起こらなかった――。

「な、何故――」

「分からないですか。さっきの銃撃では『誓い』を破ったことにはならないんですよ……」

「何を……!! お前は確かに私に銃口を向け、弾丸を――」

 その反論は、完全に主導権を握ったカインによって遮られる。

 ところで――、とカインは拳銃を捨て、老司祭の左腕を指差した。


「その傷、随分と古いものみたいですが、一体どうしたんですか――?」


 まくれ上がった袖からは枯れ枝のような細い腕が覗き、そこには大きなが刻まれていた――。老司祭ははっとして、急いでその腕を隠す。

「隠したってもう遅いですよ、ご老人。その傷跡、あなた自身の能力で負ったもの――なんでしょう? よくよく考えれば分かることですけど、その能力があんたの言うところの〝神を偽った者への罰〟であるのなら、条件の揃った者にはみな平等にペナルティが与えられるはず。そしてその範疇には、もちろんあんただって含まれている……いや、むしろ狂信じみた信仰心を持つあなたが一番影響を受けなくてはおかしいに決まってる――違うか?」

 老神父は「ぐむぅ」と唸って、一歩後ずさった。

 まさしくカインの言った通りであった。カインが目ざとく見つけた傷跡は、老司祭が過去に、を破ったことで負ったものであった。それはつまり、彼も自身の能力、そのペナルティを受ける範疇内にあるという事を意味していた――。

 故に、老司祭は聖域内――神前では偽りを申さぬよう、そして下手な事を口走って『誓い』を成立させぬよう、常に細心の注意を払っている。カインに能力や『聖域』について問い詰められた時に嘘を言わなかったのも、そのためだった。

「それが分かったところで何だというんだ? 私はお主の口車に乗せられるほど軽率ではないぞ?」

 老司祭はカインの言葉に警戒し、慎重になっている。しかし、時すでに遅し――今さら気を付けても間に合わない。なぜならカインはすでに罠を仕掛け終えていたのだから。

「やれやれ、どの口が言うんですかね……」

 カインは呆れて首を振った。

「……まさか、もう自分の誓ったことを忘れちゃったんですか?」

「何だと……?」

 さらにもう一歩、老司祭は追い詰められたかのように後ろに進んだ。

 ――そこに至ってようやく、彼の耳は微かな違和感を発する小さな音を聴き取った。何か、石にひびが入るような乾いた音と、金属の軋むような音――。

 その嫌な音は、自分のすぐ背後から聞こえてくるようだった。

 カインから目を離すことはできないので、後ろに集中して耳だけをすませてみる――。


 めりめり…めりめり……。


 不吉な音が――。

「ま、まさか――!!」

 彼が振り返ると、背後の壁に固定されていた巨大な十字架がめきめきと音を立てて、まさに自分に向かって傾いて来ているところだった。十字架の三点を固定していた留め具には、弾痕が――そう、カインの放った弾丸に撃ち抜かれ、破壊されていたのだ。

 先ほどの射撃は老司祭を狙ったものではなく、彼の背後にある十字架像を支えていた固定用の金具を壊すための射撃だった。故に、カインは『誓い』を破ったことにならず、〈聖痕〉のペナルティは刻まれなかったのだ。

 次の瞬間、いよいよ十字架の重さに耐えられなくなった金具が弾け飛び、老司祭に向かって倒れかかった。

 ――大丈夫だ、なんとか躱せる――。

 そう思い、司祭が横に跳ぼうとした刹那、彼の胸が血を噴き出した。見れば、十字架型の傷痕が――。

 人を呪わば穴二つ掘れ―――呪術者はその呪いが己に返ってくることを覚悟しておかなければならない。老司祭は、自らの能力による〈聖痕〉で胸をえぐられたのだ。

 そう、罠は二段構えで張られていた――。

「約束破っちゃいけませんよ。どんなに重くても、自分が押し潰されそうになっても『十字架から逃げない』と誓ったのは、あなたなんですから――」

 カインの言葉で、ようやく老司祭は悟った。自分は先ほどの問答で嵌められたのだと。

 彼の能力、〝咎負い人の十字架〟は倒れてくる十字架を躱そうとしたその行動を、『誓い』に対する背信行為とみなし、能力主自身にもペナルティを与えたのだ。

 突然のダメージによって回避もままならなくなってしまった老司祭は、そのまま倒れてきた十字架の下敷きとなった。

 ――ずぅうん、と凄まじい音が響く。

「あの十字架、一体何で出来てるんだ……?」

 カインはそんなことを呟きながら、急いで王のもとへ駆け寄った。武具使用者である老司祭の意識が途切れたからかは分からないが、手足も動くようになっている。倒れている王を、カインはまるで聖人の亡骸を抱く聖母像『ピエタ』のように抱き起こした。

「大丈夫ですか、先輩――」

 カインの呼びかけに、先輩刑事は弱々しく「おぅ」と応えた。

「しかしよぉ、あんな倒し方、思い付いても普通やるか……? おめえはホント、口八丁手八丁だな……」

 褒めてるのだか貶しているのだか分らないようなことを言ったあと、王はにやりと笑った。顔面に深く刻まれた十字の傷が痛々しい。早く手当を受けさせなくては、とカインは思った。

 カインは再び王の身体を静かに寝かせて、祭壇の裏まで回った。敵は十字架の下で気を失っているようだが、微かに息をしている。

 それからカインは祭壇の上の二つの小さな棺に目を移した。さて、困った事になったな――と腕を組む。12桁のパスワードなど、適当に押してどうにかなるものでもない。牧俊がいれば簡単に解いてくれたかもしれないのだが――そんな事を考えながら、とりあえずこの小さな鉄の棺を手に取ってみようとしたその時、足元から声が聞こえた。

「そこに……おるのか……?」

 声を発したのは、十字の鉄の塊に押し潰されまさに瀕死の状態であった老司祭だった。

 カインは地べたに顔を付けるように屈みこんで、その口元まで耳を近付けた。

「見事に…………やられたわい。年の功など、当てに……ならんもの……よのう」

 老司祭は首だけを動かして、カインのほうを見た。

「そんな事はどうでもいい! 頼む、パスワードを……暗証番号を教えてくれないか!?」

 カインは地面に両手をついて、頭を下げた。情けないことかもしれないが、今はこの老人に頼るしかないのだ。

 老人は苦笑した。

「先ほどまで……敵だった人間に……頭を下げて頼みごと…………か。――お主、賢いのか馬鹿なのか……分からんわ……」

 息も絶え絶えに喋る老人に対し、カインはなおも必死に頭を下げる。

「何でも言う事を聞く。仲間が来たらその十字架をどけて、病院にだって運んでやる。だから、お願いだ――」

 支離滅裂なのは百も承知だが、カインには今、こうすること以外に何も出来なかったのだ。

「無茶……苦茶だな――聖務さえ……全うできれば……命など惜しまぬ我々に、そのような取り引き…………論外だぞ」

 だが……、と老人は続ける。そしてしばらく迷ったあと、こう言った。

「ひとつ……条件がある」

「条件――?」

「ああ。生き延びた……双子を……お前たちが、捕えたあの男――遊夛に……会わせてやって……くれないか?」

 突拍子もない条件に、カインは呆気にとられてしまった。一体全体、どこからそんな条件が湧いてくるのか、彼には皆目見当もつかなかったのだ。そもそもそんな条件、実現できるわけがない。

 しかしカインには、もう道は残されていなかった。彼は頷いた。

「わかった、約束する……!」

 もちろん、嘘である。第一級犯罪者である遊夛に、今回の被害者である赤ん坊を面会させることなど、許されようはずがないのだ。

 瞬間、カインの背中に激痛が走る。老司祭の前で嘘をついたことによるペナルティだ。大きな十字の傷が、彼の背中全面に走り、コートごと引き裂いた。朦朧としている老人は、その事に気付いていない。カインも相手に嘘だと気取られないために、その痛みを必死に堪えた。失血量も相当だが、せめて赤子を助けるまでは何とか気合いで持ちこたえなくてはならない。

「そうか……これでようやく……わたしも……逝ける。いいか……一度しか……言えんぞ。……聞き逃さぬように……な」

 逝ける? 一度しか言えない? どういうことだ――と、カインは疑問に思ったが、とにかく聞き逃すまいと、老人の口元まで耳を寄せた。

 老人は痛みに耐えるように、ぼそぼそとくぐもった声で12桁の数字を述べた。

 カインは老人の口から出た数字を、爪が剥がれるのも構わず力の限り、指から滴る血の跡で床にメモをしながら聴き取った。その数字を何度も確認しながら、小さな棺桶に設置された端末に打ち込む。カインが両方の棺にパスワードを打ち込むと、圧縮された空気が抜ける時のような音がして、蓋が開いた。棺の中では両方とも、赤子がすやすやと眠っていた。

 彼らを助けるために死闘があったことなどつゆも知らずに、幸せそうな顔で寝ている赤子の顔を見て、カインは「良かった――」と心底安堵した。

 脱力してその場に崩れ落ち、後ろを振り返った。血を失い過ぎて意識も朦朧としてきたが、老司祭に棺が開いたことを報告しようとしたのだ。

 しかし、振り返った先は血の海だった――。

 老人の首には十字の傷跡。そこからどくどくと血が流れ出している。

「どうして……」と呟いたカインだったが、やがて彼は理解し、思い出した。

 ――老司祭は自分たちと戦う前に、「パスワードは教えない」と『誓って』いたという事を。つまり、彼は自分から宣言した誓いを、自ら破ったことになる。その事に気が付いていたから、「一度しか言えない」などと言っていたのだろう……。

 この老人は、この期に及んで任務を達成するためではなく、自分とは何のつながりもない赤ん坊を、自分の手で巻き込んでおいて、結局は救うために、最期の命を捧げたというのか――? 行動が矛盾している。支離滅裂だ。

 混乱しながらも、横たわる老司祭の傍にしゃがみ込むカイン。

 老人は血の海の中で既に息絶えていた。死体を見るたび過去のトラウマで反射的に嘔吐してしまうカインだったが、今回に限ってはその凄惨な死に様を見ていても、不思議と吐き気を催すことはなかった。死人の苦痛に見開かれた目を、手で覆って、瞼を下ろしてやる。

 そして一言、静かに「エイメン」と唱えた――。


 さて、自分もそろそろ駄目かな――と、覚悟を決めたカインだったが、祭壇の上の双子は仲間が見つけてくれるから、きっと無事にここから出られるだろうと、そんな事を考えていた。

 先輩はまだ大丈夫だろうか――と渾身の力で立ち上がり、祭壇に手を突きながらふらふらと歩み寄る。

「(もし沙帆ちゃんがこの場に居てくれれば話は別だけど、先輩も相当危ない状態だからなぁ……)」

 けれども、あと数歩のところで、カインは意識を失いかけ、前のめりに倒れ込みそうになった。それを入口から跳び込んだ何者かが駆け寄って、ひしっと抱き止める。サラサラの髪がカインの頬をそっと撫でる。自分を支えてくれている女性――その横顔をちらりと見て、彼は驚いた。

「あれ……? 何でこんな所に……?」

 そこに居たのは、須山沙帆だった。

 入口のほうを見ると、がやがやと特警のメンバー達の姿も見受けられる。

「芒山さんに無理言って、来ちゃいました……」

 沙帆は少し、申し訳なさそうな顔をした。「駄目じゃないか」と、少し怒った顔をしたあと、カインは特警隊員達の姿の中に炎上寺アキラがいない事に気が付いた。

「上の――アキラさんは、大丈夫?」

「はい、怪我のほうは何とか……でも、血を流し過ぎて――って、カインさんも!」

 黒いコートのせいで分かりにくいが、カインも充分に血染めの格好である。慌てふためく沙帆に、「大丈夫だから」と笑い掛ける。

「っと、そうだ……俺のことはいいから、早く先輩の怪我を……」

 彼はそう言いかけて、気を失った。沙帆の肩に頭を乗せ、力なく寄り掛かるカイン。

 

 ――何だか、いい匂いがするなぁ。


 ほとんど死にかけているにもかかわらず、彼はそんな呑気なことを思った――。






(【6】へ続く――)


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