光る海岸にて。

歌峰由子

第1話


 品川始発の山陽新幹線を広島駅で在来線に乗り換えて数駅、改札とは名ばかりの柵や仕切りのない――それでも一丁前にICカード対応したゲートを抜ければ、懐かしい景色が裕紀(ひろき)の目の前にあった。

 駅員は午前九時から午後三時までしかいない、のどかな半無人駅を出てタイル張りの歩道を歩く。申し訳程度のロータリーを見回せば、教えられていたとおり紺色のデミオが待っていた。一つ深呼吸をして気合を入れ、裕紀は車へと向かう。

 秋の気配が色濃くなる十月初旬の三連休、牧村裕紀(まきむらひろき)は数年ぶりに故郷に帰って来た。毎日通学に使っていたこの駅も、大学のある街へ旅立った日以来である。盆暮れも正月も帰りはしなかった……否、帰ってくる場所などなかった裕紀がこの街に帰省したのは、かつての級友に会うためだ。

 日に日に南へと遠のいていく太陽は、それでもモスグリーンの上着越しに裕紀を温める。すこし暑いくらいのそれに上着のジッパーを開け、裕紀は紺のデミオへと近づいた。

 助手席を覗き込み、控えめにウィンドウをノックする。運転席のシートを倒して寝転んでいたらしい運転手が、慌てて起き上ろうとしてシートベルトに押さえ込まれた。どうやらシートベルトを外さず寝ていたらしい。彼らしいな、とわずかに苦笑する裕紀をウィンドウ越しにみとめ、運転手の青年が顔をほころばせる。

「おお、裕紀! 久しぶりじゃのぉ……!」

 コンパクトカーの車内では窮屈そうな長い腕を伸ばし、裕紀をこの街に呼んだ級友が助手席のドアを開けて笑った。それに少し笑み返して裕紀も頷く。

「久しぶり、三倉(みくら)」

 ドアを開いた裕紀が助手席に滑り込むと、高校時代の親友である三倉拓馬(みくらたくま)は怪訝げに眉を寄せた。

「荷物、それだけなんか?」

 裕紀が手にしているのは、財布や携帯などが入った小さなボディバックだけだ。

「あ、うん……日帰りのつもりだから」

 言いながら少し視線が泳ぐ。今の時刻は午前十時を少し回ったところ、帰りは二十時発の新幹線に乗れれば良い。時間は十分あるはずだった。

「大丈夫、日中は十分遊べるよ。七時半くらいの電車に乗れば帰れるから」

 シートベルトを締める手元に視線を落として裕紀が言うと、もの言いたげな、つまらなそうないらえが返る。だがすぐに気を取り直したらしく、車のエンジンをかけた三倉が明るく尋ねた。

「んなら、まずドコ行く? 案内人はお前で」

 あっはは、と笑う三倉は、実はこの土地の住人ではない。県北出身の彼は高校時代、この街にある学校の寮に入っていた。彼にとってこの街は故郷ではないのだ。

「高校には来とったけど、あんまり周りをウロウロしとらんけぇのぉ。部活で浜はよう走ったけど、観光地みたよーな所は全然行ったことが無ァし」

 長身で運動神経の良い三倉はバスケットボール部のレギュラーだった。寮と学校、体育館の三つをひたすら往復する日々だっただろう。運動部のランニングコースだった海岸線くらいしかマトモに出歩いていない、と三倉は笑う。

「僕も、観光名所なんて大して詳しくない……っていうか、調べてみたけど何もなかったんだけど……」

 瀬戸内海に面したこの街は、臨海工業地域に展開する化学工業メーカーの企業城下町として大きくなった。歴史は決して浅くないが、特に県を代表するような観光名所も存在しない。海岸線を東西どちらかに進めばそれなりに有名な観光地があるなかで、素通りされることの多い街だ。

「車ならちょっと行けば、尾道があるし……そっちでもいいんじゃない?」

「いやいや。ここで観光するんが今回の目的じゃ! とゆーか、お前。ほんまに東京人になってしもうたんじゃのぉ」

 生の標準語なんぞ、こっちじゃ珍しいで。からかうように笑う三倉に、恥ずかしくなって裕紀は身じろぎした。

「いや、まあ……」

「――ほんまに、あれから帰って来とらんかったんか」

 少し低く、感情の読み取れない凪いだ声音で三倉が言った。

 車は特に目的地を定めず、とりあえず海岸の国道を目指して走っている。うん、と裕紀は小さく返した。狭い片道一車線の旧道脇に、小さな商店や町工場、潮風に晒されて赤く錆を浮かせた住宅が並ぶ。下校時に、いつも裕紀が時間を潰していたコンビニの角を曲がれば海沿いの道だ。

 裕紀の両親は、裕紀がまだ小学生の頃に離婚した。東京から広島の実家に帰った母親と共に、裕紀はこの街に引っ越してきたのだ。しかし母親は裕紀を実家に預けたまま、家出同然で他の男と再婚した。以降、裕紀は祖父母に育てられたのだが、その祖父母も裕紀の高校卒業と前後して片や他界、片や介護施設入りとなって、実質裕紀の「実家」は消滅している。

「ウチももう、全然人が住んでないから荒れてるし……家とかお墓の管理は叔父さんがやってくれてるからね。何か、顔合わせ辛いし」

 自嘲気味にそう言えば、ほーよの、と呟くような相槌が返る。三倉は裕紀の面倒な家庭事情を一通り知っていた。バスケ部と美術部、部活は違ったが進学コースが同じで出席番号も近かったため、二人はいつもつるんで行動していたのだ。

 正確には、「二人」ではない。三人でつるんでいた。

「――そっちは? 仕事とか、順調?」

 裕紀たちは私立文系コースだった。裕紀が東京の大学へと地元を出た一方で、三倉は県内の大学を卒業後消防士になった。普段はおおらかで快活、少々抜けた部分もある男だが、きっと持ち前の正義感と真面目さで、人々を救っているのだろう。最後に会った時よりも一回り以上逞しく鍛えられた両腕を見てそう思う。

「まあ、何とかやっとるよ。夜勤やら緊急出動やらしわいけど、まあ元々体育会系じゃけえのォ、それより報告書やら何やら、パソコン使って書類作るんがたいぎいわ……」

 デスクワークよりは肉体労働の方が楽だ、と笑う三倉にそうだろうね、と裕紀は頷く。何度裕紀の予習ノートで、三倉を救ってやったか知れない。

「他のみんなは? ……増岡さんとか、元気?」

 増岡友美(ますおかともみ)は、裕紀たちのグループの「三人目」だった。理由は三倉同様、出席番号と進学コースの関係である。彼女もさばさばとした明るい人物で、どちらかと言えば三倉・増岡コンビに裕紀が混ぜて貰っていた――そんな風に裕紀は思っている。

「んっ? ああ、友美ならこないだ結婚したんで。……案内行かんかったんか!」

 何しよるんなら、あいつ。呆れたように溜息を吐く三倉の隣で、裕紀は返す言葉を失っていた。まさか、そんな。増岡は三倉と、高校卒業を機に付き合い始めたはずだ。

(……って言って、何年前の話だよ、ってことか……。もう僕ら、高校生じゃないもんな……)

 一気に跳ね上がった鼓動を落ち着けながら、裕紀は無意識に両の膝頭を握った。その様子を、増岡に連絡を貰えなかったことへのショックと勘違いした三倉が慌ててフォローする。

「あー、あいつもアレよ、色々あったらしいけぇ、高校の頃のアドレス分からんようにしとるんじゃろ。俺はずっと地元におったけぇクラス会も行っとったし……」

「――うん、僕も携帯変えた時に番号もメルアドも変えたから。バタバタしてて皆にも通知出来なかったし……」

 嘘の言い訳になってしまった後半は、もぞもぞと口の中に消える。東京に出て、裕紀は携帯を変えた。当時まだまだ電波事情の悪い場所もあった田舎と違い、都内では通話料金の安い通信会社を使えたからだ。番号もアドレスも、わざとこちらの知人には誰にも教えなかった。誰とも――というより、三倉と増岡と、連絡を取りたくなかったのだ。こうして三倉と再会できたのは、今流行りのSNSのおかげである。大学の付き合いでアカウントを取っていた裕紀を三倉が発見したのだ。

 海岸線に沿っていくつもカーブが続く国道には、片側が防潮堤、片側が山の斜面、という風景が途切れなく続いている。山の木々はまだ、ようやく色づき始めた頃合いだ。秋の柔らかい日差しの中、少し霞む水平線と防潮堤の狭間に幾つもの小島が光る。

 ん、と相槌を打つ三倉は、裕紀と連絡がつかなくなったことに、思う所があったのか否か。普段ストレートに感情を表す性質なくせに、三倉はこういう時ほど考えを読ませない。

 海岸線の突端になる大きなカーブを曲がれば、いつも三倉が走っていた海岸に出る。結局、まだ行先は決まっていない。それも当然と言えば当然か。結局、「この街を改めて観光したいからナビをしろ」というのは、三倉が用意してくれた再会の口実だ。

「……結局、ここしか無いかのォ」

 楽し気にそう言う三倉も、おそらく同じことを考えていたのだろう。止まるで、と声をかけられ、裕紀は頷いた。路側の広い場所に車を停めて、二人は防潮堤から浜に降りた。

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