第160話 恋なんて知らない
そして今、二人の星王が天界に降り立った。
「あなたが、どの様な条件で橙星王を懐柔なさったのかは存じませんが……そこまでして、その手で天界の門を開きたかった理由が、ようやく分かりましたよ」
冥王と月光姫の只ならぬ様子を一瞥して、藍星王が自嘲するような笑みを浮かべる。
「全く……私がそういうことに疎いばかりに、か」
「それはまさか、そういう……ことなのか?」
蒼星王がやや呆れたような声で、確認する様に問う。冥王が誰よりも先に、月光姫に会おうとした理由を知り、蒼星王もまた、何とも複雑な顔をする。
月光姫は四天皇帝の寵妃である。それも、特別の待遇で迎え入れられ、豪勢な宮殿の中で、大切に大切にと遇されていたのではないのか。それが、どうして冥王とそういうことになってしまうのか。
……訳が分からぬ……
蒼星王が頭を抱える横で、藍星王の頭は本来の明晰な働きを取り戻していた。
「……そうか、それでか」
どうしても繋がらなかった話が、そこにひとつの要素を加えてやることで、こうも容易く解けてしまうものなのか。
……しかもそれが、愛しているから、だと?……
よりによって、自分が一番、不得手とするところに、落ちが付こうとは……。
……その様な事を、ここまで事態が膠着してしまった言い訳に出来ると思うか……畜生……
こんな話が白星王にでも伝われば、どんな嘲笑を受けることか。そう考えると実に気が重い。さざめく心を押さえこんで、藍星王は努めて平静を装いながら言った。
「……我らがここに参った理由は、お分かりですね、月光姫様」
自分を見返す月光姫の瞳は、全てを承知していることを伺わせるように、強い光を湛えていた。
「……天鏡眼を持つ瑠璃を取り戻す。それが、そなたらの願いであろう」
そう答えて、月光姫が前に出ようとしたのを、冥王がやんわりと押し留めた。
「今更、その様なものを取り戻してどうする。怨念に穢れ、浄化もままならぬ。もはやそれは、この世にただ災厄を生じさせるだけの禍物になり下がってしまったのだぞ」
「確かに。しかし、全ての元凶がこの瑠璃にある以上、地上の混乱を収め、更にはこの天界を元の正常な状態に戻す為には、瑠璃をこのまま見過ごす訳にもいかないのですよ ……それは、月光姫様自身が、一番良くお分かりの筈」
そう水を向けると、月光姫は頷いた。
「如何にも。そなたの言い分は間違ってはおらぬ」
「月光姫……」
何か言いたげな冥王を制し、月光姫は蒼星王の前に進み出ると手を差し出した。
「……瑠璃をこれへ」
蒼星王が戸惑いの表情を浮かべて、藍星王の意向を確認するように彼の方へ視線を向けた。だが、藍星王が答えるよりも先に、月光姫の求めに応じるように、蒼星王の胸の辺りで透明な蒼光が生じ、見る間にそこに瑠璃の玉が現れた。
瑠璃はその意志によって、月光姫の掌に収まった。そんな風に見えた。月光姫はそれを両手で掬うように持つと自身の額に押し当てた。
……寸暇の後。
突然、瑠璃が強く発光し、大きく膨れ上がった。そして、眩いばかりの瑠璃の光の中から現れたもの……。自分の前に膝を折り、頭を垂れた者の姿を、月光姫は静かな目で見下ろしていた。
「お久しぶりにございます」
頭を垂れたまま、そう言ったのは、鴉紗の姿をした者だった。
「顔を上げよ」
「……はい、黄星王様」
彼女は、そう、答えた。
その瞬間、冥王が顔を歪め、そして背けた。
蒼星王は、隣で短く驚嘆の声を漏らし、ただ呆然としている。
予測していたとはいえ、藍星王でさえも、未だ信じられない、いや、信じたくはなかった。だが、天鏡眼を持つ者の言葉が、隠された真実を彼らの眼前に引き摺りだした。
顔を上げた鴉紗は、目の前にいる人物の顔を確認するように見、そして、不敵な笑みを浮かべた。そんな女の顔を見ても、月光姫は表情ひとつ変えずに、淡々とした口調で言う。
「鴉紗……今、そなたに、私の心の中を見せた」
「はい。しかと」
「ならば、分かったであろう。そなたが癒し切れずに抱えている怨みは、本来、私に向けられるべきもの。李燎牙という男でもなく、華煌という国でもなく、そなたは、この私をこそ怨むべきなのだと」
「違うっ。それは違う」
冥王が声を上げる。
「そなたは、何もかも一人で片を付ける積りか。……どうして、私の思いを分かろうとしない」
「……」
「答えろっ、月光姫」
「……私は。自分の罪を前に、逃げることなど出来ぬ。償いを望む者がいる以上、私はそれに従う。それが四天を治める者として、譲ることの出来ぬ矜持なのだ」
「……」
月光姫としてではなく、四天皇帝である黄星王として放たれた言葉に、冥王は返す言葉がなかった。あれほど有能であった者を、その志半ばで挫折させてしまった責任は、紛れもなくこの自分にある。その苦悩の深さは、自分が思っていた以上に、遥かに大きかったのだと知り、冥王は愕然とするしかなかった。
「……おい、藍星王」
最初の衝撃から持ち直して来たらしい蒼星王が、そこに下りた沈黙の合間を突き、藍星王の袖を引いて、小声で話しかけた。
「ああ、分かっている」
蒼星王が言いたいことなど。だが、説明しろと言われても、自分でさえ、まだ頭の中が整理しきれていないのだ。どこからどう言えばいいのか。一番、簡潔に言うとすれば、つまり……
「雌雄未分化だ」
そう言うしかない。
「は?」
案の定、聞き返される。まあ、馴染みのない言葉だろうから、当然だろうが。
「しゆう……?」
「しゆうみぶんか。分かり易く言えば、黄星人は、成体になる時期を迎えると、恋をした相手によって、そこで初めて性別が確定する。そういう種族なのだということだ」
つまり、黄星王はこの天界に来た時はまだ、成体ではなかった。男のようにふるまっていたが、男でも女でもなかったということだ。それが、多分……。
……一人の男に恋をした。
そして、女として成体となってしまった。
そしてそれは、恐らくこの黄星王の本意とは反することだったのだろう。
「……ひとつだけ、分からぬことがある。女性になったとしても、それで四天皇帝の位を下りねばならぬということはない。それなのに、なぜその事実を隠さなければならなかった」
藍星王が聞くと、それは言い出しづらいことであったのか、月光姫は少しの逡巡の後で、ようやく口を開いた。
「……我が黄星は女王の統べる星だ。それは、王家の血統においては、女に分化する者が希少だからだ。故に、私が女として成体したことが知れれば、その後継者として、ここを去り黄星へ戻らなければならなかった」
「戻りたくなかったのだと?」
「戻れば、いずれ女王として、この血統を継ぐ子供をもうけなければならない……」
それは、王族の義務の最たるものだ。宿命として受け入れるべきものであり、当然のことである。
「それが、嫌だった?」
藍星王が良く分からないという様に訊くと、月光姫が少し憐れみを含んだような笑みを浮かべた。
「やはりそなたには、こういう思いは理解できぬか」
「……?」
「愛している者がいるのに、別の者にこの身を抱かれなければならないのだぞ」
「……それで…………ですか」
心情的には分からなくもないが。合理的にものを考える性分の藍星王には、そういうことも含めての王なのだろうと、反駁したくなるのも正直なところだ。
そしてまた、結局、そこ、なのか……
という、軽い嫌悪というか失望のようなものを覚える。とどのつまり、自分には、そういう感情が良く分からない。それを今まで、欠点だと思ったことなどなかった。 だが、今回ばかりは、自分のその不明が悔やまれた。軽く、劣等感までも抱かされる程に……。
小さくため息を付き、気持ちを切り替えて、藍星王は話の先を進める。
「それで、あなたは、李燎牙を焚きつけて、彼が心に抱いていた想いを煽り、鴉紗が力を失うように仕向けた、ということですか」
恐らく、そこまでして隠しておきたかったその秘密を、鴉紗は、不幸にも天鏡眼によって知ってしまったのだろう。それもまだ、その兆しすらもなかった時期に。
その思いがまだ、恋にもならず、友情という範疇に留まっていた時期に、恐らく鴉紗は、黄星王が女性として分化するという未来を、見てしまったのだ。
もし、鴉紗が奏となり、中天界に来ることになれば、存在すらも悟られてはならない秘密が露見することになる。だから……か。
「言い訳をするつもりはない。それによって、そなたが失った未来に対する償いはするつもりでいる。だからそなたは、そなたが失った魂の代価として、この私の魂を取るがいい」
そう言って、月光姫は鴉紗の前に膝を折った。鴉紗の憎しみに染まった瞳が、月光姫の姿を映し出す。
「……愛して……いた……から……」
どこか上の空で鴉紗はそう呟き、その手をゆっくりと伸ばし、月光姫の首に掛けた。
……この指に力を込めれば……全てを終わりに出来るのか……それは分からない。ただ、誰かを憎み続けることは、もう苦しくて、苦しくて、嫌。 もう、どうすればいいのか分からない……これより他に、この苦しみから解放される方法が思いつかないから……
……アイシテイル……
鴉紗の指が、ぴくりと痙攣する。
憎しみの記憶として埋めた記憶の欠片が不意に、心の深淵から浮かび上がった。
……愛している……愛しているから……
狂おしい程に懐かしい声が、体を押し包む。
胸の奥がぎゅっと痛んだ。
憎んでいた筈なのに、その声を聞くと信じられない程に心が震えた。
「……燎牙……」
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