青春は遅れてやって来る

@wazennukio

第1話 αルート

                  1


 ある夏の昼下がり、どこにでも有りそうで実際どこにでもある、あるアパートの一室で、一人の童貞が目覚めた。

 玄奘寺孝太郎という名前のその童貞は、大学六年生というおよそどうしようもない生き物の一種であり、その他にもだらし無い、お金がない、頭があまり良くないなど様々な特徴を備えていた。

 そんな多種多様なフィーチャーを備えながら、彼が大学六年生という例えるなら三軍ベンチ球拾いとでもいうような、不毛なポジションに長年甘んじてきたのは、その特徴の中に世のため人のため、ひいては自分のためになるものが何一つなかったからである。

「……」

 起きたばかりでまだ覚醒しないのか、死にかけのウーパールーパーのような顔を垂れ流している彼に、同じ一室にいた一人の男が声をかけた。

「おう、起きたんか、もう昼やぞ」

 その、孝太郎と同じコタツにもぐり、雑誌を読んでいたのは大竜二という、妙な方言を操る大学六年生である。ガタイはでかく、器は小さい。夢も希望も女性経験もないが、自信だけは異次元からこんこんと湧いてくる。彼もまた一人の男である前に、一人の童貞であった。

「知っている。なぜならここ数年間俺が昼より前に起きたことなど数えるくらいしかない。確か半年前にザリガニ釣りに行った時きりじゃないか」

「二十歳半ばの男がザリガニ釣りってどうなんや。そんなうすら寒い光景俺がお前の親だったら見た途端滂沱の涙を流して脱水症状おこすぞ」

「やかましい、バイトだったんだよ」

 そんな二人のやり取りを、鬱陶しそうにまた一人の男が遮った。

「なんですかその情けないバイトは。と言うよりそんなくだらない会話をしている暇があったら大学へいったらどうです。あなた方と一緒にいると童貞が伝染る」

「伝染るもなにもお前も童貞だろうがこのチビ。お前はどこか自分は俺らと違うと思っとるらしいが、全く同じだぞ。早く楽になれ。自分を一番愛せるのは自分だけだぞ」

 伝染るもなにもこの男も童貞である。名は萬田久一という。大学生活を薄く長く引き伸ばすことにかけてはキラリと光る才能を持ち、一日を非生産的に過ごすことにかけては他の追随を許さない。彼もまたこの部屋の二人と同じく、大学六年生という名の社会の底辺系男子の一人であった。

「僕はあなた方のようなヒラ童貞とは違うんです。エリート童貞と名高いのがこの僕です。いずれ世界最後の日が訪れます。有象無象のチャラ生物共とのラグナロクが勃発した際には、僕の部下として働くんですよ。もっと敬意を払いなさい」

「清き体と汚き心を持つ男たちよ鎮まり給え。諸君らは今とても無駄な時間を過ごしている」

 これ以上非生産者(いろいろな意味で)たちの会話にスポットを当てていてもしょうがない。一言で言うなら特筆すべきところが何もない、そこだけ分かればいいし、それ以外に分かることは何も無い。

             

                  2


「そういえばお前ゼミは?そろそろじゃあないんか」

 竜二に言葉を振られ、孝太郎が答える。

「他人のような顔してのたまっとるがお前らもだろうが。お前らはゼミに行くのか?」

「何を馬鹿なことを言っとるん?ゼミの単位を終了すれば卒業にまた一歩近づいてしまうやろが。ということでパス一」

「右に同じです。光陰矢の如し、夏の日は釣瓶落とし。僕にはまだまだ学ばければいけないことが山ほどあります。ということでパス二」

 全くどうしようもない回答である。ちなみに毎週こうである。このアパートに潜む童貞人間三人組は、同じゼミに所属していた。

「それを言うなら秋の日だろ。言ってるそばから隠し切れない学の無さが飛び出てるぞ…。まあいい、行ってくる」

「ああ孝太郎、今日咲が来るっていっとったぞ」

「俺は学問に勤しみすぎて忙しいからと待たせておけ」

 アパートの軋むドアに手をかけ、孝太郎はスニーカーをつっかけた。


                 三

 

 竜二と久一の二人は残る唯一の卒業に必要な必修単位であるゼミの終了を可能な限り引き伸ばすことで、大学からの卒業を延期しようとする作戦をとっていたが、孝太郎は其のような姑息な作戦を実行する必要がなかった。なぜなら彼はその他にも様々な必修科目を、六年生にもなって抱えていたからである。

 大学に向かって歩く孝太郎のポケットの中で携帯がむずがった。滅多に鳴ることのない彼の携帯が着信を知らせれば、竜二は明日は嵐だと騒ぎ、久一は心霊現象に違いないとおののくが、今は孝太郎一人なので、彼は心静かに携帯を開くことが出来た。

 『件名:アットホームで笑顔の絶えない職場です!

  本文:初めての人にも、何年も務めているのに物覚えの悪いニート予備軍にも優しい先輩がきちんと仕事を教えます! 仕事終わりには楽しい飲み会も! 本日十四時時半から入れる方募集中です!ってか絶対来い。確実に来い。来ないとお前の制服に新鮮な女子小学生のリコーダー高く買いますって油性マジックで書く。来てくれたら冴子惚れちゃうかも知れないゾ! 待ってまーす!』

 彼のアルバイト先である居酒屋の店長、冴子からのメールだった。

「ゾ!とか年齢考えろ……、今日はゼミだから無理っ…と」

 孝太郎は携帯を操作し終え、尻のポケットにしまうと一路ゼミへと向かった。


                 四


 孝太郎は自分のゼミが何を研究しているのかをよく知らない。ニ年前戯れに就職活動をしてみた際は、自分が所属するゼミの研究内容を聞かれた会社は重点的に落ちた。と言うより受けたところは全て落ちた。其の際に彼は世間と隔絶し、気心は知れているのかしらないが意見は合う奴らと生きていくことを決めたのであるが、それはまた別のお話。

                 *

「あ!せんぱーい!遅いですよ!今日はもう来ないのかと思った!」

大学に到着し、ゼミが毎週開催される教室のドアを開けた。すると、小柄な女性の元気のいい声が、孝太郎を迎え撃った。

「お前は元気だなあ。お前がいるのなら我々の班が抱える研究課題も安泰であろう。老兵はただ去るのみ」

「ちょっと!帰らないでくださいよ!本当に私たちの班の研究やばいんですからね!せんぱいたちはあと一年や二年留年したって変わらないだろうけど、私はちゃんと四年で大学を卒業したいんです!」

 二年も長く在籍している上に、あまり顔を出さない孝太郎ら三人は、ゼミの中でツチノコ扱いされていた。

 そんな彼らと研究班を組むことになった、この不幸な少女は、名を早苗という大学三年生。百五十センチメートル前後の小柄な体躯に白いモモンガスリーブのワンピースがよく似合い、明るい茶色に染め、少し短めに切ったボブカットが元気よく動きに合わせて揺れていた。

「しかし毎回不思議に思うが、なんでお前は俺らなんかと班を組んだんだ?仲良しグループなら他にもいただろ。自慢じゃないが俺らと組んで起こりうるメリットを考えつくのは、世界から戦争を無くす方法を考えるより難しいと思うぞ」

「……別になんでだっていいじゃないですか。ほら!早くデータまとめちゃいましょう!」

「お前はこの質問いつもはぐらかすよな。まあいい。よし、たまのゼミだ。先輩にどんと任せておけ。で、俺達は今なんの研究をしているんだ?」

「そこから!?」

こうして今日もゼミは終わる。


                 五


「ふうーっ。終わった終わった。やはり学問に打ち込んだあとは清々しいな」

「ふううううう終わらない終わらないいいいい。これ本当いつ終わるんだろう…。」

「そうカリカリするな後輩よハゲるぞ。イライラする時は糖分だな。帰りどっか茶あしばいてくか?」

 その瞬間、呪われた市松人形も真っ青な勢いで、早苗は孝太郎に振り向いた。

「行きます!……って違う!いや違わないけどなんで急に!先輩たちゼミの後毎回このままじゃ研究終わらないからどっかでやってきましょうって言っても逃げちゃうじゃないですか!特に先輩は!」

「たまには苦労をかけている後輩に茶の一杯でもおごってやろうと俺が思ってもおかしくないだろう、ほら行くぞ」

 同じバイト先の竜二にも、ゼミが始まる前に来た冴子からのメールは届いているはず。なればこのままあの溜まり場アパートに帰れば、バイトのヘルプの押し付け合いで竜二と孝太郎、面倒臭いことを回避するためには面倒を惜しまない二人の不毛な争いが始まるのは必定であった。なんなら電波の届きにくい地下の喫茶店に入れば連絡も絶え一石二鳥である。コーヒーの一杯くらい安いものだというしょうもない打算がそこにはあった。

「いつもそれくらい……」

「ん?なにか言ったか?」

「い、いえいえ!先輩ゴチになりやーす!」


                 六


孝太郎と早苗は連れ立って、孝太郎たちの住む街にある比較的大きな商店街、双曲輪商店街にある喫茶チェリオに入った。

 孝太郎の目論見通り半地下に位置するこの喫茶は上品に薄暗く落ち着き、またそのきめ細かいソファの布地は孝太郎の尻の帰るに相応しい場所のひとつだった。許されるものならこのソファに生尻でおもむろに座り、思うままもぞもぞしたいと常日頃から彼は考えていた。

「どうしたんですか?変な顔して」

「物質間の相互作用について考えていたところだ。今回のテーマは尻と世界だ」

「せんぱいのお尻はどうでもいいです。てかそんなに座り心地がいいなら可愛い後輩にソファ席譲ってくださいよ。それに折角可愛い女の子がと同伴してるんだから、ソファを譲らないなら椅子を引いてくれるとか。そんなのじゃ女の子にもてませんよ。玄奘寺家は先輩の代で終わりですよ」

「お家の危機とならば頑張って分裂して増えるから大丈夫だ」

 暫くすると、汗をかいた薄張りのグラスに並々入ったアイスコーヒーが二つ、席に運ばれてきた。店内を流れる落ち着いたピアノの音楽乗せて、暫し歓談。

「しかしこんな午後の喫茶店に、彼女の一人や二人と来れたら楽しいだろうなあ」

「ボブスッ」

 孝太郎の何気無い一言に、早苗が咳き込む。

「どうしたんだ急に珍妙に吹き出して。突然の屁でも誤魔化したのか」

「私おならなんてしません!だっ、だって先輩が急に彼女欲しいなんて。今まで彼女なんて作るのは勉学の邪魔とか、彼女を作ると風水が乱れるとかよく先輩達三人で言ってたじゃないですか」

「ああ、別に隠すこともないから言うけど、あれはただの強がりだ。彼女欲しいよ俺は。二十代半ばにもなって彼女欲しくないとか変態か特殊な訓練を積んでいる最中かのどっちかだろ。他の二人はどうか知らんが」

 そう孝太郎がのたまうのを、早苗は待ち合わせをドタキャンした自分の彼女が、偶然べつのオスと歩いているのを目撃してしまったカバのような、ぽかんと口を開けた表情で固まって聞いていた。時折「それじゃ私は……」とか「じゃあずっと……」とか呟いていたが、そのうち妙にしゃちほこばった顔をかすかに赤らめながら、孝太郎にこう尋ねた。

「せ……、せんぱいは、来週もゼミ来るんですけど?」

「それは来るかどうか尋ねているんだよな? まあ行くつもりではあったよ。ゼミ研究も何故か逼迫した状況のようだし。恐らく我々の優秀な研究を妬んだ他の班の連中の妨害だろうが」

「多分私達が研究をやってることすら他のみんなは知ってるかどうか怪しいですよ。ともかく! 来週もちゃんと来てくださいよ! これ約束です!」  

「お、おう」

急に力の入った早苗に気圧されながらも、孝太郎は答えた。


                 七


 早苗と別れた頃、日は傾きかけていた。アパートに帰りついた孝太郎はベッドに横たわり嘘臭い咳き込みを繰り返す大竜二と、スーツ姿でスピーチをする萬田久一に迎えられた。

「我々はある一人の大学生の身代わりとして過酷な労働を強いられ、遂には倒れた大竜二氏の権利を主張し、戦うものである!我々人間には社会的文化的に生きる権利が保証されており」

「分かった分かった皆まで言うな。バイトのヘルプごくろうさん。神ラーメンでいいか?昨日も食ったけどさ」

 そう孝太郎が諦め半分でぼやいた瞬間、「ドッキリ大成功」と書かれたティーシャツを着た竜二がベッドから飛び上がり、久一は「勝訴」と書かれた半紙を持って部屋の中を駆けまわった。

「「キャッホーイ! ラーメーン!」」

「久一は自分で払えよ」

かくして、一行はラーメンを食いに出掛けた。

                 *

 神ラーメンは孝太郎達が潜むアパートから徒歩五分。寂れた神社の前に、夕方から夜にかけて姿を表すラーメンの屋台である。味はともかく、あまり人が寄り付かないのと、席が丁度三席と言う理由で、彼らは夜中に足繁く通った。夜中に貪るあまり美味くないラーメンほど美味いものはない。

 ごちゃごちゃと椅子に座り込む三人に、屋台の店主が気づく。

「お、お前らか。飽きずによく来るなあ。注文は?」

「私、ニンニクラーメン大盛り、チャーシュー抜きで」

「大豚ダブルニンチョモアブラカラメマシマシ」

「カルボナーラ」

「醤油三つね。ちょっと待ってろ」

 店主に思い思いの注文を済ませ、三人はとりとめのない話に興じた。ラーメンの湯気があたりを包み、醤油の匂いがその薄靄の中を漂った。

「しかし、僕らももう大学六年生ですねえ」

「なんの、俺はまだまだいくで。留年と言う言葉の可能性を追及する」

「とはいえ、なーんもない六年間だったよなあ」

「おい、この時間帯にそういう方向性に話を持っていくのは止めろ。俺は自分のメンタルのディフェンスに定評がない事においては定評がある」

「どこをどーして、こーなっちまったんでしょうねえ」

「「「……」」」

 三人を包む重苦しい沈黙に、店主が口を挟んだ。

「そんなに悩むなら、いっそ神頼みなんてどうだ?ちょっとはスッキリするかもしれんぞ」

「神頼み? マスター、いくら屋台が繁盛しないからって、僕はくそ高い壺も数珠も買いませんよ。この天地激運ブレスレットのローンだってまだ残ってるんだから」

「おい久一よ、ここに極秘ルートから手にいれた次のサマージャンボの当選番号リストが有るんだが、お前になら特別に友情価格で譲ってやってもいい」

 二人でキャッキャとふざけ始めた久一と竜二を置いて、神ラーメン店主は続ける。

「裏の神社、今は寂れちまってるが、昔は結構霊験あらたかでイイカンジだったらしいぞ。お前ら丁度三人だし、詣ってみたらどうだ?」

「丁度三人ってどういう……」

 孝太郎が問いかけるも、店主は言うだけ言ってラーメンの調理に取りかかり始めてしまった。

「まあ庭師の頭も新人からと言いまして、これはどんな仕事を始めてもも最初は新人から……、あれ、僕何を言いたかったんだっけ」

「……、お前はあまりしゃべらない方が幸せなのかもしれへんな」

                 *

 ラーメンの出来上がりを待つことも兼ねて、三人は戯れに神社を詣でる事にした。いざ鳥居をくぐれば、草木は伸び放題、社の木材は腐り放題であり、故に他の参拝者もいないので祈りたい放題であった。

「こういうときは三人で願い事を合わせた方が願いの力が強くなる気がしますね」

「同じ懸賞に何枚も葉書書くのと同じ理屈やな」

「あ、じゃあ時間を戻すにしてくれ。俺この前借りたビデオ返すの忘れてんだよ。締切すぎちまってる」

「あ! それ僕の会員証で借りたやつでしょう! 返すの忘れるなって三百回位言ってたのに!」

「じゃあそれで決まりやな。賽銭の小銭はお前ら持っとる?」

 あくまで余興なので、軽口を叩き合いながら、三人は神前に立つ。

「お前ら幾らいれるの? 俺一円でいいと思うんだけど」

「それでいいやろ。一円に笑うものは一円に泣くというしな」

「じゃあ僕も一円で。こんな寂れた神社にいきなり百円とか入れると、神様も贅沢を覚えてしまいますからね」

 失礼極まりない口を叩きながら、合計三円のお賽銭を投げ入れ、彼らは手を合わせた。

「時間が戻りますように!」

「……」

「……」

「……よし、無駄な時間を使った! 飯や飯!」

「余暇を使って神仏の歴史に触れる……。なかなかモテそうな時間の潰し方ですよね。僕がそういう男だってさり気なく大学に噂流そうかな」

「そういうことを言っとる時点でもうモテなさが止めどなく溢れてるぞ。お前のモテなさで窒息しそうだ」

 そのまま三人はとぼとぼと屋台に戻り、ずるずるとラーメンを食し、ダラダラと彼らの巣穴に帰っていった。

       

                 八

 

「……はあ、すっかり遅くなっちゃったなあ」

 三童貞が帰り、三流ラーメンの屋台も引き上げてしばらくした廃神社前に、一人の女性が通りがかった。

「ら、来週は、来週こそは、がんばるぞ。せ、せんぱいにあの、その」

 一人で何か呟きながら歩く彼女が、廃神社の存在を目に止めた。

「ん……、そっか、ここって……。よし、鰯の頭も信心からって言うしね」

 参道を進み、今にも鳴らせばバラエティ番組のタライのように頭上に落ちてきそうな虫食いの鈴の縄を、慎重に摘んで鳴らす。

「あれ、小銭三円しかないや……。まいっか」

 彼女は賽銭を投げ入れ、手を合わせた。

「……、……ように……っと! よし、帰りましょ」


                九


「お! せんぱい来ましたね! 感心感心」

「俺がゼミに二週連続行くと言ったら竜二と久一の奴ら、口裂け女が人面犬を散歩させてるところを見たみたいな顔してたぞ」

 時間は一週間進み、再び孝太郎の所属するゼミの時間がやって来た。いつも通り元気な、それでいてどこか固い仕草の早苗が孝太郎を迎える。

「で、今日のゼミ終わりのミーティングはどこでやりますか?」

「え、今日もゼミ終わりのミーティングやらなくちゃいけないのか?」

「もう本当にケツカッチンなんです!納期デッドで終末のトランペットが聞こえてきてるんです!つまりやばいんです!」

ミーティングの開催を繰り返し訴える早苗を、孝太郎は餌をくわえて飛んできた親鳥を迎える燕の雛を思い浮かべながら見ていた。

                *

ゼミも終わり、二人は連れ立って喫茶チェリオにやって来た。そして向かい合わせに席に落ち着きアイスコーヒーを注文した。

「んじゃあ、まず確認!せんぱい、今調べてもらっている分の進捗はどんな感じですか?」

「……なあ、本当にゼミの話すんのか?この前は普通にくっちゃべって終わりだったじゃないか」

「……まずは共通の話題から入ったほうが不自然じゃないかなって……」

「何?なんか言ったか?」

「いえいえ!何でもないです!んで、せんぱい、進捗は?」

「……その件に関しましては、未だ推測の段階を出ておらず、究明に今しばらくのお時間を頂ければ……」

「……やってないんですね?ていうか、せんぱい、前のゼミで説明した私達の調べてる事……まさかもう忘れてないですよね?」

「……まず、その問題を突き詰めるには、忘れるという言葉の定義を二人の間で明確にしなければいけないな。そもそも人の脳の働きは」

「はぁ……、もういいです。研究全体のテーマの話は今は省きますよ。今は、私たちの町にある二つの神社、この関係性を調べてる所です、よね?」

「お、おう」

「毎年何個かの催しが開かれる町の顔としての神社と、打ち捨てられた廃神社。この二つが私達の町にある神社です。この二つの神社は、規模こそ全く違えど祀っている神様、祭神は一緒なんです、よ?」

「ほう、そう来たか」

「……なので、どちらも同じ名前を持っている筈です。しかし、分社させる元となった側、恐らくそれは廃神社の方だと言われているのですが、昔は別の名前で呼ばれていたらしいのです。けど、それに関する文献も資料も今の所見つけられていません。何故あんなに荒れてしまったのかも不明です。この二つの神社の問題を、この街の地域性や住民性を見る視点の一つにしようっていう話を……」

「……なるほど。そういうカラクリだったのか」

「まだ何もわかってないですけど。ていうか、何で初めて聞いたみたいなリアクションなんですか?これ話すの何回目か知ってます?」

「俺の様なフレッシュな視点から物事を把握できる人材が一人は居たほうがいいと思ってな。良い意味で頭を空っぽにして、ゼミに臨んでいた結果だな」

「……大学六年生がどの口でフレッシュとか言ってるんですか」

「……」

                *

 最初こそゼミの話で席はかしましかったものの、何処かよそよそしく言葉少なくなっていく早苗につられ、次第に会話は尻すぼみになっていった。しきりに早苗は孝太郎を伺うが、すぐに目を逸らしてしまう。

「……」

「……」

「どうしたんだ後輩。いつものグラムいくらで切り売り出来そうな程余っている元気はどうした」

「あ、あのそのですね、そのあの、せんぱいにですね、もの申すというか、その」

「どうした、歯切れが悪いぞ、トイレットか?」

「違くて、そのつまり、いわゆる一つの、男女間の問題と言うか」

「いまさら雪隠のなにを恥ずかしがることがあるんだ、はよいってこい」

「だから違くて、その、そのるとき、そのれば」

「……もう出ちゃったのか?俺が今履いているのでよければ代えのを貸すが」

「だから! 今から先輩に好きですって言うところなんだから少し静かにしていてください!」

「……」

「……」

 沈黙が二人の席を覆った。孝太郎が見やると、早苗は、誰からも秘密にしていた自作のポエム帳を、母親に発見された高校生の天狗のように顔を真赤にしていた。

「え、ええそうですよ!今私は先輩のことが好きだって言ったんですよ!ど、どうする気ですか、私を?」

「俺が脅迫しているみたいだから止めてくれ……」

 良く見れば、早苗の手は震えている。相当に緊張しているのだろう。そう見取った孝太郎は、慎重に言葉を選んで、口を開いた。

「……吾輩は童貞である」

「……へ?」

「吾輩は童貞である。経験はまだ無い。どうしてこうなったのかとんと見当がつかぬ。何でもイカ臭いじめじめとしたアパートでニャーニャーと泣いていた事だけ記憶している」

「あの……」

  慎重に考えた結果の返答がこれである。どこをどうしたらこのような返答を思いつくのかさっぱりわからないが、ともかく呆ける早苗を尻目に孝太郎は続けた。

「お前が抜いた白刃の真剣に、こちらもそれ相応の態度をもって応じねばなるまい。故にマスクマンの素顔より、ギャルのすっぴんより重い秘密を公開した次第だ。つまりだなその」

「あの……知ってましたよ、それ」

「……へ?」

 今度は孝太郎が呆ける番だった。見た瞬間詐欺師達が一時間待ちの列を作りそうな何時ものアホ面をさらに間抜けにした孝太郎を尻目に、早苗が会話を引き継いだ。

「もう一年近くゼミでいっしょなんですよ。色んな仕草を見てれば大々分かりますし、特に昔付き合った女の子の話なんかゼミの男の子達としてるのを聞いてると、ああ頑張って話し合わせてるなあと思ってましたよ」

「ほあぉぉあ……」

  今度は孝太郎が顔を赤らめる番だった。最も二十代後半の童貞の赤面シーンなど、下手な深海生物より気味が悪いので、詳しくは記さない。

「私は、そんなこんなもひっくるめて、せんぱいの事が、そ、その好き、だっていってるんですよ。後そろそろお返事頂けないと私の心臓が持たんときがきているのですが」

 孝太郎の中で、今までの歳月で培った、童貞と知るや否やキャハハーキモーイと嘲笑する女性像が、ガラガラと音をたてて崩れ落ちた。こんな戦国大名のように広い器を持っている女性は居ないのではないか。そして目の前の女の子が女神に見えてきた。だがしかし、

「……まずはお友達から、と言うことでは駄目だろうか。先程もいった通り、俺は女性経験が少ない。プールに入るときは心臓より遠い場所から浸かるのと同じように、逢い引きなどを重ねて、お互いが、これならイケる、となった暁には、つまりだな」

「……」

 押し黙ってしまった早苗に孝太郎が若干怯む。

「……やはりこんなお茶を濁すような返答じゃ駄目か。しかし別にお前の事が嫌とかそういうわけでは無いんだ。つまりだな、なんと言うか」

「……良かったー!」

「……へ?」

「本当はね、断られるかと思ったんです。でもね、でもね、勇気を出して良かったです!大丈夫です!それで今はオーケーです。絶対に、せんぱいにその、す、す、好きになってもらいますから」

 目の前の女の子は真っ赤な顔に大きな目を潤ませてはしゃいでいる。こんなに自分の一言で喜んでくれる存在など今までいただろうか。本当に自分の事を好いてくれているのだろう。夢にまで見たシチュエーションじゃないか。歓喜に壊れたファービーのように打ち震えるべきだろう。だがしかしその一方で

「じゃあ、じゃあじゃあ!今度のお休み、早速ですけど、そ、そのデデデート、なんて、その」

「……受けて立とう」

 全く喜んでなどおらず、むしろ心が重くなっていく自分を、孝太郎は冷静に感じていた。


                  十


  早苗とのデートの約束を取り付けて、孝太郎は帰路についた。約束の日の事を思うと、どこかで知らないうちに小型の子泣き爺でも飲み込んだのか、胃の辺りがずんずんと重くなっていく。

 何故自分はこんな気持ちになっているのだろうと自問するが、答えは出ず、気が付けば何時ものアパートの前に立っていた。ひとまず、奴らには彼女のようなもの?が出来た事は悟られてはならない。もし知られれば、嫉妬に狂った二人の童貞に、ガマガエルと渾名をつけられ、火がついた爆竹を尻の穴に突っ込まれても何らおかしくはない。奴らはそれくらいのことは鼻歌をうたいながらやる。悲壮な覚悟を胸に、孝太郎はアパートの立て付けが悪い扉に手をかけた。

                  *

「なに?フランス?咲が?」

  何時もの溜まり部屋に帰り、何時もの定位置に腰を落ち着けた孝太郎を迎えたのは、突然の知らせだった。

「ええ、なんでもこの前アパートに来たときに本当は相談しようと思っていたらしいのですが、孝太郎も竜二もいなかったので、保留にしていたんですって」

  久一の言葉を、竜二が引き継ぐ。

「そうこうしているうちに、会社に返事せんならん締切が来ちまって、そのまま行っちまったんやと。お前にもメールきとらん?」

 「電波の繋がり難い場所に居たからな……」

孝太郎が携帯電話を開きメールを問い合わせると、どちらも丁度美紅と喫茶チェリオにいた時に着信する予定だったメールが二回、携帯を震わせた。一通は先週に喫茶店にいたときに届く予定だったもので、相談したい事がある旨を伝えるもの、もう一通はついさっき届く予定だったもので、会社の意向でフランスの支社に行くこと、黙って行くことを詫びる旨が記されていた。

「あのハイスペック幼なじみが。幼なじみはどじっ娘タイプが好まれるとあれほど教えておいたのに……」

「しかし海外支社に転勤?まだ入社して二年やろ?どんだけ期待されとるんやろうね」

 呟き合う孝太郎と竜二に、久一が続く。

「しかし、咲さんて本当にあんた達の幼なじみなんですか?あんた達のような顔も心も薄汚い連中と小さい頃から一緒にいて、あんな才色兼備な女性が育つものでしょうか。産地偽装の疑いがある」

 毒を吐く久一に、帰る途中に形がかっこいいと言う理由で拾っていた木の枝を投げつけながら、孝太郎は咲のことを考えた。竜二に久一を押さえつけさせ穴と言う穴に木の枝を挿入し、現代美術に没頭し、その夜は更けていった


                 十一


 デート当日がやってきた。しかし孝太郎はやってきてはいなかった。

 この哀れな童貞は、生まれて初めてのデートを迎えるにあたって、服は何を着ていけばいいのか、どこに美紅を連れて行けばいいのか、二人で歩くときは車道側を歩くべきなのか、はじめてのデートで手はつなぐべきなのか、頭がゆであがってきた所で、気晴らしにつけたテレビでやっていた世界一強いカブトムシと世界一強いクワガタムシではどっちが強いのかも大いに気になったし、番組が終わってテレビを消して夜中の部屋に一人になれば、人は死んだらどこに行くのかが気になりだし、気がついたら太陽は空の一番高いところに昇っていた。要するに寝坊である。 

 初デートに遅刻するあたりがベテランの童貞クオリティであり、彼が三十分たっても待ち合わせ場所に現れない理由であった。

                 *

 普段の運動不足が祟り、峠をひとつ超えてきたかのような息の切らせ方をしながら待ち合わせ場所にやってきた孝太郎には、不安そうに肩を落とし、うつむきながら携帯をいじっている後輩がどことなく小さく見えた。その孝太郎を認めた瞬間、早苗の表情が一瞬にしてぱあっと明るくなった。しかし次の瞬間首を激しく振り、頬をふくらませながら孝太郎に迫った。

「もう!もうずっと来ないかと思った!そして待ちぼうけをくらってそわそわしたりうにゅうにゅしてる私を、物陰から先輩達三人がビデオカメラで撮影してて、これをゼミの発表にしちゃえとかされるのかと思った!」

「す、すまん。しかし俺達はそんな血も涙も無いやつに見えるのか……?」

早苗に謝りながら、呼吸を整えながら孝太郎は、彼女が何処と無くいつもと違うように感じた。それは何時もより短めのワンピースから見える二の腕や太ももだったり、何時もは身に付けていない可愛らしいハットだったりしたのだが、女性の服を誉めた経験など、小学生の頃母親にデパートで物をねだった時にしかない孝太郎にはそのようなボキャブラリーは皆無だった。

「……ど、どうかしたんですか?そ、そんなじろじろ見て」

「べ、別にじろじろ見てなんかない。それより、まずは昼飯を食いにいこう」

                *

 そんなこんなで始まったデートの出来は、一言で言えば生ゴミだった。遅刻の詫びに連れていったラーメン屋は、ラーメンだけでなく椅子も机も客も油で出来ているのではと錯覚するような背油チャッチャ系の孝太郎好みの店であったし、そのあと見に行った映画も血飛沫ビャッビャ系のホラー映画だった。デート童貞の見本とも言える、孝太郎自分本意のデートコースであったが、お相手の方はというと、

「あ、せんぱい見て見て!花火大会のチラシですよ!」

「毎年飽きずによくやるなあ。俺は打ち上げと名のつくものは基本的に好かん」

「せんぱい行事の打ち上げとか呼んでもらえなさそうですもんねー!そんなことより私、花火がよく見える穴場知ってるんですよ!特別に教えてあげますから、ふ、二人でみ、見ましょうね!約束ですよ!」

「それはいいが、お前は笑顔で胸をえぐる事を言うなあ……」

 こんな感じで終始笑顔だった。早苗が「花火大会絶対の約束ですからね!」といって別れるまでその笑顔は続いた。

             

                 十二


 初デートの後も、孝太郎と早苗の逢瀬は続いた。孝太郎の行きたいところに行ったり、早苗の行きたいところに付き合ったり内容は様々だったが、早苗がずっとはしゃいでいた事は共通していた。そんな早苗を見るたび、孝太郎はメロンを知らない子供にメロンと称して胡瓜に蜂蜜をかけて食わせるような、そんないたたまれない気持ちになっていた。孝太郎の心は以前早苗に揺らぐことはなかった。

                *

「なあ、後輩」

「ん?何ですか?せんぱい」

 そんな日々のある日、孝太郎は早苗に尋ねてみることにした。

「なあ、お前さ、その、俺の何処を、あの、好いてくれたんだ?俺は正直検討がつかないんだが」

「んもー、知りたいんですか?そんな事。恥ずかしいから、あまり言いたく無いんですけど……。ようがす、せんぱいだけにこっそり教えちゃいましょう」

 そう言って早苗は、孝太郎の顔を恥ずかしそうにはにかみながら見上げた。

「最初にあのゼミに行った時、私、誰も知ってる人が居なくて、しかもちょっと遅れて行っちゃって、ゼミはもう始まっちゃってるし、どうしようって教室の前でおどおどしちゃってたんです。そしたら、後ろからせんぱいが凄く余裕のある足取りでこっちに来て、あんた、このゼミの新入生?って言ったんです。覚えてます?」

「んなことあったか……?」

「……やっぱり覚えてないんだ。まあいいです。それで私、はい、でももう始まっちゃってますよね、なんて言ったら、せんぱい、こんなもん堂々としてればいいんだ、あっちが悪くないのに何故か悪いって思えばこっちの勝ちだって言って教室入っていっちゃって、教授がせんぱいに何か言ってる間に、フフッ、大先輩と萬田先輩も来て、私の事開いてる席に連れてってくれて」

「お前、竜二のこと大先輩っていうギャグ好きだよな。まあ実際にそうなんだが。と言うか俺それ何もしてないじゃないか」

「でも、何故か、それからせんぱいの事を目で追うようになっちゃって。第一印象なんか、ぜんぜんお洒落じゃないし、寝癖ついてて変だったし。……でも、すごく自分の思い通りに生きてる人なのかも、って思っちゃったから、それから……」

「……そんなもんなのか?」

「……そんなもんですよ」

 早苗は、照れ臭そうに鼻の頭を軽く掻いたあと、孝太郎に向かって微笑んだ。 

            

              十三


「……あいつらに相談しよう。いくらアホとカスでも、かろうじて人間の言葉がわかるんだ。話すだけでも楽になる場合もあるだろう」

 孝太郎は、何回かの早苗とのデートを重ねても、全くなびかない、攻略難易度の高すぎる自分の心に辟易していた。そんな自分と遊んで、いつも楽しそうな早苗を見ているのも辛いし、そもそも告白に本格的な返事もしないまま、ズルズルと今の関係を引き伸ばしそうな自分にも嫌気が差していた。

 悪魔の心と人間の力を持つ竜二と久一の二人にこんな話をすればどんな目に遭うかわからないと今までひた隠しにしてきたが、もう背に腹は代えられなかった。蝉が鳴き、太陽がアスファルトを焼く夏の道を、孝太郎は一路いつものアパートへ向かった。

               *

「何?恋人?……孝太郎。何回も言いますが、日本ではゲームのキャラクターとの婚姻は法律で認められていないんですよ。あんたが去年の夏に恋愛ゲームをセットした携帯ゲーム機を自転車の荷台にくくりつけて、恋人と二人乗りデートをしてくると街を疾走した時に、もう脳がやられていると思いましたが、やっぱり回復してなかったようですね」

「お前が折り畳めるゲーム機で箸を挟んで飯を食いながら、彼女に食べさせてもらってるとのたまった暗黒の過去はもう忘れてやる。だからもう悲しい嘘で自分を傷つけるのはやめろや。俺らも泣けてくるんや」

 以上が「彼女ができそうなのだがその件について相談がある」と孝太郎から相談を持ちかけられた時の、二人の反応である。自分たちも同じゲーム機を購入し、それを枕に寝て膝枕と言い張ったり、ゲームの登場人物との恋の炎が燃え上がりすぎゲーム機を実家の親に紹介し、実生活が炎上しかけた過去のある事は完全に棚に上げた言い分である。

その後も宇宙人に洗脳されただの脳にラーメンの油が回っただのと言い全く孝太郎の言い分を信用しなかった二人だったが、孝太郎が事情を一通り説明し、早苗の名が出たとたん、騒ぐのをピタリとやめた。

「あーついに早苗ちゃんアタックしたんや……でも良かったやん。あんなかわいい子と付き合えて。相談て何の不満があるのん」

「……」

「いやしかし俺自身そのような気持ちが沸いて来ないのに、こんな関係、俺は結婚詐欺師じゃないんだから……というかお前達のその落ち着きようはなんなんだ?もっとやかましいリアクションがあるかと思っていたのに」

訳知り顔でのたまう竜二と急に押し黙った久一に孝太郎は戸惑う。

「だって早苗ちゃん玄奘寺君に超太字で下線付きくらいのホの字でバレバレでしたし。気づいてなかったの君くらいのもんやないの?後俺らの班がゼミの中でちょっと離れ小島だったのもこれ原因のひとつね。まあ君みたいなちょっと周りから浮いてる先輩好きになっちゃったとか言ったらリアクションに困るよねみんな」

「……」

「う、あの後輩なんでそうまでして俺の事を……おい久一、お前も黙っとらんでなんか言ってくれよ」

押し黙ったままの久一に孝太郎が言葉を促す。

「……こ、コウタロウガジョセイニコクハクサレタという言葉が何語か分からず、戸惑っていました。それより僕はもう今日はお暇します。ちょっと脳に負担をかけすぎました」

そのまま荷物を手早くまとめ、どこか固い表情のまま久一はアパートから足早に出ていってしまった。声をかける暇もなく見送る孝太郎。

「一体どうしたのだあいつは……あいつのこの広い地球上に数少ない友人の一人が悩みを相談しとるというのに」

「……まあ分からんのならほっといてやれや。それより、君の事情と心情はある程度分かったけど、そんでそれを俺らに打ち明けてどうしたいの?」

「いや、何かこの状況を脱するいい方法が在ればと……」

「……あのなあ、テレビゲームに詰まったのと同じテンションでそんな方法聞きにこられても困るよ。それに俺たちやぞ?大丈夫、童貞の攻略本だよ!てか?愚痴だけなら聞いてやれるが、解決法なんぞないぞ」

「……う」

「それにさ、ある程度付き合っちまったら、もう今更断るのも難しいんじゃないん?色恋にクーリングオフは効かんと思うぞ」

「……いや、しかしだな、ううん……」

孝太郎の百円ライター一本で煮込まれているちゃんこのように煮え切らない態度に、竜二のこめかみに浮く血管が、中で小魚でも泳いだかのように脈打った。そして竜二は落ち着くためか大きく息を吸い、

「……幼なじみからひとつお前にアドバイスや」

吐き出すように竜二は続けた。

「お前はもっと自分の心をちゃんと使え。心を使うって言うのは、辛いときにはちゃんと辛くなって、嬉しいときにはちゃんと嬉しくなるってことや。人の事言えた義理やないけど、辛いときや苦しいときにそいつをごまかすと、自分がどういうときに嬉しくなったり悲しくなったりする奴か分からんくなって、自分が今何したいのか、どんな奴なのかもあやふやになってっちまうぞ」

そこで竜二は一旦言葉を切って、孝太郎を見つめ直した。

「俺は別に辛かったりきつかったりしたらそこから逃げるのは全然有りやと思う。やけど、なんで今自分はこうなってるのか、そこはちゃんと考えてから逃げんといけんと思う。自分が悪いのやったらちゃんと自分の否を認めるべきやし、誰かのせいならなんでそいつは自分に辛くするのか、とかな」

「リュージン……」

「いきなりガキの頃の渾名で呼ぶなや……なに、ジョージ」

「それって具体的にどうしたらいいの?」

「……やからそれ分かったら俺もお前も童貞やってないって」

              

                十四


「久一の奴最近顔を見せないな。現実が辛くなって変なクスリにでも手を出したか?」

  あの日アパートを出ていってからというもの、久一は大学は元々だがこのアパートにも顔を見せなくなっていた。帰ってきても一人か、竜二と二人きりの日が続き、孝太郎はいまいち調子が出なかった。それと連鎖するように、早苗とのデートも今一盛り上がらなくなっていっていた。

 この日もこれから早苗との待ち合わせを控えているものの、乗り気になりきれない孝太郎は、アパートの定位置で、鬱病になったナマケモノのようにだらけていた。窓の向こう側で、誰もやる気のない学校行事で一人張り切る委員長のように熱気を発している太陽が、暑さと気怠さを運んでくる。

「あんな常時キマってるようなやつがさらにクスリなんかやった時には、七色のゲロを吐きながらくるくる回ってるやろうから一発で分かるやろ。というか今日早苗ちゃんとの待ち合わせでしょ?こんなとこにいていいん?」

同じくアパートの部屋の定位置で雑誌を読んでいた竜二が答えた。

「そうなんだが今一こう、気乗りがしなくてだな……」

「女の子とのデートに気乗りせん?てめえなんやその衛生軌道上からの上から発言!今すぐこの部屋にアッツアツの隕石落ちてきてくれ!んで俺だけ助かれ!お前は死ね!」

 孝太郎の発言に激高する竜二。

「いや違うんだ。何て言うかな、デートし始めの頃はあいつも楽しそうにしてて、俺が勝手が分からないでいても雰囲気は良かったんだ。でも最近は後輩の奴テンションがそんな上がりきっていないというか、盛り上がりに欠けるというか……」

「何をもう倦怠期に入ったみたいな口を利いとるんや。逆にもうそこまで進んじゃったよってアピール?あーやだやだ近頃の若いもんは!あの娘に乗って調子にも乗ってって?やらしい!お母ちゃんもうパート行かんといかん時間やの!あんたももう行き!」

「お、もうお前バイトの時間か……。分かった。俺ももう行く」

孝太郎をアパートから叩き出した竜二は、誰に聞かせるでもなく一人ごちた。

「まあ実は最初の頃から盛り上がってなんてなかったんじゃないんかね。俺見てねえから知らんけど」

                 *

 そしてその日のデートも、早苗は嬉しそうにはしゃいでいる時もあれば、急に言葉少なになってしまうなど、不安定な様子だった。なぜ早苗がそんな様子なのかわからない孝太郎は戸惑いながらも予定を消化した。そして今は帰り道の途中。昼間に頑張り過ぎた自分を恥じているのか、ほのかに赤くなった夕日の中を、ヒグラシの鳴き声が漂う道の途中、二人は話す言葉もなく歩いていた。

「……ん、それじゃせんぱい、私こっちの方ですので」

「……おう、そうか。それじゃな」

 十字路に差し掛かり二人は立ち止まる。背後から差す日差しで早苗の表情は伺えない。

「……どうした?立ち止まって」

「……いえ!なんでもありませんぜ旦那!それじゃ次はいよいよ花火大会ですな!私の浴衣姿で鼻血吹きすぎないでくださいよ!輸血パックを携行することをおすすめします!」

「……うん。そうだな。楽しみにしてる」

 そう言って去っていく孝太郎の後ろ姿を見つめながら、彼女はとつと呟いた。

「……楽しみにしてる、だって。嘘つけ」

 顔を伏せ、早苗は続けた。

「家まで送ってやるよ、なんて、一回でも言ってくれたらな」

 風の音も無い夏の夕方は、ヒグラシの声だけがうるさかった。

             

                 十五

 

 デートを終え、何故か疲れている自分を感じながらアパートに帰り着いた孝太郎が、立て付けが悪く開かずの間一歩手前と化しているドアを開けると、意外な人物が迎えた。

「……あれ、部屋の溜まりに溜まったゴミが集まって命を吹き込まれた結果動いているのかと思ったら久一じゃないか。ひさしぶりだな」

「出会い頭に失礼な顔と言動だなあんたは。……まあいいや、僕腹減ってんです。久しぶりに神ラーメンでも食べませんか。僕がおごりますよ」

「……なに?お前どうしたんだ?お前が飯をおごるなんざ、程良い角度で頭でもぶつけたのか?」

「いいから行きますよ不細工。生まれた時に顔面をぶつけたとしか思えない面したあんたに言われたくない」

                 *

 そんなこんなで二人は神ラーメンの屋台に辿り着いた。ごちゃごちゃと席に座り込む二人。

「俺、牛丼並盛りのつゆだく」

「僕は豚丼、並のつゆぬきねぎだく肉下で」

「……醤油二つな」

 店主に名々の注文を済ませ、供されたラーメンから立ち上る湯気の中に顔を突っ込む。二人の間に会話は少なく、しばし麺をすする音だけが響いた。

「……あのね孝太郎。僕が最近あんたらの前に顔を出さなかったのは、理由があるんです」

「おう、なんだ、言ってみろ」

 久一は丼から顔を上げ、そのまま屋台の屋根を見つめながら言った。

「……僕ね、早苗ちゃんが好きだったんです。結構前から」

「……」

 急な久一の告白に、孝太郎は固まった。いつものおふざけとは見えない久一の様子に、孝太郎は返答に詰まってしまった。それをよそに久一は続ける。

「別に何かリアクションしなくていいですよ。僕が言ってスッキリしたかっただけですから。なので、前みたいにアパートに顔を出せるようになるには、もうちょっとかかりそうです。……少なくとも今はまだ無理です。自分がこんなおセンチなおメンタルの持ち主だったなんて思ってなかった」

「久一……俺は」

 言いかけた孝太郎を、久一が制す。

「すいません。僕はもう行きます。また僕があの小汚いアパートに顔を出したら、前みたいに遊んでやってください。一方的にいろいろ言って悪いね。……マスター、お勘定ここに置いときますよ。それじゃ孝太郎。また」

 そのまま屋台から立ち去る久一の背中を、孝太郎は見送ることしかできなかった。二人のやりとりを聞きつけた神ラーメン店主が久一の丼を下げながら騒ぐ。

「何々?なんか青春の香り?なんかスポーツドリンクのコマーシャルぽかったぞお前ら!ねえ?今どうなってるの?ねえ?ねえ?」

「……うるせえ、仕事しやがれ」


                 十六

   

 孝太郎達の住む街は、主な娯楽施設が大型デパートと公民館と斎藤のおばあちゃん家(行くと飴をくれる)くらいしか無いクソ田舎であり、必然的に年に一度の花火大会は大いに盛り上がる。家族連れがひしめき合い、糞餓鬼どもがすねを蹴ってくる、そして不必要にくっつき合いながら歩くカップルの姿が人間の殺意に限界は無い事を教えてくれるこの素晴らしいイベントに、孝太郎は早苗と今日出かける予定になっていた。

 特に若い男女にはお付き合いの登竜門とも言えるイベントであり、早苗が行きたいと声を大にするのも無理の無い祭りであった。

 街のメイン神社は山王神社と呼ばれる、境内で野球の大会が開ける程の広さを誇る神社であり、花火大会の出店は主にこの境内に集まる。神ラーメンが夜な夜な出没する廃神社とは同じ神社でも立山の湧き水と下水くらいの違いがあり、孝太郎達も他のカップルと同じように、山王神社の大鳥居前で待ち合わせた。

「しかし、もっさもさと人混みがすごいな。この糞田舎のどこにこんなに……、これじゃあのミニっこい後輩を見つけるのは一苦労……」

「うぉーい!せんぱーい!ここですよー!貴方の心のメインヒロイン、早苗ちゃんはヒアー!」

 人混みの中をよく通る声がつんざき、お互いを認め合った孝太郎と早苗は合流した。オレンジ系の地に、白の紫陽花をあしらった浴衣に身を包み、下駄をころころと鳴らしながら小走りで早苗が孝太郎のもとへ駆けてくる。下駄と地面が歌う音に合わせて、結い上げた髪を飾る簪がひらめいた。

「おいおい、んなばたばたと急がんでもいいのに。転ぶぞ」

「大丈夫ですよ!この日のために家の中用の下駄を買って、二十四時間体制で練習しましたから!そんな事よりせんぱい!私に何か言うことありませんか?」

「……?ああ、こんなに人が多いとはぐれた時に大変だよな。集合場所を予め決めておくか」

「……ふあ」

 人間が最大の力で呆れると今の早苗のような顔になるのだろう。しばらく呆けた後、両の手で小さな頬をぱんぱんと叩き、早苗は孝太郎に向き直った。やはり、孝太郎に女性の服装を褒めろというのは、三十歳まで自室に引き籠っていたニートに、一週間以内に歌舞伎町ナンバーワンホストになれというのと同じくらい無理なことだった。

「……そ、そうですね!それはとても大事なことですよね!じゃ、じゃあ私いい場所知ってるんですよ!花火がすごくよく見える穴場的なスポットなんです!最悪はぐれても、花火が始まるまでにそこで合流できればいいでしょう?」

 すぐに元気な声に戻り答える早苗。

「そういうスポットなら俺も知っているぞ?商店街の、霊文堂書店の角を曲がった所にある路地を昇って行くと、ちょっと小高い丘のようになっててな、あそこはあんまり人に知られてないんじゃないかと思うんだが。後輩の方はどんなんなんだ?」

「……ここでまさかのネタかぶり。私もそこにご案内しようとしてたんですよ!じゃあ合流場所はそこで決定ですね!」

「おう、了解だ。しかし偶然だなあ」

「……これはもう運命ですね!にひひ!」

 早苗は、そう言いながら嬉しそうに笑った。

                 *

「あ!せんぱい射的やりましょう!お父さんを三日徹夜させて作らせたこの鉛入りコルクがあれば景品に仕込まれてる重りごとぶち抜けますよ!」

「お前は実の父親を何だと思っとるんだ!」

「せんぱい!金魚すくいですよ!金魚達が救われない世界なんて間違ってる!だから私が救ってみせる!サーッ!サーッ!」

「冷たい冷たい!水槽の水しか掬えてないぞ!しかも全部俺にかかってるから!まさか金魚を干上がらせる作戦なのか?」

「キャー!せんぱいお化け屋敷ですよー!怖いー!」

「しがみつくのはいいが締まってる!俺の首締まってる!俺もお化けの仲間入りしちまうよ!」

 早苗に引っ張られ、二人は出店が立ち並ぶ境内を縦横無尽に駆け巡った。早苗は今までのデートの中で一番のはしゃぎぶりで、その勢いはとどまるところを知らなかった。

「しかしいつにもまして元気がいいな後輩よ」

「……だって最後かもしれないし」

「ん?なんだって?周りがうるさくてよく聞こえない」

「いえ!なんでもないです!さ、次は型抜き行きましょう!ふふふ、私の前ではまさに型なしだぜ!」

「……別にうまいこと言えてないからな」

                 *

 そんなこんなでひと通りの出店をまわり終え、境内を抜けて少し離れた所にある公園に二人は落ち着いた。まだ花火が始まるまでに間があるからか、夕方の公園には二人以外の人影は見当たらず、静かだった。ふいに風の音がよみがえり、ヒグラシの声が聞こえてきた。草木を揺らしながら、夏の夕方の匂いが二人の間を抜けていった。

「……ホレ、コーヒーでいいんだったか?」

「あ、ありがとございます。いただきます」

 孝太郎が買ってきた缶コーヒーに口をつけながら、二人はベンチに座った。そのまま暫く二人は無言だった。早苗のつま先が土をいじる音がする。

「あの、静か、ですね」

「……おう、そうだな、俺ら以外に誰もいないからな」

 その時孝太郎は、初めて早苗が少し緊張していることに気づいた。つま先はしきりに土を蹴り、顔は下を向いている。そしてとつと口を開いた。

「あの、ですね。私にはその、一つ夢がありまして、花火大会の花火、一生に一回位は、恋人とみたいな、って思ってるんです」

「……」

「でですね、このまませんぱいと二人で花火を見るのも、それは素敵だな、って思ってたんですけど、やっぱり、恋人になった先輩と見れたら、素敵が、もっと素敵になるな、なんて思っちゃったんです」

 早苗は、俯いていた顔を起こし、孝太郎の目を見つめた。

「せんぱい、好きです。お返事を、いただけないでしょうか」

 早苗の言葉が孝太郎の胸を射抜いた。しかし、その胸の穴から覗いたのは、ただの空洞だった。

 孝太郎は早苗の顔を見つめ返した。なぜ自分は、こんなに真剣に自分のことを見つめてくれる女性に、ほんのちょっとでも、何かを返すことができないのだろう、何もしてあげることができないのだろう、そう思うと、情けなくて涙が出そうになった。しかし、ここで逃げ出すわけにはいかないって事は、服の褒め方がわからなくても、うまいデートコースを知らなくても、それだけは分かった。

「……ごめん。俺は、早苗とは、付き合えない」

 孝太郎は絞りだすように言った。

「……」

 早苗は俯いたまま動かなかった。さっきまで土をいじってたつま先は、盛り上がった砂の手前で止まっている。

「……そっか。ハハ、振られちゃった」

 言って早苗は立ち上がった。彼女は予め決めていた。たとえ振られても、みっともなく泣かない、しつこくすがらない。さっぱりと諦めて、先輩とまたゼミで笑い合えるようにしようと。その方が二人のためになると。

「さ、せんぱい、休憩はもう終わりですよ。まだ私りんごあめだって綿菓子だって食べてな……」

 その時、早苗はある事に気づいてしまった。

 さっき、せんぱいは自分ののことを何と呼んだ?

 孝太郎が、早苗のことを、名前で呼んだのは、さっきが初めてだったのだ。気づいてしまうと、もう歯止めが効かなかった。言葉は溢れ出し、止まらない。

「せんぱい、私じゃダメですか?」

 やっぱり、私は

「私、せんぱいのためなら頑張りますよ?髪だって長いのが好みなら伸ばしますし、せんぱいの好きな料理だって覚えます!もうちょっと背の高い娘が好きなら、毎日牛乳飲みます!だから、だから……!」

 せんぱいに、これからも、名前で呼んで欲しい……!

 早苗は一気呵成にまくし立てた。しかし、それを迎え撃ったのは、孝太郎の、呻くような一言だった。

「後輩よ……。すまん……」

 夏の風はいつの間にか、吹くというより這うといった方が合う、湿り気と重たさを帯びていた。早苗はただ俯いている。

「せんぱい……。今日はありがとうございました。あと、すみませんでした」

そう言うと、早苗は背を向け駆け去った。浴衣に邪魔されながら走る早苗は、追いかけようと思えば充分に間に合う程度の速さだったが、孝太郎は両の拳を握ったまま、動こうとはしなかった。

          

               十七


湿った風は雨雲を呼び、夕立は孝太郎の体を容赦なく濡らした。道すがら、たまたま早い時間に出ていた神ラーメンの屋台に、孝太郎は避難することにした。誰とも顔を会わせたくない気分だったが、側にある、屋根がほとんど吹き抜けになっている開放感溢れる廃神社で、居るか居ないか分からない神様と共にに濡れ鼠になるような信仰心の持ち合わせは孝太郎にはなかった。

「……醤油ひとつ」

「はいはい醤油ひとつな……あれ?今日はボケないの?ネタ切れ?それともテイク二行く?」

「……醤油ひとつで」

「……へいへい。ちょっと待ってろ」

程なくして目の前に置かれたラーメンを、孝太郎は無言で貪った。ずるずる、べちゃべちゃと、麺を咀嚼する音に雨が地面を叩く音が混じり、半魚人が歩き回っているようだと孝太郎は思った。箸だけを黙々と動かし、ラーメンを食べていると、遠くで花火の上がる音がした。孝太郎は屋台のカウンターに両肘を付き、鉛を吐き出すかのようなため息をついた。

「ナポリの娼婦風パスタ、大盛りで」

 突然の客に孝太郎が振り返ると、そこには久一が立っていた。そのまま孝太郎には気づかないような素振りで、椅子に腰掛ける。

「あーなんかカウンターが狭いなあ。なんでだろうなあ。ってうわ!こんな所に立派な負け犬が!情けないワンちゃんですねえ」

 わざとらしい言い方で、久一が孝太郎を認めた。

「……何だお前。言いたいことがあるならはっきり言いやがれ」

「いえ別に何も。今日は早苗ちゃんと花火大会だったんじゃないのかなあとか、なんで花火が上がってて一番盛り上がってる時間にここに一人でいるのかなあとか全然思ってないですよ。あーそれにしても狭いなー。なんでだろうなあー」

 何か言いかけるが、口を閉じて孝太郎は俯いてしまう。それに追い打ちをかけるかのように久一は続けた。

「おや、何も言い返さないんですか。右の頬を打たれたら今なら左の頬も無料でついてくるってやつですか。落ちぶれましたねえ。そんな落ちぶれ野郎が隣にいるともともと微妙なラーメンがもっと不味くなるので、なにもないならどっか行ってくれないですか?」

「……分かったよ」

 孝太郎は一言こぼして立ち上がると、そのまま雨の中に消えていった。

               *

 孝太郎が立ち去った後の屋台の中から、店主が久一に話しかける。

「何今の、ナイスアシストってやつ?でも孝太郎、今の話を聞くに彼女と喧嘩しちゃったとか?行く宛あんのかね?」

 店主の質問攻めに、久一がうっとおしそうに返事を返す。

「……煩いな、仕事してくださいよ」


               十八


 行く宛はもちろん孝太郎には無かった。アパートに帰ればどうせ竜二がいるだろうし、それにこの狭い田舎の町は今どこに行っても祭りの雰囲気から逃れる事はできないだろう。今は誰とも顔を合わせたくなかった。

「……ならいっそ、とことん惨めな気分になってやるか」

 そう一人つぶやくと、孝太郎は商店街に入り、霊分堂書店の角を曲がっていった。

 角を曲がり路地を登って行くと、小高い丘に出る。ここは地元の人間もあまり知らない場所であり、また花火がよく見える穴場でもあった。ここなら知り合いに出くわすこともないだろう。花火を間近で目に焼き付けなければいけないのが難点だが、これ以上惨めな気分になることもないだろう。

 そう考えながら道を登り、丘に出れば、そこには、

「おい……なにしてるんだ。こんなところで」

 全身ぐっしょりと雨で濡れそぼった、オレンジ系の地に白の紫陽花をあしらった浴衣を着た少女が立っていた。


               十九


「え……?せんぱい……?嘘……。なんでいるんですか?」

「それはこっちのセリフだ馬鹿野郎!あれからずっとここにいたのか?んなビチャビチャなりやがって!風邪引くくらいじゃすまんぞ!一体なんでまたずっとここに……」

 なぜ自分がこんなに腹を立てているのかも分からず、早苗に捲し立てるうちに孝太郎は気づいてしまった。……予め決めていたじゃないか。

「だって……はぐれたらここに集合しようって決めてたから……」

 孝太郎は息を呑んだ。だからって、そんな口約束だけで。

「だからって!俺が来るわけないって思わなかったのか?あんな別れ方した後に……」

「私だって分からない!」

 早苗が叫んだ。そして今度は、早苗が捲し立てる番だった。

「私だって何馬鹿な事やってるんだろうって思った!気持ち悪い女だなって!でも、でももし、もしも万が一せんぱいが来てくれたら、そしたら、って思うだけで、私」

 早苗の言葉に涙が混じり始めた。雨と涙を頬から滴らせながら、早苗はほとんどしゃくりあげるように続けた。

「今までだってそうだった!せんぱい、ずっと私のこと名前で呼んでくれないし、手だってつないでくれないし、服とか頑張っても何も褒めてくれないし!今日だって、折角浴衣、頑張って時間かけて、着付けてきたのに」

 いつの間にか花火の音は止んでいた。もうフィナーレを迎えたのだろう。静かになった夏の夜闇に、早苗の声だけが響いていた。

「本当に何度もう無理かもしれない。このままお付き合いしててもせんぱいは私になんて見向きもしないかもしれないって思った。……でもね、百分の一でも、千分の一でも、せんぱいが好きって言ってくれるんじゃないかって考えたら、その時の事を想像しちゃったら、もう駄目だった。顔がにやけてきちゃって、熱くなってきちゃって、もうちょっと頑張ってみようって思えたの」

早苗の足元が震えているのは、体が濡れて冷えているせいだけではないだろう。何かに突き動かされているかのように、彼女は続けた。

「ずっと付きまとうような真似してごめんなさい。迷惑でした?私のこと、嫌いになっちゃいました?でも、私、先輩を諦めちゃったら、この気持を手放しちゃったら、自分のことを嫌いになるって分かっちゃったから。先輩に嫌われるのは怖かったけど、自分のことを嫌いになるのはもっと怖かった」

 孝太郎は吸い寄せられるように、自分に言葉をぶつけてくる早苗から、目を放すことができなかった。なんでこんなに彼女の事を食い入るように見つめてしまうのだ。その答えは、分かりそうでわからない、あと一歩のところにあるような気がした。

「せんぱい、ありがとうございました」

 その時、早苗の、この丘の雰囲気がさっと変わった。目の前の女性は、背筋をぴんと伸ばし、こっちを見つめている。目尻にはまだ涙の粒が覗いているが、その目は晴れやかに、孝太郎を写していた。

「私に、こんな気持を、愛しい想いをくれて、ありがとうございました。最初に私の胸にこの想いがぽっと出てきた時、正直扱いにこまっちゃった。でも、他の人がそうするように、今までの私だったらそうしていたように、自分の心を、説得したり、話しあったりして、考えなおすなんてこと、しなくてよかった。この想いをここまで持ってこられて、良かった。せんぱいを好きになれて、本当に、良かった」

 そして少女は、ぺこっと頭を下げて、こう言った。

「せんぱい、今までありがとうございました。またゼミで会いましょう」

 そして彼女は孝太郎に背を向け、丘を駆け下りていった。

 その背中が小さくなっていくのを、孝太郎はじっと見つめていた。

 しかし、次の瞬間、口が勝手に開いていた。


「おい早苗」


「浴衣、似合ってるぞ」

 

「……へ?」

 早苗が立ち止まり、振り向くと、そこには顔を真赤にして、俯いている二十六歳の童貞の姿があった。声に出してみて初めて気づいた。そして気づいてみれば簡単だった。ただ認めるのが、認めて変わってしまう事が、怖かったのかもしれない。

「せんぱい、今、今なんて言いました!ねえ!」

 早苗が孝太郎に駆け寄り、襟首を掴んでがくがく揺らす。孝太郎は「うあ……あ…」と顔を林檎飴のように赤くして呻くだけで、言葉を発さない。

「あくまでしらを切るつもりですね!このチェリーボーイは!しかれば、う……」

 早苗を認める台詞を口にすれば、変わる事に対する不安も、相手の心を受け止める重さも、認めることで、初めてそれを本当は自分が愛しく思える事に気づいたのだ。そして、そんなことを考えていたら、目の前まで迫っている早苗の顔に、孝太郎は気が付かなかった。

「ん……」

 唇に何か柔らかいものが触れた、と孝太郎が感じた時には、眼前に自分と同じくらいに頬を染めた早苗がいた。

「気、気がつきましたか?さ、さっきの台詞は、つ、つまり、そういう事ってとって、いいんですよね!ね!なんか言ってくださいよ!」

 あたふたとデパートで親とはぐれた子供のように慌てふためく早苗を見ていると、孝太郎は彼女のことがより愛しく思えた。自然とほころぶ顔をそのままに、早苗に話しかけた。

「なあ、早苗」

「は、はひ!……あ、名前……」

「別に次に会うのはゼミじゃなくてもいいじゃないか。具体的には、明日とかさ、とりあえずあの喫茶店で珈琲なんか飲まないか?」

 それを聞くと、早苗はそのくりっとした大きな目を更に膨らませ、固まった。そしてすぐに涙を浮かばせながらも、もう終わってしまった花火に負けないような、輝く笑顔を孝太郎に見せた。

「は、はい!喜んで!」


          グニョン


 その時だった。聞こえないはずの音が聞こえて、見えているはずのものが見えなくなった。

 孝太郎の視界は点滅し、彩色は明滅した。早苗の声だった何かの音をを遠くに聞きながら、灰色になった景色が消えていった。

 そして、孝太郎の意識は消失した。





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