第38話

「な、なんてことを……!」

 向こうでは、ヌーに倒されたネイギがやっと顔を上げ、震える声を絞り出していた。ピエルタが駆け寄って助け起こそうとするのにも気づかず、地面に手を突いたまま呆然としている。自分の眼鏡も割れているが、それさえ気にならないらしい。

「欲をかいた報いだな」

 後ろから声を掛けられた。

 その声の主に、ヴァイオレットは目を見開いて振り返った。

 そこにはロジアムが立っていた。どこも変わりなく、焦げた様子もなく、鳶色の瞳でヴァイオレットを見つめ返してにこりと笑う。その笑顔に、ヴァイオレットは瞬きした。

「アマランジル以外に天候を操れる術者がいるとは驚きだ」

「あの、えと……」

 咄嗟になんと言っていいのか分からなかった。一部だけとはいえ天気を変えるなんて、ヴァイオレットにそんな規模のすごい魔法が使えるはずない。今も雨は降っているけれど、もう紫色の雲は消えて普通の雨になっている。たぶん間もなく降るはずだった雨を、早めただけに過ぎないのだろう。そこに少しヴァイオレットの要素が加わっただけだ。

 それに——あんなに燃えてしまった後では、遅すぎたに違いない。いつだって、力及ばない。

 立ち上がって、ヴァイオレットはロジアムの後ろを見遣った。そこには変わらず静かに揺れる雑木林がある。

「……もしかして、ずっと森にいたのですか」

 そこから一部始終見ていたのだろうか。

「おやじ!」

 そうしているとノギアムが飛んで来て、父親の腕を横から乱暴に掴んだ。

「何を考えてるんだ!

 今度ばかりは、悪ふざけでは済まされないぞ!」

 怒鳴り声に、脇にいたヴァイオレットが身をすくませる。

 ノギアムの顔がすごく怒っていた。あたりまえとしか言えないけれど、ものすごく、怒っていた。

 対してロジアムは、胸ぐらを掴まれても涼しい顔をしていた。

「よく見てみなさい。屋敷は無事だ。少しも燃えていない」

「はあ??」

 不可解極まりない声を出して、視線につられるままノギアムは屋敷を見遣った。

 魔法の明かりはあるけれど、雲が多いせいで視界が霞み、屋敷の全貌はよく見えない。ヴァイオレットもまた彼らに並んで、目を凝らした。

 火はもうすっかり消えたようだ。言われてみれば、あれだけ激しく全体が燃えたのに、焦げ臭さの類がほとんどなく、黒煙さえ上がっていなかった。窓辺で真っ白いままの遮幕が揺れているのに気付く。その上、窓枠も周りの外壁も、炎の舌が舐めたはずなのに黒ずみが無いようだ。

 ここから見たかぎり、炎が幻だったかのように、屋敷はなんともなさそうだった。

「どうして……」

 愕然とするノギアムの手が弛んだのか、ロジアムは自分で息子の手を外した。なんでもない顔で衣服を直しつつ言う。

「この家はティー=リーの加護によって守られているのだ」

 ノギアムが怪訝に眉を歪めて父の顔を凝視する。何を言い出したのか。ヴァイオレットも同じ心境でロジアムを見た。

「ここが太古の遺跡を元にしているのは知っているな。

 隠し通路の先にある地下の石室には、建物と中に収められた家財を保護するような性質の何かが、施されているらしいのだ。他の遺跡に比べてここの保存状態が良かったのも、恐らくその〈何か〉のおかげだと考えられる。特に火に強いらしいが、もしかしたら太古の昔でも、大切な物を保管しておくための場所だったのかもしれないな」

 ティー=リーの加護……。その〈何か〉というのは、太古の昔に使われていたという魔法のような技術のことだろうか。魔神の封印だけでなく、こんな所にも残っていたのか。

 ロジアムの使う曖昧な表現に、ヴァイオレットは瞬きして考えを巡らせる。

 ロジアムは腕を組んで、さらりと続けた。

「まあ実際、どの程度機能するかは賭けだったわけだが。結果は見ての通りだ。素晴らしいな」

 そして、口の端を上げて笑う。

「どうだ。ヒヤヒヤしただろう?」

「おやじ……」

 いたずらが大成功した子供のような、悪びれない笑顔を父親に向けられて、ノギアムは力なく頭を抱えるしかないようだった。

 それはつまり、大失敗の可能性もあった、ということだ。本当に、屋敷も財産も、ここにある全てを失うところだった。大胆にもほどがあるとヴァイオレットは思う。——否、それだけの覚悟が、ロジアムにはあったということか……。そして恐らく、同じだけの勝算も。——そう思いたい。

 ともかくも、全てが無事で済んで本当に良かったと、ヴァイオレットは胸を撫で下ろした。ティー=リーの加護とはいったいなんなのだろう。ふと、そんなことも思う。かつての神官が使う奇跡の御業。確かに、奇跡を目の当たりにしたような気分だ。一度朽ちかけたのにまだ生きていたなんて、すごすぎる。すごいのがティー=リーなのかその力を扱う神官なのかは分からないけれど。

 そこに、ティー=リーではない真っ赤な鳥が飛んできた。

『ヴァイオレット、頼む!

 こればかりは通訳が必要だ!』

 次から次へと騒々しい。

 肩に留まらないように手で遮ったら、行き場を失ったアルグに目の前で羽ばたかれ、むせた。しかたなく腕を差し出す。けっこう重たい上に、爪が当たってやや痛い。

 急かすアルグに連れて来られたのは、ネイギのところだった。

 まだ濡れた芝に座り込んでいる。そろそろ下着までぐっしょりのはずだ。しかしなるほど、ヌーの巨体に体当たりされたら、彼のような細身ではそうそう立ち上がれるものではないかもしれない。傍らにはピエルタがいて、雨に濡れた髪を気にしつつ、退屈そうに辺りに視線を投げ掛けていた。

 ここまで来たら、アルグの言いたいことは分かる。

 しとしとと降る雨の中、ヴァイオレットはネイギの前に立った。

「ネイギさん。あなたはこのトリに呪いをかけた一人なのですよね。あなたの分の呪いを、解いてほしいそうですよ」

「……そう言えば、予期しなかった手柄候補は、もう一つあったな……」

 ネイギは割れた眼鏡を掛け直し、ゆっくりと顔を上げた。そこには以前のような取り繕った表情はない。頬を片方だけ引き上げて、皮肉に笑う。

「冗談ではない、とまずは言っておきますか」

 それからニコリと狐のような目で笑った。

「貴方の呪いを解いたとして、僕に得るものがありますか?」

 それが無いのなら脅されたって解くものか——と笑っているはずの眼差しが物語る。初めて見たとき整っていた衣服も、髪も、すっかり乱れて汚れている。しかしその目はそれまでになく強く、本物だった。

『ぶれないな。

 その度胸は認めないでもないが。

 結果は変えられない』

 アルグが腕を蹴って翼を広げた。

 空を行き近寄るただならぬ雰囲気のトリに、ピエルタはさりげなく逃げた。こういうとき保身を第一に考える彼女も、なかなかにぶれない。

 ネイギの頭上で一度羽ばたく。

 群青の魔法陣が、見上げるネイギの眼前に浮かび上がり、音をさせて弾けた。

 途端、

 ネイギの体が虹色に染まる不思議な煙に包まれる。

 それは直ぐに風にまかれて虚空に溶けた。煙が消えて露わになっても、そこにいたはずのネイギがいない。上から薄くなった煙を追って、視線を下げると——いた。ずいぶんと小さくなっているけれど、たぶん、そうだ。

 長い耳がぴょこんと立つ。

 桃色の鼻がひくひくする。

 ずんぐりした丸い体。

 現れたのは、青い目の回りに眼鏡のような模様のある、白黒のウサギだった。

「ネイギさんっ?」

 ピエルタが半分笑いをこらえたような声を上げる。アルグはゆるりとヴァイオレットの肩に戻った。地面のウサギに気を取られていたヴァイオレットは、うっかりそれを許してしまった。

 ウサギになったネイギは、恐る恐る己の前脚を確かめ、腹をのぞき込み、体勢を崩して横向きに転がる。

 こんなことを言うのは失礼だろうけれど……ヴァイオレットは複雑に表情を歪めた。

 その様は、なんとも可愛らしかった。

 ふわふわな毛並みは直ぐに湿気てしまったものの、もてんと転がり、慌てて起き上がろうにも足をわたわたするだけで上手くいかない姿は、可愛いとしか言えない。——一度鳥にされた身としては、気持ちが分からないでもないから、ここは非常に気の毒と言うべきなのだろう。ピエルタが口に手を当てて、笑いを必死に耐えるのを横目に見る。

 なんとか体勢を立て直したウサギ——ネイギは、だっと逃げ出した。

「あ! 待って下さいよーぅ!」

 ピエルタが後を追いかける。走っても、全力疾走するウサギには、なかなか追い付けるものでもない。

 ——あ、転けた。

 ウサギが慣れない足をもつれさせて、勢いのまま転がっていく。これなら捕獲されるのも時間の問題かもしれない。

 しかし、何故ウサギなのか。

「そうか。あなたはもともと小動物にされる予定だったのだものね」

 その呪いを返されたから、ネイギはウサギになってしまったのだ。

『うむ。あれも修行が足りなそうだったから、難儀するだろうが。魔法院に帰れば呪術を専門にした魔法使いがいる。直ぐに元に戻れる——て、うわっ。なんだ?』

 アルグが言葉の途中で変な鳴き声を上げた。肩が急に軽くなる。目を向けるとロジアムが後ろに立っていて、不意にアルグを抱え上げたのだった。

 鳥を間近に凝視したかと思うと、破顔一笑する。

「あっはっはっ!

 おまえ本当にアマランジルなのか!

 これは傑作だ! とうとう人間やめたのか!」

「じぇるるぅぅ……」(久しぶりだな、ロジー)

「何を言っているか、全く分からないぞ!

 記念にその羽根一枚おくれ」

「ジェーーッ!」

 手の中でトリに暴れられ、逃げられても、ロジアムは楽しそうに笑っていた。

 初対面の頃見せていた厳しい表情はなんだったのか。無邪気と言っていいくらいに、終始上機嫌なロジアムを見ていて、ヴァイオレットは唐突に閃いた。

「遊び心ではありませんか」

「ん?」

 こっちに避難してきたアルグの翼にむせながらも、今度は抱き留めてあげない。それはちょっと図々しいというものだ。このトリのことだから何か考えがあったのかもしれないけれど、昨夜の暴言も、先程の態度も、ヴァイオレットはまだ許したわけではないのだ。

 仕方なしに、アルグは地面に降りてこちらを見上げる。

 首を傾げるロジアムと、ヴァイオレットは真っ直ぐに向き合った。

「謎掛けの答えです。

 あのお屋敷で最も価値のあるもの。ロジアムさんが一番に重視すること。

 『遊び心』ではないですか」

 ロジアムは目を穏やかに細め、しかし口元は意地悪に吊り上げて笑った。

「ご名答だ。

 だが時間切れだな。

 それにさえ気付ければ、辿れる道筋が用意してあったのだがね」

「なんだ、やっぱり曖昧なモノなのではないか」

 父親とは正反対の不機嫌な顔で、ノギアムが文句を言った。口を開いたロジアムの反論も手の平で遮り、やれやれと首を振って向こうへ行ってしまう。屋敷の前で待っている、使用人たちのところだ。息子の背を小走りに追うロジアムは、懲りずに言い返す構えだった。

 静けさの戻りつつある裏庭に、親子の声が響く。

 間もなく雨も止むだろう。

「——くちゅんっ」

 とりあえず、お風呂に入りたいな……。

 と、鼻をさすりながらヴァイオレットは思った。

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