ⅺ∴召喚魔術

「ほらぁ、君らがしっかり脚押さえんから膝蹴りもろてしまったやないの!」

穢圡町の外れにあるコンクリート打ちっぱなしの地下室、テーブルの上でジタバタと暴れる少女の手足を無言で押さえつける黒尽くめの男女達は、いずれも白昼夢の内にあるかのような表情をしていた。

ゆるして下さい!団長、ごめんなさいごめんなさい!」

葬服のようなものを纏った団長と呼ばれる女の手が伸びた。

「あぁ、アンタほんまええ声で鳴きよるわぁ。バージンやったっけ?涅槃ねはんする前にあたしが一発やったろか?んんーっ?」

そう言いながら女はテーブル上の少女の顎を押さえつけると、左に右に力任せに振り回した後、少女の後頭部をテーブルに打ち付けた。

「うえ、うえぇ」

「泣きたいんはこっちや。家出娘のアンタを拾っておまんま喰わせてやっとったのは誰や?」

団長と呼ばれる女は少女の股に手を滑らして弄り何かを見つけると、それを摘んで言った。

「このお母さんやないの」

何かの予感を感じ取った少女は「そうです、その通りです!反省してます!」と訴えたが、女は仰け反るようにしてそのまま思いっきり陰核をすり潰した。

押さえつけられた少女の声帯は痛みに絶叫した。それは壊れた弦楽器をノコギリで力付くで挽いたような印象がする絶叫だった。

団長は少女に共鳴するように「っきゃー!」と髪を振り乱しながら発狂したように叫んだ。

壁に張られた曼荼羅のポスターや剥き出しのダクト、肌の表面がビリビリと鳴り、そして突然地下室はグラリと大きく揺れ、蛍光灯が点滅した。

半裸の少女の手足を押さえていた黒尽くめ達は周囲を見回して目を丸くし、「やっぱ団長ってすごーい!」「ポルターガイスト!」と興奮しながら口々に声をあげ、足で拍手するように地面を踏んだ。二人の女の叫び声はどんどん緊張の度合いを増して行き、室内の明かりと共に、それは同時にさっとこと切れた。

暗闇の奥から、何かのガラスが割れる音が響いた。

「続行、明かり」

携帯端末の照明に照らされ闇の中に大きなはさみを両手で振り上げる団長の冷たい双の眼が浮かび上がった。

「しにさらせ、うらぎりもんが」

「もう告げ口しようなんて考えません。団ちょ・・、お母様!!」

一瞬何かに気付いてうつむいた団長がぬっと顔を上げた。

「・・おい」

その顔は般若のように歪んでいる。

「ルブタンのヒールにお前の汚ない体液かかっとるやないかい、お前のおめこ何発分やねん」

へ?という少女へ、次の瞬間「ひとぉーつ!」と躊躇いの無い一撃が振り下ろされ、大きくビクッと動いた脚を押さえていた一人の顔に鮮血が飛び散りった。


ふたぁーつ!みーっつ!

ふふ、もっと、もっと!

こうするとどないな感じや?

あれ、何回か忘れてもうたやん。


が、ごッ、え?あの、今、ふ・・!?

・・・!

・・・、

・・・。


うっとりとする恋心のような感情に団長と呼ばれる女の頬は紅潮し、鋏は何度も何度も振り下ろされ、やがて少女の反応は、金属が肉や骨に刺さる音と引き抜かれる音だけになった。


その様子を暫く唖然と眺めていたライブハウスの音響のスタッフはハッと気付きPA席から叫んだ。

「ちょっと、落ち着いて下さい!!一旦ストップ!“劇団ウィッカ”さーん!」

鋏を振り上げた劇団ウィッカの団長の後ろ姿がピタリと止まった。

「あの、何かブレーカー落ちたみたいなんで、一回リハ止めて貰って大丈夫ですか?」

ニールダウンした劇団員の一人に携帯の照明で照らされた団長はくるりと振り向くと目をキラキラさせて言った。

「オッケー。ええやん、ええかんじやーん。今日は憑いてるでぇ。さて、出番までスロットいこかあ」

痛ーっ、団長、ホンマに潰される思いましたわ。そんなことを言いながら股を押さえる殺され役の劇団員の少女を見て、モップを持ってきたライブハウスのスタッフが溜息をついた。

「リハでそこまでやりますかね」

「何言うとるんや、今この瞬間は今この瞬間、あんたの生きることに不誠実なオーラはこの闇の中でもよう見えるわ」

「何言ってるかよく分かんねえですがね。ステージの上に吐いた唾や血糊、ちゃんと拭いておいて下さいよ。劇もそうですが、言動というか、もう全部が怖すぎですよ」

団長はスタッフから劇団員に渡されたモップを取り上げると、つかつかとスタッフに歩み寄り言った。

「ホンマに怖いんはな」

そう言ってモップを押し付け、スタッフの顎をクイッと持ち上げる。

「リハも本番もノンフィクションってことや」

(ど、どういう意味だよ)

「それは好きに考えてくれて構わんで。ほな、あとよろしくな。“残酷な天使”に召喚されとるさかい」

劇団ウィッカの面々は闇の中に消えていった。

ステージに取り残されたスタッフは、違和感の原因について暫く考え、ポツリと呟いた。

「あれ、俺、今喋ったか?」



《『現代都市魔術』


橘:拝み屋のことについて教えてください。


浅倉(仮名):我々は心を全くの空白にする、ということを深める訓練をしています。心を透明にすることで死(潜在意識)の方向へどんどん深く潜っていくことが出来ます。

「私」という個の認識のある意識(顕在意識)というのは、海面から出た島のようなもので、潜ると水の底で全ての存在の意識は繋がっています。そして個の意識を超えて被術者とひとつになれるレベルや、多くの人が関わった痕跡が蓄積するレベルの意識場と交流します。そしてネガティブな想念を一つづつ取り除いて消していく、ということをやります。

例え話をしましょう。相手が赤ん坊や犬猫であった場合、言葉は通じませんが、そこに自分が降りていけばお互いに気持ちは分かる。また、どんな人間であれ、元は赤ん坊ですから、そこに降りて行けば、どこまでが自分で相手なのか分からなくなるほどの地点というのもある訳です。そこで私は飲まれずにただそこで強く意思を持って立っていると、そういう感じです。


橘:具体的に訓練とは何をなさったのでしょう。


浅倉:滝で禊をした上で、心を全くの空白にするという状態にするために、ひたすら祝詞を唱える。それを何年もやりました。実感としては感性が鋭敏になったというか、精神集中、統一が容易になりましたね。

出来事の予感や夢の中に出てきたことが実際に起こるだとかいう現象にであう事が多くなりました。人の思っていることが入ってきたり、例えばネガティブな思いを抱えている人だとかは淀んだ感じがします。時折黒い陰やニオイのような感覚を受けることもあります。


橘:思念というのはエネルギーなのですね。


浅倉:そうなります。出来事はエネルギーが絡み合って起こり、現実化します。空間というのはただそれだけでエネルギー場なんです。我々拝み屋はそこに対して同調し、変容させます。

その際、何も無いものを拝むよりは具体的な形をもたせてやったほうが思いを集めやすい。その為、式神と言われるイメージ体を用いることが多いです。現代の拝み屋は個別のケースに合わせて思いを集めやすい形で新たに式神をデザインしたりすることもあります。


橘:欧米の魔術結社が使うような天使や悪魔は浅倉さん達が使う式神と同じ考え方の存在なのでしょうか。


浅倉:欧米の魔術に関しては私は実際に現場に飛び込むということをやってはいないのですが、召喚を行う際の儀式に関する資料は幾つか見たことがあります。そしてそのプロセスの一つ一つが感覚的に腑に落ちるというか、我々のしていることと本質的には同じだと感じます。


橘:呪詛の依頼というのはあるのでしょうか。


浅倉:実は殺してくれという類の依頼はかなり多いんです。もちろん私はそういう依頼はお断りしてます。ただ、アンダーグラウンドの世界ではそういう依頼を専門に受けるという人も確かに存在しています。在任中に亡くなったある総理大臣に関しては我々の業界では呪殺されたというので有名です。


橘:術の精度というか、力と人間性は関係がありますか?


浅倉:拝み屋の能力と人間性に相関はないんです。ある程度までは誰にでも習得可能な「技術」と言えます》



劇団ウィッカの面々は眉をひそめた。

ライブハウスの階段を上がり周囲を見回してそれに気付いたからだった。

道行く人々の様子がおかしい。

「あれぇ?今日ってもうハロウィンでしたっけ?」

道を行くケロイド状の皮膚に覆われた青年と目の合った女子団員は言った。

何やて?と言いながら団長と呼ばれている女は少し遅れて階段を上がってきた。

目の前を悪臭を放つ太った中年の女が横切った。白目に赤い血管を走らせたその女は、野菜が入ったビニール袋を片手に、顎を外す勢いで口一杯に吐き出された物を垂らしていた。膝の辺りまで伸びたその肉塊は、ウネウネと蠕動ぜんどうしている。

「これは、どういうことや?」

赤ん坊の顔が全身に幾つもついた子供、首の無いサラリーマン風の男の集団、ライブハウスの周囲には異様な姿をした何かが徘徊していた。

唇を触れながら考え事を始めた団長に男子団員の一人が「どうしたんですか団長、今日は10月31日、ハロウィンですよ。まあ、僕らはこんな格好なんで一年中葬式みたいなもんですけど」と言って笑い、ガードレールに腰を預けた。

団長はその団員から視線を外し、中指で唇をなぞると思索の世界に再び意識の焦点を合わせた。

「団長は今この状況が現実では無いと見ている訳ですね」

団長の耳元に顔を近付け、別の男子団員が言った。

「ああ。祭りというのは結界内の人間にある種の思考停止をもたらす。その意味では術ということには違いは無いんやけど、恐らくこれはもっとディープなレベルのものやと思う」

「・・・じゃあ、どうしますか」

団長はふむ、と中指を額にトンとあてた。

「夢か現実かを判断する為には、曖昧さや不安につけ込む悪魔に光を当ててやればええ。まず、今日が10月31日ハロウィンだったとして、目にする人間が一人残らず仮装してる、なんてことあるか?」

団員達は周囲を見回した。

「確かに一人残らず悪魔みたいな容姿ばかりですねえ。それに作り物にも見えないというか」

「それにあんなサイズの仮装が居るのもおかしい、中身どうなっとるんや」

団長が車道の向かいの通りをズルズルと移動する4m程の高さのある、溶けた肉の塊のようなものを指差して言った。

「本当だ、何故あんな不自然なものに気が付かなかったんだろう」

「霊的死角ってやつは意識の光が当たらんところに出来る」

「・・・団長、言いたいことは分からなくも無いですが、でも絶対にあり得ない訳じゃ無いですよ」

ガードレールに腰を預けている男子団員が再び反論した。団長は顔を向けず周囲を観察しながら「言うてみい」と、その理由を尋ねた。

「目にする人々がたまたま仮装の人ばかり、ということも考えられるし、そしてあの大きな化け物も何かのイベントの広告かも知れない。大金をつぎ込めば不可能じゃ無いです。だってここは新宿ですよ?」

「・・・もう一つのことが決定的や」

「ちょっと、団長、僕の意見無視ですか?」

女子団員が、あんたの意見はどうでもいいの、と肩をすくめる男子団員を押しのけた。

「団長、ここが現実の世界で無い決定的なことって何ですか」

「まさに当たり前過ぎて見えない根源的な前提に対するものや、それはな、アタシが自分自身の記憶しか持っとらんっちゅう点や」

「どういうことですか」

団長は、何かを確かめるように二歩、三歩と歩くと「歩く度に宇宙が歩幅分ずれる」と呟いた。

「何ですって?」

「宇宙の中心がたまたまこの身体の訳があるかいっちゅうことや。何故“これ”が世界から独立しとるんや」

団員達は呆気に取られたように口を開けた。

「何を言ってるんですか。全く分からない」

団長がガードレールに腰を預ける団員を再び睨み、待てや、とドスの利いた声を響かせた。

「さっきからやけにうるさいお前、そうや、お前や。さっきお前、ここはシンジュクですよ、とか言っとったな」

そう言うと団長は団員にツカツカと歩み寄り目を細めて顔をじっと見た。

「何ですか・・」

「お前、顔が無いで」

団長は「はい?」と首をかしげる男子団員の上半身を思いっきり前蹴りして車道に突き飛ばした。

男子団員は片側二車線の車道をゴロゴロと転がった。

「シンジュクって何やねん。籠目市穢圡町や、ここは。」

次の瞬間、巨大なクラクションとブレーキ音が周囲に響き渡った。

ありゃりゃ、即死。と団員の一人が呟いた。

「何だ、事故か?」「救急車、救急車を!」「無駄だ、絶対死んでる」「うわっ、グロぉ!見た?芽吹」

周囲にわらわらと人が集まり口々に何か言っている。

「俺は、俺は悪く無いぞ!こいつが車道に転がってきたんだ!」

タイヤの下の潰れた腕を見て4tトラックから降りた運転手が青ざめて叫んだ。

向かいの歩道にいた筈の巨大な肉塊は影も形も無くなっていた。

団長はふんと鼻を鳴らしてその場から歩き始めた。

「団長、どちらへ」

そう言いながら団員達は団長と呼ばれる女の後を追った。

「この夢の出口へ」



「さっきの死体超グロかった。未だ引っ張ってる私、っつうかさ、何で芽吹の方がケロッとしててあたしの方がダメージ食らってるわけ?本当意外過ぎる」

「そんなことないよ。私だってショック受けてるよ」

「夏美なんて、サイゼであの後肉バクバク食ってさ、一番グロ耐性あるのかもな」

芽吹と雛乃の後ろで夏美は手で口元を押さえ、誰かに電話している。

ハロウィンナイトと題されたイベントの開場5分前、穢圡町の外れにあるクラブディメンジョンの入り口前には行列が出来ていた。その列の中ほどに雛乃、夏美、その二人といつも絡んでいる友人二人、芽吹の5人が在った。

列を成す若者達は、フランケンシュタインやドラキュラを思わせるパーティーグッズの被り物をする者、映画やコミックのキャラクターのコスチュームを身に付ける者等、ほとんどの者が仮装をしていた。芽吹達5人も例に漏れず穢圡町のドン・キホーテで買ったフェルト地のチープな魔女帽を被り、それぞれ口の端から赤い色で血のような線を走らせたり、血相の悪そうなファンデーションを使用して周囲に溶け込んでいた。


(あれ、何かがおかしい)


「どうした?」

「今日ってハロウィンよね」

「だからここにいるんでしょ?」

雛乃が肩をすくめる。

いつの間に?やっぱりおかしい、変だ。その違和感を辿る内に芽吹はここ2週間程の記憶が無いことに気付いた。

「どうしたの?」

「ううん、少し疲れてるのかな。何か調子がおかしいというか」

「ってかさ、今日はありがとな。正直、今日付き合ってくれるとは思って無かったからさ」

やけにはしゃいでいる雛乃に、芽吹は、こちらこそ誘ってくれてありがとう、と微笑んだ。

「最初誘われた時は少し驚いたけど、嬉しかったよ」

「へへ、うちらきっと仲良くなれるよ、せっかく同じクラスなんだしさ、特にあたしとは席前後だし、これからも機会見つけて絡もうよ。屑島とばっか遊んでないでさ」

雛乃の口から華子の名字を聞き、芽吹は目を丸くした。

「雛乃さん、華ちゃんの知り合い?」

「1年の時同じクラスだったんだよ、まあその程度の関係だけどさ。・・あいつ、元気にしてる?」

うん、と言う芽吹に雛乃はそうか、と呟いた。

「あだッ!」

芽吹の方を向き、列の流れを後ろ向きに歩いていた雛乃はクラブの入り口で体格の良いドレッド頭のスタッフとぶつかった。

「おっと、大丈夫?って、雛乃じゃん」

「あ、タカシくん、どうも。でさ、今日なんだけど・・」

「無理だよ」

スタッフは雛乃の言葉を遮るように言った。

「今日のやつは朝までだからさ」

それはどうやら二十歳以上でないと入場は出来ないという意味らしかった。

「自分達が行くイベントの概要、ウェブとかで見ないの?」

「はぁっ?知らねえし、見てねえし。ってか無理とか何を眠、」

そこまで喋ったところで、雛乃は一瞬列の方をチラリと見て、口元に手を当てた。そして声を押し殺して続けた。

「・・眠いこと言ってんのよ・・・!タカシくんあたしに恥かかせる気・・・!?」

雛乃はそのまま暫く顔見知りらしいクラブのスタッフと話し込んでいる。その様子に口元を固く結んでいる芽吹を察して、唯と加奈子の二人は「安心してよ級長、大丈夫だからさ、多分」と声をかけた。

「雛ね、何かいつもよりはしゃいでる。級長が来てくれたの相当嬉しかったみたい。多分本人的には隠してる積もりなんだろうけど。本当に色々下手くそだからさ、雛って。だからさ、もし良かったらこれからも仲良くしてあげてよ。私達からもお願い」

待たされている他の客から文句のようなものが聞こえ始めた。

芽吹は神妙な面持ちで「そろそろ後ろの人達に迷惑がかかってるみたい」と言った。

夏美は自分達に向けられる非難の視線を全く気にする様子も無く、未だに誰かと端末で通話している。

「分かった分かったって・・・!」

雛乃の説得に観念したスタッフの声が聞こえた。

「さっさと入ってくれ。お前相手にすんのしんどいわ、マジで」

「ありがとー、さすがタカシ君!じゃあ入るよ。はい、これ、チケット5枚」

スタッフはチケットを受け取って、犬を追い払うようにシッシッと手首を振ると、列に並ぶ次の客の方へ視線を移した。しかし視界の隅から雛乃の気配が消えない。

「・・・あ?」

雛乃はニヤニヤしながらスタッフに掌を差し出している。

「なんだよ、この手は」

「トリットフューアトリート。タカシくん、目をかっぽじってよく見てよ。あたしら可愛くコスプレ出来てるじゃん?出来てるでしょう?ね?なんかくれるんでしょ?」

『コスプレをして来場の方にはディメンジョンから引き換え券をプレゼント、内容は貰ってからのお楽しみ』

その要求は、ウェブサイトに載せた情報など見ていないと豪語する人間のものでは無かった。どちらにせよそんな矛盾は雛乃の前では存在していないのと同じだった。“話し合い”の体裁を取った雛乃のごり押しに憔悴しきっていたスタッフは、目をかっぽじったら失明するだろう、という突っ込みすら口に出す気にもならず、大人しく引換券を人数分雛乃に渡した。

「あ、ごめん、今もう会場入るから、うん、ちゃんと居るって、じゃあまた後でね」

雛乃とスタッフのやり取りが終わったのを察知して、夏美は電話を切り、セミロングの髪を指で後ろに流しながら建物内に入った。


「そう言えばさ、雛、引換券って結局なんだったの?」

「いる?どうせ誰も欲しがらないから夏美に全部やるよ」

夏美は暗がりの中で目を凝らし引換券に印刷された文字を見た。

「“ウェルカム・イエガー?”イエガーって何?・・・ドリンクチケット?もしかして酒?」

「テキーラみたいなもんよショットグラスで飲む強いやつ。Mana!」

呼び声に雛乃の端末に入っているManaが起動した。

「イエガーのアルコール度数、調べて」

「雛乃、お久しぶり。イエガーのアルコール濃度は、35%、です」

それを聞いて夏美は皮肉な笑みを浮かべた。

「未成年だから入れる入れないって揉めてたんじゃなかったの?酒の引換券って、馬鹿なの?あの人」

「どさくさに紛れて芽吹の連絡先を教えろとか言ってきたしな。勿論教えなかったけど」

夏美は「ふぅーん。本当に瑞樹って本当にモテるよね」と言いながら人混みの中引換券を持って独りでバーカウンターの方へ行ってしまった。

(急になんだ夏美のやつ、飲みたがりか?)

「・・あれ?あいつらどこいった?」

雛乃は人混みに揉まれながら周囲を見回した。

「芽吹、芽吹ー!!」

突如照明が落ちた。

スピーカーが“あー”という何かの呪いのような低い声の和音を歌い始めた。

ホール内を「うおおぉぉーッ!!」という歓声や、ピーッという指笛が響き渡った。

ノートPCに接続された機器のツマミを締めあげる白塗りDJの男は、タイトな黒のセットアップスーツにナロータイを締め、額からは皮膚の下に埋め込んだ二本の角を突き出させている。

そのDJの背後にある巨大なモニターを光の線が暴れ回り、一筆書きで上下逆の五芒星が描かれた。そしてその上に【Gandharvaガンダルヴァ】の字が浮かび上がった。

雛乃の直ぐ隣に居た見知らぬ白人の女は両手をあげて「ギャー!」と金切り声をあげている。

呪いのようなコーラス音のバックに、いつの間にかジェット機のエンジン起動音に似た音が地の底から唸り上がっていた。その音は焦燥感を帯びながら回転数を上げ、緊張が限界まで極まった後、ホールは一瞬完全な無音になった。

その張り詰めた一瞬の間の内に、DJブースで指揮者のように両手を広げる男の姿が照明に浮かび上がり、曲が始まると共に一気に人々を強烈な光が照らした。

ドン

ドン

ドン

という粘りのある硬質なキックに、内臓とホールの壁は暴力的に殴りつけられる。

レーザーで宙に移しだされた巨大なホログラムの天使の群れが共食いと分裂を際限無く繰り返している。

人々はそこに手を伸ばして爆音に身体を揺らしている。

クラブディメンジョンのホールは激情の炉と化した。


激しい光の点滅とヒステリックな叫び声にしばらく飲み込まれた後に、雛乃が意識を取り戻した。それは夏美の声だった。

「‥‥‥ー!きゅーちょ‥ー!」

轟音の中でその声の気配の方を見ると激しく点滅する光の中でこちらを見てニヤリと笑う夏美の顔がある。

「あらら?」

図太い電子音の絶叫がこだまする。

「ちょ、あら」

急に首の力がおかしな抜け方をして、首がカクンと上を向く。

逆さ向きで踊っている人々と、天井に張り付くように倒れている自分の姿が見える。

そこへ見覚えのある少年が近寄り、倒れている自分の背中を揺すって、大丈夫か、大丈夫か、と叫んでいる。

(あれは、城戸?)

揺すられていた自分の首がこちらに向いた。

しばらく天井から床の私を見上げる自分と目が合った。

口が小さく動き、何かをボソボソと呟いている。


(何だ、これ、もしかして、)


「また、フラッシュバック?」

机を挟み正面に座る若いスーツの男が「また、フラッシュ‥、バック」と雛乃が発した発言をノートPCのキーで叩く。

「そう、それで君は、何度も蘇るフラッシュバックで我を失い、こんなことをしちゃったと、そういう意味でいいのかな?フラッシュバックってどんな感じ?」

雛乃は周囲を見回した。そこは窓の無い狭い個室だった。無機質な白い蛍光灯の光が天井から降り注いでいる。

「どこよここ」

「あ、ちょっと立たないで、落ち着いて。‥座って」

「どこって聞いてんのよ」

スーツの男はパイプ椅子から立ち上がったままの雛乃にもう一度「落ち着いて、座って」と言って睨んだ。

「テレビで見たことある、こういうの。ここ、警察?」

「‥‥」

男は反応しない。ヒステリックに叫びたい衝動を抑え雛乃はストンと腰を落とす。

「で、刃物は、ハサミはどこから持ってきたの」

(脈略無くここに来たんだ、どうにかしてまた出られる筈、どうすれば)

「聞いてる?瑞樹さんだっけ?トイレで城戸君を怪我させた凶器の話だよ」

「え?」

芽吹は目を丸くした。

「私がハサミで‥、何をしたの?」

不意に頭痛がした。脳裏に、グラスに半分ほど入った変な味のする液体を喉の奥に注がれるイメージ、ディメンジョンのホールを点滅する強い光、笑う夏美の顔が火花のように走った。

「困るなぁ。自分で言ったこと覚えてないの?そういうこと言いだすとまた最初からやり直しになっちゃうよ」

「最初から?」

動悸が激しくなる、目眩がする。

「しらばっくれてんじゃ無えよ、あんた私の彼氏に手を出したんでしょ?そうに決まってる」

夏美の持っている空になったグラスを見た後、私は口元が濡れていたことに気付き袖で拭った。

「何を私に飲ませたの」

周囲で踊る人々にぶつかりながら芽吹は言った。

「何か、飲まされたの?」

刑事らしき男はカタカタとノートPCに供述内容を打ち込んでいる。

「じゃあ、その後は?」

「その後、気付いたら、城戸に、トイレに連れて行かれてて、あいつ。私を押し倒して両手を押さえつけてた」

医師らしき男はカタカタとノートPCに供述内容を打ち込んでいる。

「やめてって何度言っても離してくれなくて。その時はもう頭が変になってて訳わからなかった。だから、もう、その後は多分全部幻覚か何かで、意味が分からないと思う、話しても」

教師らしき男はカタカタとノートPCに供述内容を打ち込んでいる。

「構わないから続けて」

「視界の隅に大きな黒い犬がいました。犬は私の方を離れたところから見ていた。城戸は、狼に気付いていない様子で、抵抗する私を黙らせる為に平手打ちをしました。狼に向かって助けてと私は叫びました。するとその犬は走ってきて、背後から城戸の首筋に飛びかかり噛み付きました。そして、そのまま城戸を私から引き剥がしました。その後、犬は同い年位の男の子になっていて、倒れた城戸の頭を蹴っ飛ばしていました。今となっては変だと感じますが、その時はいつの間にか犬が人間になっていることに対しては特に違和感も無く、私の中で当たり前のこととして受け止められていました。そして彼が城戸に繰り返す暴力を眺めていました。トイレのシンクの前は血塗れになっていました。城戸の表情は私を押し倒していた時とは全く違う怯えきったものになっていて、やめてくれ、助けてくれ、腕が折れた、と言って泣いていました。私はその言葉と情けない態度に凄く腹が立って、思わず彼を罵倒しました。私が同じことを何度言っても城戸はやめなかったからです。私はその時、その状況を楽しんでいたと思います。人が暴力が受けることを見て高揚していました。こんな自分があることに、自分で驚きました。城戸に暴力を振るっていた人は私の方へ近寄り、君は今夢の中にいる、そして助けて欲しいと強く望んだ。だから自分が現れた。と言いました。そして手に持っていた大きなハサミを私に渡して、君の楽しみの為に世界が破滅しても構わない、と言いました」


「赦して下さい!芽吹さん、ごめんなさいごめんなさい!」

「みにくい。城戸君、態度変わり過ぎよ。私何度も言ったわ、それ」

視界の隅で城戸の脚の影が跳ね上がった。

芽吹は思いっきり腕を振り下ろしていた。

城戸に馬乗りになり両手でハサミを握りしめ、背筋を仰け反らせるようにして振り上げた記憶が身体に蘇った。城戸がきょとんとした目で自分の胸に突き立てられたハサミを見ている。

芽吹はハサミから離れた自分の両手をじっと見た。刺した時の感触が手にぶわっと蘇り、芽吹の頭は寒気に目眩がした。

「抜いて、それ抜いて」

城戸の頭は、とにかく胸に刺さったハサミを何とかしなければ、という一心でそう言った。混乱していた。

呆然としていた芽吹は、城戸のなんの裏も無い子供のような声に目を醒まし、慌てて「うん」と返事をした。

芽吹は胸に刺さったハサミを引き抜ぬこうとしたが、なかなか抜けず、全身を震わせて思いっきり握った手を引き上げた。ハサミはずぼっと抜け、芽吹の顔に噴き出した血が飛び散った。

「い、痛いの?」

という芽吹の問い掛けに城戸は引き攣った笑みを浮かべた。

自分の胸から血が噴き出している。城戸のその表情は一気にぐしゃっと潰れると、絞り出すような声で絶叫した。

顔中にかかった城戸の血を手で拭い取いながら、ごめんね、城戸くん、ごめんねと、バクバク打つ自分の心臓の鼓動を全身に感じながら、出来るだけ冷静に言った。

ホールの方からドン、ドンという四つ打ちの音と、人々のヒステリックな歓声が聞こえる。

「ぎゃあああ!うわあああ!!!」

「城戸くん、あの、救急車呼ぶ?ああ、血がこんなに、す、凄い」

ただ溢れ出る血の無慈悲な勢いに、芽吹は自分の呼吸が得体の知れない熱を帯びていくのを感じた。

「止まらない。何か、私、何だろう。ああ、だめだ、ごめんね」

「ひゃああああああ!!」

全く芽吹の声は届いていない様子だった。

「人殺し!!ああ、死なない!やだ、違う!死にたく無い。助けて、あぁぁ!!」

「‥ねえ、城戸くん。ああ、もう駄目ね。はぁ」

(殺そう)

その瞬間、芽吹は血が逆流するかのような感覚が身体に響くのを感じた。

芽吹はハサミを再び振り上げた。そして、そのことに気付き、かざした城戸の掌ごと、思いっきりハサミを再びその胸に叩き込んだ。

今度はその感触がしっかり手に伝わってきた。

城戸は痙攣している。

破れた服の下にドス黒い沼に浮き上がったようなあばらが見える。

「すごい」

何故自分がそんなことを呟いたのかは分からなかったが、芽吹の口は何度か同じこと呟きながらハサミを振り下ろし続けた。

露出した内臓が生き物のようにうねり、トイレ内の冷たい白い光に潤むと粘っこく照った。

「くるひーよ、くるひーよ」

白目を剥いて涙を流し、口から血が混じった泡を吹いている城戸の姿が見える。

芽吹の肌は小さく震え、全身に鳥肌がたった。

「気が済んだ?」

芽吹は肩を窄めて寒い、と言って震えた後、少年の方を向き、「あなた誰」と言った。

「また忘れたの?」

少年は少し呆れた様子で血で滑る芽吹の手を取った。

「立って」

そしてひっぱり上げた。その手からハサミを取り上げると言った。

「さあ、ここから出てホールに戻ろう、それとも外に行くかい?どちらにしても、もう退屈な夢はお終い。魔法がある世界に行こう。もっと自由な世界へ」


パタンという音に芽吹は目を覚ました。


向かい側のテーブルに座っていた少年が手にしていた本を閉じた音だった。

タイトルには『虐徒の法悦』とある。

図書館内にはスピーカーから小さくバッハのゴルトベルク変奏曲が流れていた。


芽吹は顔を赤くした。

(知らない人に寝顔を見られてしまった。どれ位寝ていたんだろう)

芽吹は携帯端末を鞄から取り出した。

居眠りをしていたManaのグラフィックがインカメラに映った芽吹の像を認識し、鼻提灯を割って起きた。そして慌てた様子のモーションで懐中時計を懐から取り出した。その文字盤がディスプレイに最大化される。時計は17時16分を示していた。

(こんな時間まで寝てたのか)

「芽吹」

端末から声がした。

「芽吹、屑嶋華子さんからメッセージが届いています」

Manaは手紙のアイコンを掌の上にふわふわと浮かせながら言った。

芽吹は立ち上がり、正面の見知らぬ少年に軽く会釈すると図書館のホールから出た。


少年はその後ろ姿を視線で追った。

そして長テーブルの上に積んである別の本に手を伸ばした。


「メールを開封して」


「屑嶋華子さんからのメッセージを開封します」


Manaの姿はディスプレイから消え、華子からのメッセージが表示された。


[まだかかりそう?家の前に黒猫がいるよ!超可愛いよお(≧∇≦)早くおいで]







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