第5話 余りに硬質な

 さてっとばかりにベストの背をキュッと下に降ろした途端、入り口の扉がギィ〜と音を立てた。「マスター、5人、かまん」と顔をのぞかせたのは常連客であった。

 「見ての通り、開けたてやけん」とマスターは答えた。

 常連客を先頭にして入ってきたのは、同じ定年過ぎの男性4名。最後に後ろ手に丁寧に扉を閉めたのは30才前後と見える女性だった。5人がテーブルに席を占めると

 「マスター、アラウンドザワールド」と常連客が声をかけた。

 おしぼりを持って席にやってきたマスターが常連客にむかい

 「大さんがカクテルとは珍しい」と声をかけた。

 「他のみなさんは」

 「みんな同じよ。アラウンドザワールドが5杯や」と大さんと呼ばれた常連客が言った。

 しばらくしてシェイカーの音がしたかと思うと、マスターがミントチェリーを飾ったカクテルグラスを5つ席に持ってきた。続いて二つのシェイカーが持ち込まれ、その場で鮮やかな緑色のカクテルがキッチリ5杯、均等に注ぎ分けられた。スッとマスターの手が動いて、それぞれの客の前にカクテルグラスが移動した。

 ほおぅ〜という空気が漂った。

 常連客はちょっと誇らしそうにしながら

 「ほしたら、乾杯っといこか」と声をかけた。

 マスターがシェイカーを持って引き下がると同時に乾杯の声が上がった。


 カウンターでいつもの酒をゆっくりと飲み干した客が「マスター、チェック」と声をかけて出て行った。


 客を見送ったマスターはテーブル席に向かって

「お代わり、どうします」と声をかけた。

「わしはいつものジン」「ライムで?」「おう、頼むわ。他のみんなはどない?」

「俺は…明日早いけん、遠慮するわ」

「わしは…バーボン、水割りで」

「バーボンは何にいたしましょう」

「お任せで」

「わしもバーボン、ソーダで」

「そちらは…」とマスターが女性の方に声をかけた。


 「ピンクジンを」


「結構きついカクテルですが…」

「知ってます。いっぺん、飲んでみたかったけん」

「ほう、ミリちゃんはいける口なんやな」

「そんなには強くないですけど…ちょっと気になって」

「おや、ミリちゃんの気になってが出たねぇ。そりゃ楽しみや」

「どんなカクテルなんや、マスター教えたってや」

「野暮いわれん。出てきてのお楽しみにしとき」


 カウンターに酒を並べ、片手に水割りグラスを、片手に少し背の高いコリンズグラスを持ったマスターがテーブルに向かった。
「バーボンの水割り、オールド・テイラーです。そしてバーボンソーダ、大さんはいつものジンライム。」


つと、取って返したマスターは澄んだピンク色のカクテルグラスを置いた。


「ピンクジン、お待たせでした。」


「ミリちゃん、ほんで何が気にかかっとったん」という声がした。ミリちゃんと呼ばれた女性はそれに直接答えずに、カウンターの向こうのマスターに声をかけた。


 「マスター。これ、ほんまもんのピンクジンですか?何か特別なん入れてます?」
 言葉自体はキツかったが、声は素直で嫌味がなかった。


 「おいおい、ミリちゃん」
 「けど…気になるけん」


 「ほんまも何も、普通のピンクジンですよ。」

 それからちょっと顔をほころばせながら「もしかしてお客さんが気になってるんは『色』、ですか?」

 「そっ、そうです」

 「カクテル飲めるバーに連れて行ってもらえるけん、どんなカクテルにしようかって調べてたら、このカクテルを見つけて…。サイトによって説明も画像も色が違うてて。レシピは同じみたいやのに。中には『名前はピンクだがピンク色はしていない』って断言してるところもあるけん、ほんまはどっちやろって思たんです。」

 「そりゃ、理屈やけど、いくらなんでも『ほんまもん』はないで、ミリちゃん」と席の中から茶々半分たしなめ口が入る。

 「いや、ミリちゃんらしいわ」という声も上がった。

 「マスター、すまんけど、納得せんと気ぃがすまん子やけん」と大さんが言う。


 その大さんにむかって「かまん、かまん」というようにマスターが軽く手を振った。

 「レシピは多分どこでも同じ紹介をしてるでしょう。ジンとビターズ。もっともビターズの量に多少はあるでしょうが。」

 「はい。そうです。ジンとビターズやけん、ジンアンドビターズと同じカクテルっていうところもありました。」

 よく調べましたねとでもいうように頷いたマスターは、ジンの瓶とずっと小ぶりなビターズの瓶をテーブル席に運ぶと、小さな皿を持ってきた。

 「ジンとこれがビターズ。紙に包まれてて色がわかりにくいから」と小皿にビターズを垂らすと、茶色の液体が広がった。

 「これだけ…で??」

 「材料はこれだけ。ただしシェイクしないとピンクジンはできないと思っています」とマスターが答える。

 「シェイクするんとしないんで、そないに違うんか?わしにもちょっと信じられんわ。からかわれんで、マスター」と大さんが笑いながら言う。

 「大さん。いつも飲んでるジンライム。シェイクしたら、ギムレットになるけん、今度飲んでみるか」とマスターも笑って返す。


 ちょっと座が和んだのを見計らって、マスターがシェイカーと氷、グラスを持ってきた。

 「ちぃっと気恥ずかしいけど」と言いつつ、シェイカーに氷とジンををおもむろに入れると、2〜3滴頃合いを見るかのようにビターズを入れ、さっとシェイクの体制に入った。そして慣れた手つきでシェイカーをふると、ゆっくりとグラスに注いだ。

 グラスに先ほどと同じ透明なピンクの液体が注がれた。


 ほぅ〜という声にならない声が辺りに漂った。


 「なんで、なんでなん?茶色やのに」とミリちゃんが言う。

 「バーテンダーやから、詳しい理屈は分からんけどね」とマスターが受ける。

 「シェイクいうんは、シェイカーの中のもんに空気を混ぜ込む事やと。空気をたっぷり混ぜ込む事で、口当たりも柔らかくなるし、混ざりにくいものもよく混ざる。それと…あとはちょっと白濁するけん、光の当たりようが変わるんかも知れんね。」

 「ミリちゃん」と先ほどお代わりを断った客が割って入った。「光の三原色や、色のやのうて」そして明度がとか、彩度が…と話を続け始めた。シェイカーやグラスを片付けようとするマスターに、大さんが片手で拝むようにして、身振りでグラスを残すようにといった。

 

 話し込む一同の真ん中で、ピンクのグラスが静かにたたずんでいた。



それから二月か三月に一度、仲間内の2〜3人で固まって時折店に顔を見せていた。が、一年を迎えようかという頃に、パタリと足が途絶えた。常連の大さんは相変わらず店に顔をみせるのだが、客に聞くことでもなし、日々の仕事の中で、そんなものだとマスターは気にもとめずにいた。


 そんなある日、大さんからわざわざ電話で予約が入った。開け口から5名だという。

 セットを用意しながら、マスターはもうずっと昔のように思える5人揃いの面子を思い出すともなく思い出していた。

 「いらっしゃい」

 「マスター、無理言うて」

 「何の、開け口からのお客さん、大歓迎よ。さぁどうぞ」

 お邪魔します…とばかりに、頭をかがめて入ってきたのは35、6の男性、続いてかつてのメンバー。マスターはあれっとばかりに後ろを見やったが、後ろに客はいなかった。


 「何にいたしましょう」

 落ち着いた頃を見計らって、マスターが声をかけた。

 一瞬。

 一人以外の全員が目を見合わせた。

 「…え…そ、そやな…」

 「大さん、アラウンドなんちゃら、やろ」

 「あ、あぁ。ほやな。マスター、アラウンドザワールド5杯」


 かつてのように、5つのカクテルグラスの均等に酒が注がれ、かつてのように「ほぉ〜」というため息が生じた。続いて乾杯の声が上がった。

 ワイワイガヤガヤ…何事やらで盛り上がる渦の中は若い男性である。3人の定年過ぎが、何かというと彼を話題に引き込んでは、自分の田に水を引く。やや引き気味だった大さんも、酒が進むにつれ、興が乗ったか調子を上げる。なんだかんだと声が大きくなる。

 「やっぱり女はいかん。細かい。肝が細い」

 「男はやっぱりついてるもんが違う」

 開け口から始まったとはいえ、カウンターにも客はいる。やれやれとマスターはセット席に向かう。

 「すんません。他のお客さんもおるけん。ちぃっと声を下げて…」

 マスターの顔をギロッと睨んだのはメンバーの中でも、一番シラフな客である。

 「なにを…」といわん先に、大さんが

 「すまんなぁ、久しぶりやさかい。丁度ええわ、チェックお願い」というなり、財布を取り出した。

 「大さん、そら、せられん」とシラフな客が冷たい声で言う。

 「まぁまぁ、置いとき。ここはここ、次、みんな行くやろ」

 「せやせや」

 「日本酒でも飲みにいこか」と若いもんの肩をたたく。

 どやどやと、どこか不満げな肩が揃って出て行った。



 翌の深更。

 ぎぃ〜とためらいがちに木の扉がなった。

 「大さん、いらっしゃい」

 声をかけてもらって、ホッとした様子で大さんが入ってくる。

 「この前はすまんかった、この通りや」

 「せられん、せられん。ようあるこっちゃ。せやけぇん、ええって。けどな、他のお客さんもおるよってな。」

 「すまん、すまん」と大さんはしょげた様子ながら、カウンターにどさっと座った。

 「で、何にするん」

 「いつもの」

 マスターはゆっくりとバックバーからボトルを取り出すと、ジンライムを作ってカウンターに置いた。

 大さんは、ちょっと照れたような顔をしつつ、ゆっくりと口をつけた。


 深更とあって、大さん以外に客はいない。


 ゆったりとしたドラムスにベース、時折高音のトランペットが絡み合う。


 「マスター。この前のな…」と言いかけて、口を閉じる。

 マスターはなにも言わずにグラスを拭いている。

 

 コトっと音を立ててグラスを置くと

 「マスター、お代わり」

 「何にする」

 「ジンの…色の変わる…」

 「あぁ。よっしゃ」


 マスターはシェイカーを取り上げ、カクテルを作り上げると、大さんの前に置いた。

 淡いピンクのカクテルグラスがそっと佇んだ。

 大さんは、細いカクテルグラスのステムをこわごわつまむと、そっと口をつけた。


 「強い酒、やな」

 「あぁ、ほとんどジンのストレートと変わらんけん」


 「マスター、一寸聞いてくれるか…」と大さんは話し始めた。

 「あれな、模型作りの同好会、というほどもないもんやけど。定年過ぎたおっさん連中が、小さいときを思い出して、というより小さい時にはできんかったことをやりとうて、集まったんよ。ミリちゃんって呼んどった子な。30前の女の人を「子ぉ」ゆうのもなんやけぇんど…。あの娘とは模型の展示会で出会うて。そらぁ珍しいわ、戦闘機のモデルやけん、女の影なんてこれっぽっちもないけんな。けどえろう真剣で、出しとったモデルも立派なものやったけん、感心して声かけたわけや。ほしたらな、気ぃも会うたんやけど、向こうは細かい細工をしたいけど技術がない、こっちは技術はあるけど細かい作業に困るってなわけで、一緒にやろかになった。最初にこの店に寄せてもらった時は、みんなして映画『素晴らしきヒコーキ野郎』に登場した、ほら、複葉機な、あれを一人一台作り上げて。複葉機やけん、プラモの図面から木工部分を木で作ったりしたけん、展示会でも好評で、その祝杯やった。ミリちゃんはプラモの図面を木工用図面に描いてくれたり、細かいところを仕上げたり、チェック入れたり…。

 今のプラモはように出来てる。けど、凝りだすときりないんけん、風防やら機銃やら、名高いパイロットの搭乗機の塗装にしたり…。複葉機を作っとった時は、ミリちゃんが率先して色々調べてくれとった。口癖が『ちょっと気になって』やった。ミリ単位で気にするもんやけん、ミリちゃん。

 みんな『ミリちゃん、そこは紙やすりをこうやって使うけん』『ミリちゃん、こんなもんやろ』『ミリちゃん、マスキングテープやけん、そこ』…ま、男の性分。女の子の前ではええ格好したい、気も引きたい。幾つになっても…というより、70の声を聞こうかという歳や、色恋の『い』の字も無縁やろうなぁなんて時やけん、いっそう…てなもんや。ほんま、性のないことよ。

 複葉機で調子に乗ってな。次何作ろう、人を驚かせるようなもん作らないけんやろぅっていうのも、ミリちゃんがおったけんかもしれん。大けなもんや無理やけん、編隊でやろうや、質も揃えて塗装も再現して…そこまではすんなりいった。そこから先が大揉めや。

 日本の…となると真っ先に出るんが零戦。けどな、凝り性でいうと『素人ウケ狙い』や。渋いところで、月光!いやそれはない、名パイロットが率いた隼のIIや。いやいや、隼はいかん、地元に縁のある紫電改や…誰も引かん。揉めに揉めて、やれんわと思った。それでも『やりたい』って思っとったんは、一緒やったけん、結局地元に縁があるっちゅうことで紫電改になった。豊後水道で戦って撃墜された戦闘機やけん。けどやってみるとこれが難しい。なんせ地元に本もんがあるけん…。細部の汚れやら、傷やら再現すとなったら、誰がどう作っても文句が出るもんやと思う。そこへもってきて編隊組むけん、大きなスケールではでけん。細げな作業が多なる。ちょっとした手の狂いが、あとあと響く…正直、作ってて投げ出しそうになったよ。

 一人やったら投げ出して終わりや。そうおもて、周りを見る。誰かが手を動かしてる、誰かのんが進んでる。投げられん、くそっ〜って。65過ぎてんのに、気分は15の時やけん。いやそれより悪いかもしれんなぁ。前の仕事の肩書きやとかな、それまで気にしてないもんが妙に鼻について、刺々しいなって…そこへミリちゃんが前と同じ調子で、ミスやら不具合やらを指摘する。また、ミリちゃんのが一番先に仕上がりそうやった、完成度も高かった。けど誰もそれを認めるのが嫌やったんや。肝の小さい話よ。

 なんだかんだで不満やら不平やら、みんなミリちゃんの所為みたいな雰囲気ができてしもうて…いや、わしも恥ずかしいけん、いわれんけどな、本心はもうええわ、投げやりよ。集まってやる機会もだんだん少なくなってな…。

 1年前ぐらいかなぁ、そんな感じやったんが。

 棚に埃のかぶった紫電改。見るたんび、情けのうなる。出来てるんは出来てる。普通の人が見たら完成品や。ピカピカのな。それがいかんのよ。戦闘の後とか、パイロットの徴。凝り性の人は被弾の後まで作るんやけん。せめて経年の汚れはつけんとな。ここの空、飛んでたんやけん。外国やない、車に乗ったらいけるところに本物があるけん。けど、手がつかん。後で聞いたら、みんなそんな状態やったらしいわ。ええ大人が」


 大さんはまた一口、カクテルをすすった。

 そして苦そうな顔をした。


「ジンライムよりきっついなぁ」


「ま、そんなこんなで文字通り空中分解。


 やったんや、半年前までは。


 半年前、ミリちゃんからわしのとこに荷物が届いた。中に入っとったんは見事な紫電改剣部隊機。一番機やなかった。それと大けなサイズの紫電改のキット。昔のんやろ、箱が日焼けしとった。蓋、開けてみたら、キットは手付かず。昔のプラモデルらしい、バリやらいっぱいついてる、まぁ今のキット見慣れた目で見たら、手のかかるのは一目瞭然。しかも説明書が簡単すぎて、細かなモールドなんかもない。近頃は主翼の日の丸なんかは綺麗なシールが付いてるが、それもええ加減なもん…。なんや嫌味なと鼻白んだよ。それでも取り出すだけでもとキットを出してみたら、下の方から手書きの図面が出てきた。

 紫電改の丁寧な図面や。キットはある、バリを取って、図面の通りに整形してやったら…どでかい紫電改ができそうや。けど、一人やったら無理や。それでな、もういっぺん他のメンバーに連絡を取った。とりあえず、いつものところでキットだけでも見ぃやってな。

 見たら作りたい。せめてバリ取って、組み立てるだけでも。ほやな、可哀想やけんな。って、またみんなで組み始めた。結構厄介でな。組み立てが甘いんよ。ここを締めたら、こっちが緩むってナンてことがしょっちゅうや。まぁ細かいゆうて、前のとは3倍ぐらい大きいけん、そういう作業はめんどいけど楽しいもんよ。手馴れてることもあるしな。しかも風防とか細かいとこで、キットにないとこは、図面に材料やら作り方やらが描かれとる。こらいける、行けるわ。で、半年がかりで組み立てて、塗装もまぁまぁ当時そのままとはいえんが、そこそこ傷やら汚れ具合も出して、さすがにコックピットの操縦者までは作れんかったが…。


 展示会でそれ見て、声かけてくれたんが、この前来てたあの若い男の子よ。

 他の連中の舞い上がること、舞い上がること。しかもあの子、専門でCADったらもんを使えるらしい。精密に、でも作りやすく図面を描いてくれるってな…。これでまた再開や!今度こそ編隊や!!てな訳でな、あの日のあの調子よ。」


 そういうと大さんはカクテルを呑み干した。


「きっついなぁ」

「何べん目よ」とマスターが返す。

「どこまでいっても、きっついわ。ジンだけよりキツイで、このカクテル。ピンクはピンクでも花のピンクやないって言わんばかりや。


 似てるなぁ…やっぱり。」


「うん?あぁ…そんな感じか。」


「あぁそんな感じや。最後にちょびっと甘いような冷たいような味が残るとこまでな。」


「大さん、お代わり、いるか。」


「あぁ貰おかのぉ」




外では、明け染めの薄紅の空色が梅雨の鈍い雲に押されて、今にも閉じようとしておりました。

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