第13話 現と夢



 ――止めた……。


 小さな呟きと共に、肩に食い込んだディートハルトの指がほどける。

 柔らかなしとねに押し倒され、いよいよすべてを奪われるのかと、硬く目を瞑り、身体を強張らせていたフィオレンティーナは弾かれるように目を見開いた。

 開かれた視界には圧し掛かるようにして、こちらを見つめるディートハルトがいた。

 両腕を突っ張り、フィオレンティーナを覗き込むディートハルトの顔は無表情だった。

 漆黒の髪がユリウスの面影を生き映した美貌に翳を落とし、蒼い瞳がいつもより深みを出していた。その瞳に映るのは髪を乱され、夜着の胸元がはだけられ、胸があらわになりかけたフィオレンティーナの姿。

 白い肌にはディートハルトの唇が刻んだ赤い花が咲いていることだろう。

 絹の夜着を乱暴に開いて、柔らかな肌を弄び撫でた指が下肢へと向かいかけたとき、彼は詰まらなそうに言った。

 ――止めた、と。

 フィオレンティーナの肢体を蹂躙せんと肌を彷徨っていた指は、熱い体温を残して、遠ざかった。

「…………」

 何故と問うのは愚かだろう。

 フィオレンティーナははだけられた衣の胸元を慌てて掻き合わせた。ジュリアが最後の抵抗を試み選んでくれたのだろう、脱がせ難いボタンが並んだ夜着の胸元は、ボタンの影は無く合わせ部分は引き千切られていた。

 ボロボロになった布地を固く握りしめるフィオレンティーナの脇に、ディートハルトが長身を転がし横になる。

 無防備に背中を向ける彼と入れ代るように、フィオレンティーナは身を起こした。

「殺してみせるか」

 背中越しに問いかけてくる声は、こちらの反応をはかっているようだった。

 最初に会った時のように、挑発してみせるその言葉に気づく。ディートハルトが手を引いたのは、彼女の中の諦めを見抜いたからだろう。

 嫌がる彼女を支配することで、フィオレンティーナの心をディートハルトへの憎しみに染め上げ、ユリウスの存在を追いだそうと……。

 憎悪が深く執着が強ければ強いほど、ディートハルトは彼女の中に欠片でもユリウスが残ることを許しはしない。

 今しがた彼が与えた恥辱をフィオレンティーナが許せないと思えば、ディートハルトへの憎しみが彼女の心を黒く染める。

 またひとつ、ユリウスを失う。

 それこそがディートハルトの望みなのだろう。つくづく、理解しかねる思考だ。普通なら、憎たらしい相手を連想させるものを傍に置こうとはしない。いとうて、殺してしまうだろうに。

 湧き上がる感情を押し殺し、フィオレンティーナは寝台から降りようとした。ディートハルトの真意など、今はどうでもいい。理解などしたくない。

「どこへ行く?」

 こちらに顔を向き直ったディートハルトの冷たい視線がフィオレンティーナを刺し、彼女の細い手首に武骨な指が絡まる。

「……部屋へ戻ります」

「お前の寝床はここだ」

「……えっ?」

 問い返す彼女の声は、ディートハルトの胸に押し潰された。立ち上る花の香りは、湯浴みの際、湯に落とされた香料か。

 今になって、フィオレンティーナは自らにまとわりつく、匂いに気づく。そして、自分とは違う清涼な香りはディートハルトから立ち上っていた。

 引っ張られ、彼の胸に抱き寄せられたフィオレンティーナを逃がさないよう、二本の腕が拘束する。

「――眠れ」

 どこまでも冷たく、ディートハルトの声は命令する。

 眠りまで支配しようというのか。寝言でユリウスの名を囁くことすら、許さないつもりか。

 逃げ場などないことを突き付けられる。

 抗う無謀は既にフィオレンティーナの身体に沁みついていた。

 ディートハルトの腕の力は女である彼女の骨など、簡単に折ってしまえるだろう。

 広い手のひらが口を覆えば、窒息させるのも容易いだろう。

 武骨な指は、細い首を簡単に潰してしまうだろう。

 そうしてここまでの道中、この男の目の前で無防備に眠りに就いた自分を思い出せば、抵抗することの馬鹿馬鹿しさに、彼女はディートハルトの胸に大人しく顔を伏せた。

 身体から力を抜き、体重のすべてを預ける。目を瞑る。

 胸の奥から聞こえてくる音は、ディートハルトの冷酷さや憎悪の深淵などとは無関係に、かつてユリウスの腕の中で聴いた穏やかなリズムを刻んでいた。

 彼女の身体に絡んだ腕が動き、指がフィオレンティーナの蜂蜜色の髪を撫でる。

 まるで子供のように、髪を弄んでいる気配がした。指先が髪を梳き、絡めねじる。そうして放しては、摘まんで拾う。それ以外の動きはない。

 本当に、手を出すつもりはなさそうだ。

 身体に残っていた僅かな緊張の糸を、フィオレンティーナは解いた。

 それによって、この数日の強行軍のつけが、意識を弛緩させる。まどろみが脳を溶かし始める。

 現実と夢の境界線があやふやになり、移ろう意識の狭間で、フィオレンティーナはユリウスの声を聞いた気がした。

「……フィオレンティーナ」

 独り言のような囁きが、耳に触れる。温かい吐息が耳朶を撫でる。懐かしく、甘い声が囁く。

 ……ユリウス様。

 瞑った瞼に涙がたまるのをフィオレンティーナは夢うつつに感じる。

 ディートハルトへの叛意を押し殺し、運命を受け入れた。

 彼の指がユリウスでさえ触れたことのない地肌に触れたとき、フィオレンティーナはどうしようもない虚しさを覚えた。

 涙を流し、「お許しください」と謝罪するジュリアによって湯の場に連れて行かれれば、待ち構えていたシュヴァーンの侍女たちが、恥じらう隙も与えず、フィオレンティーナを裸に剥いた。

 肩を押され突き落とされるようにして湯に入れられると、皮膚をこそぐような勢いで身体を強くこすられた。

 鬱血したように赤くなるフィオレンティーナの肌に、一人の侍女が周りの侍女に目配せしたところで、こする力が多少弱くなったのは、ディートハルトの目に晒されることを恐れてのことだろう。

 彼女らはやがて、石鹸の泡を落とすために水を浴びせかけた。それは湯ではなく、冷水だった。

 思わず悲鳴を上げかけて、侍女たちを振り返れば、その目に浮かぶのは冷淡な瞳。

 ディートハルトを思わせるような、温もりの欠片などどこにもない無機質な双眸の数々に、フィオレンティーナは改めて自分がシュヴァーン王国に囚われたのだと知った。

 ――抗うことさえ禁じられた捕囚。

 フィオレンティーナが抱いた諦めは、ユリウスと同じだったように思えてならない。

 ユリウスも己の運命を受け入れ、誰かを愛することを諦めたのではないのだろうか。

 そうして、フィオレンティーナを愛していると、自分自身に言い聞かせていたのではないだろうか。

 己を無垢に慕ってきた皇女を騙すことで、捕囚であることを強いられた精神を慰めていたのでは――という考えが、濃くなっていく。

 フィオレンティーナがジュリアを守りたいと思ったように、彼はシュヴァーンの王位を継ぐ者として、国を守るために……。

 婚約者に笑顔を取り繕ったのではないだろうか。

 甘い言葉を口にしたのではないだろうか。

 疑念に駆られれば、少しずつユリウスとの間に距離を感じる。

 身体を包んでいたユリウスの温度が去って行くような気がした。

 フィオレンティーナは夢の淵で、小さくなっていくユリウスの背中に手を伸ばし、叫んだ。

「――行かないでください、どこにも行かないで」

 心がなかったとしても構わない。愛してくれていなかったとしても構わない。

 ……逝かないで。

 …………私を一人にしないで。

 わがままな女です。愚かな女です。それでも……。

 私はユリウス様だけを愛している。

 だから、だから……。

 涙があふれ、視界が曇る。遠ざかって行く影に、フィオレンティーナは声を絞って訴えた。

「――行かないで……」

 伸ばした手に触れる温度が、きつく彼女の手を握り締め、

「――どこにも行かない……ここにいる」

 泣き崩れる彼女を慰めるように、優しい声が囁いた。


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