第126話 皇帝の密使

 さて、河南に新しい領官が着任したのと同じ頃である。

 海州の街に二人の男が姿を現した。巧みに飛空術という八卦の技を用い、人知れず移動している所を見ると、共に八卦師の様である。彼らは、そこに抱えた使命を果たす為に、美水城へ向かっていた。



 海州は、帝国の南東部に位置する小都である。ここは、帝国三軍の一つ、帝国水軍の拠点となっている地である。そのお陰もあり、海にせり出した形で築かれている美水城から、陸地に掛けて伸びる美しい街並みには、人の行き来も多く、商用の港を中心に、大いに賑わっている様が窺えた。


 海州の先の海には、大小数百を数えるという島々に、帝国の朝貢国である小国がいくつか存在する。海州の港では主に、これらの国々との貿易が行われていた。よって、この海域では、物資や金が頻繁に行き来する。そこに、そんな美味しい匂いに敏感な海賊が姿を見せ始め、やがてその数が目に余って増え始めると、それに対抗する為に、この地に自警船団が設けられた。これが、海州水軍の始まりであったと伝えられている。

 又、年に数度というぐらいの割合ではあるが、大陸の西側から、大型の商船を操って、困難を伴う南海の荒海越えを果たし、この東の果ての帝国にまで商いをしに来る、海竜族と呼ばれる人々の存在が、この地に異国の香りをもたらし、ここを更に魅惑的な街にしていた。



 現在、帝国水軍元帥を務めているのは、梗之騎こうしきという老練な武将である。

 歳は六十だと言うが、日焼けして浅黒い艶を放つ、その逞しく鍛え上げられた体躯は、到底そうは見えない。十を若く言っても、十分に通る体つきである。


 その梗之騎は、美水城の自室で、机上に大きく地図を広げながら、この所、中央で不審な動きを見せている皇騎兵軍の動きを吟味する様に、そこに視線を落としていた。

「一体、何を考えている、姫英の奴めは……」

 近衛が強化されたとは言え、燎宛宮の守備の要は、皇騎兵軍である。その皇騎兵軍を無駄に動かし、戦力を消耗している様にも思える。そもそもそれは、宰相である劉飛の思惑なのであろうが、軍を預かる者として、筋の通らない命令は承諾すべきではないと考える。帝国三軍とは、この帝国の利益を、そして皇帝を守るべきものなのだ。政治的な思惑で、その行動が左右される様では困るのだ。


 燎宛宮の動きが、今ひとつはっきりと伝わって来ない、という辺りも、梗之騎にとっては、歯がゆかった。これで又、有事にでもなれば兵を出せと言われるのだろう。その様に、毎度、便利な道具の如きに扱われていると、その忠誠心にも少なからず影を落とす。



 海州という地に住む者は、良くも悪くも、自立した意識を持つのだ。かつて、この沿岸に住む漁民が自警船団を組織し、勢力を伸ばし始めた事で、その力を欲した始皇帝によって帝国に吸収される事になったのだが、彼らは、その後も、自分達は騎馬の民にはない能力を持っているという自負の元、意識的にはあくまで対等であった。それに、帝国の一地方となっても、帝国との繋がりと、外部との繋がりの比重は変わる事は無く、彼らの中では、天秤の両方が丁度釣り合う様に等しく同じであったのだ。 外との貿易や塩の専売で、彼らがもたらす莫大な富は、河南の穀物生産と並び、今や帝国経済を支える大きな柱となっている。


 極端な話をすれば、帝国にとって、海州は欠く事の出来ない存在であったが、その逆もまたそうなのかと言えば、必ずしもそうではなかった。過去の皇家の政争に、この海州があまり関わって来なかったというのも、詰まる所、その自立心の現れなのだろう。

 誰が皇帝になろうが、帝国が生きようが死のうが、この海州という存在の意味は変わることなく、海州はただ、海州として存在し続ける。彼らの思考の中心には、常にそんな思いがあったのである。



 扉を叩く音がして、梗之騎は顔を上げた。

「叔父上様は、こちらにおいででいらっしゃいますか?」

 問うた声に応えを返すと、扉が開いて、海州領官である彼の甥が姿を見せた。


 その海州領官の名は、梗琳こうりんという。

 かつて、天家の管財人をしていた梗琳、その人である。


 梗琳は、天家断絶の後、失意のまま都を後にし、海州の、この叔父の元に身を寄せた。やがて、その能力を買われ、水軍の資材調達役を任される様になった。その後、この地の領官が病没したのに伴い、叔父の推挙により、海州領官に収まったのだ。

「どうした?」

「はい、実は……」

 梗琳が難しい顔をして、そこで声を落とした。

「……都から、皇帝陛下の使者だと申す者が、極秘に参っておるのですが」

「陛下からの密使だと?それは又、大仰な事になって来たな。一体、燎宛宮の奴らは、何を遊んでいるのだ」


 ようやく平穏を取り戻した帝国に、また、何の波風を立てようと言うのか。生真面目だけが取り柄の様な劉飛が宰相となり、このまま何事も無く時が過ぎて行けば、この海州もつつがなく世代交代をし、自分は気楽な隠居の身となれたのであろうに。

 どんな人物でも、燎宛宮に長く身を置けば、その淀みに足を取られ、身を黒く染めて行くものか。かつての陽気な劉飛の姿を思い浮かべ、梗之騎は嘆息した。






 梗之騎が、海の見渡せる広間に姿を見せると、そこには二人の男が平伏し、彼を待っていた。文箱を携えている方が使者で、その少し後方に控えている者はその護衛といった所か。一瞥でそう判じると、梗之騎は上座の位置にある椅子に座った。その傍らに、彼の後を付いて来た梗琳が立つ。


「梗元帥のお出ましである。面を上げよ」

 梗琳がそう告げると、使者がゆっくりと顔を上げた。

 夏の終わりに吹く、沿海地方特有の冷気を含んだ潮風が、まるで間合いを測った様に、その場に吹き込んだ。その風が、梗琳の頬を掠め、髪を揺らした。その瞬間に、梗琳の背筋を冷たいものが走った。

「天……祥……っ」

 梗琳の呟きを耳に止めた梗之騎は、甥が驚愕に目を見開いて、固まっている様を見て、訝しげな顔をしつつ、口を開く。

「そなたが、陛下の密使か?」

「左様にございます」

「では、その書状をこちらへ貰おうか」

「はっ」

 天祥が文箱を捧げながら、うやうやしく梗之騎に歩み寄り、それを差し出した。梗之騎が箱を開き、その書状を読む間も、梗琳は目の前にいる天祥から目が離せない。しばしの間、その場は、城壁に打ち寄せる波の音が聞こえる程の静寂に包まれていた。



 やがて、書状に目を通し終えた梗之騎に、その名を呼ばれるまで、梗琳の心は千々に乱れ、真実を問い質したいという思いに翻弄されていた。

「……梗琳、梗琳」

「あ、はい」

 呼ばれて我に返った梗琳に、梗之騎が、彼が知りたかった答えを告げた。

「この者は、陛下の影、なのだそうだ」

「影……?」

 頷いて梗之騎は、天祥に話し掛ける。

「そう言われれば、燎宛宮で何度か拝謁させて頂いておりますな?その面差しには、覚えがありますぞ。その方、名は?」

「はい。私は、陛下にお仕えいたしております八卦師で、祥と申します」

「それが、天家を捨ててまで選んだ、そなたの道という事か。全く、忠義に篤い事だな。だがそういう愚直さは、嫌いではないぞ」

 梗之騎が好意的な笑みを見せる。

「恐れ入ります」

「では……やはり、あなたは天祥様なのですか」

 梗琳に、これ以上ないという程の真剣な目で問われて、天祥はやや気まずそうにして頷いた。

「……ご無事……だったのですね……」

 梗琳が、力が抜けたという様に、その場に膝を付いた。

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