第2話



ぼくには、彼女がいる。


付き合って三年の彼女。ぼくは彼女のことを、”彼女A”と呼んでいる。


ぼくは彼女Aに、何ら不満は持っていない。


やさしくて、かわいくて、ちょっと天然な彼女A。


ぼくには、申し分のない彼女である。


そんな彼女Aが近ごろ、ぼくに疑いの眼差しを向けている。



「ねえ……最近、どうしたの?」


「なにが?」


「なんだか、変だよ」


「そう?よくわからないな。もうちょっと具体的に言ってくれる?どこがどう変だとか……」



”天然だ”っていう彼女Aのそれは、あくまで演技で。


実際は、各々の天然の概念の問題も生じるけれど、彼女自身は、とてもシビアな目を持っている。


彼女の”天然だ”というのは、いわゆる”養殖だ”と、ぼくは思っている。


それを知ってしまっているぼくと彼女は、なんだかんだでそこそこの付き合いなわけだ。



ぼくはそんな彼女Aを嫌いにはならないけれど、それ以上の関係にはならない気がする。


しかしながら、彼女を今さら裏切るわけにはいかない。


彼女は、ぼくに期待しているようだ。彼女なりの狡猾な計算と打算の上に成り立っているのがぼくなのだ。


彼女のなかにはぼくがいる。ぼくという存在が彼女のなかに、たしかに存在している。


それはぼくにある種の”生きる意味”として役に立っている。


誰かに必要とされていること、それは喜ばしいことだ。それが、たとえ利用価値としてであっても。


それなのに、ぼくは新たに恋をしてしまった。



足もとをすくわれて、擦り傷が出来る。



擦り傷って地味に痛いものだ。



いっそ傷口から多量に流血してしまったほうが、気分も晴れるってものだ。


でもたかが擦り傷で、そこまで致命傷になることって少ない。


菌だ、菌が入ると傷口が化膿して致命傷になる。


それも、この衛生管理がきちんとされている環境ではあまり出会さない状況だ。



人生って、万事そんなものだ。



一目惚れを信じているわけでもないけれど、「あ、この人めちゃくちゃ自分のタイプの人だ」と思う場合がある。



そういう人に出会ってしまったとき、ぼくは慌てて目を逸らす。



目を逸らしても、また見てしまう。


もうそうなってしまったら、あとの祭りである。



目は口ほどに物を言う。




そうすると、君はぼくのそんな行動を見透かしたように見ていて、おだやかに、そして妖艶に笑いかけてくる。



ぼくは、そんな君にほだされてしまう。



たぶん君は慣れているんだろうな、とてもモテるんだろうな、とかそんな止めどない妄想をはじめてしまう。



それが、運の尽き。



罪深くなると分かっていても、そちらに駆け出してしまうのは、人間の愚かな習性だ。





夢を見る。



それは、君が出てくる夢だ。



夢の中の君とキスをする。



息ができなくなる。



夢の中であれば、君と何をしたって罪に問われない。



君と身体の関係を持ったとしても、



君を誤って殺してしまったとしても、


何も現実に支障を来さない。



君がぼくを殺してしまったとしても、問題はない。



それでいい。それだけでいい。





「どうしたの?すっごいうなされてたけど」



同棲をしている別の彼女Bがぼくに問いかける。



心配そうな目をしているけれど、


その後ろには疑惑の念をひしひしと感じる。




ああ、むしろぼくは幸せなんだ。



幸せだけど、切ないのは何故なんだろう。



甘くて、ほろ苦くて、満たされない。



頭の中は君のことばかりなのに、


いつまで経っても、君で満たされることはない。




不思議だ。



恋をしていると、脳内麻薬が出ている気がする。



その中毒性と言ったらない。



素晴らしいんだ。



見えている世界が、この世のものとは思えないほど素晴らしくなる。



それなのに、その素晴らしいものが、


ぼくに苦痛を与えだす。



燃え上がる、


そんな気持ちの高揚も持っているし、


希望に満ちていると思えることもある。






君とぼくは木の香りのするカフェに居た。



木の肌触りのするテーブルに椅子。



「恋愛が楽しいと思えるのはいつまでかしら」



飲み物をスプーンでかき混ぜながら、君は言う。



ぼくは君の指先ばかりに目が行ってしまう。



君は、そんな恋愛の中でも泣いている人もいるんじゃないかと言う。




「約束とか、名前のある関係性に溺れて、自縄自縛に陥ってゆく人とかね、居ると思うの」



「自分のわがままな振る舞いで、自分から離れてゆく人を見る気分はどう?」



「それがこわくて自分の想いを、身の丈を、何も言えずにいる気分はどう?」




君の指先は、止まることがない。


飲み物のなかを、陶器とぶつかることなく、音もなく、くるくる回る。



カフェには他に人もいるはずなのに、まるで君とぼくとだけの世界みたいになる。



君はそんな世界を作り出すことが出来る。



「愛していればいるほど壊してしまうものだってあるのにね。結局は自分が可愛くて自己防衛に走るのよね」




君からはそんな言葉を聞きたくないと思った。



だけど、それはぼくのエゴだ。



君が言いたいのなら言わせてあげるしかない。



人にはいろいろ、たくさんのものが入り混じってる。



そこから導き出したやり方や考えを否定することは出来ない。




「ぼくは君を愛し続けることができるだろうか」



「それは私に聞くことじゃないわ。あなたの気持ち次第よ」



「愛は決して失われないものだろうか」



「それを自分の口で断言するのも、あなた次第よ。あなたの愛は、あなたのものよ」



「君と一緒にいたい」



「それは無理よ。究極的にあなたの心がそれを望んでいないもの」




君はぼくを見つめる。



君の言うとおりだ。



ぼくは究極的に望んではいないんだろう。

「あなたは私から来るのを待っているのでしょう?」



「あなたを渇望して、あなたを欲して。好きですと言われたくて」



「もう十分持ってるくせに、ただの欲しがりのあなたはいつまでそうしているつもりなの?」




ぼくは、君の声を聞くだけの存在になっている。




「来るもの拒まずの態度って良いわ」



「去る者追わずも、追うも、どちらも大差ない馬鹿馬鹿しい話よ」


「去られることになった理由を考えなさい」



「本当に欲しいものはなに?」



「あなたの出来うることはなに?」



「口だけじゃなく行動で指し示すことよ」




君はちらりとぼくを見る。




「もう思い残すことはない?」



君のそんな問いかけに、ぼくは黙る。



そんなぼくを弱虫と君は罵るのだろうか。



非力だ。なんて非力なんだろう。



ぼくは、よく動く君の口を眺める。





「君の口からそんなことは聞きたくない」



ぼくは重い口を開いた。




「じゃあ排除すれば?都合の悪いことが聞きたくないのなら」



「うつろう人の気持ちなんかに期待なんかしなきゃいいのに」




君は立ち上がって、どこかに行こうとする。



ぼくは引き止めることが出来ない。





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