第22話

 曲を奏で、戻る気にさせて、六葉は日和といったん別れた。廊下を歩く六葉の肩に、小鳩がやれやれと飛んできて、足をかける。

「これで気はお済みですか、六葉殿」

「お前には世話になったな。礼を言う。用事も済んだことだし帰ろう」

「正体を現して「この変態!」と罵られて帰らないのですか?」

 小鳩の指摘に、六葉がにっこりする。いくら美女に見えても、力は男のもの。小鳩は両手で雑巾絞りにされて、悲鳴もあげずに意識をなくす。

「おっとしまった、やりすぎたか……」

 気安くじゃれていて、気づくのが遅れた。

 すぐ近くに――気配がある。

「はて。このように美しい楽人がいたものかなあ?」

 声が間近に聞こえて、六葉は素早く居住まいを正した。それから微笑んで、ちょっと小首を傾げて振り返る。

 最初に、相手のまるまるした下腹が目についた。それから、

(……見えない?)

 相手の上部を見ようとすると、だんだんと霞がかって白くなり、目に見えないのだ。

 妖怪か、それとも異界にいすぎて自分の目がやられたのか。

(違うな……)

 まずい。おそらく、この神の位が高すぎて人の目には映らないのだ――。六葉は素早く平伏しようとしたが、簡単に肩を押さえられた。相手の顔らしきものが寄ってきて、匂いを嗅ぐ。

「まぁそういうこともあるか。娘も世話になっておるようだし、一曲舞って行け」

「……は」

 六葉は大人しく神舞を奉納したものの、それは実に肝の冷える体験だった。

 日和は、神世から人の世に踏み入れる。

 空気の質も違っている。それは以前嗅いだ夜風の中にあって、それが薄まって昼間にも漂っているような、不思議な気配だ。人も神も物の怪もいる、だから混沌としているのだろうか。

「えっへへ……帰りましたー。六葉?」

 日和は声をあげるが、返事がない。がらんとした六葉の家で、主を捜した。だが、式神達しか見つからない。どうしたことだ。

「六葉……私が勝手に家出してたから、怒っちゃったのかな? それとも仕事?」

 とりあえず、外へ出た。一人で大路を歩いてみる。もさもさした髪と適当に着た衣、という格好のせいか、人間からやや遠巻きにされた。

「あの、六葉を捜してるの」

 官庁にも行ってみたが、入口で「ごめんな」と止められてしまった。

「一ノ瀬様は来られていない。この三日程は、どこか都の外へ出られているようなんだ」

「え~」

 しょんぼりしながら、来た道を引き返す。

 せっかく来たんだから遊んでいけと、僧形の者に声をかけられた気もするが、しょげすぎて返事をする気にもならなかった。

「ちぇー。爺もどこ行っちゃったんだろ?」

 六葉と初めて出会った社の石段に腰掛けて、日和は己の膝に肘を置いて頬杖をつく。

「つまんないよー。六葉、どこ行っちゃったんだろ?」

 三日程度外泊したものの、まさか六葉までいないとは思わなかった。

「……私なんて、いらないのかな? せっかく帰ってきたのに、六葉がいないなんて」

「何をぶつぶつ言っている」

 社の後ろから、六葉が現れた。日和は慌てて立ち上がる。

「六葉だ! ただいま、あのね、ちょっと実家に帰ってたの! 風邪を引いてね」

「あぁ、知っている」

「知ってるの?」

「鳩に聞いた」

 六葉は平然とした様子だ。日和は、自分ばっかり慌てたり寂しくなっていた気がして、落ち着かない。

「六葉、ちょっとは心配した?」

「した」

「そっかそっか~するわけないよね……え?」

「よく、戻ってきたな」

 聞き間違いではないようだ。日和は小さな声で言った。

「……ただいま」

「お帰り」

 六葉が、小さな柑子を一つくれる。

「季節外れで、それしかなかった。ただし、お前の好物だから、今年は取り寄せる予定になっている。実の生る季節を楽しみにしていろ」

「えっ、どうして、そんなことしてくれるの」

「お前がやたら喜ぶからだ。すねたり泣いたりしているより、笑っている方がいいだろう」

「そりゃ、私だって六葉が笑ってくれた方が、嬉しいけど――」

 帰り際に、姉神達が言っていたことを思い出す。

 ――ねぇ、もしかして、役に立ちたいんじゃなくて、何かしてあげたいという、だけなのではなくて? そしてそれは、相手の中にもある感情なのではないの。

 姉達は「腹は立つけれどね!」とも言っていたが、その意味は日和には分からなかった。

「そっか。役に立ってなくても、いてもいい?」

「何を言っている。初めから、そうなっている」

「そ、そうなのかな⁉」

 柑子が手からこぼれ落ちる。慌てて拾おうとして、六葉にぶつかって抱き止められた。

「あれ? 六葉……何だかお化粧っぽい匂いがする……」

 しかも、つい最近、嗅いだことがある気がする。不思議に思って六葉を見ると、

「楽人の手伝いをしてきた」

 しれっとした顔で、六葉が応じた。

「そっかー? 何か、花さんに似てるな~って思ったけど」

 六葉が急にむせる。日和は首を傾げつつ、思い出したことを聞いてみた。

「六葉、六葉。私、たまに神世に行ってこないと、具合が悪くなるみたい。生まれ育ったのが向こうだから……時々行ってきていい?」

「構わないが、直接俺に言ってからにしろ。どこで迷子になっているかと心配になる。それと……もしかすると、神奉りの術で神を浄化する方法も、使えるかもしれないな? 御手洗様の手も借りるか」

「御手洗? 術司の人?」

「何だかんだ言って、あの人は元々神を奉る神職だ。祭司の術を心得ている」

 壮年の、穏やかそうな男の顔を思い出す。怒っているときは空気が重たいが、普段は忙しそうだけれどのんびりした感じがする。

 日和が、相反する印象を頭の中で転がしていると、六葉が少し遠い目をした。

「御手洗様は以前、山奥で蛇神を祀るのに失敗して、背中に傷を負って現場から引き下げられた。今は、都で事務官僚の術司として、他の術者の制御を任されている。お前が神のところで下働きをしていた故郷のことが懐かしいなら、奉られて気分転換してこい」

「術司の人のすごい重たい過去が出てきた! それと私のこともまだ誤解してるよね?」

 日和はため息をついた。

 まだまだ六葉には、こちらのことが分かっていないのだ。

 だけれど今は――お帰りと、言ってもらえることが嬉しかった。だから、それでよかったのだ。

 御手洗のところで、短い言葉を唱えられる。涼しくて綺麗な風が吹いて、日和は目を閉じて深呼吸した。

「ふわー。何か生き返ります~」

「そうか~よかった」

 楽器もなくてごめんねと言われたが、そもそも日和は人間にあまり奉られたことがないので、楽器の有無で何が違うのかよく分からない。これでも十分気分がよかった。

 御幣を片づけながら、御手洗が苦笑する。

「六葉くんは、悪い子じゃないんだがねえ。自分が連れている者の維持管理はちゃんとしてくれないとねえ……」

「いえいえ……ん?」

 モノ扱いされたことに引っかかった。

「あの、私が何か、ご存じですよね?」

「ははは、恐れ多くも神の末子でしょう。名は存じませんが」

「やっぱり知ってた! えっと、まぁそうですよね。人間に対して名乗った神で、一部だけが神名帳に載ってるんですもんね」

「そうです。そして神名帳のうちでも、大人しく祀られて、人間に害をなさぬと約束してくださったのはわずかなものです」

 日和はおそるおそる聞いてみる。

「それはあの重たい過去由来の考えなの?」

「ははは。六葉くんに聞いたんですか? いやだなあ。大したことではありません。私なんて、今、命があって、こうしてちょっと祀りができるくらい元気ですよ」

「そっかなー」

 先程、少し御手洗の袖がめくれたが――見えたのは、肘の辺りに鋭い牙か何かでつけられた、大きな裂傷の跡。

(人間て、怖いなー)

 あんな傷がつくほど、恐ろしい目に遭ったはずなのに、まだ、こうした、術関連の場所にいるのだった。それとも……現場にいつでも行ける、と思えるほど、泰然として見えるけれど、本当は違うのだろうか。前線に出られなくて、怖くて隠れているのだろうか。


 外へ出ると、衛兵の近くに立っていた六葉が、少し眉をひそめた。

「大丈夫か?」

「何が?」

 ぱっぱっと頭の辺りを払われた。

「何? 私、蜘蛛の巣でもひっかけてたの?」

「御手洗様は悪い方ではないが……人の式神に、自分の言うことを聞くような術をかけようとしてかけきらなかった余波を残しておられる」

「うへっ」

 道理で頭がちょっとすーすーする(関係ないかもしれないが)。

 六葉が砂利を踏んで音を立てた。

「他の者に簡単に、ついていかないように」

「だってこれは、六葉が行けって言うから」

「御手洗様であれば大丈夫だと思ったのだがな。まぁ術者というのはそういうものか」

「術者って怖いね」

「あぁ……怖いものだ」

 それはごく小さな呟きだった。

「お前はもう、あまり近づかない方がよいかもしれないな」

「え?」

 よく聞こえなかった。日和は六葉を見上げたが、彼はかすかに首を振った。

「何でもない」


 日和は帰路を歩きながら、考える。

 御手洗の傷――あんな恐ろしい目に、六葉が遭うのは嫌だなと思える。でも、六葉はこの仕事を辞めたりはしないだろう。六葉は、どうでもいい他人のために、寿命帳のところに行ったりする程度には、仕事人間なのだ。

 あるいは――誰かが誰かを呪詛しない世の中になれば、六葉は別の道を進むのだろうか。

(う~ん、どうだろ)

 首を傾げながら歩く日和を見つつ、六葉もため息をつく。

 天には日があって、人々を静かに見下ろしていた。

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