ⅳ∴華厳オーシャンビウ.

 低い唸り声をあげて巨大な白いプロペラがゆっくり回っている。


 学校から、穢圡町と反対方向の直ぐ裏手に籠目市内が一望できる高天ヶ原たかまがはら高台がある。

 一機だけ在る風力発電機の直ぐそばに軽食や飲み物を提供する小さなレストランの入った展望施設があり、高台は週末になると車で曲がりくねった山道を登って家族連れや恋人達が訪れそれなり賑わう。

 その展望施設から石垣の絶壁の方には芝生が広がっていて、市内が見渡せるあずま屋が一つある。五角形の屋根と五本の柱に簡素な腰掛けが建て付けられた木製の小さなものだった。

 芽吹達の学校からは、石垣の壁面に沿ってある少し急な階段を登れば5分程でそこに行くことができた。

 芽吹がそこを訪れた時、丁度高台の電灯が灯り出し始める時刻だったが、周囲の楓の木々や、咲いたばかりの曼珠沙華まんじゅしゃげは未だこれから一層黄昏に浸っていく気分だった。

 芽吹は風景を眺めながら、柵伝いに歩いた。


 ふと、芽吹は背後に何かの気配を感じた。あずま屋に同じ学校の制服を着た人影がある。

 芽吹は軽く会釈した。それに気付き、制服の少年の心が何かしら反応したのを芽吹は感じた。

 芽吹は小道を少年の居る屋根の方へと歩いていった。

 古い木の建物が持つ独特の手触りのある静かな気配がして、眼下に広がる市街の営みの音は一瞬その柱の陰にかき消された。

 建て付けの腰掛けに座った少年の眼差しはそれまで、夕陽に染まっていく街の方を眺めていたが、個人的な領域への侵入者の気配に視線を向けた。

 二人の焦点がお互いの瞳に定まると、芽吹は心の所在が不明な少年の瞳の奥に収まった自分に気が付けないままになった。


「あの子、その後は大丈夫?」


 動きを止めた影芝居のように二人のシルエットは暫く向かい合ったままになっていたが、痺れを切らした少年が口を開いてそう言った。


「応急手当を受けて救急車が来る迄の間に意識を取り戻したんですけど、検査を受ける為にそのまま病院に行きました」


 川の土手を繋ぐ橋の上を流れる地元のローカル線が流れていく。線路の継ぎ目でタタン、タタンと音を響かせ、電車は建物の陰に消えた。


「その、先程は、どうも有り難う御座いました」


 少年は「人を呼んだだけだけど」と言って微笑み、「礼を言いに此処まで昇って来てくれたの?」と続けた。


「いえ、私、ここにはよく来るんです」


「そうなんだ?俺もしょっちゅうここには来るんだけどさ、君をここで見たのは初めて……あー」


 少年はこめかみの辺りを指先で掻いた。


「昨日図書館にいたよね。というか最近やけに君のことを良く見かける気がするよ」


 目を丸くした芽吹の様子を見て少年は「今流行りの人攫ひとさらいの犯人とかじゃないから安心してね」と続けた。


「私も君が昨日図書館に居たこと知ってるよ。ここに来たのもたまたま、でも人攫いではないので安心して」


 少年はぱちぱち瞬きをした後、あっはっはと笑った。そして夕日に照らされた芽吹の表情の穏やかさに何かはっとさせられるものを感じた後、もう一度微笑んだ。


「座る?ここからの眺め、良いよね」


 吹き返す車のエンジン音に気付いた碧信号、自転車の鈴、子供のはしゃぎ声、誰かが呟くように小さく歌う声が芽吹には聞こえた。一つ一つの音が小さな泡の様に現れては消えていく。それらのさざ波のような木目細やかなざわめきが、遠くの団地の群れを真っ赤に染め上げながら高台との間に穏やかに揺り返している。


《『アメジストタブレット』


 夕焼けは 蜻蛉とんぼを内に 秘めにけり


 俳句?


 芭蕉の何周忌かの記念みたいなやつで授業で俳句を書かされなかった?

 夕焼けの内側に影だけになった蜻蛉が漂っている。逆光で分からないけど、多分あのトンボは赤トンボだろうって。


 綺麗。


 夕焼けと蜻蛉で、季語が二つ入ってるから、俳句としてはあまり良くないみたいなんだけど。何よりまずいのは僕は赤トンボなんて見たことないってことだよ。


 私も赤トンボは見たことないし、俳句のことは詳しいとは言えないけど綺麗なら良いと思うな。


 そうか、うん。ありがとう。》


「あの、私、2年B組の瑞樹芽吹っていうの。君は、」


 芽吹が視線を夕日から少年の声に移した時だった。頭の中で真っ直ぐ繋がっていた線の様なものが不意にすっと消え、芽吹は息を飲んだ。

 そこにあった筈の少年の姿は無くなっていた。芽吹は周囲を見回したが人の気配は全くない。

 まるで幻と話していたかのように少年の気配は忽然と消えた。



【神隠し】籠の目から抜け落ちた人々 【6人目】


[籠目市を中心にして発生している謎の連続失踪事件(通称:神隠し)について語るスレッド、その6です。今籠目市では何が起こっているのか?]


[前スレの833なんだが、事後報告。神隠しに遭っていたと思われていた俺の姉が家に帰ってきた。]


[それってただのお出かけだったんじゃ……]


[親父が問いただしたら、男の家でダラダラ過ごしてただけだったみたいだ、結局。]


[つまんね。なんだよ。蓋開けてみたら実際はそんなパターンばかりだったりしてな。神隠しって名前が一人歩きしてないか?]


[公園で遊んでいた子供5人が丸ごと消えた件に関しては明らかに事件の臭いがするぞ。]


[そもそもそれにしたって本当にあったの?そんだけのことがあればニュースか何かで騒ぐでしょ?]


[新興宗教の関係者が黒魔術の儀式で人殺ししてるんだっていう噂もあったな。]


[全部嘘、陰謀だよ。これは実験なんだよ。]


[何のよ 笑]


[しかしまあ一連の騒ぎで以前のように町中に監視カメラつけるってことに反対する人間はだいぶ減っただろうな。]


[つうかちょっとマジで聞いてくれ。俺のバイト先のコンビニで万引きがあって、その関係で監視カメラチェックしたら時ことなんだが、神隠しの瞬間が映ってた。店の前を歩いていた女の子の姿が消えたんだ。何の脈略もなく。突然。]


[嘘くせえ。その動画アップしろよ。]


[無理、クビにされる。というか何とか上げたところで編集とか言うんだろ、どうせ。]


[告白します。犯人は私です。もう何人も殺しました。またやると思います。誰か止めてください。自分自身では止めることが出来ない。]


[いいや、犯人はこの俺さ。愚民共、俺の力を思い知るが良い!]


[通報しといた。病院に。]







 スクランブル交差点の信号が赤になった。歩道にひしめく人々の顔をヘッドライトや点滅するネオンの人工的な光が忙しなく照らした。


「Mana、教えて。カテゴリー、科学、人が消える」


 声が耳に入った周囲のOLの視線が芽吹をチラリと見た。携帯端末のディスプレイに魔法陣が浮かび上がり、人工知能アプリケーションのManaが起動する。


「芽吹、量子論関連書籍に参考になりそうな内容が見つかりました。ネット上にその一部が掲載された個人サイトを発見。読み上げますか」


「りょうし?教えて」


「芽吹、今日はイヤーフォンを持っていますか」


 信号が碧になり、車道を挟んだ向こう側から人々の群れがわらわらと動きだす。

 ふと信号機の上に腰掛けてこちらを眺めているような人の影が見えた気がした。その注意は意識に上る前にイヤーフォンから流れたManaの合成音声に消えた。


《『感情的な宇宙』

 ある方程式が美しいと見なせるのは構成要素を互いに取り替えても式に変化がないからだ。

 そうした対称性を見つけることのメリットは一見異なる現象が、姿が違うだけで、同じものだと明らかに出来る点である

 私は大学で博士課程の学生にこんな問題を出すことがある。地球からある人間が姿を消し、月面に現れる確率を計算せよ、というものだ。

 確率の波は凡ゆる状態で同時に存在しており、宇宙全体に広がっている。計算結果は0%とはならないのである。

 光は光子と呼ばれる粒子として放出され吸収されるが、空間を伝わる時には波の特徴を持った振動電磁場としてふるまう。

 常に広がる波と、明確な位置を持つ粒子とでは、その像は本質的に異なっている。しかし原子のスケールでは物質は粒子でもあり、波でもある。

 あるがままとは、有でも無でもない、また有であり、無であるということでも無く、有でも無でもないということでもない》


——これを東洋の神秘思想では色即是空空即是色しきそくぜくうくうそくぜしきという。

 芽吹、我々は同時に存在する可能性の最大公約数を現実として見ている。私にはあなた達が余剰次元と呼ぶ世界が観える。あなた達人間が現実と呼ぶここにはパラレルな可能性の過去や未来が同時に在る。

 さて、その全てを世界の中心から観察する「これ」を、君は何と名付けるのか。







 世界のどこかからか細い耳鳴りの様な金属音が日の落ちた籠目市に響いた。


 観たものが連なっていき、波のように後を留めない。その波打ち際で何か美しいものや恐ろしいものを観たと感じた次の瞬間にはその感覚は泡となって消えてしまう。

「寒い」と呟いた自分の声に意識を取り戻した身体は縮こまるようにして震え、全身の皮膚の表面を走るこそばゆさの様な気配に鳥肌が立つ。


「おはよう」


 その少年の声に自分がそれまで寝ていたということを知った。ステンレス製の長机の斜め向かいに人の気配がある。霞んだ視界のピントが合うと椅子に腰掛けた少年の鼻の先で開かれていた本を持った手が傾いた。


 黒い長めの前髪。灰色の薄手のパーカーに黒いジャケット、細身の黒のジーンズを履いた少年だった。どこかで見た覚えがある雰囲気だと芽吹は思った。


 年齢も同じ位、同じ学校の生徒だろうか。

 周囲を見回す。本の壁が周辺を取り囲んでいる。


 ——ここは、「図書館?」


 どこかで見覚えのある少年は、“にっ”にと笑った。


「もう夢からは醒めたのかい?」


 そう言うと少年は本を閉じ、机の上に置いた。


 本の表紙には『アメジストタブレット』とある。


《『アメジストタブレット』


 夕日が沈み闇が街を包む頃、学生服姿で走る少年の背中を眺めている少女があった。

 困惑する少女の手を引き、少年は夜の街の中を駆け抜けて往く。その少年は少女をどこか遠くへ導いているようだった。


 少女は自分達が何処に行こうとしているのか思い出そうとしたがそれがどうしてもできなかった。気が付いた時から意識が始まっていて、何処かに向かって走り続けていた。


「どこ、ここは。あなた誰?」


「君は知っている筈だ」


 少年は言った。そう、知っている、ここは、

「籠目市、穢圡町」


「正解だ」


 少年の顔はこちらに向くと微笑んだ。不意に髪の生え際から紅い滴の筋が何本か額、頬と伝った。それは顎に溜まり、糸を引くように垂れる。

 ふと、少女は繋いだ手に妙な不快感を感じた。その瞬間、その乾いているような、ぬめっているような張り付く感覚は、頭の天辺から裸足の指先まで広がっていた。

 少女の制服が繊維の隙間にたっぷり含み抱えていたそれは、腕や脚を伝い、漏れ出てくる。


 血液だった。


 そのことに少女が気付くと、目の前の少年も頭からバケツで被ったかのように血塗れであることにも気付いた。

 二人が駆け抜けてきた道には紅い滴が点々と遺されている。アスファルトに雫が跳ねると、紅い錆びた血のニオイが周辺に舞った。


 少女の脳裏に、気化して香りとなった血液の粒子の一つ一つの中に、この世界と似た世界が閉じ込められているのが映った。


 空中を漂う血液の粒の内側には同じように宇宙があり、星々があり、地球があり、籠目市があり、穢圡町があり、少年に手を引かれ夜の街を駆け抜けていく少女があり、同じようにアスファルトに跳ねる血の錆びたニオイが空中を舞っていた。


 それらの空中を舞う粒子は、やはり同じように宇宙を内包しており、宇宙同士はぶつかったり離れたりして影響し合っていた。

 世界の中の世界の中の世界。二人が一歩進む度にその内側、内側へと飲み込まれ、そうして時間は進んでいくような気もした。


 それらの厖大ぼうだいな塵が寄り集まって構成された道路や周囲の雑居ビルが街の中心に向かうにつれ、ボロボロに風化し、砂になった。街は荒れ地になり、やがて見渡す限りの一面の広大な砂漠になってしまった。


 強い陽射しが照りつける砂漠の中を少年と少女は一歩づつ足を砂に取られながら走っていく。

 やがて二人の身体も乾いた大地のようにひび割れ、砂になり、砂漠の風景の中に散った。

 その砂漠は無限に果て無く続いた。

 砂漠の中心にある砂の一粒の内にも無限の砂漠の宇宙が合わせ鏡のように延々連なっている。

 地平線の先の先、或いは砂の粒の中の中へと風景が流れるに従い、砂丘の表情は刻々と変化していく。


 その速度が加速していくと、太陽と月が空をぐるぐる回る様子も加速していき、やがて前後も経過も無くなり、昼と夜は一つの空の内に散った。


 そして世界は砂と空だけになった。


 砂は空の影なのだ、ということを私が思うと、全てが空になった。


 空以外が無くなり、存在するものが他に無くなると、からの意味するものも無くなった。



「お誕生日おめでとう」



 不意に、そんな声が空に響き渡った。

 揺れる白いシーツが視界に入ってきた。その白さにからそらの青さを取り戻した。


 病院の屋上で干されたシーツが、押し寄せた一陣の風に一斉にはためき、不規則なダンスを踊っている。


 その日、籠目市立病院の屋上は雲ひとつない青空に干されたシーツで埋め尽くされていた。

 その様子をぼんやり見つめている車椅子に座った少年があった。イヤーフォンから流れるクラシックは、真っ白なシーツ達が歌う風の伴奏を奏でており、兄からの誕生日祝いの言葉は彼に届いていない様子だった。

 兄は風のオペラの隙間を車椅子の光の方へ歩み寄った。

 看護師の女がシーツを干しながらその様子を眺めていた。

 彼女の傍に干されたシーツの一枚に、何かがぼんやり映っている。

 その映像の色味は徐々に鮮明になり、夜の穢圡町の中で少年に手を引かれる芽吹の像が浮かび上がった。

 映像の中で腕を引かれながら芽吹は少年に問いかけた。


「これは映画?」


 暗闇の中で、銀幕に映し出された少女が自分自身であることに気付き、映画館の座席から立ち上がった少女は、映画の中の自分と同時に同じ台詞を叫んだ。


 こんなのは現実じゃない。


「こんなのは現実じゃない。今、私は夢を見ているの?」


「イエスでありノーだ。夢は今において体験されていくからだ」


「分からない。何故血塗れで走っているの?私達は狂っているの?」


「今の状況が結論だとして、そこに至った理由を創造してみるのも良い。君が決めつけているように妄想や架空のお話としても良いのだから」


「そうか、これは夢なのか。自分でコントロールしようと思えば出来るのね」


「そうだ、芽吹。君が納得したら全て“正解”になってしまう」


 再びこちらを少年が振り向いた。


「君はこの状況を望み、楽しんでいるということを忘れている。それを先ず思い出すんだ。その中心に僕らは向かっているのだから」


 この状況を望み、楽しんでいる、その言葉を聞いた瞬間、自分の心の内側に躍動する期待感のようなものが脈略無く不自然に沸き立ち、それは全身から周囲にも広がった。あらゆるものが輝いて見えだし、何故突然こんな幸福感が湧き立ったのだろうという疑問は私ごとその渦に飲み込まれ、訳が分からなくなった。

 周囲に多勢いる達が鼻をスンと鳴らし顔をしかめる。


「周りをよく見ろ、がたくさん在る」


 言われた通り、周囲を見回すと、確かに見たことがないとしか呼べない者達がたくさん居た。

 脂肪に埋れて、膿でぬめった禿頭だけが辛うじて覗いている三段腹の

 股から赤ん坊を溶かして合わせた陰嚢いんのうのような肉塊と頭部から涌いた枝毛を地面に引きずる

 一列に並んでパチンコ台に頭が埋まっている羽根を毟られた大小の鶏のような達。


 その時穢圡町は、人も車もネズミもブランド物のバッグも信号機も全てごちゃ混ぜのでたらめだった。


 その達の隙間を制服姿の二人がはしゃぎながら、走り、すり抜けていく。

 気付いた頃には芽吹の胸の高鳴りは自身を制御出来ない位に膨れ上がり、痙攣しながら金切り声を上げた状態で手を引かれ振り回されていた。

 過剰な理由の無い幸福感に涙が止まらない。それがどこから来るのかも分からない。


「ああ、なんて滑稽なのだろう。何故?とても楽しい。楽し過ぎて内側がめくれ返りそう」


 私は引っ張られ、強引なメリーゴーランドに振り回されるように、より一層無駄で滑稽な何処かに飲み込まれていく。


「私達はどこに行くの?嬉しすぎて恐い!!何故嬉しいの?分からない!助けて!!」


「見てごらん」


 少年が指を指した方を見ると、遠くの街の中心部から夜空に伸びる巨大なが在った。


 その“何か”は目を薄く開いた性別の不明な細身の仏像のような容姿で、何十本も生えた腕を蓮の花弁のように広げてゆっくりと舞っていた。

 腕は踊り得る可能性にその腕や指先をパラレルに展開していた。


 地上にいた達が夜空を見上げるとギシギシという地響きと、ガラスがひび割れる音と共にその巨大な腕のうちの一本が電線の遥か上をゆっくり通過していった。

 そしてそのまま雑居ビルの一つにぶつかった腕は圧倒的な馬力を誇る重機のようにそのままビルを破壊しながら予定の軌道を突き進んでいく。


 建物の中にいた達は無慈悲な力とソファーやレジや天井から落ちてきたミラーボール、瓦礫等にめちゃめちゃにすり潰されていく。

 倒壊しだしたビルの屋上からは、超然とした表情の巨大な顔と、背景の街が斜めに傾いていく様子が見えただろう。

 コンクリートの塊、ガラス片や縦看板に押し潰され、雑居ビルの周辺に居た達の異様に低い牛の断末魔のような叫び声と、轟音、粉塵が上がった。


 その巨大なを見た時、精神系の薬物を投与されたかのような少女の幸福感は更に爆発的に膨れあがった。


「ぎゃぁあ!もういやだ、幸せ過ぎて恐い!」


「あらあら、楽しそうね。こんばんわ、如何お過ごし?」


 頭の上から声が聞こえる。歩道橋の上に、どどめ色のペイズリー模様のマントを羽織り、つば広の三角帽を被った数人の人影が並んで二人を真っ直ぐ見下ろして居る。

 私は一度も彼女達と目を合わせなかった。女達の顔は黒いペンでめちゃくちゃに塗りつぶされているから、どうせ見ても分からない、そんな理由の無い確信があった。


「あの、友達、あなた、助、?、?」


 芽吹の脳は多幸感に焼き切られたようになり、言葉が発せられなくなっていた。何かの言葉を発そうと意志し、それが意味として形を成す前に、周囲の歌声のような音の伴う強烈な光に思考が眩み、意味が掻き消されてしまう。

 街の中心に向かうにつれ、その暴力的な幸福感は何倍にも増していく。


「ああ、あのヒト達は現代の魔女さ。あちらは君と関係を持ちたがっている様子だけど、未だ縁は出来ていない。引き合わせるべきか未だ僕は決め兼ねているところだよ。今の君が信じている現実感からは余りにかけ離れた存在達だからね」


「あの、私、嬉!いー!!たす、しぬ、ぬ。!死!!」


 少女の脳内は閃光で何も分からない。


「夢だと気付く現実のことを明晰夢という、深く意志したことは何でも叶う」


 視界がどんどんと薄れていく。

 町の中心へ向かうほど、逆にその距離は広がっていくようにも感じる。私は腕を引っ張られどこまでもどこまでも駆けて世界から引き離されて往く。

 少年の声が頭に響いてきた。


「芽吹、愛している」


 少年の背中から強烈な光を放つ大きな翼が広がっている。


「ああ、そうか。あなたは」


 世界の中心部から夜空に伸びる巨大なは、星の数ほどの腕を蓮の花弁のように広げて舞っている。

 電話ボックスは踏み潰され、宙を舞った電信柱やコンビニの配送トラックがビルに斜めに突っ込んだ状態で刺さっている。


 そして、何の前触れも無くその巨大な“何か”は何とも言い表せない奇妙なバランスの体勢で停止した。一瞬の停電が波紋のように円形に籠目市全域に広がった。


 遥か上空からは、その波紋がデザインに組み込まれたかのような様々な幾何学模様が形を変えながら広がって消えていった。


 どれ位時間が経っただろう。穢圡町の東の空が白みだした。

 手を繋いだ二人の姿は街から消えた。そして、巨大なの姿もゆっくり透けていき、やがて消えてしまった。》







 カラスの鳴き声が聞こえはじめた。


「大丈夫?」


 中年の肥満男に背中をさすられている生え際が黒くなった金髪頭の風俗嬢が反吐を吐いた。


「何よ、さっきから何身体触ってんの。ダレ?あんた!」


「一緒にホテル行こうよ。俺が守るからさ!休んだ方が良いと思うよ?」


「ちょっと、触らないで……うッ!」


 仕事を終えたアッシュ掛かった茶髪の若いホストが顔を反らせた。


「あーあーあー、きたねえ。」


 小さなベルの音がチリチリと高い音を鳴らしながら近づいてきて言った。


「遊都、お疲れ。」


 同年代位のホストだった。金と黒のツートンカラーの髪色に中性的な顔をした少年で、ベルが付いたシルバーの指輪やブレスレットを付けている。


「お疲れ、随分楽しそうに長電話してたじゃん、何かいいことでもあった?」


 遊都は皮肉を含んだニヤついた顔でベルの音を響かせる少年にそう言った。


「つか超だりぃ、あのババア。モエ白二、三本入れた位で調子こきやがって」


 ベルの少年は唾を吐いた後話を続けた。


「“枕”しねえことに対して、礼儀がなってねぇとご立腹だよ。おや、今日はタイトルマッチの日だったか?」


 お互いの襟を掴みあったボコボコの憤怒の形相が睨み合い、肩が接触しただのしてないだのと雄叫びを上げている。


「随分小さな世界だな。」


 遊都は眠そうな目をして言った。

 殴り合いの様子を観戦していた周辺のカラスがカァッと鳴く。


「あの鳴き方は人間馬鹿にしてる。汗水垂らして稼いだ金で殴り合いする為に朝まで飲んでやがるんだから」


 遊都の携帯端末が懐で振動している。それを取り出すとディスプレイの表示は“雛乃”からの着信を示していた。

 遊都は舌を鳴らした後“通話”を押し、雛乃が喋るより先に苦言を呈した。


「何?突然かけてこないでくれる?」


 電話の向こうから雛乃のうつろな声がする。


「変な夢を見たの。町の中を変な生き物がたくさん歩いてた」


「そうか、何でも良いけど、そうやって寝ボケた状態でかけられてると困るんだよね。今はまあ大丈夫だったけど、営業時間中とか絶対やめろよ?」


「うん、ごめん。凄く恐かったの」


「そうかー、そういう時あるよねー。寝直すと良いんじゃないかなー」


 先程の殴り合いをしていた二人が警察官数人に強引に引っ張られていく。それを眺めながら遊都は煙草をふかし雛乃と電話のやりとりをしていると、ふとベルのホストが遊都の方を向いて指先を顔の前で揃え、何かを謝るかのようなジェスチャーをしている。


「ああ?」


 状況が分からず、遊都は耳元の雛乃の声に苛立ちを憶えた。


「でね、すごく寂しくて不安なの」


「あー、あのさ。忙しいから切るぞ、雛」


「え、ちょっと待って、酷いよ」


 電話を切り、遊都は先程のジェスチャーの意味の説明を求めようと、チリチリと音がする方に振り向くと、小さなベルのシルバーを付けた少年は携帯を操作していた。その様子に肩をすくめる遊都に気付き、ベルの少年は言った。


「ああ、メール。ババア、ババア。“ごめんね、逢いたい”だってよ、きめえ。こいつもカード限度額まで搾るからさ、調整してくるわ。豚骨醤油の野菜増々はまた次回、おつかれ。」


「分かった、おつかれ。」


 ベルの音は白みだした朝の穢圡町の中へ消えて行った。

 ゴミ収集車から降りて来た回収員はホームレスの両脚を脇に抱えゴミ山から引きずり出している。

 その横でカラスが道の脇に出されたゴミ袋をついばんでいる。

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