第134話 恋ゆえの絶望

 その年の初雪を、朱凰は西畔の屋敷の窓から見た。

 気鬱から人を遠ざけてみたものの、自らが立てる音しか存在しない世界の閉塞感に耐えきれなくなり、朱凰はおぼつかない足取りで窓辺に向かうと、寒さにも構わずに、窓を大きく開け放った。


 窓の外には、音も無く雪が舞い降りていた。いつにも増して、静けさが重く感じたのは、このせいだったのか。そう思うと、少し気が楽になった。 だが、彼女を苛んで離さない気鬱はまたすぐに、その身を押し包む。その圧迫感に抗えず、朱凰は崩れ落ちる様にして、窓辺にもたれかかった。

 あのまま死んでいれば、こんな苦しみとは無縁であった筈なのに。どうして自分は生かされたのか。自分にはまだ果たすべき事があるというのか。


 分からない。

 こんな体で……一体何が出来るというのか……


 綿毛の様な雪は、世界の音を全て吸いつくす様に、際限なく降り落ちる。それを飽かずにぼんやりと眺めていると、心の底から湧いてくる狂気にもう抗わずに、このまま身を預けてしまおうかという気になる。


……もうこのまま……何もない世界に行ってしまおうか……


「その様な薄着で、窓を開け放ったりなさって、風邪をお召しになりますよ」

 不意にそこに生じた音が……人の声が、どこかに行きかけた彼女の心を現実に引き戻した。

「翠狐か……」

 いつの間にか現れた羅刹を、朱凰の冷たい目が見据える。そこに、憎悪にも似た感情が込められているのを感じて、翠狐はやや戸惑った様な顔をした。それを少し申し訳なく思いながらも、朱凰は何も言わずに、視線を反らし、波立った心を落ちつける様に、再び雪を眺めた。



 あの時……杜陽が赤星王の力を暴走させた、あの時。

 劉飛と朱凰は、この翠狐の八卦の術によって、あの炎獄の中から救われた。自らも紅炎に深手を負いながら、それでも、持てる力の全てを尽くして救い出してくれたのだ。本来ならば、感謝すべきなのだろう。文字通り、命の恩人なのであるから。だが、この者がいなければ、自分はこの様に思い悩む事もなかったのだと思えば、そこには簡単に憎悪の感情が湧いてくる。


 応えもなく無言なままの朱凰に、翠狐はその側に来て、そっと窓を閉じた。その行為に、あからさまに不快な顔をみせた朱凰に、翠狐は表情を殺したまま言う。

「冷気は傷に障りますから……」

 その気遣う様な声が又、癇に障った。

「そなたこそ、傷はもう癒えたのか?未だ羅刹の力を失ったままで、他にやるべき事がないから、厄介な娘のご機嫌伺いなどという、つまらぬ役を押し付けられて 、のこのことこんな所にまでやって来たのであろう」

「劉飛様は、朱凰様の事をそれはご心配なさっていらっしゃるのですよ。だからこそ、この私が、こうしてご様子を伺いに参っているのです。折角拾ったお命なのですから、もっと大切に…」

「黙れっ……黙れ……」

 その名を聞いた途端に、逢いたさが無性に募ってきて、その思いに翻弄される。だが、それはすぐに、決して逢いたくはないという強い思いに掻き消されて行く。


……この様な無様な姿を……


 冷え切った手が、無意識にもう動かない右腕をなぞる。その指先に纏わりつくざらついた感触に、朱凰は狂気を孕んだ笑みを浮かべる。

「……この様な身を晒して、それでも生きろと言うのか」


 朱凰の身は、あの業火に焼かれた。その半身に火傷を負い、一時はその命すらも危うかった。璋翔がその財力に物を言わせて、薬師や八卦師をかき集め、その治療に当たらせた。それで一命は取り留めたが、その体には酷い傷跡が残った。


 元々、朱凰はその可憐な容姿の事など忘れているのではないかというぐらいの女丈夫であったから、それを失った事で、彼女がこれ程の落ち込みようをみせるとは、周囲の者は誰一人予期していなかったのだ。だが、その体に残った傷跡の事を知ってから、朱凰は人を遠ざけ、部屋に籠る様になった。殊更、劉飛には、決して会おうとしなかった。

 そんな彼女を心配して、幾度か劉飛が見舞いに訪れたが、その度に、扉越しに半狂乱になって追い返した。そんな有様に心を痛め、その気持ちが、今しばらく落ちつくまでと、劉飛は見舞いを自粛している。 それでも、様子は気に掛かるので、こうして翠狐を差し向けているのだ。


「それでも……生きろと……」

 朱凰が自問する様に呟く。

「そうですよ。それでも……それでもです」

 思わずそう答えた翠狐を、朱凰の瞳が見据える。その眼は、未だどこか虚ろで、生気を失ったままだ。その心が、未だ生よりも死に近き所に留まっているせいなのだろう。

 それ程までに、朱凰の心は劉飛という存在に焦がれていたという事なのだろう。死して尚、劉飛の心に住み続ける麗妃よりも大きな存在となるには、揺るぎない強さと、絶対の自信が必要だったのだ。その自信は、武芸に秀で、強き武人で居続けるという事のみならず、恐らく、その容姿によっても支えられていたに違いなかった。その両方を無残にも打ち砕かれたのだ。


……その恋ゆえに、か……


 彼女はあっけなく絶望に囚われた。その心を癒すには、一体どうすればいいのか。彼女に、あの強さと自信を取り戻させるには、どうすればいいのか。翠狐には、皆目見当が付かなかった。




 再び静けさに支配された部屋に一人残されて、朱凰は窓辺にもたれかかったまま、ただぼんやりと外の世界を見ていた。

 雪が、何もかもを、みるみるうちに白く覆い隠していく。その穢れのない白色に、心が無性に惹き付けられた。


 もう、自分にはあの人を守る力もない。

 そして、あの人を癒す笑顔すらも失った。

 残っているのは、ただ生きているというだけの器。

 同情や憐れみのみをねだる浅ましい器……


 そんなものでも、あの雪の中にあれば、あの白さがその醜さを覆い隠してくれるのだろうか。 あの穢れのない白ならば、私の全てを消し去ってくれるのか。何ひとつ残さずに。

「……何ひとつ……」

 そう呟いた時には、もう窓を開いてた。


……醜いものは全て、あの白に埋めてしまわなければならない……


 そんな思いに急かされながら、窓枠に片足を掛ける。そのまま、窓枠を飛び越えて、白い世界へ足を踏み出そうとした朱凰は、しかし、そこに予期せぬものを見て、その体勢のまま動作を止めた。



「よお、元気そうだな」

 そう、声を掛けられて尚、朱凰は動く事が出来ない。呆然としながら、思考がゆっくりと動き出す。


……何で、あれがいる?……こんな所に……


「雪遊びには、寒いんじゃないのか、その格好じゃあ」

 あれ……即ち駛昂しこうが、少し呆れた様に笑いながらそこに立っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る