第142話 言えない言葉
河南城の四方に配されている物見の塔。その一つに、奏の居室はあった。
そこに続く階段の入り口は施錠されていて、現状、彼女の世話をする侍女と、杜陽の二人しかそこへの出入りが出来ない様になっている。丁寧な扱いをされているが、自由はない。軟禁されているのと変わらなかった。奏を部屋に送り届けたらしい侍女が、階段を下りて来ると、何時もの様に扉に鍵を掛けて立ち去った。その様子を少し離れた所で確認してから、劉朋は意を決してその扉の前に立った。 と、そこに不意に、背後に人の気配を感じた。劉朋は慌てて振り返る。
「
こいつにも気取られない様にと、注意して来た積りだったが、相変わらず、この護衛をまくのは容易ではないらしい。劉朋は苦笑した。
「宜しいのですか?」
確認する様に、ただそう訊かれた。ここを開けると言う事は、杜陽への背信と取られても言い訳は出来ない。それでもいいのかと、その目は言っていた。
「……奏の本心が知りたいんだ。俺は、このまま……杜陽の言うままでいいのか。正直、迷っている。だから、奏がいいという方に決める事にした。 奏が、ここから逃げたいと思っているのなら、この命と引き換えにしても逃がす。このまま、杜陽の側にいると言うのなら……俺もそれに従う」
「分かりました」
頷いて、猩葉は頭を垂れた。何も反論されないのは、いつもの事だが、それでも猩葉の静かな声に、劉朋は勝手に後ろめたさを覚えて、つい本音を漏らしてしまう。
「……狡いのかな、俺は」
「かも知れませんね」
そう言って、猩葉が微笑した。そんな事はないと、変な慰めを言わない所が、いつもの事ながら正直だ。だから、劉朋も猩葉には簡単に胸の内を晒す事が出来る。
「……行って来る」
「ここは、お任せ下さい」
頷いて、劉朋は扉に手を掛けた。意識を集中していくと、やがて体が蒼い光を纏う。鈍い音がして、鍵が開いた。劉朋はそのまま、躊躇いもせず、天へ伸びる階段を上って行った。
奏は部屋に付くと、異様なまでの疲労感を感じて、侍女が用意してくれた飲み物に手も付けずに、寝台に横たわった。
ここには、何か結界の様なものが張られている。三年前に、初めてここに足を踏み入れた時から、ずっとその空気の重みを感じている。だが結界というのとは、微妙に違う。何らかの大きな意志。そんなものが、ここにはある。それが何の為にあるのかは、分からなかったが、ここにいると、どうも力が吸い取られていく様な感覚がある。
平素は、さほど体に影響があるものでもなかったが、たまに酷く疲れている様な時には、力が容赦なく削り取られて行く。まるで、こちらの隙を伺っている様に、心に脆弱さを生じると、すぐに圧し掛かられる。だから、隙を作らない様に、常に気を付けていたのに。
戦が始まるという話は、殊の他、自分の心に動揺を運んだ。
その時、屍に覆い尽くされた戦場に立ち、瞬間、血生臭い空気に抱かれた。
それが、失った過去の記憶であるのか、予知された未来であるのか、分からなかったが、その生々しい感覚に、奏の心は締めつけられた。
そして案の定、その動揺が捕えられた。そうでもないと思っていた疲労感が、次第にいや増していく。
疲れに抗えず、奏は瞳を閉じる。意識が闇に沈んでいく感覚に身を預けようとした時、そこに鮮明な蒼雷が走った。それと同時に、大きなものに押し潰される様な圧迫感を感じ、息が出来なくなった。
そこに不意に、恐怖とも言うべき感情が現れた。
あっという間もなく、心がそれに囚われ、飲み込まれて行く。
……違う、これは、私のものではないから……
言い様のない恐怖に侵された思念……それが、この部屋を支配しているものの正体?そう思った瞬間に、そこに凄まじい悲鳴が響き渡った。
響いた絶叫は、誰の声だっただろう。
体を揺すられて、目を開けた時には、奏の体は劉朋の腕に抱かれていた。
「奏様っ……」
「劉朋……?どうして……」
「悲鳴が聞こえたので」
「ああ……」
自分もまた、悲鳴を上げていたのかと思う。
……でもあれは、私のじゃない……別の誰か……
「怖い夢でも見られたのですか?」
「……夢というか……多分、記憶なのか」
「記憶?」
「多分、前に、ここにいた者の、記憶。残留思念の様な……」
それは、凄まじいまでの、恐怖に満ちた、記憶だ。
怨念と言っても良い程の。
「それに、思考が囚われたみたい」
「大丈夫ですか?」
そう訊かれて、そこで初めて震えが来た。
「……お茶を……一口頂ける?」
奏が言うと、劉朋が体を離し、まだ湯気を上げていた卓上の茶器を取って来て手渡した。一口、二口と、少しずつ温かい液体を体に流し込む。それで早まっていた鼓動が少しずつ、収まって来た。
「そう言えば、ここ、入り口に鍵がなかった?」
「……私が入ろうと思えば、入れない場所などないのですよ」
劉朋の言葉に、何かを思い出した様に、奏が笑った。
「ああ、そうね。昔から、あなたはそう。いつの間にか、どこにでも入り込んいて、色々器用な子だったわ……ああ……何年ぶりかしら……本当に……」
奏の手が伸びて、そこに膝を折って控えていた劉朋の頭をそっと撫でる。
「大きくなった」
温かな笑顔と共にそう言われた言葉が、劉朋の心を心地よく包み込む。
「それで、今日は何を話しに来たの?」
昔のままの奏が、昔のままに尋ねる。
たったそれだけの事で、劉朋の胸は懐かしさに一杯になった。
自分が求めていたのは、これだったのだと、改めて思う。
このまま、奏と二人でここから逃げて、どこかに身を隠す。そう決断する方へ、気持ちが大きく傾く。星王の力を使えば、逃げ切れない事はない筈だ。 この力は、その為の、奏を守る為に使われるべき力だ。杜陽の野心を満足させてやる為のものじゃない。
「奏様、ここを出ましょう。あなたは杜陽の側になど居るべき人じゃない」
「劉朋……?」
突然の言葉に、奏が戸惑った顔をする。そんな奏の手を取って立ち上がり、劉朋は思いを込めてそっと我が身に引き寄せる。だが、奏の伸ばされた腕は、それ以上動く事は無かった。 怪訝そうな顔をして彼女を見た劉朋は、彼女自身が腰を上げる事を拒んでいるのだと、気付く。そして、奏がゆっくりと首を横に振った。
「なぜ……ですか……」
失望に息が詰まりそうになりながら、劉朋が呟く。
「……杜陽様には、私が必要だからです」
「なぜ……何故、私でなく、杜陽なのですかっ」
動揺して声を荒げた劉朋を落ち着かせる様に、奏は繋いだ手を握り直して、それを両手でぎゅっと包み込んだ。
「聞きなさい、
子供を諭す様に、奏は敢えて昔の名を呼んだ。
「あの方には、母親が必要なのです」
「母親……しかし、杜陽には、ちゃんと実の母がいるではありませんか」
「
「それならば、奏様こそ、縁もゆかりもない、他人ではないですか」
「縁もゆかりもないからこそ、気易いのでしょう。あの方は、私に母親というものを見ておられるのです。かつて、あなたがそうだった様に」
「私はっ……」
……自分こそ、あなたの本当の子であるのに。
危うくそう言い掛けた言葉を、劉朋は苦悶の表情と共に飲み込む。それは、記憶のない奏には、告げても重荷になるだけの事実。蒼星王が奏の記憶を消したのは、その心を悲しみから遠ざける為だったのだから、その事実を、自分が告げる訳にはいかなかった。それに何より、記憶がないままでは、自分の本当の思いなど受けとめて貰える筈もない。言っても理解しては貰えない。やるせない思いが心に広がって行く。
「それでは……私にはもう、あなたが必要ではないと、そう……おっしゃられるのですか」
「そうではないわ。でも私には、杜陽様をここで、見捨てる事も出来ないの」
「そんな理由で……」
込み上げた涙で喉が押し潰された。それ以上の言葉を発する事は出来なかった。劉朋は力なく、崩れる様にしてその場に膝を付く。
……そんな理由で、私は、又、捨てられるのですか……
言葉にならなかった母への問いは、劉朋の心を深く抉った。
そんな自分がみじめで。
そんな狭量な自分が情けなくて。
ただ涙が零れ落ちた。
劉朋の体を、奏がそっと抱き包んだ。
「大丈夫……心はずっと、あなたのそばにあるから。ずっと、あなたを想っているから……」
それでも、それは自分だけのものにはならない。しかも杜陽と共にいなければ、それは叶えられすらしない願い。
……これが、瑶玲の予言の意味か……
杜陽を退けなければ、奏は私のものにはならない。この私は、全てを掛けて、杜陽と戦わなければ、奏という存在を守る事は出来ない……のか。
「劉朋……顔を上げなさい、劉朋」
叱責する様な奏の声に、劉朋は涙を拭い、顔を上げる。
「何百、何千という兵の命を預かる一軍の将が、そんな事でどうするのです。あなた方は、これから戦をしようというのでしょう。 そんな中途半端な気持ちで、その様な大事に関わるなど、許されるとお思いですか。あなたには、果たすべき大事な役割があるのでしょう。私の事などに、気を煩わせている場合ではない筈です」
「……奏様……」
尚も、意気消沈している劉朋の両肩を、奏がぐいと掴む。
「しっかり、しなさい」
伏せられた瞳の先に、奏が強引に顔を割り込ませて、劉朋に言い聞かせる。
「……そんな事では、あなたは戦の波に飲み込まれてしまうわ。忘れないで頂戴、劉朋。あなたが死んだりしたら、私はこの世の終わりまで、泣き続けなければならなくなるんですからね」
納得し切ってはいなかったが、そう言われて、劉朋は、頷かない訳にはいかなかった。何よりも大切な奏が、自分のせいで不幸になるなどと、そんな事は絶対にあってはならない。
「大丈夫。杜陽様の側にいれば、私は安全だもの……あなたには不本意なのかも知れないけど。そこは、我慢なさい。もう子供ではないのだから。ね?」
「……分かりました」
ようやく頷いた劉朋に、奏が安堵の笑みを見せる。自分の気持ちを理解はしてくれている。そして、こうして笑顔を見せてくれる。それで納得すべきなのだろう。
……もう、子供ではないのだから、か……
その言葉に、言い様のない寂しさを感じたのは、矢張りどこかに、母に対する未練が残っているからなのか。それ以上の言葉は無く、劉朋は立ち上がって軽い会釈だけをすると、別れの挨拶もなしに、固い表情のまま部屋を出て行った。
階段を下りていく靴音に、奏は溜息を落とす。
「……素直な事は、褒められるべきなのでしょうけど……ねえ」
奏が、近くに現れた気配に語りかける様に言う。と、そこに人影が現れた。
「まあ、その辺は、俺も少しは責任を感じる所だけどな」
その来訪者、黒鶯は、勝手知ったるという感じで、卓上の茶器で、もう自分用にお茶を淹れている。
「も少し、汚れ仕事もやらせておくべきだったかなと。この期に及んで、こんなに気持ちがぐらつくって言うなら、仕方ないな。ひとつ荒療治でも……」
「あまり、苛めないで頂戴ね。あの子は繊細なのだから」
「過保護なばかりじゃ、子供は真っ当には育たないですよ。大丈夫、奴を死なせない為にやるんだから、殺したりはしない」
物騒な台詞をおどけて言う黒鶯に、奏が顔を顰める。
「……運命を変えようなんて、大それた事を考えるんだから、多少の困難は乗り越えて貰わないといけないって話ですよ」
「……強くなってくれるかしら」
「そこは、ならざるを得ないと思いますよ。死に物狂いに。ならなければ、本当に死んじゃいますからね」
黒鶯が酷薄な笑みを浮かべる。奏がその意味を知ったのは、それから間もなくの事だった。
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