6 山岳の村-シズIII

 影は、四本の脚を持っていた。

 それは風よりも速く室内に飛び込んできたかと思うや、一直線に士官の男の喉元に喰らいつき、抵抗する間も与えず噛みちぎる。

 爆発したように鮮血が飛び散った。

 一瞬で絶命した男が、重力にまかせてゆっくりと崩れ落ちていく。

 影は狭い室内を駆け回り、次々と兵士たちの急所に喰らいついていった。

 ひとり、またひとりと床に倒れていく。

「悪魔だ!」

 室内は地獄絵図となった。

「悪魔が出たぞ!」

 恐慌状態に陥った兵士たちが手持ちの武器を放り出し、我先にと逃げ出そうとする。扉に兵士たちが殺到し、逃げ遅れた者もまたその鋭い牙の餌食となった。

 気がつけば生きている人間はタオと娘のふたりだけになっていた。床には十体近くの躯が転がり、すくえるほどにおびただしい量の血が一面を濡らしている。

 影が、ひたり、ひたり、とタオの前に歩いてくる。

 虚ろな視界のなか、灯に照らし出された影は、全身が黒い体毛で覆われていた。

 人間の大人よりも巨きな体躯からだに、琥珀こはくに輝く瞳。大きく裂けた口元からは鋭く尖った犬歯がのぞき、赤い滴が点々と垂れ落ちている。

「黒い……狼……」

 嵐のような猛々しさから一転して、その黄金の光を宿した瞳が、静かにタオを見つめている。

 そこで、タオは意識を失った。



 まぶた越しに強い光を感じた。

「う……」

 同時に、身体が揺れる感覚がある。

「お、ようやく目覚めたな」

 イグナスの声がして、タオはゆっくりと目を開いた。

「ここは……」

「森だ」

 ごく簡単な答えが返ってくる。

 タオはイグナスに背負われていた。木漏れ日が鮮やかな濃淡を作り、イグナスが歩くたび、細かい光と影が交互にタオの顔へと降り注ぐ。

「オレは……」

「無理にしゃべらなくてもいいぞ。病人は大人しくしてろ」

「病人? 誰が?」

 訊き返した時、脇腹に激痛が走った。イグナスを掴む指に力が入る。

「……痛い」

「ほれみろ、言わんこっちゃねぇ」

 やれやれ、とイグナスが嘆息する。

「あの狼は、なんだったんだろう」

 琥珀の瞳をもつ巨大な黒狼……あの時、襲われた兵士たちが叫んだ通り、悪魔だったのだろうか。

「さてなぁ。俺も考えてみたんだが、よくわからん」

「そういえば、あの時、イグナスは何をしていたんだ」

 タオが訊くと「階段から隠れて見てた」とイグナスは悪びれもせず応えた。

「雇い主に危険が迫っていたのに、助けもしないで見てたのか」

 怒るより呆れてタオが言うと、

「職が見つかってもお尋ね者になっちまったら意味がないだろう。俺はまだこの国で稼ぎたいからな。もっとも、お前が死ぬまで給料を払ってくれるっていうんなら考えなくもないぞ」

 口の減らない男である。それでも恨めないのは、この男の不思議な魅力というものなのだろうか。

「あの村の娘は?」

 ひとつずつ、思い出しながらイグナスに訊くと、

「無事だ。お前によろしく伝えておいてくれだとよ。直接お礼が言えなくて申し訳ない、ってな。宿を出る時も、お前が起きないのを心配してたぞ」

 よかった、とタオはちいさくつぶやく。

 イグナスの話によると、タオが意識を失った後、黒い狼もいずこかへと走り去ってしまったらしい。

「あの姉ちゃんに言わせると、守り神の化身なんだとよ。ま、どうであれ、俺にわかることじゃあない。ああいう化け物は滅多に人の前には出てこねぇはずなんだがなぁ」

 タオは黙り込む。

 イグナスの言う通り、人外の魔物がめったに姿を現すことがないのは、その性質が獣に近いからだと言われている。けれども一方では人を糧とする魔物が存在するのも事実だし、特にあの村のような未開の自然に囲まれた地域では、タオやイグナスの想像もつかないことが起こっても不思議ではない。

 この人外の何者かによって引き起こされる災いを収めるのも、聖騎士の重要な任務のひとつである。

「しかし、よ」

 イグナスの明るい声が、かすかに憂いを帯びている。

「よかったのか? 自国の兵士に手を出しちまってよ」

「……わからない」

 ひとりの人間を守れたのだから後悔はない。ただ、ひどく気が滅入った。今回のタオの行動は、間違いなく重大な問題として取り上げられるだろう。

「正直に伝えるしかない」

 すくなくとも、自分は聖騎士見習いとして良心に恥じぬ行動をした。それで良しとするしかないし、あとは調査なり申し開きの際に、嘘偽りなく正直に話すことぐらいである。

 空を見上げると、高いところで鷹が空を舞っていた。

 目を落とすと、湧き水が浅い川を作っている。

 タオはイグナスの背中から降りると、痛めた腹をかばいながら川のみぎわに座り込んだ。手で水を掬って飲む。飲んでから自分がひどく喉が渇いていることに気づき、何度も掬っては飲んだ。

 ゴホ、と小さくむせた。ふと見ると、濡れた手に赤いものが混じっている。

「どうした?」

 枯れ枝を拾い集めながら、イグナスがこちらの様子をうかがってくる。

「なんでもない」

 タオは血のついた手を川の水で洗い落とした。

「勢いよく飲みすぎて身体が驚いたらしい」

「繊細な貴族様は大変だな」

 軽口を叩かれ、「無骨な傭兵とは身体の造りがちがうんだ」とタオも返してやる。

 タオは脂汗の浮かぶ顔を洗った。

 痛みが、どんどん強くなっている。

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