第136話 新しい生活
華煌の滅亡から半年を待たず、その帝国のあった場所には、新たに五つの国が現れ、国主と称する五人の王が立った。
北の二国は、劉飛が国主となる広陵国、それに、駛昂が興した砂宛国である。
又、南では、湖水の
そして、五王の最後の一人は、その拠点を、要衝の地である海州へ移し、この国主となった
海州では、戦の後、やはり戦で大きな傷を負った
崔涼がこの地に海州の名を冠した国を作り、その国主に収まったのも、ほとんど傍観するのみだった。しかし、四十年近くに渡ってこの海州の要であった梗家当主の人望は浅からず、何事か相談事を抱えて、その屋敷を訪れる者は少なくなかった。
実は国主の件についても、梗之騎の甥で、海州領官であった
そんな梗之騎の元を、その日は
姫英は、華煌滅亡の後、崔涼の呼びかけに応じ、これに投降した。彼の率いていた皇騎兵軍と共に、この海州まで連行されて、しばらくは美水城の牢に入っていた。だが、かつて友であった崔涼が正式に国主となると、閑職ながら水軍監理官という役を与えられて官吏として復帰した。彼の連れて来た皇騎兵軍は、そのまま海州軍に統合されて、水軍と共に、今は周藍が面倒を見ている。
閑職に回されたが故に暇がある。そんな具合で、姫英は暇が出来ると、梗之騎の元に碁を打ちに来る。隠居した梗之騎を相手に、どうでもいい四方山話をしながら、碁を打つのである。 又、日々の暮らしの中で生じる愚痴の類を零しながら、その鬱憤を晴らしてもいる様だ。
国を興したばかりの人材不足から、少しでも崔涼の役に立てばという思いでこれに仕えているが、それが軌道に乗り落ちついたら、隠居をしたいと、事あるごとに零している。 帝国元帥までも務めた男である。やはり今の仕事では物足りないのだろうと思いながら、梗之騎は彼を見ている。
実は、姫英がこうして碁を打ちに来る理由は、他にもあった。
「お茶をお持ち致しました」
明るい伸びやかな声が聞こえて、姫英は石を打つ手を止めて、その声の主を見ると、思わず優しい笑みを見せる。
「息災であるか?」
「はい、つつがなく」
笑顔でそう答えたのは、姫英の娘である
あの時、海州軍が燎宛宮を攻めていたのと同じ頃、皇帝一家は、翠狐の手引きにより、星見の宮から八卦によって密かに都を脱出していた。春明たちが、あの禍々しい火柱を見たのは、北口村に停泊していた水軍の船の上からだった。彼らを船まで送り届けた翠狐は、そこに現れた周藍という八卦師と共に再び燎宛宮へ引き返した。その後、戻って来たのは、梗之騎を伴った周藍だけであり、翠狐とはそれきりになっている。周藍の話では、翠狐は劉飛を救い出して、そのまま彼と共に、広陵へ向かったのだろうという事だった。風の便りに、劉飛は広陵の国主となり、息災であるというから、翠狐もまた無事なのだろうと信じている。
燎宛宮から救い出された梗之騎の有様は、それは酷いものだった。だが瀕死のばかりの重傷を負いながら、その意識は信じられない程しっかりとしており、兵をむざむざ死なせてしまったその片を付けるのだと言って、そのままそこで自害しようとまでした。それを押し留めたのは、周藍の言葉だった。
「あなたには、まだ、皇家の人々を無事に海州まで送り届けるという大切な仕事が残っているのではないのですか」
そう諭した周藍に、梗之騎は慙愧の涙を流しながら、忠義の為にその心を殺し、武将としての矜持を捨て去ったのだ。その様子を側で見ていた春明は、自分たちを救う為に、犠牲になったものの大きさを、改めて思い知った。春明はその事実を心に重く受けとめながら、自ら梗之騎に付き添い、献身的にその看護をした。そして、海州に辿り着いた彼らは、そのまま梗家の屋敷に身を寄せた。
珀優は、全てが自分の預かり知らぬ所で行われていた事に、これまでにない程に怒り狂い、天祥を詰り、やがて悔恨の念に苛まれながら、周りにそうさせてしまった自分という存在を責め続けた。その贖罪の為に、死をも考え始めた珀優を、春明は胸のつぶれる思いを抱きながら、ただ一心に宥め続けた。
そんな彼女たちを重苦しい日々から救い出してくれたのは、珀優の身に宿った新しい命だった。 自身の懐妊を知ってから、時折、長く物思いをする事はあっても、珀優はその身が、日々変化していくのを感じながら、次第にその心に平穏を取り戻して行った様だった。
燎宛宮という閉ざされた世界から外に出てしまうと、その特別な空間はまるで幻の様な世界で、現実には存在しなかったのではないかとさえ思える。 夢を見ていたのではないかと、そう錯覚してしまう程に、珀優にとっても、そして春明にとっても、もうその存在は遠いものになっていた。
北に比べ、温暖な海州であるが、この地でも、吹く秋風は日毎冷たくなっていた。
「そろそろ、露台では寒いですわね。部屋に火鉢でも入れさせましょう」
言って春明が立ちあがる。
「すっかり、ここの女主であるな」
姫英がそんな娘の様子を苦笑しながら見る。
「梗之騎様には、一生掛かっても返しきれない恩がございますから。心を込めて、お仕えさせて頂くのですわ。それが、私の生きる道なのだと心得ております」
言われた梗之騎は、少し困った様に笑う。
「そう、固く考える事もあるまいよ。妻に先立たれて、女手のない所に、あれやこれやと気を回して貰い、重宝しておるのはこちらの方ゆえな」
「お役に立っているのでしたら、嬉しい限りですわ。それでは私は」
まだ十代にも見える、華の様な笑みを残して、春明はそこから立ち去って行く。
「気も利いて才も立つ。おまけにあの美貌と……このまま、この様な場所に留め置いておくのは、誠に惜しい。そうは思わぬか?姫英」
「あれはもう、私の掌中から飛び出した者ゆえ。好きにさせておきます」
「随分と、毒気が抜けたものな、そなたは」
梗之騎が揶揄するように笑う。
「あれは運を掴む事に掛けては、どうやら特別の才を持っているのですよ。私などが余計な口を挟まずとも、収まる所に収まりましょう」
姫英が止まっていた手を動かして、盤上に石を置いた。
「成程な……」
呟きながら、梗之騎が姫英の石を受けて、その傍らに石を置く。そうして互いに思案しつつ、小気味のいい音を立てながら、交互に石を打つ。しかし、考えていたのは、共に盤上の石の事だけではなかった様だった。そのせいかどうかは定かではないが、残念ながら、この長閑な隠居生活は、この先ずっと長く続いていくという事にはならなかった。
この地の国主となった崔涼ではあるが、当然の事と言えば当然の事ながら、海州という土地に深く染みわたった梗之騎という影を、やはり次第に煙たく思う様になるのである。
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