第七部 四章 -ルス・イ・ソンリサ-

 強く吹く風に揺られる髪を押さえて私は目を細めた。切るべきかな、と思いながらもずっと伸ばしてきたから急に切ったら寒いかもしれない。

 「ね、ねぇ……!レブ!」

 寒いかも、というか今の状況だったら確実に寒い。この場がこんなにも寒いとは思っていなかった。私は思わずレブへと顔を向ける。

 「私よりも周りを見ろ」

 「いや!ちょっと無理だってば!レブ!」

 私はレブに抱えられた状態で空を飛んでいる。眼前の遥か下に広がる海は陽の光を反射しても尚、青い。

 パストル所長に話をした日の内に私達は船を手配してもらえた。その翌日、すなわち今日には昨日話した先陣班はこの海原へと出発していた。つまり、私達の事。

 話を通す際のニクス様はまさに鶴の一声とフジタカは言っていた。契約者を優先する者達を前に、契約者を出せば大抵の言う事は聞いてしまう。だけど今回船を出すまでに至るとは思っていなかった。

 聞き入れるに際し、当然向こうからの条件も言われている。港町だから船は当然持っている者が多い。港町アスールの召喚士育成機関の支所長が個人管理の船を持っていても不思議はない。

 ただしそれを使わせてもらう条件として、持ち主であるパストル所長もガランまでは同行する事が提示された。断るのであれば泳いでもらうなんて言うものだから、私達もその条件を呑む外ない。

 「船酔いをせずに済むではないか」

 「ニクス様の羽も持ってきてるってばぁ!」

 だから先陣を切るのは私とレブ、ウーゴさんとライさん。そしてパストル所長だった。基本的に特定のインヴィタドは連れない、なるべくは自分で戦う主義らしい。

 「ふむ。異常は無い、か……」

 西ボルンタとガランの中間に位置する小島、レパラルが当面の目的地。小型の船に水の精霊、オンディーナを呼び出して速度を上げてもらえば一日あれば着いてしまう距離だ。整備や補給で寄る小島だが、出発して早々見えてくるものではない。

 「……高いなぁ」

 熱にうなされたチコとニクス様はフジタカとトーロ、そしてカルディナさんと一日ずらして客船でレパラルへと向かう。だから先に着いた私達は一日の猶予で海竜を倒さなければならなかった。戦力が分断された上に、一撃で終わるフジタカも今回は呼べない状況に私はじっとしていられなかった。

 なのに出発した直後、まだアスール港が見えている段階でレブは私を抱えて船から飛び立った。それからはずっと船の直上を維持したままで飛んでいる。

 「この景色を貴様と見ていたかった」

 「は……?」

 レブの翼は角度を変えてはいたがあまり無暗に羽ばたいていない。翼が風を切る高い音に紛れてレブはぼそりと呟いた。

 「もうすこし、穏やかな時に見られれば良かったのだが」

 「あ……」

 レブの目が私を向いたのでつい、私は景色の方を見てしまう。だって景色を楽しもうなんて気持ち、少しも無かったから。

 雲は高さが違う。この空にいるのは私達だけではない。無数の鳥も餌の魚を狙って飛んでいる。パストル所長の船の帆桁にも何羽か羽休めに集まっていた。

 移動しながら見る上空の景色がこんなにも眩しい物とは思わなかった。照り返しと言われればそれまでだが、素直に綺麗だと感じてしまう。それどころではないのに。

 「ありがとう、レブ」

 「ふん」

 しかもレブの腕に抱かれて見ている。少し前じゃ今と同じ真似はできないもんね。

 「う……おい!」

 ゆっくりとレブの胸に頬を擦り付ける。やっとこの場に運んでくれた事に対して感謝できる様になってきた。

 レブの心音が直接耳に響く。ドッドッと力強く鳴る胸は私達と似て非なる……。

 「……照れてる?」

 「静かにしろ……」

 もしやと思って聞いてみるとレブの口が曲がった。

 「そうしたらもっとよく聞こえちゃうよ?」

 レブの目がほとんど瞑る様に細まった。まるで糸みたい。

 「……だったらそろそろ下に戻るぞ」

 「ちぇー」

 フジタカがいない分、からかい方を真似してみたけど私とじゃ全然扱い方からして違うもんね。レブが私を抱え直してゆっくりと下降する。

 「上から見た限り、妙な場所や気配は無い」

 「……そうでしたか。お疲れ様でした」

 迎えてくれたウーゴさんが少しだけ張っていた肩を落とす。警戒をしてばかりはいられないし、ちょっと休んだ方が良い。……ウーゴさん、顔色良くない気がする。

 「ウーゴさん、まさか船は苦手とか……?」

 「ははは」

 笑って体を逸らしたウーゴさん。

 「そのまさかです……」

 ……どうしよう、と自分の手に握られたニクス様の羽に目を落とす。

 「ウーゴさん……これ、使いますか」

 「それは……!」

 見ただけでどういう代物か分かってしまったのかウーゴさんの目が輝く。もう、あとには引き返せない。

 「酔い止めにはなりますから」

 「しかしこれは……」

 どうして私が予め持っていたのかウーゴさんなら察しがついてしまう。だけど努めて私は笑顔を作った。

 「前に怪我した時に貰った物をずっと持っていたんです。今も効果があるかは分かりませんけど……」

 今日まで効果が切れたとは感じなかったから、ウーゴさんに渡った途端に無力と帰す事はないと思う。

 「寝ておけウーゴ。見張りなら俺が引き受ける」

 海を見ながらライさんが声を張る。船の揺れと風に合わせて揺れた鬣で隠れた表情は読めない。

 「だけどライ……」

 「オンディーナの維持に集中してくれれば、俺でもどうにかできる」

 「……分かった。船室にいる。何かあれば言ってくれ」

 ライさんはコクン、と頷くだけで返事として海を見ていた。苦笑したウーゴさんに私はニクス様の羽を手渡してやる。

 「とりあえず手に持っていてください。吐く程の船酔いも、なんだか気分が悪いくらいまでには抑えてくれます」

 「お借りします。見張りの交代もいつでも言ってください」

 「ありがとうございます」

 船室の閉まる音が波の音に紛れて聞こえてきた。それと同時に私には何かが込み上げてくる。この一方通行の食道を、入口から出口に変えようとするこの感覚、忘れもしない。

 「れ、ぶ……」

 「いいだろう」

 レブが私を抱えて翼を広げた。低空飛行を維持するのも楽ではないだろうが、幸い船に合わせて前へも緩やかに飛ばなければならない。バサバサ翼を動かしていれば揺れるだろうが、風に乗っている分には揺れも少ないので酔う事も無かった。

 「やっぱり、船には弱いじゃないか」

 こちらは見ずにライさんが口を開いた。

 「……本当はニクス様の羽で慣れてもう平気!だと思ったんですけどね……」

 自分に耐性がついたと思えればあとは無理にでも我慢できると考えていた自分が情けない。病は気からではない、元からだ。

 「ウーゴから取り返そうか?君にも必要だろう」

 「いいんです」

 「私がついているからな」

 ゆったりとレブが傾き、身体が船縁を越える。私は抱えられるままにレブへ身を委ねた。そのまま私達は船縁に腕を乗せていたライさんの横へ滑る様に移動していく。

 「快適な乗り心地の様だな」

 「ライさんは平気なんですか?」

 頷いたライさんは穏やかに微笑む。

 「俺はな。だけど我儘がいてな。歩くのが疲れたからと言ってたまに馬車を使えば気持ち悪いと……あ」

 流暢になった口調が段々尻すぼみになっていく。話の内容はなんとなく……なんとなくだけど、ウーゴさんの事ではない気がした。

 「……すまない」

 「謝らないでくださいよ」

 何もライさんは謝る様な話はしていない。もしかしたら私が誰の話を聞いているのか気付いたと顔に出ていたのかも。

 「はは……。怪我をして貰ったと言っていたが違うな。船酔いが平気なら、あそこまで船酔いの症状を比較して語る事はできない」

 「嘘は短く、ですね。ボロが出ちゃうから」

 まったくだ、と言ってライさんは無理に笑顔を作る。そう、本当は船酔いに苦しむ私達を見かねたニクス様が下さった物だ。

 「ライさんにも、ニクス様の羽が必要なんじゃないですか?」

 「俺に?……そうは思わないな」

 話をしながらも当然、自分の任務は忘れていない。穏やかで静かな海を監視する目は光らせてある。

 「だってライさん……ずっとまともに休んでいないじゃないですか」

 現状、光らせた目に留まるのは……どうしてもライさんの姿だった。アスールに着いた時の様に、ほんの一瞬肩から力を抜いているけど外に出ると途端に目付きが変わる。今の私達と話をしている間も目が据わったままだ。

 「人間と一緒にしてもらっては困るな」

 「私達と違うのは分かります。その力を頼りにもしています。ですが、獣人や人間と言う前に生き物としてそう遠くないじゃないですか」

 レブが急に私を抱く手に力を込めた……気がした。彼の顔を見ると引き続き海を警戒していた。

 「……あまり、寝ていないんじゃないですか」

 「………」

 だから目付きも鋭くなってしまっている。寝不足で頭痛や何かを併発しているかもしれない。

 「俺は、平気だ」

 自分に言い聞かせる様な強い口調にレブの目もしばしライさんを向いた。

 「召喚士だけ休ませても、自身の力を扱うのは我々なのだぞ。この娘は例外だがな」

 「……承知している」

 重ね重ねレブと言ってもライさんの態度は頑なに変わらない。

 「契約者を守る。その障害を全力で排除するのが俺の役目だ。今回の作戦を提案したのも俺だしな」

 「契約者の名を盾にフエンテを殺したいだけではないか」

 レブの言葉にライさんが威嚇の形相でこちらを見た。だけどレブは喧嘩を売るつもりで言ったのではない。

 「その目的を果たしたいのなら、今の状態で勝てないぞ」

 「………」

 船縁に爪を立てていたライさんの手からふっ、と力が抜ける。私は自分に対して言われた気がしてレブの手にそっと自分の手を重ねた。

 「私にはお前が死にたがっている様にしか見えない」

 「そっ……!」

 言い過ぎじゃないかと私はレブを見たが、ライさんも言葉を詰まらせた。

 「俺は……」

 「自分を縛る枷を課した者が何をすべきか。気付いて行わぬのならただの愚か者だ」

 手が離れた船縁にはライさんの爪跡がしっかり刻み込まれていた。

 「……少し、横になりたい」

 「構わない。空からなら全方位を見渡せるからな」

 ライさんが軽くレブに対して頭を下げた。

 「すぐに……」

 「しっかり休んでくださいね」

 「……あぁ。ありがとう」

 言い欠けた言葉を引っ込めてライさんはウーゴさんに続いて船室へと入って行った。私は海面に目を落としながら今度はレブに話し掛ける。

 「レブだって休みたいと思わないの」

 「人間と獣人は違う。獣人と竜人も違う。ならば、人間と竜人も違う」

 「……うん」

 必要無いって言ってるし、私もそのままにさせている。ライさんには休んでと言っておいて。

 「さっき言ってた今の状態ではってさ……レブの事も含んでるの?」

 もう一つ、私が気になっていたのはライさんに休むよう、遠回しに勧めたレブの一言だ。

 「私は海竜には負けない」

 そう、海竜“には”負けない。行動の制限が徐々に減ってきたレブの体なら以前に苦戦した相手でも今ならもっと容易く勝てるのだろう。だが、予想はできるのに漠然と胸につかえた霧は晴れない。

 「……よろしくね」

 「任せろ」

 これも同じ事だ。私の質問の意図を読めないレブではない。なのに敢えて言わないのならば、聞かせたくない理由がきっとある。レブにとっては今は大局ではなく当面の敵を倒す事の方が重要なんだ。だったら、私もその隣に立っていよう。

 「ところでさ」

 「どうした」

 「私……重くない?」

 話題の方向を変えようと私はレブの腕の中に納まり直す。すると海を見渡していたレブは目を見開き、その瞳はこちらへ向いた。

 「……重くない」

 「今の間、なに?」

 「重ければ退かしている」

 質問の答えになっていない。次の質問に対してその答えはおかしい。

 「本当の事を言って」

 「……貴様の重さを確かめていた。……違うな、楽しんでいた」

 「………」

 前より重く感じる。だから言葉を選んだなんて言おうものなら怒りもしたのに、そんな事を言われたら……。

 「このまま離したくない。船旅とは良いものだ」

 「に、ニクス様の羽があればレブに抱えてもらわなくても平気なんだよ!」

 レブの目が再び前を向いた。

 「私の乗り心地は良くないらしいな」

 しかもそのまま拗ねちゃうし。ああもう!

 「じゃあお願い!新しいニクス様の羽を貰うか、ウーゴさんが船酔いを克服するまでは私を抱いていて!」

 「承知しよう」

 ほとんど言い終わると同時に返答したし。調子良いんだから……。

 「寝る時は……」

 「私の腕の中で構うまい」

 「構います」

 毛布に包んだ私を抱えて夜通し飛ぶ気か、この竜人。でもレブなら本気でやりかねない。

 「私も海竜相手には魔法を使うつもりだ。私の召喚士には万全でいてもらわなければならない」

 「レブに抱かれて寝たら安眠できるの?」

 「ふむ」

 レブの口が一度閉じる。

 「世が世なら、今夜は寝かせないと言うのだが」

 「フジタカの入れ知恵、まだ貯蔵がありそうだね……」

 レブの口が閉じるものだから、顎を掴んで引っ張ってみる。岩の様にびくともしない。

 「……この騒ぎが終わって余裕ができたらね」

 「分かった。全力を尽くす」

 あ。私が軽はずみな事を言ったんだ。しかも今回はブドウ酒とかそんなものじゃない。自分自身をレブに捧げると宣言した。時期まで告げて。鼻息を荒くしたレブはすっかりその気だった。

 「空回りしないでね」

 撤回するのなら今なのに、皮肉っぽい応援が自然に口から出てしまうだけ満更でもないんだ。そんな自分の気持ちに気付いた分だけ、彼と自分との違いも浮かび上がってくる。本人が気にする素振りを見せないから余計に考えてしまう。

 「レブの事だって心配なんだから」

 「気持ちは有難いがな。杞憂でしかない」

 強がりでもなく心からそう思って言っているのは、その自信満々の口調からもよく分かる。発言を裏打ちする様な頼もしい肉体に抱かれながら私も目を凝らして海竜を探した。

 そのまま日没を間も無く迎えるところでパストル所長が操舵室から姿を現す。先に私が見付けてレブに言うと静かに下降して、再びライさんが立っていた位置辺りまで移動してくれた。

 「異常は無さそうだな?」

 「はい!」

 「……って!あぁぁぁぁぁ!?」

 レブと二人で海を監視していたんだ、その中で海竜や他のビアヘロを見掛ける事は無かった。だからこそ私ははっきりと断言したのに、パストル所長は悲鳴を上げた。

 「ど、どうしたんですか!」

 「これぇ!」

 パストル所長が手を上下させて下を指差す。私は船の底の方を見たが魚影も何も見当たらない。

 「違う!もっと上!つーか、これ!」

 再び叫ぶ所長の声に合わせて慌てながら顔を上げると、そこはただの船縁だった。

 「うーん……」

 指差した場所、それはたぶんライさんがちょうど私達と会話をしていた場所だ。……よく見ると、昼間のライさんの爪跡が刻まれている。

 「あ……」

 「誰だ!俺の船に傷作ったやつぁ!」

 「うっ……」

 青筋を浮かべて声を張る所長に二人で顔を見合わせる。正直に言っても良いのだろうけど……。

 「………」

 レブが鼻を短く鳴らした。

 「これから海竜と戦いに行く男とは思えない発言だな」

 「なにぃ!アンタが犯人か!」

 レブを睨んで唾を吐き散らしながら所長は怒鳴る。その形相は昼のライさんに勝るとも劣らない勢いだ。

 「私が犯人だとしたら追い出すとでも言いたげな顔だな。だがそれは関係ない。私抜きで勝てるだけの戦力をこの海上で、契約者が追い付くまでに用意できるとは思えないからだ」

 「ぐ、ぬ……うぅぅっ!」

 その傷を作ったのはライさんだから関係無いのも事実。だけどライさんがそんな傷を船に作るだけ挑発したのはレブだ。無関係と言い張るには若干の抵抗が残る。加えて、たぶん今からとっておきのインヴィタドを用意するのも難しい。だから所長も顔を真っ赤にして言い留まっている。

 最初の一言をレブに任せた私も同罪、だよね……。私はレブの腕を軽く叩いて船に寄ってもらう。

 「ご、ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!私達のせいです……」

 「う、むぅ……」

 謝っても傷は修復されない。だけど謝ってしまえばそれ以上強くも言われない。だからズルい選択をしてしまった自覚もある。

 「はぁ……。まぁ、しゃあねぇわな……」

 レブが事実を突き付けた後だから余計にそう思い込むしかない。治まりが悪いのは分かるがパストル所長も怒り心頭状態からは脱してくれたみたいだった。

 「……ザナだったな。君がやらせたのか」

 「いや……」

 「あの獅子を私が怒らせたのだ」

 そうなんだけど、こっちの心の準備ができてない状態で話を進めないでよ。言葉が纏まってないんだから。しかしパストル所長は一息吐くと笑顔を見せてくれる。

 「なんか分かる気がするよ。アンタ、敵が多そうだ」

 「今のところ向かう所に敵は無い」

 「無敵ってか。はっ!確かに……強そうだし、敵もだが味方も多そうだ」

 うん、今まで戦ってこられたのはレブ一人のおかげではない。フジタカやチコ、トーロやティラドルさん。たくさんの人が助けてくれたから今の私達がある。パストル所長と目が合うと、顎に手を当てて首を傾げた。

 「で?なんで抱き抱えられてんだ?召喚士は下がってればいいだろ」

 仰る通り、ごもっとも……。

 「下がれないんです……。船酔いが酷くて……」

 目を丸くし固まってからパストル所長はぷ、と吹き出した。

 「はぁ!?それであんなに意気揚々と船に乗り込んだってか?だぁっはっはぁ!こりゃあ傑作だ!海竜退治に乗り出した召喚士が船酔いを紛らわす為に空中に出たって?あーっはっはっは!」

 「うぅ……」

 膝を叩いて笑うパストル所長に、私はさっきの所長とは違う意味で顔が熱くなってきた。

 「戦力を一人減らすが問題有るまい」

 「止めて」

 先に怒らせたのはこっちなんだから。それを抜きにしても私とウーゴさんだけじゃ……。

 「はぁー……笑った笑った。俺の船に傷付けた獅子獣人とその召喚士……ウーゴさん?でいいんだよな?アイツらはどこ行ったんだ」

 「ウーゴさんは船酔いで寝てます……」

 「………」

 流石に二度目は笑わなかった。

 「大丈夫なのかよ……」

 「ライさんは強いし、レブもこの通り!まだまだ元気なので!」

 こっちから持ち掛けた話に影が差しそうになるのをこちらの立ち振る舞いでなんとか信じてもらいたい。言い出した以上、やり遂げる覚悟は持っている。

 「この船を無傷で持ち帰りたいのも分かるが、相手は生半可ではあるまい」

 「その相手以外に傷付けられたから怒ってるんだよ……」

 竜同士の争い。私が見たのはレブとティラドルさんの訓練、そしてこの前のレブと飛竜の戦いだった。特にワイバーン戦で肝が冷える思いをしたのは忘れない。あの攻防の激しさは他の種族との戦いでは到底見られなかった。無傷で帰れる保証なんてまったく無い。……だからって、船に傷を作っても良いと置き換えられる訳でもなく。

 「そうだぞ。ああいう奴らにいつ襲われるか分からない。だからその時の為に普段は手入れを欠かさないで、万全にしておいてやらないといけない」

 一理ある。レブもパストル所長の一言にそう思ったのか体勢を変えて船に着地した。

 「万全を期すのであれば、操舵室を離れるべきではあるまい」

 「オンディーナが張り切ってくれてる。話を聞くに、おそらくウーゴさんが起き出したんだろうさ。それにこの海はいわば俺達にとっては庭だ。どこにいても目的地は見失わねぇよ」

 その頃、灯台の光がこの海にまで届いているのが見えた。そうか、あの光さえあれば帰る事はできる。

 「……注意してくれ。このまま進めば夜明けにはレパラルに着く。だがな」

 コン、と飛沫にしては違う音が耳に入って来て、私はレブと共に船の壁面を見た。小さな木の板がぶつかっていたのだ。この海の真ん中で。

 「前回、海竜にやられたはこの海域だ」

 「……」

 私はレブと顔を見合わせる。

 「夜の見張りは私が引き受ける。レパラルに着くまで寝ておけ」

 そっとレブは私を下ろして翼を広げた。

 「一人で戦おうとするなよ」

 「私とて共同戦線の意味は知っている。それに、仕掛けるのはこの場では無さそうだ」

 何を感じ取ったのかレブは目付きを鋭くして浮かび上がる。

 「一日飛んでいるのは疲れるんじゃないの?」

 「貴様の酔いを防ぐ為に飛んでいたのだ。夜明けまではあの上に立っていれば良い」

 言ってレブが指差したのは帆を吊るす帆桁部分だった。しっかりした太さはあるけど木は木だ。あまり乗るべきではないと思う。

 「……暴れんでくれよ」

 「敵が来なければ見ているだけだ」

 ……もしかしてレブ、船とか好きだったのかな。パストル所長はレブからの返答にとりあえずの納得をしたのか数度頷くと操舵室へと戻っていった。

 「……早く寝ないと貴様が苦しむだけだぞ」

 二人になって開口一番、レブは私を見下ろして腕を組む。

 「この海では仕掛けてこない?」

 「どうやら向こうからは、な。だからこちらから潰す」

 レブが握り拳を作って見せた。さっきは気配が無いと言っていたから、ほぼ問題無いとレブは確信しているみたい。

 「……おやすみ、レブ」

 「あぁ、おやす……」

 寝る前の挨拶に、と何気なく言ったら思わぬ返答が聞こえてきた。それに対して私が表情を変えて我が耳を疑ったからもう遅い。

 「………」

 「………」

 「……酔うぞ」

 惜しかった。言ってくれると思ったのに!

 「おやすみくらいいいじゃん!」

 「……早く眠れ。翌朝顔を合わせた途端に吐かれては堪らないからな」

 そう言えば初めての船旅ではレブにずっと看病してもらってたもんな……。く、もう少し頑張るか、自分が鈍感だったら。

 言い返そうと言葉を探るうちにレブは帆桁に向かって飛んでしまう。……もう少しだけ我慢できたら食い下がるがレブに釘を刺されたのもあり、私は渋々部屋に戻って休ませてもらった。

 翌朝、船室から出てみると景色が変わっていた。木々生い茂る大地と砂浜、そして石垣が組まれた小さな港が見えている。

 「おはよう、レブ!」

 「……ふん」

 あぁ、一晩じゃやっぱり機嫌良くはならないか。だけどレブは何も言わずに私を抱き抱えて飛んでくれる。

 「ねぇ、まだ他の三人に挨拶してないんだけど……」

 「寝惚けて悠長な話をしている場合ではないぞ」

 「そういうこったな……」

 レブに続いてパストル所長、そしてウーゴさんと鬣が乱れたライさんが姿を現す。寝癖は酷いが目はしっかりと開いていた。

 「着いたら身支度。そうしたらすぐにでも再出立だぞ」

 「は、はい!よろしくお願いします」

 レブに抱かれたまま、ってウーゴさんから見たら違和感があるだろうけど、説明している余裕も無いと言った様子で所長もライさんもきびきび動き出す。私も圧倒されながらまずはちゃんと目を覚ましておくのが先決と判断した。

 上陸間際になって気付いた違和感を拭えないままに私達はレパラルへと着いてしまう。到着さえしてしまえばその空気の違いにただただ圧倒された。

 「レパラルって……」

 「あぁ。とっくに避難させてあるよ」

 人々の生活臭が残る港から人の姿が完全に消え失せている。そこにいたのは鳥や虫だけ。建物は姿を残して存在しているのに、それを建てて暮らしていたであろう姿が誰もいない。

 「俺達が出発する前日の夜にレパラルの連中はアスールに来てもらった。とっくに向こうで遊んで飲んだくれてるだろうよ」

 歯を見せて笑うパストル所長はひとしきり笑ってから再び表情を引き締める。

 「この島一つが今日から明日までは俺達五人の拠点だ。覚悟を決めてもらうぞ」

 「はい!」

 私以外は返事をせずに頷くだけだったが気構えはできた。もぬけの殻となった港はただの砂浜を歩くよりもどこか不気味で、日中でも居心地が悪く感じてしまう。

 「避難するのも危険だろうに、よく無事にアスールに着けたものだ」

 「海難のビアヘロは初めてじゃない。……ただ無様にやられたわけでもないんだぜ」

 レパラルを眺めて呟くレブにパストル所長は苦笑して背を向けた。

 「ただやられた順番がまずかった。真っ先にレパラルに常駐していた手練れの召喚士とインヴィタドがやられ、あとはなし崩しでやられちまった」

 ぺち、と頭を叩いて所長は目を伏せる。

 「俺がすぐに出ていりゃ、こんな大事にもなっていなかったかもしれねぇ」

 「それはどうだかな」

 レブが異論をぶつけると同時にレパラルへ向き直った。

 「どういう意味だよ」

 「待ってください!」

 いっつも言い方が悪いから人を怒らせるんだ。だけど、この状況でレブが一人で別方向に動いた。その意味が分からない私やライさんじゃない。

 「ビアヘロ相手なら話は分からないが、相手はインヴィタドだった。敵意と知恵を持った異形は、人間にとっては脅威だろう」

 その時、レパラルの露店らしき建物の影で何かが動いた。レブは手をその店の方へ向けると静かに告げる。

 「その位置で薪になりたくなければ出てこい」

 「………」

 少しの間を置いて、人のいないレパラルからこちらへと向かってくる老人。ライさんは躊躇いなく剣を抜いた。

 「な、何してんだアンタ!こんな場所で一人……」

 フエンテについては知っている筈だし、今私達の前へ近付いてくるロルダンの特徴だって伝えてあった。だけどパストル所長は気付いた様子も無く心配そうに老人へと声を掛けてしまう。

 「こんな場所で一人、だからこそ好都合なのだろう」

 「は……」

 「その通りです」

 姿を見せた事へ免じたのかレブは腕を下ろし、所長はそんなレブにぽかんと口を開ける。一方でライさんは剣を構えて一歩前に出た。

 「止まれ。それ以上近付くな」

 「姿を見せねば雷に打たれ、前へ出れば剣の閃きに裂かれる。これでは打つ手がありませんね」

 言葉の割に余裕を持ってロルダンは私達と対峙していた。

 「好都合な状況をこれだけ手を尽くして用意したのに、とんだ邪魔が入りましたね。それに、人員も不足している」

 レパラルに誰もいない状況を作ったと言うのなら、海竜はやはりロルダンが用意した物だったらしい。しかし全てが相手の思う通りにはいかせない。

 「貴方達の求めるフジタカ君も、ニクス様も来てはいませんよ」

 「ふむ……横やりの方が多いこちらは外れ、でしたか」

 ウーゴさんを一瞥してロルダンは肩を落とす。その直後に背後の海から大きな水音が立った。水飛沫が小雨の様に私達の頭上から降り注いだが誰も動かない。海に何かがいるのはすぐに分かった。だからこそ、迂闊に動いて隙は見せられない。

 「竜を相手にするのです、間違いなく貴女達とロボの息子は来ると踏んでいたのですが」

 「小型の海竜と既に話は聞いている。私と犬ころを同時に誘い出す餌には些か物足りなかったな」

 来てもらいたかったというのが正直なところだけど、レブはそれを微塵も感じさせずに攻勢を保ったままロルダンを威圧する。隣に立つ私だって負けてはいられない。

 「これが私達なりに考えて取った最善の行動です。戦力は下がっても、目的を果たさせないだけでもこちらには利点になります」

 「別行動、確かに人をあちこちに割いてはいられない我々からすれば非常に効果的ですな」

 ロルダンが口を開く度にライさんは顔を険しくして剣を握っていた。だけどライさんが飛び掛かる前、押さえる様にしてパストル所長が前に出る。

 「こうして会うのは初めてか。フエンテさんよ」

 「こちらは一方的に知っていましたよ」

 ロルダンに対して眉根一つ動かさずにパストル所長は相手を見ている。雰囲気は出ているが、そこに殺気らしきものは乗っていない。

 「優秀な召喚士、な。噂に違わぬ貫禄を持っているじゃないか」

 「パストル・アレン。自身の力と周りからの支持で短期間の内に召喚士育成機関アスール支所長にまで上り詰めた男に、そう言ってもらえるとは。長生きはしてみるものだ」

 褒め合っている筈なのに漂う空気は重い。私だって、相手からの称賛が皮肉だとは分かり切っている。パストル所長だって同じだ。だから腰に提げた短刀の柄に手を乗せている。

 「……ふむ。確かに力はあるのでしょう、だが、遅咲き過ぎた。貴方はフエンテに足る力は持っていない」

 「そうだよ。俺は単なる召喚士で十分だ。なのにアスールで所長なんてもんに担ぎ上げられてメーワクしてんだ」

 さり気無く短刀を抜いてその刃を下に向ける。それだけで帰ってくれればいいのに、願い通りに話は進みそうにない。

 「それだけ評価されている証だ。それに貴方はその役割を今日まで全うしている。才があったのでしょう」

 「かもな。じゃあ、その役割ってやつを今日も果たさねぇといけねぇ。それでこそ、勤めの後の飯がウマいってもんだ」

 パストル所長は力無く持っているだけだった片刃の刀身を水平にまで持ち上げロルダンに向けた。

 「……場合によってはこの短刀をテメェに直入させる。ウチのもんにちょっかいを掛けた海竜はアンタが呼び出したインヴィタドか」

 ロルダンは大きく目を見開き、そして笑う。

 「ふふ……単刀直入、まさか実際の脅し文句として聞く事になるとは思いませんでした」

 ふざけて言っているのではない。所長が沸々と怒りを煮えたぎらせている横ではライさんも爆発寸前だった。

 「ライ、言質を取っても……まだだぞ」

 「後手に回るつもりはない」

 ウーゴさんの言葉もライさんには届いていない。ならばライさんは動き出せば誰にも止められない。

 できるとしたらレブだ。本人にライさんを止めるつもりがないのなら、方法は一つ。

 その時が来たら誰よりも先に仕留めてもらう。死にたがっている様に見えている、と言ったレブの言葉が私には忘れられない。

 復讐ならまだ、いい。だけどライさんが死んでは駄目だ。そんなの誰も望んでいない。

 「………」

 ロルダンが腕を掲げる。しかしそれと同時に私の胸が痛んだ。

 「うっ……!」

 私の声にウーゴさんだけがこちらを見た。直後に空が暗くなる。パッパッと細い光が次々に発生し、ロルダンの後ろで大きく厚い紙を割く様な音を立てて落ちた。

 「なんだぁ!?」

 建物の裏から次々出てきた影はよろよろと数歩歩いて倒れる。パストル所長は声を上げたが私達はそれを知っていた。

 「質問に、答えろ」

 「………」

 レブの腕がロルダンの方へと向けられる。老人は自分が召喚したであろうトカゲ男と、インヴィタドの牙から生み出した兵士の姿を一瞥すると舌打ちをした。

 「この程度ではよもや役に立ちませんか」

 「まだ控えているな。答えぬ様なら纏めて吹き飛ばす。この港の建物一つ壊さずにな」

 任意の場所への落雷。出力を絞り暗雲もごく小さな物だったとは言え、レブが無詠唱で遠距離へ魔法を使った。カンポではあれだけ時間も隙もあったのに。

 レブがどれだけ成長したのか。本人は分かっているだろうが召喚士の私の方がまるで分かっていない。それどころか、私がレブに自分の変化を教えられていたぐらいだ、

 「歩いた先には草の根一つ残らない焦土と化すなどと言われている貴方がこんな器用な真似をされるとは」

 「枯れ木の幹よりも細いその喉笛から手が出る程に欲しがった有能な召喚士が私を支えているからな」

 さらりとそんな事を言うもんだから私だってロルダンへと手を向ける。

 「竜から授かったその力は老人を焼く為のものですかな」

 「何度も言わせないでください。……質問をしているのは、私達です」

 咄嗟にできるか分からない。私ではまだレブの様な雷撃は連発もできなかった。だけどこれだけは言える。この力は私の力として、私が信じる人を守る為に使う。

 「……はぁ」

 巾着から飴玉を取り出してロルダンは頬張った。

 「確かにアスールの召喚士を襲った海竜、召喚したのは儂だ」

 飴玉を口の中で転がしながら、だが確かに自分が呼び出したインヴィタドだとロルダンは認めた。

 「呼び出したのは別の理由で、その後制御ができなくなって襲ったからあれは事故、なんて言い訳に耳は貸さねぇぞ」

 「構いません。儂が命じた事ですからな」

 スパルトイがぞろぞろと出てきて全身が震える。その数の多さは今までの出し惜しみを感じさせない。それに加えてマスラガルト達も引き連れて現れる。マスラガルトよりはスパルトイの方が少なかったが今までの倍以上は軽くいた。

 「漸く出番か、ロルダン」

 そして何より奥から現れた巨体に声を失った。平屋と同じくらいの大きさをしてそれは、間違いなく生き物だった。ゴーレムやタロスの様な物ではない。タムズの様な虫でもない。

 この自然溢れる島のどこにいたのかと思わせる程に派手な光沢を放つ鈍く暗い黄。人は一目で金色と呼ぶ鱗を全身に覆い、その下の体は歪に所々膨らんだ筋肉が鱗に負けず劣らずにてらてらと陽を反射していた。

 何よりもそんな巨体に二つだけある目には理性が宿っていた。そこがアルゴスや他のビアヘロ達との決定的な違いだった。首が長いからか、レブの真の姿よりも頭一つ分大きな存在はスパルトイ達の動きに誘発されて姿を見せたらしい。

 「竜人に立て続けに会うか、普通……!?」

 パストル所長は冬にも関わらず汗を一粒滴らせた。私も胸に今まで感じた事のない熱を帯びている。

 目の前に出現した相手を私は知識で知っていた。黄金の鱗に長い首、強靭だが膨れ上がったイボ付きの体をした……竜人。

 「カドモス」

 レブがその名を呼ぶ。カドモス・テーベ・アーレウスは自身の名を知る竜人へそこでやっと目を向けた。

 「オレの名を知っている……。アラ、サーテ……?お主、アラサーテか!」

 レブの名前を知っている。本当に知り合い、らしい。

 「ちょいちょい、お前ら。止まれ!」

 自分の横を通り抜けていくスパルトイに笑顔らしき破顔で呼び掛けると、次々に足が止まる。しかしマスラガルトは別だった。

 「この……。邪魔をするな!」

 「グッ……フギャ、グガァァァァァ!」

 一体の首の根をむんずと捕まえ、そのまま握力で握り潰す。骨が砕け、叫びと共に首が体に逆らった方向へ曲がる。

 「ロルダン」

 「これは失礼。儂の落ち度でしたな」

 目の前で同族が殺されたせいか、マスラガルト達の足が止まる。しかし、全員がカドモスに背中は向けない。

 「これでよし。まさかこんな異邦の境壊で友とまみえようとは!」

 握り潰したマスラガルトを放ると民家の外壁に勢い良くぶつかった。血をべっとり溢して壁に塗られるのも構わずにカドモスは腕を広げ、かつての友との再会を祝している。その違和感に寒気が止まらない。

 「久しいではないか!まさかオレに会いに来たのか!」

 「違う。だが、お前に用事があったのも事実だ」

 「相変わらず素直に物申せぬ奴め」

 レブが捻くれていると知っている。……私がレブに出会うずっと前から。

 「ロルダンめ。オレを追う竜人がいるなどと言うから、どんな愚か者かと思えば。アラサーテが来ているのであれば早く申さぬか!」

 「お気に召した様で何よりです」

 カドモスは笑顔でロルダンと話している。それだけで二人の関係はしっかりと築き上げられていると察しはついた。マスラガルト一体を殺したのに動じなかったのは、日頃の行いに似た様な状況が多々あったのだろう。

 朗らか、ではある。だけど底知れない。そんな第一印象を抱くと目が合った。

 「……少女の召喚士が竜人を連れて現れる。アラサーテよ、そこの華がお主の召喚士という事か」

 「そうだ」

 レブに確認を取ってから再び私は見下ろされる。

 「アラサーテをあの姿にしたのは、お主か」

 「……えぇ、そうです」

 私のインヴィタドに習い簡潔に答える。最初にレブと気付いた時点で凄いとは思ったけど、聞き流す程大雑把でもないらしい。前はもっと小さい姿にしてしまっていたとまで教える理由は無かった。

 「華よ。名は」

 「……ザナ、です」

 さっきもだけど私を華とか言うのは止してほしい。レブの友人、と言うのなら私にとっても無碍にはできないが。

 「ザナ。良い名だ」

 カドモスはレブを見て笑う。

 「オレもロルダンの様なジジイよりも若い華の娘が良かった。羨ましいぞ、アラサーテ」

 「ふふん」

 レブが得意げに華を……違う、鼻を鳴らす。私が睨むと咳払いして緩んだ表情を引き締めた。

 「……。旧来の友よ。再会に興じる為に私はこの場へ赴いたのではない」

 「オレを未だ友と呼ぶお主が、尚も目的を果たそうとする。理解できないが、故に話をしたい」

 互いに友人同士と確かめ合いながらも、立ち位置の違いも認識している。それでもすぐに殺し合いではなく話し合いを選んだ。見た目よりも血の気が多くなくて私は安心すると同時に、胸を押さえる。

 「オレがフエンテに与していると知って、立ちはだかる理由がお主にはあるのか」

 「この境壊世界で得た友を亡骸にする様な連中だ。叩き潰すには十分と言えよう」

 ライさんが飛び出さずに留まっているのは相手が竜人だからだ。でなければ、今すぐにでもあの剣を振り下ろしたいのだろう。

 腰に手を当てカドモスはロルダンの方へと視線を送った。私達を見ていない、いわば無防備の状態なのに攻撃しようなんて気は起きない。本能的に自分の力でどうこうできる相手ではないと伝わってきていた。

 「ふむ、どういう事だ」

 「……ベルトランを覚えておいでか。あやつが契約者一人を殺害したのです」

 「あぁ、あの時の話か。思い出したぞ!」

 再び黄金の竜人は笑顔の様なものを浮かべてレブに向き直った。

 「案ずるなアラサーテよ。お主が言うベルトランであれば既に死んでおる。あれは確か……ロボの息子が殺したらしい。……む?」

 ロルダンはカドモスとあまり話をしていないのか内容の把握も順序がおかしい。

 「……その息子とやらと一緒にいた竜人は」

 「私を置いて他にいまい」

 レブは呆れた様に目を細めて腕を組んだ。

 「妙ではないか。お主の仇敵であるベルトランはもういない。あの小僧を殺しただけでは飽き足らず、今度はオレの首も狙うか」

 話の理解は早い。すぐにフジタカと一緒にいた竜人の正体もレブと見破りカドモスは腕を広げて眉間に皺が寄る。

 「カドモス。お前がフエンテにいるとは思わなかった。だが契約者を狙う可能性がある集団であるフエンテを、契約者と行動を共にする私達は放っておけない」

 「危険な因子を先んじて叩く。合理的だ」

 狙われているのは自分であろうに、カドモスは落ち着いた様子で頷いた。

 「だが誤解だ。オレ達はこの不安定な世界の大元となった異界の門を……」

 「カドモス!」

 そこに、急にロルダンが声を荒げて割って入る。だけど私達がその言葉を聞き逃すわけはなかった。

 「異界の門の大元を……?」

 ロルダンが飴をバキン、と噛み砕いた。

 「……管理しているのだ」

 私の質問に答える様にしてカドモスは最後まで教えてくれた。

 「アラサーテの存在を伏せていたな。友の存在を秘匿していたお前は、オレに話してはいけない部分がどこかも教えてはくれなかった」

 それがお前の落ち度だ、と言う様にカドモスはロルダンを睨み付けた。ロルダンの方も言い返したいだろうに歯噛みするばかりで何も言わない。

 「……それ以上は、なりませぬぞ」

 「ふ、だそうだ」

 カドモスは笑って私達を見た。

 「門を管理している、だと……?」

 パストル所長もカドモスの言葉が信じられないのか繰り返し言っても納得できていない。だけど私には心当たりがあった。

 それがフジタカの存在だ。ベルナルドはフジタカに「インヴィタドみたいなしがらみや制限を受けない様にする為に、異界の門を調節しビアヘロとして呼び出した」と言っていた。最初は召喚陣に細工をしたとだけ思っていたが、もっと根源的な物にフエンテが介入していたとしたら。

 「……して。その門を管理している事はフエンテを潰さぬ理由足るとは思わない」

 「お待ちを」

 話を戻すレブにロルダンの方から口を開いた。

 「我々も同じなのです。……異界の門を管理する身として、門を揺らがせる存在を看過できなかった」

 ロルダンは肩から力を抜いて再び飴玉を口に入れた。

 「契約者が召喚士を増やす。増えた召喚士は召喚陣を用いて異世界から敵と戦う力や技術をこの世界へと取り入れる。それによって門に揺らぎが生じるかもしれない。儂らフエンテはこの世界がこれ以上壊れない様にする為に裏でこの力を使っていた」

 この世界にビアヘロがやってくるのは異世界との繋がりに妙な揺らぎが生まれるからだ。それをフエンテ達がなるべく制御している……?

 「だが、契約者の存在を我々は否定しておりませぬ」

 ぴく、と私達の肩が揺れた。

 「あの事件は若造が吹き込んだ事を真に受けて勝手に行った事です。そもそも、召喚陣や契約者の介入で門が揺らぐという事実は無根。門の安定と召喚陣の関係が立証されているわけではない」

 サッ、と自分の血の気が引いていくのが分かった。

 「おぉぉぉぉぉぉぉぉぉおぁぁぁぁぁぁぁぁあ!」

 ライさんが吼える。その雄叫びは島中に響いたのではないかと思う程に強烈で、痛みを伴っていた。

 「害悪とも知れぬ子どもを、たったそれだけの!理由とも言えぬ屁理屈で手に掛けたのがお前達だっ!ならばこの身ぃ!爪牙砕けてでもお前達を貫く刃とす!」

 ココが死ななくてはならなかった理由。それを聞き出す為にずっと堪えていたライさんの耳に入ったのは受け入れ難いどころか唾棄すべき考えだった。

 フエンテは契約者を殺す程でもない存在と思っていた。だが、今ところ特段何も起きていないが召喚士を増やされたら危険かもしれないので殺し、減らしておく。殺した契約者の名は、コレオ・コントラト。

 「ぐうっ……!」

 ウーゴさんが体を折り曲げて呻いた。直後、ライさんが前へと踏み込む。

 「うぉぉぉぉ!」

 剣の刀身が赤く変色した。その数秒後、巨大な爆発音と共に刃が火を噴いた。剣が帯びる炎はどんどんとその大きさを増し、剣の刃渡りから倍程度まで伸びる。

 「またあの獅子か……!スパルトイ!奴を止めよ!」

 「………」

 ロルダンが猛進してくるライさんにスパルトイを差し向ける。しかし指示と裏腹にスパルトイは微動だにしない。

 「カドモス!これは何の真似です!」

 「ふん」

 慌てふためくロルダンにカドモスは鼻を鳴らした。

 「くっ!マスラガルトよ、炎の獅子を殺せ!」

 「ら、ライ……!」

 「がぁぁぁぁぁぁぁ!」

 スパルトイはロルダンの命令を聞かず、ライさんにも仕掛けない。ライさん自身は狙うのはロルダンのみ。マスラガルトはすぐにカドモスに背を向けてライさんへと向かう。ウーゴさんは苦し気に声を上げたがライさんは炎の剣で纏めてマスラガルトを建物ごと焼いてしまった。

 「無茶苦茶だな!お前ら!」

 「どちらに対して仰っているのですかな」

 マスラガルト達とライさんの戦闘が始まると余裕を取り戻したのか、ロルダンは叫ぶパストル所長を見て笑う。途端に私達の後ろで大きな音と共に水飛沫が降り注いだ。

 「お前ら両方にだぁ!」

 後ろを見ると海から長い首が姿を現していた。カドモスの全長と同じ程度に長い首先についた竜の頭。それは首の下にそれよりも大きな体が海中に存在している証拠でもある。

 「あれで小型……なんだよね」

 「この小島より大きな竜など、私の世界ではそこいらにいたものだ」

 あの海竜を相手にするのは、実際はパストル所長一人だ。私達にはどうやってもカドモスを無視する事はできそうにない。ライさんだってもう、マスラガルトの群れに足を取られている。スパルトイが動かないのがせめてもの救いだけど。

 「……貴方が止めてくれているのですか?」

 ライさんの勢いが止まらない。次々にマスラガルトに刀身ではなく炎を浴びせて倒していく姿はさながら演舞……いや、荒々しい炎舞とも言うべき炎の嵐だった。建物にライさんの炎が燃え移るとウーゴさんがオンディーナに命令して消している。

 私はスパルトイが動かない理由は彼、カドモスにあると思い、意を決し向き直る。スパルトイはテーベの竜が持つ牙から生まれるから、たぶん支配権は彼が持っていると思ったから。

 「物知りの様だな、華よ」

 「……ザナです」

 自己紹介をし直している場合じゃないのは分かっている。だけど、この人はレブにも私にも……敵意は見せていない。それどころか、自分を召喚したロルダンの危機にライさんの妨害をもしなかった。

 「あまりに美しくてな。してザナよ。何故それを問う。仕掛けられて負けるのはお主らであろう」

 「………」

 ロルダンはこの騒ぎに乗じて姿を隠した。……またフジタカのお父さんに逃がされたかは分からないけどライさんはまだ何かを目指し島の奥へと進んでいた。

 「私達は貴方達がいる事を予測した上でこのレパラルに来ました」

 「オレが動かずとも余裕が無い状況で虚栄を張るその意気、アラサーテが召喚に応じただけの事はあるな」

 敵意じゃないんだ。この人が私達に向けているのはまだ友人と、友人の知人に接する態度なんだ。だから戦闘が始まっているこの状況でとても違和感が残る。

 「言っておくが召喚に応じたのではないぞ」

 「なに?」

 周りはスパルトイとマスラガルト、それに縦横無尽に戦うライさん。そして背後の海には海竜。殺気立つ戦場の真ん中に立ちながらも、どこか楽しそうに話しているカドモスにレブは首を振った。

 「私はこの召喚士に首根を掴まれ、強制的にこの世界へ呼び出されたのだ」

 そんな話もしてたかも。レブが自分の世界にあった異界の門近くに居たら、突然私が召喚陣を発動させたんだっけ……。

 「なんと!てっきり美しき華の香に、鼻の下を伸ばしたものとばかり!」

 トーロを召喚したり、ライさんを召喚した際はそれぞれ何かしら説得や取引だあったと聞いている。だけど私とレブには無かった。召喚陣の誤作動と思っていたけど……やっぱり異例なんだ。そうだよね、位の高い悪魔だったり、ましてや高潔な竜人を呼び出すには魔力以外の対価を求められるのが普通だ。

 「問答無用であのアラサーテを召喚するだけの力を持った召喚士……クク、成程。ロルダンが欲しがるのもよく分かった」

 カドモスの笑みに含みが生まれる。だけど私はそんな大げさな表現をされる様な召喚士という自信は持ち合わせていなかった。

 念を押すが今は違う。召喚陣の誤作動とかレブの方から来たと最初は思っていた。でも間違いなく、あの時私は願ったんだ。レブに来てほしいと。

 「鼻を伸ばすなんて醜態は晒さなかったが、この召喚士と共に在る事は実に心地好い」

 「お主の口からそこまでの褒め言葉が出るとは、数千年に一度の驚きだ」

 今の、褒めてるのか。鼻の下を伸ばしてはいなかったけど、ブドウを前にすると人格変わるよね。

 「だがなアラサーテ。それはお主を堕落させた」

 カドモスが人差し指をレブに向けて断言した。微かに目を細めたレブは何も言い返さない。

 「生物は老いる。そしてやがては衰えた末に朽ちるものだ。積み重ねた年月や経験に体がやがて追い付かなくなり、忘れ錆びていく」

 人間もそうだ。いつか体力の頂点を迎え、あとは少しずつ同じ事ができなくなる。

 「しかし竜とは生物の中でもその理に縛られない。過ごした幾年月は全て蓄積されて自身の力へと化す」

 「竜人である私が理解していないわけがあるまい」

 「その通りだ」

 そっとカドモスは腕を下ろした。

 「故に、解らぬのだよアラサーテ。今の見違えたお主を見てな」

 「………」

 レブの横で私はカドモスが何を言いたいのか気付いてしまった。

 「お主があの世界で培った力をどこに置いてこの境壊へ来た。研鑽を重ね、更に鋭利となったお主がオレの前に立つのならまだしも」

 私の……せいだ。

 「今のお主で、オレに勝てるとのたまう程の自惚れは見せまい」

 「あ、あ……」

 そこで、初めてカドモスの表情に別の色が乗る。殺気という不吉の象徴を眼力に纏い、金色の竜は私達を見て、構える。

 「ザナよ。オレにスパルトイを止めた理由を問うたな」

 動機が激しくなってきた私を見てカドモスが何を想っているかまでは、見透かす余裕が無い。

 「ロルダンには自身の力で状況を打開してもらおうと思った。あの獅子の状況なら知らないでもない。怒らせたのはロルダンの言い回しのせいだしな」

 ロルダンもベルナルドに自業自得と言っていた。それが自分自身に戻ってきているということだ。

 「ならば、お前もあの老いぼれの力の一部ではないのか」

 「………ふむ」

 レブに言われてカドモスは目を丸くした。

 「その通りだな。召喚に応じた以上、オレにこの世界を這う力を与えた召喚士の力にはなるべきか」

 ギギ、と錆びた蝶番が動いた時の様な音を立ててスパルトイが動き出す。

 「アラサーテよ。お主の発言があの獅子を殺したぞ」

 「それはどうかな」

 スパルトイは私達を無視してライさんの方へと向かう。

 「妙な自信だが、ならば後ろの海竜はどうする」

 パストル所長は走って船や私達から海竜の注意を引き付けてくれていた。

 「ええい、人頼みにするよかこっちの方が手っ取り早いわな!」

 大声を張って所長は腕輪から一枚の召喚陣を取り出した。輝くと同時に現れたのは巨大な青い蛇だった。首から着水すると水中と召喚陣を自身の胴で繋ぎ、最後には尾も陣から飛び出て海の中へと姿を消す。

 「邪魔だけはすんなよ!」

 「は、はい!」

 パストル所長の戦闘を実際に見た事は無い。だけどあの口振りからして最初から私達を頼らずともある程度戦うつもりだった様だ。

 戦いたくても立場上動けなかったのかな。……でも、サロモンさんの前例もある。一人に任せては危ない。ライさんだって同じだ。炎の切っ先が度々姿を現しているから場所はある程度把握できているけど、ウーゴさんを置いてどんどん離れている。

 「つまり、問題はお主らとオレだけというわけだな」

 どこも予断を許さない状況だけど、ライさんもパストル所長も全力を尽くしている。幸いカドモスは良くも悪くも油断はしていない。

 だからこそ、私達の戦力差に対して冷静に告げている。今のレブでは、カドモスに勝てないと。

 「話を聞くに、オレ達につくつもりはないらしいな」

 「そうだ」

 カドモスも、ロルダンも。まだ私達を諦めていない。

 「フエンテの目的を正しく知った今でも答えは変わらないのか」

 「そうだ」

 レブは淡々と答えながらじりじりと足を広げて身構える。

 「最後の確認だ。オレはロルダンの……あの双子がお主らに行った所業を知った今でもフエンテだ。そんなオレへ、勝てもしないのにお主は挑みかかってくるか」

 「そうだ!」

 レブは堂々と言い切る。同時に目にも留まらぬ速度でカドモスへと突貫した。自身の体を弾丸と化して鋭くした拳をカドモスの腹へ突き込まんと伸ばす。

 それに対してカドモスは瞬時に身を逸らした。巨体に似合わぬ素早さで握り拳をレブへと振り下ろす。

 「……っぅ!」

 「見事!その体でよくぞ踏み止まった!」

 拳と拳がぶつかり合って派手な音を響かせる。拳圧に髪がなびいたと思えばレブの腕はカドモスと拮抗していた。

 「れ、レブ……!」

 しかし、ずりずりとレブの足が地面の土を削りながら後退していた。……違う、後退させられているんだ。

 「だがぁ!」

 「うぅっ!」

 カドモスの喝と共にレブが聞いた事の無い声を洩らした。

 「竜とは老いて力を増す存在!時の流れに逆行する様な愚行を取ったお主にぃ……!負けはせぬわっ!」

 「ぐあぁぁぁぁあ!」

 「レブっ!」

 拳を振り抜いたカドモスにレブが吹き飛ばされた。力負けしたレブは仰向けに倒れて翼で地面を抉り、私の横も通り抜ける。

 「レブ!しっかりして!」

 「離れていろ……!」

 起き上がったレブは駆け寄った私をそっと押し退け立ち上がると同時に翼を広げる。

 「でも!」

 「貴様にできる事は無い!」

 「っ……!」

 立っていただけ。なのに頭を金槌で殴られた様な衝撃を感じた。

 「逃げろ!振り返るな!」

 「で、でも……!」

 足が、動かない。震えた私の足をレブは横目で見ると一度構えを解く。

 「カドモスが敵となった以上、逃げるのが最善だ」

 「でも、そんなのできないよ」

 レブは頷いた。逃げる理由は純粋に相手が強かったり、怪我をしていたり、足手まといがいたりとそれぞれ異なる。

 今は逃げるに足るだけの条件は幾つも満たしてしまっているのだろう。だけど私も、レブもその一択だけは選ばない。

 「そうだ。だから、次の手を打つ」

 カドモスの方からはまだ動かない。レブの様子を窺っているだけだ。

 「……魔力の貯蔵を空にするつもりで仕掛ける。場合によってはまた貴様の体調を悪化させてしまう」

 「いいんだよ」

 レブが何をしようとしているのかは分かっている。

 「ならば、覚悟しろ」

 「召喚士に言うセリフじゃないよね」

 そういう言い方しかできないんだから。でも、おかげで足の震えは止まった。まして、私にできることだってまだ何も無いと決め付けられては堪ったものではない。

 「オレを打倒す算段はできたか」

 「無論だ。正面から、叩き伏せるのみ!」

 「やって見せろ!」

 今度はレブが跳び上がり、更に翼を広げて高く飛ぶ。カドモスも避けるなんて真似はせずにただレブの一撃に身構えた。

 「………う」

 私達の頭上だけが暗くなる。きゅ、と胸を絞め付けられたが私はまだカドモスから視線を外さない。その間にもパストル所長は海竜に自分のインヴィタド……大海蛇シーサーペントを戦わせている。ライさんの炎は気付くと見えなくなっていた。

 「はぁぁぁぁぁぁぁあ!」

 「来ぉぉぉぉい!」

 バリバリと音を立ててレブは足に帯電させ、勢いを重力と加速で上乗せさせた蹴りをカドモスに見舞う。一撃の威力であれば先程の拳よりも上だ。にも関わらず、カドモスはまた回避するつもりはないのか先程同様拳で迎え打った。

 「ぐっ!あぁぁぁ!」

 今度呻いたのはカドモスの方だった。腕を押さえて数歩後退すると同時にレブは着地してカドモスの足を尾で払う。

 「ぬぁっ!」

 仰向けに倒れた先にあった建物の岩壁がカドモスの肩にぶつかり、音を立てて崩れる。岩の下敷きになったものの、あの量と大きさでは傷を負わせるには至るまい。

 「………」

 レブは畳み掛けない。土煙が晴れるとカドモスはニヤリと笑いながら起き上がった。

 「ふ、フフフ……。これだ、アラサーテ。こうでなくてはな」

 「偉そうに言うな。慢心しただけのうつけめ」

 そうだな、と言ってカドモスは立ち上がる。ガラガラと音を立てて彼の体から岩が転がり落ちるが全く気にした様子は無い。

 「あぁ。相対しているのは竜人。しかも、時を巻き戻してもお主はあのアラサーテ・レブ・マフシュゴイだ。今のオレでさえも見誤れば倒されてしまうのかもしれぬ」

 「万に一つも勝ち目は無いと言ってくれた方がこちらも諦めがつくかもしれないぞ」

 「はっは。諦め、素直、好意なんて言葉が似合う様な顔をしていない癖によくも口が回る。中身まで若干変わったらしいな」

 同意できる部分もあるけどカドモスはもう簡単に油断してくれそうにはない。これはもう戦闘だ。一方的な狩りには決してならない。

 「謙虚で殊勝な発言をしたお前の方こそ、昔の暴君とは異なるらしいな」

 レブが一層気合いを入れる。相手が油断しないのなら、こちらは一分の隙も見せられない。

 「オレも人間という生物に馴れ合い、多少は変わったのかもしれぬな」

 カドモスも再び構える。そう、相手とレブの力量差は私が思っていた程では……ない。一方的に圧倒されるだけならまだしも、カドモスは明らかに拳を庇って立っていた。

 「………」

 一方のレブは初手で打ち負けたがまだ平気そうだ。一撃の威力だけでもさっきの蹴りはカドモスへ確実に痛手を与えている。最初こそ、油断だったかもしれないが次も同じ様に振る舞えれば或いは勝てるかもしれない。

 「強さは変わっていない様だな」

 「そうさな。オレは変わらず強い。そして、お主は弱くなった。それが……っ!」

 ぶん、と大きな音と共に風が吹く。刹那、カドモスがレブに突進していた。

 「真実だっ……!」

 「ふん」

 しかしレブはカドモスの一瞬の動きに対応していた。カドモスの頭に片手を乗せて、そのままひょいと飛び越える。背を蹴り更に勢いを増したカドモスはそのまま砂浜で転び、海へと顔を突っ込んだ。

 海竜は海中に潜ったまま出てこない。遠くでパストル所長が海を見ながら怒鳴っているのが見えるだけ。シーサーペントを戦わせているんだ。こっちが海辺で戦っていてもしばらく海竜がこちらを向きそうな気配は無い。

 だったらロルダンも海竜を動かす余裕が無いんだ。自分の追跡者、ライさんへの対処に追われて。

 「泉の守護者よ。今度はその塩水を自身の守護対象とするつもりか」

 「……べっ。そんなところよ」

 皆が引き付けている間にこちらも決着を急がないと。私が内心そわそわしていると、泥を吐き出してカドモスは笑った。……この人、本当に世界を守ろうなんて思っているんだ。

 「正面からの打ち合いばかりだったお主にしては珍しい行動だ。さてはこのオレに臆したらしいな」

 「無い頭で安い挑発をするな」

 この二人……どこまでが本気なのだろう。私は殺されると思ったけど、あの二人の間には命のやり取りをしているという意識があるのか分からない。

 「ククク……思い出すな。オレ達がまだ、元の世界に居た頃を」

 「ティラもいたらはしゃいだだろうな」

 カドモスが口元の泥を拭いながら目を丸くする。

 「あの緑竜、この世界におるのか!?」

 「あぁ。私を追い掛けてな」

 レブは微かに舌打ちしてからカドモスに殴り掛かる。その拳はカドモスの大きな掌にしっかりと受け止められ、掴まれてしまう。

 「竜人などこの世界ではオレぐらいのものと思っていたが……これは愉快!あの金魚の糞もこの世界に、しかもお主を追って現れたとな!」

 「迷惑な話だ……!」

 レブが膝をカドモスの腕に突き入れ自分の拳をカドモスの手から抜け出させる。

 「そう言うな。自分を想い慕ってくれている者がおる。それだけでも幸福感は味わえる」

 いないよりは良い、という話だろうがレブには多分通じていない。ティラドルさんの事となると優先順位は下の下以下にしちゃうんだから。

 「分からぬでもない。私にも思い慕う者はいるからな」

 ……それって。

 「そこの華か?確かにな。ロルダンから召喚陣を取り上げて乗り換えたいくらいだ。そんな姿に堕とされたくはないが」

 レブが足を踏み鳴らし、掌底をカドモスの胸に叩き込む。私が気付いたのは、カドモスが胸を押さえてからだった。

 「ぐ……ぶ……!」

 「あの召喚士は私と専属契約を結んでいる。まして、お前と共有するなんておぞましい」

 「ぐ、ふ、フフフ……」

 レブとティラドルさんが訓練をしていた時、身体の熱を発散する為に蒸気を放出した事があった。カドモスが腹を押さえて湯気を上らせながら汗を垂らすのは、普通の人間らしい姿に見える。

そこで思ったが訓練というか、殺し合いと言うより手合わせに似ているんだ。そんな場合ではないのに、彼らを止める術を持たない私達は介入する事もできない。

 「専属契約……?お主、この壊れた世界に永住すると決めたのか」

 「成り行きだ」

 カドモスが私を見たが何も言わない。……付き合いが長いなら、レブは嘘を言わないと知ってる筈。遠回しで素直でなくても成り行き、と言えば私のせいだとは気付くかも。

 「グアルデも同じか!」

 「ティラなら今頃、トロノで魔力だけ吸って怠惰にしているだろう……なぁっ!」

 拳と拳が打ち合う。またレブが打ち負けた。だがすぐに後ろへ跳び、地面を大きく鳴らし踏み込み直すとすぐに蹴りを入れる。カドモスは腕を交差させて受け止めた。

 「ぐ……益々以て解らぬな。何故連れてこなかった……!二人なら、或いはオレを倒せただろうに!」

 「アレも違う道を歩んでいる!私とて、前とは違ぁぁう!」

 足を離したと同時にレブの拳がカドモスの交差した腕の中に下から潜り込む。カドモスの太い腕を払う程の勢いで放たれた剛腕はただの一撃ではなく、レブの魔法も上乗せされていた。

 「くぁ……っ!」

 「ちっ」

 浅い。カドモスの腕ごと退かす一撃は腕の方に力が分散されて狙った顎には掠めただけ。しかしそれでも黄金竜は大きく後退する。

 「その通りだな。そんなに手足が短いお主など、見た事が無い」

 「余程私を怒らせたいようだ」

 待て、とカドモスは顎を擦りながら言った。

 「見てくれもそうだが、内面は変わり果てたとも言える。しかもお主は、それを是としてオレの前に立っている。……何故だ」

 「理由ばかりを問うて、そして答えたところで意味は無い。私達が交わした拳こそが意味を後に産む」

 大きく息を吐いてカドモスは口元を拭った。

 「オレはなアラサーテ。これでも惜しんでいるのだ。お主とのこのひと時を」

 「間の悪い男だ。こちらに付き合ってやる時間が無い時に限って構えなどと言う」

 レブの一言にカドモスは静かに笑う。

 「違う。モノとは一度しか壊せない。以前のお主なら違っただろうが、今のお主は壊れれば元には戻らない。オレはお主を壊したくないのだ」

 今度笑うのはレブの番だった。

 「自分はモノではないとでも言いたげだがお前とて同様だ、テーベの竜よ。壊す力を持っているのがお前だけではないと知れ」

 「……っ」

 胸が急に痛くなる。レブが仕掛けるつもりだ。

 「はぁぁぁぁぁっ!」

 「ふぬぅ!」

 踏み込みと翼で加速してレブはカドモスに突撃した。私達からすればとても反応できる速度のものではない。

 「ぐ、ぶぅ……っ!」

 「レ……ブ!」

 だが、カドモスは違った。レブの肉薄を完全に読み切って逆に胸へ拳を振り抜いた。ゴキン、と何かが折れる音に堪らず私は叫ぼうとしたが胸が痛くて動けない。

 「はっはっは!その体で何ができる。お主の力量は先の拳と蹴りで知れたもの」

 再びカドモスが体を大きく見せる様に腕を広げて拳を構える。倒れたレブは腕で体を起こすと口から鮮血を吐き捨てた。地面に触れた途端じゅわ、と音を立てて血は蒸発してしまう。

 体調に反しレブの表情に悪い笑みが宿る。

 「素早さは変わらないぐらい。だが、オレに致命打を与えるだけの決定的な力が!お主からは失われた!」

 「かもな」

 ぐったりと立ち上がったレブが再び身を低くするのに合わせて私の胸が締められていく。

 「正面から叩き伏せると言ったな。もう決着はついたも同然だ」

 「ふ……」

 決着はついていない。レブの顔には書いてあった。だったら私も覚悟を決めよう。同じく読み取ったのであろうカドモスは首を横に振る。

 「召喚士か、この世界からの介入かは知らぬが……」

 「一つ忘れていないか、カドモス」

 言い欠けたカドモスをレブが遮り、片手をついて身を屈め相手を見据える。

 「何の話だ」

 「私は時間が無いとも言った!」

 レブの体が輝いた。カドモスの目が驚きに揺れた瞬間。既にカドモスの体は浮いていた。自分自身を稲妻と等しい閃光として走らせ、紫竜の一撃は完全にカドモスの腹へ決まる。なのに元の姿に戻ったレブを黄金の竜は憎々しい顔ではなく、笑顔で見ていた。

 「これは……」

 「私は時の流れに逆行したのではない。変化と劣化は違う。私はあの体で、新たな刻苦の時を迎えた」

 「それが上乗せされてこその力か。見事……」

 ぐら、とカドモスの体が揺れてレブの横に大きな音を立てて倒れた。胸が痛んでも私はまだ動ける。

 「一つしか例外無く、無敵の竜人として召喚されたこのオレが……情け……な……」

 「その例外が目の前にいただけだ。最初はそう見えなかっただろうがな」

 そのままカドモスはぐるん、と目を回して意識を失った。

 「レブ、今だよ!今なら倒せる!」

 「………」

 私が声を絞り出してもレブは動かなかった。

 「レブ……?」

 「……殺したくはない」

 「あ……」

 振り返ったレブの姿はあのアルパで見て以来、随分久し振りだった。あの時見た瞳が今は揺れている。

 「ごめん……。私……今、レブに酷い事を言った……」

 「……いや」

 ふう、と息を吐いてレブは私に向き直った。

 「召喚士の貴様の命には従う」

 「……ううん。決着はついたでしょ。少なくとも、今日は」

 カドモスはピクリとも動かずに巨大な塊として鎮座していた。この状態で倒せるとしたらこの場にはレブしかいない。だけど、そんな事させられるわけがない。

 もしかしたらまた戦う事になる。そうしたらこの機会はまたとないかもしれない。

 「次も負かす。また立ちはだかるつもりならな」

 「……うん」

 私の気持ちを読み取ったか、自分への宣言かは分からない。だが、レブの決断を私は尊重する。願わくば、もう戦わずに済ませたいと思いながら。

 「時間は限られている。次だ」

 「え……」

 レブの姿が私の前から消える。直後、背後で叫び声が上がった。

 「お前!?えぇ!?」

 聞こえた声がパストル所長の物だと思った時には遅かった。振り返るとざばんと大きな波を立ててレブが海竜を所長のシーサーペントごと空中に担ぎ上げている。

 「逆流が嫌ならすぐに消せ!」

 「ちっ!本気かよ……!」

 身体の全長だけでもレブの三人分はあろう大きさの海竜は確かに小柄だ。全身に絡まったシーサーペントと格闘していたらしい。だが、レブは飛んで両腕を上へ力強く上げたまま固定する。

 パストル所長の命令でシーサーペントが海竜を解いて一匹で海へ戻る。そうなれば動きに幅が出てレブの腕の中で海竜はじたばたともがく。その間に雲がどんどんこの島に集まり空を暗くしていった。

 「寝ておけ……!」

 「モァァァァァァァァァァ!」

 曇天と言うにはあまりに暗い。この島にだけ現れた黒雲をレブが魔法を使って光らせる。それは照らすという行為ではない。力ずくで相手を灼く爆音が低い唸り声を上げ、次いで船の汽笛の様な悲鳴を海竜が島中に響かせる。首がぐったりと下を向いて動かなくなった海竜をレブは自分の足元に広がる海水へと投げ捨てた。

 「あれだけ浴びて気を失っただけか。加減方法ももう少し覚えねばな」

 私の元に着地したレブはそんな事を言って自分の浴びた海水を振るい落とした。

 「あとはあの獅子か……」

 パストル所長は遠目に私達を見て固まっている。私達の戦い方なんて話している場合じゃない。

 「待って!」

 「む」

 レブが身を屈めたのを見て私は呼び止める。こちらを見たレブの腕にすぐ自分の手を置いた。

 「私も連れてって」

 「……承知した」

 レブはひょいと私を抱き上げて飛び上がる。その間に再びレブの顔がぼやけていく。

 「……見付けた」

 話し掛ける間も無くレブは島の一点を目指し急降下した。私はその速度に思わず目を瞑ってしまう。

 顔に当たる風が熱い。そう感じた時にはもうレブは着地していた。目を開けると家の屋根の上に私達は立っていた。レブに下ろしてもらい私はその光景に息を呑む。

 「そして時間切れだ」

 心臓が一度大きく跳ねると隣に立っていたレブの姿が変わる。頭身が幾つか減って、魔力切れを起こした私のせいでレブはまたあの姿を失った。……しばらくは使えないな、また。

 だけどそれ以上に、私は変わり果てたライさんの姿に何も言えなくなってしまう。ウーゴさんはパストル所長とこっちに向かってきていると思いたい。来ても、どうしようも無いだろうけど。

 「ガァァァァ!」

 炎の剣はすっかり短くなっていた。伸びた部分は指の爪程度。それでも尚、刃は炎を帯びて辺りのマスラガルトを焼かんと揺らめいている。スパルトイは一体も動いていない。理由があるとすれば、ライさんが優先して一体残らず倒し尽くしたか。若しくは私達がカドモスを倒したからか。

 血塗れの鬣と鎧。それは持っている炎の剣のせいかすっかり乾燥して赤黒く染まり固まっていた。自身の出血か返り血かも分からないが、間違いなくライさんの額の左側からはざっくりと裂傷が横に走っていた。深い傷かはこの位置からは判断できないが、ライさんは枯れかけた喉でまだ叫びながら戦っている。

 「ココ……!ココぉ!おぉぉぉぉぉぉお!」

 まだ、ココの名前を呼んでいる。その姿があまりに痛ましくて私は目を逸らしたくなった。

 だけど、私達は見ておかないといけない。彼にあの姿になる選択をさせてしまったのだから。

 見れば、マスラガルト達は所々に火傷を負っていた。ライさんと代わる代わる戦って疲弊させたか、それとも炎がまだ伸びていた頃に挑んで焼かれたか。無傷なマスラガルトはほぼ見当たらない。

 「レブ、ライさんは……」

 「私の介入など、あの獅子は許さないだろうな」

 レブは動かない。そんな悠長な事を言っている場合じゃないのに。

 「だけど、あれじゃライさんが……!」

 剣の切れ味は衰える事を知らずにマスラガルトを肩から腰にかけて容赦なく両断した。数は減っている。一人でこれだけおびただしい数の屍を築いたのなら血の臭いに酔っていてもおかしくはない。

 「あれではまるでただのケモノだ」

 今のライさんを見れば誰もがそう思いそうな一言。だけど、私はそれだけは口にしてほしくなかった。

 「ロルダン……!」

 ライさんをケモノ呼ばわりしたのは別の建物の屋根に立っていたロルダンだった。私は思わずに手を相手に向ける。

 「雷よ……っ!ぐ、うっ!」

 「無茶はいけませんぞ」

 魔法を使おうとしても、胸が痛い。立っていられずに膝をついて、私は呼吸するのも絶え絶えだった。

 「しかし、彼の力は見事でしたな」

 汗が滲み、滴らせながらも私は地上で戦うライさんの姿を探す。見れば、マスラガルトは三体を残すのみ。

 「おぉぉぉぉぉぉぉぉ!」

 「ギャァ!」

 武装するマスラガルトの盾を掴み、自分へ力強く引き寄せると肩ごと腕を切り落とす。

 「あぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 「ブベッ!」

 円形の盾をもう一体のマスラガルトへ放り、顔面を砕く。その間に先程の盾と腕を切り落とされたマスラガルトの首を剣で撥ねた。

 「ガァァァァァァァァ!」

 「グジュ!」

 「ビャァァァ!」

 顔面を強打されて仰向けに倒れた一体の顔を更に踏み潰し、その踏み込みで身を屈めた最後の一体の胸を剣が貫く。それで終わりだった。……ロルダンを覗いて。

 「まさかここまで戦い抜くとは。しかもお二人がこの場に現れたという事はカドモスが敗れたか」

 「そういう事だ。海竜もついでに始末してやった」

 下に広がる惨状を見ながら、だけどロルダンは笑った。

 「始末……ね。今も彼と儂は魔力線の繋がりを感じている。これがどういう事か、分かりますかな」

 「カドモスは……生きてる……」

 私が胸を押さえながら言うとロルダンは深く頷いた。あれだけのマスラガルトを用意し、更に海竜とカドモスを使い続けるだけの魔力を消費している割には元気そうだ。

 「こっちはもう不要ですね」

 ロルダンは羊皮紙を取り出して私達に見せる様に裂いた。ひらひらと風に踊らされて落ちていくその紙には明らかに召喚陣が描かれていた。

 「今の……」

 「海竜の物です。あぁ因みに、海竜も仕留め損なっていましたよ。詰めが甘かった様だ」

 落ちた召喚陣を見てライさんがこちらを向いた。

 「いた!」

 「おっと、長居はできませんか」

 ライさんの血走った目がロルダンを捉え、再び剣が激しく燃え上がる。

 「う、ぐう……」

 しかし、突然ライさんがその剣を手から落としてしまう。……たぶん、魔力切れだ。

 「ウ、ゥゥゥゥゥ!」

 「その牙や爪だけで儂は簡単に殺されるな。では、これで失礼します」

 まだ唸るライさんを見下ろして、戦意を失っていない獅子に一歩ロルダンが身を引く。

 「ぐぁ……っ!」

 急にロルダンのローブにナイフが突き立った。ライさんがあの位置から投げたんだ。じんわりと血が広がる様を見てロルダンは顔色を一気に変える。

 「く、うぅぅっ!」

 攻撃手段は何も剣や拳だけでも、魔法だけでもない。持っている石ですら使い方によっては凶器と成り得る。ロルダンは肩から血を出しながらナイフを引き抜くとそのまま捨てた。

 「この……ケダモノめ……!カドモスを本当の意味で倒せなかった事、悔いた方がよろしいかと思いますぞ……。ふふ……その体ですら、できなかったのかもしれませんが……!」

 肩を押さえながらライさんを睨み、ロルダンが私達の目の前から、消えた。ライさんもその様子を下から見て、力無く血の海の真ん中でべしゃ、と足を崩れさせる。

 「いなくなった……」

 急に物音一つしない静かな世界になって私は深呼吸する。しかし強烈な血の臭いに吐き気が込み上げた。ちょっとこの場所は空気が悪い。

 私達はカドモスを倒せなかったのではない。倒さなかったんだ。始終を見ていなかったロルダンは知らずにそのまま消えた。海竜は使い捨てたみたいだけど、きっとカドモスもフジタカのお父さんの力で回収されている。本当にどうにかしないといけないのはあのロボという人狼の方だ。未だに姿すら見せず、私達の目の前でフエンテの転移を担っているのだから。

 「……レブ、ごめん。ちょっと海岸の方に連れてってくれない?ちょっと……具合が」

 だけど今は乗り切れた。本来の目的であった海竜退治だけでなく、フエンテにも手傷を負わせたのだ。少しは前に進めていると思いたい。

 「………」

 「……レブ?」

 返事の無いレブに振り返る。もう一度名前を呼んだ時だった。彼に異変が起きたのは。

 「………」

 レブの体が、ぐらりと揺れた。その姿に目を奪われた時にはもう、私の目の前でレブがうつ伏せに倒れてしまう。

 「え……?」

 信じられない光景に私はただ首を傾げた。手を伸ばしたところに彼がいる。触れる事もできた。

 「れ、レブ……?レブ!レブ!」



 私が何度揺すって呼び掛けても、レブは返事をしてくれなかった。

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