エピローグ 始まりの歌 



 ――空が遠いわ。


 アヴィーネ宮殿の背後にある裏山を、白い花を両腕いっぱいに抱えてフィオレンティーナはディートハルトと共に歩いて登った。

 開けた視界の下には、城下町の色鮮やかな屋根が短い夏の陽光を受けて、煌めいていた。

 視線を上へと向ける。白雲一つない澄んだ夏空。見上げた空は青く、どこまでも広がっていた。

 手を伸ばしても届きそうにない空の高さに、フィオレンティーナは目を細めた。

 地上から吹き上げる風が蜂蜜色の髪を踊らせ、手のひらにのせた花々を、一つ、また一つと空へ舞い上げていった。

「――夏の雪か……」

 フィオレンティーナの隣でディートハルトが漆黒の髪を揺らしながら、白い花びらが風に踊る様を見上げて、呟く。

「いいえ、白い羽よ」

「羽……?」

「雪は溶けてなくなるの。だけど、羽は残るわ」

 空を飛びたいと言っていたユリウスの声は今も鮮やかに、フィオレンティーナの中で響いている。

 空を飛べれば、いつでも君の元に飛んで行ける――そう告げた彼の魂は、今は風に乗って、自由に空を飛び回っているだろうか。

 この地上に留まった私を見つけてくださっただろうか……。

 白い花が飛んで行く先を見つめ、フィオレンティーナは己の胸元に手を添えて、続けた。

「ユリウス様がくださった想いはここに――私の胸に」

 彼は飛び立ってしまったけれど、鳥籠に残された一片の羽。

 ユリウス様がくださった思い出は、確かにこの胸に――と、感慨深げに告げる彼女の言葉に不機嫌さを表すように、蒼い瞳が細くなる。

「……厭味か」

「事実よ。私はユリウス様に愛されたことを忘れない。愛したことも」

 苦虫を噛み潰したようなディートハルトの表情を横目に見ながら、フィオレンティーナは笑った。

「お前は酷い女だな。俺の想いを知っていて、そんなことを言うなんて」

「私を嫌いになる?」

 小首を傾げて尋ねれば、ディートハルトは唸るように言った。

「嫌いになれるなら、こんなに苦しんだりしない」

「……ええ、私もあなたを嫌いになれないから困るわ」

 溜息をこぼすフィオレンティーナの腰に、ディートハルトの腕が絡まる。抱き寄せられ、顎を掴まれて、顔を上向かせられる。

 蒼い瞳が彼女の姿を映して、唇が下りてきたところで、フィオレンティーナは手のひらを突き出し、口づけを制した。

「……まだ駄目なのか」

 ディートハルトが眉間に皺を刻んで、不満そうな声を漏らす。

 婚礼の儀式以来、フィオレンティーナは一度たりとも、彼に口づけを許していない。勿論、身体も許していない。

「安売りするなと言ったのは、あなたよ」

「確かに言ったが……もう一年以上だぞ」

「まだ、一年ね」

 がっくりと肩を落として俯いた彼は、思い直したようにゆっくりと顔を上げると、こちらの瞳を覗きこんできた。

「何年経てば、……俺はお前の唇に触れることを許される?」

 蒼い瞳を暗く陰らせ、真顔で問いかけてくるディートハルトに、フィオレンティーナは暫し考えた。

 実際のところ、もう許してもいいと思っている……とは、さすがに女の口からは言えないだろう。

 ディートハルトは、あれからこちらとの約束を守るように、王としての政務に励んだ。

 帝国国民の奴隷化を禁止し、シュヴァーン国民と同じ扱いをするように法令を発した。それは国内の反発を生み、所々で反乱を誘発する結果となった。

 彼はそれら一つ一つ鎮静化し、王国内を完全に手中に収めた。

 内乱鎮静のための軍勢をヴァローナに借りることで、同盟を頼りにしていることをアピールし、何とか両国の間には平穏が保たれていた。

 フェリクスは『危うい均衡だが、合格点を与えよう』と肩を竦めていた。

 ヴァローナも手中に収めた帝国民の反発を恐れてか――シュヴァーン領土となった帝国の民が保護されている以上――帝国民の扱いには慎重になっていると聞く。

 帝国が存在していた頃のような平穏はないが、少なくとも過酷な使役を供与されるようなことはないと知り、フィオレンティーナはほっと胸を撫で下ろす。

 帝国擁護のディートハルトの姿勢は、王宮内でも不穏な動きを見せた。帝国擁護の口実を摘むには、帝国皇女であったフィオレンティーナの存在を邪魔だと判断したのだろう。

 何度かフィオレンティーナは背筋が冷える思いを経験する羽目になった。

 反乱鎮静のため、ディートハルトが出陣している間は、アルベルトが彼女の身を守ってくれた。

 最初、『どうして、俺がっ?』と嫌がっていたようだが、ディートハルトが頼むと、頭を下げれば、赤毛の将校の態度はころりと変わったらしい。

 お願いしますと、頼んだフィオレンティーナにも『指一本触れさせないから、大船に乗った気でいろ』と胸を叩いて見せた。頼りにされると、嬉しいみたいだった。

 何となく、アルベルトの扱い方がわかったような気がすると、帰還したディートハルトに告げれば、

『虐めると、もっと面白いぞ』

 と、ニヤリと唇で嗤って返してきた。

 ディートハルトの傍若無人さは、変わらない。そんな彼の発言をフィオレンティーナが参考にと、記憶の隅に留めていることは、アルベルトには内緒である。

 そうしてこの機会にと、フィオレンティーナがアルベルトの本心に迫ってみたことは、ディートハルトには言っていない。

『アルベルトはどうして、ディートハルトの謀反に手を貸したの?』

 水色の瞳を真っ直ぐに見つめて問えば、彼は広い肩を小さく竦めた。

『死にそうな顔をしていたんだよ。年々、追い詰められたような顔をしてさ――それはフィオナと王子の結婚が近づいていたからなんだろうけど、本気で死にそうな顔をしていたんだ。あの――ディートハルトがだぜ』

「あの」と言われて意味が通じるところが、何となく可笑しい。

 フィオレンティーナはその疑問をぶつける。

『あの人は、昔からああいう性格なの?』

『人を人と思わないって? まあ、変わらないよ。本格的に荒れたのは、フィオナと王子の結婚が決まってからだけど。もっとも、あいつはそうして周りを切り捨てたんだと思う。切り捨てられたことを自覚したくなかったんだろ。――俺は王宮であいつが受けた扱いがどんなだったかは知らないけれど……多分、フィオナがここで最初に経験したような感じだったと思うぜ』

 そうして少し詫びるような顔つきを見せた。帝国からこちらへの移動の間、フィオレンティーナを人間扱いしなかったのは、アルベルトだった。

 フィオレンティーナは小さく首を振って、許しを与えた。

 ユリウスを奉る影で、ディートハルトはその存在を黙殺された。その事実を悲しいと泣くより、彼は傍若無人に振る舞うことで、周りを遠ざけたのだろう。それ以上、自分が傷つかないように……。

『そんなあいつが、死にそうな顔で手を貸してくれって、俺たちに言ってきた。余程、王子にフィオナを取られたくなかったんだろうな――肝心なところで大事な記憶を失くしちまったんだから、しょうがねぇ。さすがに、記憶を失くしたって聞いたときは、俺も泣こうかと思ったぜ。基本的に悪い奴じゃねぇよ。ただ、一つのことにしか、目が向かないんだ。一人に優しく出来ても、他の奴に優しくする余裕がないのさ』

 あいつは誰にも優しくされたことなんてなかったし。

 そして、愛されることを知らなかったディートハルトにとって、他人の存在は簡単に殺し、葬り去ることができる易いものだった。

 他人にとって、ディートハルトの存在が無意味であったように。

 そうディートハルトの本質を語るアルベルトは、傲慢さの裏に潜む孤独を知っているから、彼から冷たくされても平気なのだろう。

『だから、手を貸したの……?』

『俺は軍人だから。人の生死には慣れている。でも、知っている奴が目の前で死にそうになっているのは、放っては置けなかったんだ。他の見ず知らずの人間なら、幾らでも見捨てられたけどな』

 恐らくアルベルトは、見捨てられないほどの大事な幼馴染みの人生を狂わせたフィオレンティーナが憎かったのだろう。

 彼女の中でまた一つ、氷が溶ける。

『……お人好しなのね』

『それはよく言われる。でも、馬鹿だって、付け加えられるけど』

 アルベルトは苦笑しながら、

『フェリクスも何だかんだ言いながら、お人好しなんだ。ディートハルトが事を起こしてしまえば、どうあったって犠牲が出る。あいつは、国を安定させ大きくすることで、その穴を埋めようとしてるんだよ。だから時々、酷いことを言うかも知れないが、許してやってくれよな?』

 どこまでもお人好しな赤毛の軍人は、皮肉屋の宰相を弁護していた。

 ――それも知っているわ、と。フィオレンティーナは心の内で囁く。

 ディートハルトが遠征に出かけて城を空けている間に、宰相と話す機会があったのだ。フィオレンティーナは覚悟を決めて、アルベルトと同じ質問をぶつけていた。

 返ってきた答えも、ディートハルトに対し皮肉を込めながらも、アルベルトと同じような内容だった。

『――思い込んだら一直線の馬鹿の尻拭いをするのは、優秀である私の役目でしょう』

 などと、自分を持ち上げるフェリクスらしい口調で語りながら、やはり幼馴染みを気遣っていた。

『一つだけ、お教えしましょう。ディートハルトは自分がユリウス王子を殺したと思い込んでいるようですが、王子の死因は圧死です。瓦礫の下敷きになったことが原因ですよ』

 ユリウスを刺し殺したとされる瞬間、ディートハルトは反撃を受けているという。

『少なくとも、ディートハルトの一撃で即死したわけではないということです。反撃する力が王子にはあった。後に、王子の亡骸を回収しましたが、ディートハルトが傷つけたと思われる創傷は脇腹にありました。内臓を傷つけていましたが――正直、数刻で命を落とすほどの致命傷にはなりえない』

『――それをディートハルトには……』

『言っていませんよ。奴はあなたに後ろめたさを背負っていて、丁度いい。王子殺しの免罪符があったとて、簒奪者の汚名は変わらないでしょう。王子を殺そうとした事実も変わらない。ただ、ディートハルトが王子を殺したわけではなかったという真実は――フィオナ、あなただけが知っていればいいことだ』

 ――そうでしょう? と、薄く笑い問いかけるフェリクスに、フィオレンティーナは苦笑した。この宰相は、幼馴染みを思いやりながらも、どこまでも腹黒い。ディートハルトが後ろめたさを感じる限り、王としての責務に励むだろうことを見越していた。

『後、これはおまけです。皇帝と皇太子の処刑を決めたのは私です』

『――――っ』

 息を呑むフィオレンティーナを前に、フェリクスは真面目な顔で告げた。

『だから、恨むのなら奴ではなく、私を怨みなさい。憎みなさい。あなたの不幸は、奴の暴走を止められなかった私の責任です』

 王としての責務をディートハルトに背負わせる代わりに、フェリクスはフィオレンティーナの中にわだかまっているものを請け負おうとしていた。

 宰相として国を背負うフェリクスには、後の遺恨を最小限にしなければならないという考えがあったのだろう。同時に、帝国民に戦争終結を宣言する意味でも、皇帝と皇太子を生かしておくことはできなかったのだ。皇帝が生きている限り、シュヴァーンの支配下に下ることを否とし、抗い続ける者たちがいただろう。それは二年も続いた戦争に疲弊した帝国軍の者たちを無駄に死なせる結果になる。同時に、シュヴァーンの軍人たちも。

 フィオレンティーナはフェリクスがくだした決断を冷静に受け止めた。

 そして、黙っていることもできただろうに、告解するまで心を許してくれているのだと、その事実に気づけば、どうして目の前の人間を憎めるのだろう。

『――あなたたち幼馴染みは、似た者同士なのね。……どうしようもなく』

 不器用な形でしか、優しさを発揮できない。

 フィオレンティーナは涙をこらえながら、フェリクスに微笑みかけた。

 ユリウスの亡骸は秘かに、宮殿の裏にある王族の墓所に埋葬したとフェリクスは教えてくれた。もっとも、こちらへ運ぶ手間に火葬され、ユリウスの棺の中は空だという話だった。

 ならばと、フィオレンティーナは空を彼の墓標と定め、花を捧げることにした次第。

 風にのって飛んで行く花は、帝国の地に眠る父や兄たちの元へも届くかも知れない。

 届けばいいと願う。ここに生きている私を見て、彼らの眠りが安らかになるようにと祈る。

 フィオナと愛称で呼んでくれるくらいに、フェリクスやアルベルトとの距離が縮まったからかもしれない。アルベルトの切り替えの早い、どことなく憎めない性格は、宮廷内の人間関係にも、意外に影響しており、他の者たちも少しずつ、フィオレンティーナやジュリアを受け入れてくれるようになった。

 そういった日々を送りながら、ディートハルトはフィオレンティーナとの約束を律儀に守ってくれている。その努力を認めても罰は当たらないだろうと思う。

 だが、自分から「唇を許しても、いいわよ」なんて言うのは面映ゆい。

「そうね、私のために歌を作って」

「……歌?」

 訝しげな彼に、フィオレンティーナは頷く。

「ユリウス様はリュートがお上手だった。私、ユリウス様のリュートに合わせて、歌ったわ。そんな私のために、ユリウス様が一曲、歌を作ってくださったの」

「また、ユリウスか。俺はどこまでもあいつの影に悩まされるんだな」

 ユリウスと同じ顔で、ディートハルトは舌打ちした。

 幼い頃、ユリウスに比較されていたこと。自分の影が消えていくことに憂いていたこと。

 また、ユリウスが彼の父親と王妃との姦通でできた不義の子であったことなど、この一年の間で色々と聞かされた。

 彼が覚えている限りの記憶や失くしたもの。彼を苦しめた頭痛。

 そして、幼い頃のフィオレンティーナとの出会いやディートハルトが幼い皇女を深く愛し、それ故に抱いた絶望も。

 一つも余さず、隠さず、彼は率直な言葉で語ってくれた。

 そこに存在しているのに存在を否定され、誰にも省みられることのない辛さは、シュヴァーン王国に身を置いたフィオレンティーナも感じ、知っている。

 他人事ではない感情は、ディートハルトを理解するのに助けてくれた。

 ディートハルトのことを一つ知っていくたびに、フィオレンティーナは彼のことを愛しく想う。

 きっとこの想いは、ユリウスがあの鳥籠の中で育ててくれた恋心と同じように、自分を幸せに導いてくれるだろう、とフィオレンティーナは確信する。

 ユリウス様を一途に愛するという誓いは守れなかったけれど。ユリウス様に教えて頂いた、恋することの幸せや、満たされた愛情はずっと忘れない――そう、フィオレンティーナは胸に刻む。

 だから、ディートハルトには、ユリウスを愛した自分ごと受け入れて欲しい。

 ここへ辿り着いた道のりを運命だと言うのなら、フィオレンティーナは否と唱えるだろう。

 ディートハルトと出会うために、ユリウスが犠牲になったなどとは認めない。

 そして、幼き日にディートハルトと出会ってしまったことが間違いだったとも思いたくない。

 迷い戸惑いながら、一歩一歩歩んできた日々は、決して正しい道筋ではないけれど、だからと、今までの道のりが間違いだったと言い切るつもりない。

 まだ、私たちは道程の途中だから……。

 守りたい人々、守ってくれる人、幸せを願ってくれた人、愛してくれた人、愛してくれる人――その一つ一つの出会いに喜びを感じるから、まだ生きていたい。生きていこうと思う。

 だから、辛かった思い出も優しい記憶もすべて抱えて、私は生きていくのだと、フィオレンティーナは空を見上げた。

「言っておくが、俺の方がリュートは上手かった」

 対抗心を剥き出しにして――でも、前に感じていたような憎悪はそこにはなく、ディートハルトが胸を反らす。

「そうなの?」

 視線を返して小首を傾げれば、ディートハルトはそっぽを向きながら、拗ねた口調で続けた。

「奴が直ぐに俺の真似して、習い始めたんだ。だから、俺は止めた」

 誰もが奴を誉めるから――。

 王国後継者であったユリウス……、もしかしたら彼は自分の先を行くディートハルトに憧れたのではないだろうかと、フィオレンティーナは思い当たる。

 目の前に目標となる人物がいたら……その影を追わずにはいられない。

「ユリウス様はもしかしたら、あなたのことを追いかけていたのではないのかしら?」

「――は?」

 蒼い瞳を見開き、呆気にとられた顔を返してくるディートハルトに、フィオレンティーナは微笑む。

「あなたのように、なりたかったのよ。あなたがユリウス様に、なりたかったように」

 ディートハルトはユリウスになりたかったのだと、フィオレンティーナは思う。

 だけど、成り変わることなどできないから――憎んだ。

 憎しみは羨望の裏返しだ。シュヴァーン王国がカナーリオ帝国へ差し向けた憎悪も、同じ。だけど、憎しみが溶けたとき、それは愛に変わる。

 きっと、このアーキオーニス大陸も憎しみのない、隣人を、隣国を愛せる平和な大地に変われる。

 亡くなった父や兄は、それを信じていた。フィオレンティーナも彼らの遺志を継ぐ者として信じようと思う。何よりも、その可能性を自分は肌で知っているのだから。

「それにしても、人の感情って難しいわね」

「……俺はときどき、レナの切り返しについていけない」

「そう?」

「ああ。それで、どんな歌がいいんだ? ユリウスに負けない歌を作ってやる」

 意気込むディートハルトに、彼女は笑って答えた。



 ここから始まる、あなたと私の――恋の歌。




                       「飛べない鳥たちの恋歌 完」



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