ヴァージン・プリンセス

西川エミリー

第1話

 「優しすぎる?」

 航との別れのいきさつを告げると、第一声、莉珠は言った。あと少しで、二十時半をまわる。莉珠と二人、演劇部の練習を終えて、いつものマックで、コーラとLサイスのポテトを囲んでの長い報告会が始まろうとしている。

 「って、瑠衣子言われたの?」

 「うん」

 「ちょっと待ってちょっと待って!」

 「・・・・・・え?」

 「私が大介から言われたの、全く逆のこと!」

 そうして、まだ話は終わりきらないうちに、今度は莉珠の話が始まった。同級生の兄として知り合った大介と、三ヶ月の付き合いの後に、何があったか。

 中高一貫の女子高に通う私と莉珠は、中学生で周りより一足早く男の子への興味を抱いて以来、いつだって一緒になって、とっておきの恋を探してきた。かれこれ五年目の、いわゆるくされ縁。

「彼氏同盟」。今思えば何のひねりもないネーミングだけれど、「彼氏」という言葉がどうにも新しくって胸をくすぐるから、自分たち二人のことをチームのようにそう名づけた。ルールは、「なんでも報告する」こと。「彼氏ができたら、彼氏を優先してもいい」こと。そして、いつのまにか二人の間で暗黙の約束となったのが、「終わった恋の相手の悪口を、気が済むまで聞くこと」だ。

彼氏募集中、なんて私たちが言ったなら、きっと男の子たちから星の数ほど立候補があがる。心の内で、密かに期待したのは、私だけじゃなかったはずだ。そして実際、次から次へとアプローチを受けたし、私たちは数多くのデートを繰り返した。

だけど莉珠にも私にも、なかなかきちんとした恋人はできなかった。私がいいと思うのは、どうしてか決まって、彼女のいる相手。一方で莉珠は、彼氏欲しさに告白してきたほとんどの男子と付き合うものの、触れられることに拒否反応を示して、いつも一ヶ月と持たずに別れた。

うちらって男運ないね、なんて、不平を言い合っていた。けれど結局は、それでもいいのだった。莉珠と二人「彼氏が欲しいよね」と騒ぐことが、一番楽しいのだ。少なくとも私のほうは、心底恋に悩んだことなんて、まだなかった。

だけど、高校二年の今年の夏、それは突如始まった。好きな人から好きと言われる、初めての恋。それも、なんと二人揃ってだった。その相手が、私にとっては航で、莉珠にとっては大介だったのだ。

 「だってさ、他の子のことそんな風に話すっていう神経がわからなかったの、私は」

「うんうん」

けれど、特別だと信じた恋も、わずか三ヶ月足らずで散ってしまった。

 莉珠と大介の別れの発端は、大介が、隣の席の女子生徒を褒めたことだったらしい。

 「頭がいいって褒めるんだったら、まだ我慢できたと思うの。あいつすげぇんだぁ、本当努力家なんだぁって、遠く見ながらしみじみ言うから。私が他の人のことそんな風に言ったら、大介だって腹立ったに決まってんのに」

 莉珠はわざと穏やかな表情をつくって、そのときの大介を真似ている。莉珠の前で、莉珠以外の女の子を褒めるなんて。そのときの彼女の怒り方は、それはもう半端なものじゃなかっただろう。

 「それなのに、私なんてもういい、って」

 「うん」

 「莉珠はわがまま過ぎて俺はついて行けないって」

 「・・・・・・大介、勢いで言ったのとは違うの?」

 「いやぁ・・・・・・違うかな。ちょっと前から、デートとかにも、なんとなく乗り気じゃなさそうなの、雰囲気で気づいてた」

 大きな窓越しに見えていた、駅前の薬局の白いライトが消えた。夜が少しだけ、深くなる。

 「でも勢い。だったらいいのになぁ」莉珠は淋しそうに笑った。ちょこんと覗く小悪魔みたいな八重歯も、今はその力を失っている。

 「けどさ、優しすぎるって言われるくらいなら、わがまますぎるって言われたほうがよくない? 好きな人には」私は言った。

 「そお?」

「優しすぎるってなんかすごい、嫌だよ」

——瑠衣ちゃんは、ほんっとに優しいお姉さん。

それは周囲から私への、お決まりの褒め言葉だった。六歳下の弟が生まれてからのことだ。

何でも譲ってあげる、優しいお姉さん。

私は、それなりに、それを誇らしく思っていた。

だけど、一番振り向いてもらいたかった人に、優しすぎる、なんて言われてしまっては、もう何の価値もない。航にとって私は、“優しすぎて物足りなかった”んだ。

そもそも、優しさってなんだろうかと思う。

世の中の優しさと呼ばれるものなんて、ほとんど全て、結局は発したその人自身に向けられているものじゃないだろうか。優しくするのは、褒められたいとか、好かれたいとか、上手くやりたいとか、そんな気持ちに動かされているだけ。返ってこないとわかって与えるものなんて、どれだけ本当に存在するだろう。真の優しさなんて、どれほど私にあるだろう。

なんだ、私って、空っぽ人間だったってことなのか。

私たちのテーブルの全面は大きな窓ガラスになっていた。夜を背にした窓は、外の景色よりこちらの姿をくっきり写して、煌々と光る駅の看板だけが、白いお化けのように向こうに浮かんでいる。冷たい空気を一身に受けた窓は、触れなくても、ひんやりと涼しさを頬に届ける。冬の澄んだ空気。

新しい季節が来るのは、当たり前の出来事だけれど、不思議だと思う。つい三ヶ月前までは、空気は溢れんばかりの湿気と熱気をはらんでいた。そして、すぅーっと砂時計が落ちるみたいに、暑さの引く夜になると、つっかけサンダルでどこへでも駆けて行けそうな開放感を感じた。それがいつの間に、肌を刺す冷たい夜が来たのだろう。わかっている。毎日、少しずつ涼しくなって、金木犀の香りが、染み渡るように空気に漂っていた。けれど、一日一日の変化はほんの少しなのに、短い月日のなかで、いつのまにか全くの別世界になっているから不思議なのだ。そして季節が変わるだけで、そのなかの思い出は額に飾られたみたいに、どこか遠くへいってしまう。

初めて男の人と一緒に眠った。二人で浴衣を着て、手をつないでお祭りに行った。普段は上から目線でしゃにかまえているくせに、大声でハッピーバースデーを歌ってくれた。最初に喋ったのは、コンクリートの景色が陽炎に揺れた、まだ暑い夏の日だった。全身から吹き出す汗にうんざりしながら、いつもより早く予備校の小さな教室に到着すると、一番乗りでそこに一人座っていたのが航だった。一番左端の、前から二番目。いつもの席についた肩の広い背中。見つけた瞬間、ばつが悪い気持ちが胸を走った。こういうときをずっと待っていたはずなのに、いざそのときがやってくると、怖かった。

机と机の間を静かに進んで、机にそっと荷物をおろす。航の座る、斜め後ろ。私のいつもの席。ゴトン、と肩掛け鞄をおろすごつい音が響くと、航は振り向いた。そして、突然、言ったのだった。まるでずっと前から、友達だったみたいに。

「小田桐さん、英語のテキストって今日持ってたりする?」

「え?」

「俺さあれ、池に落としちゃって」

「池!?」

席についたまま、顔だけでこちらを振り返っていた航は、座った身体をくるりとこちらに向けた。ふっは、とはしゃいだ少年みたいに笑いながら。そんな風に思いきり笑うなんて意外だった。

「反応いいな。なんか嬉しくなっちゃった」

「教科書ならあるけど・・・・・・」

「あ、さすが! お願い、今日貸してくんない? 今日中にコピーとるから」

「いいけど。どうして池に?」

「友達に押された俺の身代わり」

「へ?」そう言ってテキストを差し出すと、航も腰を上げてそれを受け取った。

「さんきゅ」

そしてテキストを鞄に詰め込みながら、「今日中に返すから」と一度振り返って言ったきり、大きな背をこちらに向けて、やがてすとんと席についた。

なんだ。本当に、教科書目当てか。

私の胸は急激に萎み始めた。けれどその一秒後に、航がもう一度振り返った。

「ねぇ」

「え?」

「連絡先。教えて」

 「・・・・・・うん!」

そう聞かれて初めて、“連絡先”って考えが浮かんだ、みたいな顔をした。見抜かれていないだろうか、と思ったら、胸のなかで心臓がどくんっ、と大きく動いた。

だけど落ち着いて考えれば、見抜かれていないわけなんてないのだった。私たちは、その日言葉を交わすよりずっと前から、視線を交わしあっていた。退屈な授業中。いつも黒板の少し手前の宙を眺めているだけのくせに、振り向くのだ。私が、先生の呼びかけや質問に応えているときだけは。そして、たった一、二秒の間だけれど、まなざしは確かに、絡み合う。初めてお互いの秘密を見せ合うベッドって、こんなどきどきが濃縮されているのかもしれない。そんなことを考えては、顔を赤らめてかき消した。

休み時間、教室の一箇所に固まって、昨日のテレビがどうだったとか、グラビアアイドルの誰がかわいいだとかで盛り上がる男子たちに、航が加わるところは見たことがなかった。いつも制服の白いシャツを纏った背中を、こちらに向けて座っている。

夏休み中毎日通った予備校で、航はいつも一人でいた。坊主頭に、着崩した制服だけで充分に垢抜けた航は、その他大勢と決して混ざらない。

誰より大きいその背中が、きっと神様が初めにつけた、特別のしるしだと思った。

そんな航に見つめられると、春風が鼻をかすめる瞬間みたいに、胸がくすぐられる。お前も、こっち側の人間だよ——そんな風に、囁かれているみたいだった。

「けど、別れるときに言うことなんて、結局どこまで本当なのかな」

 莉珠が口を開いた。

 「え?」

 「だって男が別れるときってさぁ、大体次の女がいるもんだとか、言わない?」

 「そうなの?」

そんなことは、ないと思う。だってもしもそうだとしたなら、「綺麗だよ」耳元で囁いた航は、その裏で他の女の子にも甘い言葉を囁けるくらい、冷たい人間だったということになる。ついこの間まで、見つめ合って、あんなに笑い合って、唇を合わせた航が。

つい、この間まで。

——中学の頃から、俺が出てる試合観にきてくれて、向こうから、好きですって、言ってくれる女の子と付き合うことが多かったかな。

いつだか、過去の恋愛話になったときに、航が言っていた。

航のことを好きになる女の子は、きっと、たくさんいる。そして、そんな女の子たちの潤んだピンク色の唇や、ミニスカートから出た真っ白な足の素肌を拒む理由なんて、もう航にはないのだ。私に、興味を失い始めたときから、なかったのかもしれない。

莉珠も思いにふけるように黙り込んで、窓の外の夜を見つめていた。斜めから見る彼女の顔が、真っ暗な窓に映るもう一人の莉珠の横顔と、左右対称に向かい合う。少しだけ、眉間に力が集まっているのがわかった。けれどそんなときだって、長い睫毛は伸びた背すじのように、凛と上を向いている。それはあんまり長いから、当然睫毛エクステでもつけているのだと思っていた。だけど聞いてみると、「地だよ、地—。あ、でも睫毛パーマはかけてるっ」と、小さな八重歯を覗かせて、得意そうに笑った。

こんなに深い夜でも、莉珠の睫毛の伸びる先には、澄んだ青空が広がっているような気がする。そしてまっすぐにとおった鼻は、なぞったら、すっ、と綺麗な音がしそう。ハーフ、って言われなきゃわからないくらい日本人顔だけど、この鼻は、莉珠が小さな頃に亡くなったという、フランス人のお母さんのそれとそっくりなのだろう。

大介ったら私のこと、指の先まで綺麗だなんて、と嬉しそうに話していた。私は男じゃないけれど、莉珠を見つめた大介の気持ちは、わかる。そしてそう思うのは、大介や私みたいな莉珠の半径五メートル以内の人間関係だけには留まらない。透けるように白い肌は誰の目も引いて、それこそ真っ白な雪景色を目にしたときみたいに、眩しい、という気持ちにさせる。そして、だから隣にいる私のことまで、皆眩しいって思うんだ。

「ねえ!」

突然勢いよく莉珠が言ったので、私はびくっとした。

「確かめられないかな」

「確かめる?」

「あ、いや。確かめるっていうか・・・・・・ちょっと待って。今それよりもっとやばいこと、思いついちゃった私」

莉珠の眉間に、またぐっと、力がこもる。こういうときの顔は、なんだかちょっと魔女みたいだ。

「何?」

どきどきしながら聞くと、莉珠はとっておき、といった風にゆっくりと切り出した。

「復讐するって、どう思う?」

「復讐?」

「私たちがしてるみたいな思いを、思い知らせてやるの。なんとかして、大介と航にも」

「え? うん・・・・・・」

「・・・・・・本気でやってみない?」

「いや、うん。・・・・・・でもやってみないって。どうするの? だって私たち振られたじゃん」

「でも、新しい相手だったら、また一から始められるかもしれないじゃん?」

「へ?」

「私が航に、瑠衣子が大介に、仕掛けるんだよ」


 

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