第2章

第4話 ~こころとからだの境界線~

 陽の光の中に飛び出し、大きく深呼吸をする。

「おいしーっ!」

 理由もなく走り出し、無駄にくるくると回ってみたり、ちょっとした段差を飛び越えたり、縁石を平行棒に見立てて渡ってみたり。人通りの少ない都会のはずれを縦横無尽に駆け回る。体が軽く、ふわふわと飛んでいるような感覚だった。

「あっ!」

 日向ぼっこをしている猫を発見し、そろりと近付く。猫はうっすら目を開けて俺を視認したが逃げることなく、なおも目を細めて気持ちよさそうに香箱座りしている。

「気持ちいいか? 気持ちいいなー」

 指で喉を撫でるとゴロゴロと鳴らしだした。猫は「もっと撫でてー」と言わんばかりに自分の喉元を反らせてくる。

「むむっ。おぬし、甘え上手だな?」

 首輪はついてないけど、飼い猫っぽい。

 病院から出て数十分後、お天道様が一番高いところまで昇ってきた頃。

 都会アスレチックで散々にはしゃぎまわったところで、一息つくために偶然見つけた公園へ寄る。

 やはりというべきか、軽く周辺をぶらついただけでは何も思い出せず、見知らぬ景色がずっと続くだけ。少しでも記憶にひっかかるような、いわゆる既視感といったものはない。気分的には目隠しされて見知らぬ土地に放り出されたようなものだが、好奇心が勝ってこんな状況でも卑屈になることはなかった。

 記憶喪失というのもなんだか実感が沸かず、何も考えず、何にも縛られずに闊歩する姿は、はたから見れば公園内をはしゃいで回る子供そのものだった。ふと思い返して高校生にもなって恥ずかしい姿を晒したかと多少ばかり気にかかったが、楽しかったしいいか、と自己完結。

「おっ」

 公園の一角にアイス屋さんを発見。

「おじさん、アイス下さい! ダブルで!」

「あいよっ――へい、かわいい嬢ちゃんには、サービスだ!」

 嬉しいことに、アイス屋のおっちゃんはダブルで頼んだものをトリプルにしてくれた。

「あ、ありがとうございます……」

 お世辞でも可愛いなんて言われたことが衝撃的で、ニカッと笑ったおっちゃんの顔を見ることができず、俯いたまま穴にささったアイスの持ち手を取るとそそくさとその場を離れた。

「えへへ……」

 可愛い、か……ちょっと嬉しい、かも――はっ! 俺は男だ、何を喜んでいるのだ!

 邪念を振り払い、アイスにかぶりつく。しばらく口に物を含んでいないせいか、歯がキーンと痛んでしばらく悶える羽目になった。

 ちまちまとアイスを食べながら、数ある中から比較的汚れの少ないベンチを選び腰を下ろす。

 公園の中央には大きな湖があり、スワンボートなども楽しめるようになっているようだった。ざっと歩いただけでも分かるくらい外周は結構な距離があり、ジョギングや散歩コースとして利用している人が多かった。コースの周りには数種類の名前も知らぬ花や樹木が植えられ、緑あふれる自然の中を、人だけではなく鳥や虫もそれぞれの時間を満喫していた。

 アイスの甘味と自然の中に身を浸らせていると、鞄の中から何やら音楽が聞こえてきた。

「ん? なんだこの音……」

 音のなる物体を取り出すと、それは携帯端末だった。よく見ると変わったデザインをしていて、一面すべてがスクリーンになっており、ボタンがどこにもついていない。

「む? ううん?」

 ぐるぐると携帯端末を回して調べていると飛び出たボタンを発見し、押してみるとディスプレイが真っ暗になっただけで、一向に音楽がやむ気配はなかった。 

「えっ、え……っとぉ? お?」

 片手がふさがった状態で操作方法の分からぬ携帯端末を振ったりボタンをカチカチしてみるが、けたたましい音楽は一向に鳴りやまず、慌てふためくこと一分、ほどなくして音楽は鳴りやんだ。

 画面には、『着信あり』の文字。その下には〇九〇から始まる電話番号が表示されていた。

「だれだったんだろ?」

 アイスを食べつつ携帯端末を睨んで待ってみるが、それ以降は鳴りを潜める一方だったので、鞄の中へ閉まった。

「さてと……!」

 アイスを食べ終え、紙屑をゴミ箱に捨てた時だった。

 ――そこで俺は初めて、身体の異変を意識させられることになる。

 ほんの些細な出来事だった。ジョギングをしていた三〇代くらいの男性が視界の奥からこちらへ走ってくる。なんてことはない、彼は彼の休日の日課をこなしているに過ぎないのだが、そこでなぜか本能的に、

 ――襲われる。そう思った。

 瞬間、身体の自由が奪われた。同時に胸が圧迫され、重苦しい何かが全身に纏わりついてくる。指先ひとつ動かそうにも筋肉が硬直していて、ピクピクと震えただけだった。やがて男性との距離が詰められるにつれて、ジリジリと精神がすり減らされていくような息苦しさが増していく。

 残り十メートル。九メートル。八、七……

 目を見開き、男性の動向を警戒する。覚醒した意識の中で、スロー映像のように時間がゆっくりと流れた。じれったいまでに一秒が長い。

 男性の動きが気になる。男性から視線を外すことができない。

 自分の意識下でコントロールしていたはずの身体が、見えない糸で縛り上げられているように微動だにしない。

 そして――

「――っ!!」

 男性が俺の脇を何事もなく通り過ぎると、糸が切れたように全身の力が抜けて地面にへたり込んだ。

 胸が苦しい。頭が痛い。不足した酸素を急いで体内に取り込もうと、再び体が暴走し始める。変な汗が噴き出し、体温を奪われた体が小刻みに震えていた。

 まただ。この感覚は先ほど病院で襲われた発作に似ている。

 異常だ。誰にも何もされていないというのに、さきほどの男性から襲われるビジョンを思い浮かべて一人恐怖していたなんて。

 自分の身に降りかかった突然の異変に、いよいよワケが分からなくなり疑念で脳内が溢れかえる。

 なんで? どうして?

 一体どうしてしまったというのだ?

 なぜこれほどまで、害のないはずの人に怯える必要がある……?

 そもそも、なぜ発作は引き起こされた?

 失ってしまった記憶はいざ知らず、書き加えられたばかりの記憶ならば、鮮明に思い出すことができる。今回は実に簡単だった。“近付かれる”ことを意識しただけ。では、病院では何をしたか。

 一つ一つの動作を確認しながら、記憶をなぞる。

 あの時俺が、発作が起きる前にしたことは?

 あの時、俺はユウナから鏡を受け取ろうとして――

「ちょっと、大丈夫かい?」

 目の前に掌が差し伸べられた。

 そして、思い出した。


 俺はあの時――ユウナの手に触れた。


「――ッ!! あっ……だいじょうぶ、です」

 老婆から差しのべられた掌を払いのけようと体が飛び跳ねたが、なんとか押し殺す。無礼を承知で、目も合わせずに手を突き出した。

「そうかい。あんまり無理しないようにねえ」

 老婆は皺だらけの顔をさらにしわくちゃにしてみせた。誰が見ても温厚で、優しそうなお婆さんだ。

 そんなお婆さんを、俺は……突き飛ばそうとした。

 まさか。

 お婆さんは手を差し伸べてくれただけだ。男性はただ走っていただけだ。

 そんなことであれだけの苦痛を強いられたというのか?


 青く晴れた空とは相反して、俺の心は数分のうちに曇天になっていた。トボトボと歩いていると、何やら辺りに活気が付きはじめてきた。

 いつの間にか駅前の商店街に辿り着いていたらしい。

 途端に人の往来が増え、歩行者とすれ違う度に肩をすぼめ、避けようとせずに歩いてくる人は反復横跳び並の俊敏さで回避して進んだ。

(なんで俺こんなビビってんだろ……)

 まだ自分自身の身体の暴走を信じられず半信半疑ではあったが、自分でも大げさなくらいに周りの挙動の一つ一つに過敏に反応していた。

「おーい、こっちこっちー」

 ――ひっっ!?

「ごめん待った?」

「俺も今来たところだから」

「いらっしゃーい、安いよ安いよー!!」

 ――わぁっっ!?

「嬢ちゃん、夕飯の買い物にどうだい?」

 ――ひあぁっ!!

「いってーなどこ見て歩いてんだよ」

「おめえが先にぶつかったんだろ!」

 ――ごめんなさいごめんなさいっ!!

「なんであの子が謝るんだよ……」

「さぁ?」

 大した距離も走っていないのに上がりきってしまった息を整えるために、建物と建物の間の細い路地に避難した。

 陽の光も街の活気も行き渡らない仄暗い路地に隠れると、溜息が漏れた。ここはゴミが捨てられているし、なんだか変なにおいがする。決して居心地のいい場所とは言えない。だがそれでも、ここにいると安心感があった。

 反対に、人が行き交う商店街の通りを視界に入れると途端に胸がざわついた。陽の光の元から、足が遠のく。

「ドラキュラになったらこんな感じなのかな……」

 ひとりごちる。ドラキュラは人に怯えたりはしない。

 冗談はさておき、ずっとここにいるわけにもいかない。意を決して外へ出ると、ますます体を縮ませ足早に商店街を通り抜けた。

 自分でもどこへ向かっているのか分からないが、ひたすら走った。どこかへ行く宛があるわけでもないが、今更引き返す理由もない。

 俺はひたすら前へ進み続けた。何かに導かれるように。

 本気で道に迷いぐるぐると同じ場所を回ったりもしたが、紆余曲折を経てついに駅へと辿り着く。そして路線図を見たとき、脳に電流が走った。

 見覚えのない地名ばかりが並んでいたが、順番に眺めているとある地名を目に入れたときに急に文字が揺れた気がしたのだ。俺は迷わずその地名の下にある数字を確認し、券売機で切符を購入してホームへ降りた。

 ホームの端まで来たところで、ようやっと人の波から解放される。

「つ、疲れた……。こんなんで一日持つのかな……?」

 既に気疲れが激しい。それでも周りを見渡すと人、人、人だらけ。つくづく都会の人の多さを思い知らされる。

 その大勢の人に萎縮して大げさに反応している自分の姿のなんと滑稽なことか。

 手にした一枚の切符を空にかざし、眺めながら考える。

 客観的に皮肉を言えるのなら、まだマシな方か。病院の時と公園の時とは違い、症状の存在と因果について認知していることで、ある程度の覚悟はできた。その覚悟の有り無しでは天と地ほどの差がある。

「ユウキよ……勇気をだせ……」

 ――ピコッ。

「いたぁっ!」

 不意打ちにもほどがあるぞ天使よ! 驚きすぎて変な汗が出てきた……。

 くそっ……ダジャレを言う暇もないのか。今のは全然可愛い方だろ!

 プオン。

 電車の警笛に驚き、思考が中断される。

「お嬢ちゃん」

「――っ!!」

 肩を叩かれ、俺は慌てて飛び退いた。

「危ないから、さがった方いいですよ」

「あっ……す、すみません」

 いつの間にか背後にいたスーツのおじさんに優しく促され、かなりホームの端ギリギリまで来ていたことに気付き、おじさんと距離を置きつつ黄色い線の内側へ一歩退いた。

 そして、電車の扉が開いた瞬間に人が雪崩なだれる。ずいぶん降りた気がしたが、中にはまだ大分残っている。

「うわぁ……」

 どうやら地獄はまだ続くらしい。

 尻込みしていると先に乗車していたスーツのおじさんが不思議そうに見てきた。

 このままじゃただの挙動不審な女子高生だ。

 ぐっと拳に力を込め、中に入ってすぐの位置。乗車席の仕切りと扉で出来た隅っこを陣取る。あとは周りを意識しないように目的地までひたすら外を眺めていればいい。

 化粧品や漫画の広告。ドラマの主演俳優の写真。特に目の保養になるような素晴らしい景観が見渡せるわけでもなく、都会の車窓は奥行の無いコンクリートジャングルだ。

「閉まれゴマ。閉まれゴマ。閉まれゴマ」

 余計なことを考えないために呪文を唱えているとやがて扉が閉まり、静かに電車が動き出した。

 後ろに人の気配をたくさん感じる。だが決して振り返ってはいけない。振り返ったら……ヤられる!

 とはいったものの、意識せずとも無数の人の息遣いや話し声が耳に入ってくる。背後の人の足音もやけに大きく感じて、そのたびに呼吸を忘れて身を固くした。

 手すりを握る掌がじんわりと汗ばんできて、無駄に何度も握りなおす。

 こういうときは、こういうときは……………………そうだ羊を数えよう!

 羊羊羊――羊が一匹羊が二匹れつごー三匹羊が――ん? 羊が一匹羊が二匹羊が……

「ひっ――」

 突然腰のあたりに何か不気味な感触を感じ、俺は声にならない声をあげた。

 大丈夫。誰かの荷物が触れただけだ。

 だが、その考えはすぐに否定されることになる。

 その後、またしても何か不気味な感触が腰周りを撫でてきた。先ほどの自然な流れはなく、今回は不自然なまでにべったりとしていた。明らかに人為的なものだ。

 ――痴漢!?

 頭が真っ白になった。ただでさえ周りに人がいると考えただけで気が遠くなりそうなのに、触れられるとなおさら、呼吸が止まりそうになった。触れられた箇所からじわじわと腐敗していくような、気持ちの悪い感覚に身体がむしばまれていく。動悸どうきが激しくなり、締め付けられたように胸が痛い。逃げるべく扉に寄ってぴったりとくっついてはみたものの、その何かは離れるどころかますます纏わりついてきた。

 やがて腰のあたりにあった感触が、どんどん下の方へと向かっていく。

 ――イヤだ。気持ち悪い……!!

 止めようにも、今はまだ人を意識していないからなんとか気を保てているが、向き合ってしまえばいったいどんな苦痛に襲われるか分からない。完全に病院での発作がトラウマとなって俺の行動を制限していた。

 呼吸するのに精一杯で声を出すことすらままならなず、周りに助けを求めようにも誰一人こちらを見ていなかった。

 足が震えてきた。手摺につかまり、必死に身体を支える。

 そんなことはお構いなしに制服の上から触れていた何かはやがて、中へ侵入しようと制服をまさぐり始めてきた。

 下半身に渦巻く生理的嫌悪感と、理性が壊れ心が支配されていく焦燥感に苛まれる。

 もう意識を保つのがやっとだった。

「………………れ…………か……っ!」

 苦し紛れに絞り出した声はかすれ、車内に鳴り響くアナウンスの音でかき消されてしまっていた。

 いやだ……このままじゃ……!

 誰か、誰か――


 ――助けて。


 声に出せずに、心の中で必死に叫んだ。

 その時だった。

 ――シャリーン。


「おい、おっさん!」

 飛びかけた意識の中、突如として差す鋭い怒号の一閃いっせん

 瞬間、目の前のドアが開き、身体がホームに投げ出された。

 視界にはスーツを着た男性が走って遠ざかる姿が映る。

「待てよ! こらッ! 痴漢だ、そいつ痴漢なんだ!」

 後から続いて現れたのは、同じ学校の制服を着た男子生徒だった。人の波を掻き分けて追いかけようとしたがすでに距離が大分開いており、渋々断念して俺のもとへ駆け寄ってくる。

「大丈夫? ……立てる?」

 男子生徒が手を差し出す。

「救急車呼びましょうか?」

 心配したギャラリーの女性も声をかけてくれた。

 俺はそんな周りの呼びかけには一切応じず、自力で立ち上がった。

 助けてくれた彼も、厚意で声をかけてくれた女性も、同情や好奇の目を向ける大衆も、周りにいるすべての人が――怖い。

「……何かできることがあったら言ってくださいね」

 異常な空気を察してくれたのか、それだけを言い残して車内に戻っていく女性。

「ご迷惑を……おかけしました」

 なるべく平静を装うが、震える体を押さえるのに必死だった。終始俯いたまま会釈だけすると、俺は近くの椅子に腰を落ち着かせた。脚が震えていて三メートルを歩くのですらやっとだった。

 こんなに身体が思い通りに動かないなんて……。

 遅れてやってきた駅員が様子を窺いに来たが、先ほどの男子生徒がすべて説明をしてくれたらしく、俺に注がれていた大衆のベクトルは幾許か減っていた。

 やがて電車が何事もなかったかのように出発し、俺と彼を残して駅のホームは静けさを取り戻していった。それでもしばらく、俺の身体の震えは止まらなかった。

「ったく、現行犯じゃなきゃいけないなんてな……大丈夫か?」

 愚痴をこぼした彼がおそるおそる尋ねてくる。

「…………」

 黙ってうなずいた。嘘ではない。彼が気を使ってくれたおかげで、大分落ち着いてきた。だが、それでも俺は斜に構えて彼を視界から消そうと努めた。

「そうか。……あ、俺は新田。新田にった総二郎そうじろう。同じ学校、だよね。えっと……」

 話題作りのためか、俺を心配してか、彼は自己紹介をしてきた。正直そっとしておいてほしい気もしたが、優しく接しようとしてくれる彼を無碍むげにするのは失礼だと思ったので、いちおう答える。

「……ユウキ」

「ユウキちゃんか。よろしく」

 彼は笑っているようだった。微笑み返したいのもやまやまだが、俺はとてもじゃないがそんな気分になれない。

 心が空っぽだった。

 自分の身体は、自分が一番制御できるものだと。我慢してさえいればなんとかなると。

 そう思っていた。

 でもできなかった。そういう問題ではなかったのだ。

 ひどく空虚な気持ちだった。別に泣きたいわけでもなかったし、泣こうという気さえ起らなかった。

 それでも、気付けばひざの上にしずくがいくつも垂れていた。

 電車の中にいたとき、周りを拒絶するのと同時に、自分自身の魂までも拒絶されているような感覚だった。現実に留まるのがやっとで、下手するとすぐにでも魂を抜かれる――そんな感じだった。

 その間俺の心を支配していたのは、他でもない……恐怖だ。

 どうしようもなく震え、怯え、恐れていた。俺自身というよりは、この身体が――優希がそうだった。

 だからきっと、この涙も優希のものだ。俺は、泣いてなんかいない。

 そう強がってみても、涙は絶えず流れてくる。

 もう、何が何だかわからない。

「……これからどうする?」

 考えなしに外へ出てきたわけではない。だが、何をするにしても優希を放っておくことはできない。自分の身体だから……というわけではないが、この身体に起こっている事態を、とてもじゃないが他人事のように思えなかった。

 男だから、泣いている女の子を放っておけないだけかもしれない。

 まだ、この身体に馴染み切れていないからか、見えた気がしたのだ。

 ――他人を恐れ、家族であるユウナをも恐れ、一人で悲しみに暮れて泣いている優希の姿を。

 だから、今ならわかる。

 俺のすぐそばに、優希の存在を感じる。


 ――彼女は、まだ生きている。


「……俺の家、ここから五分もかからないところにあるから、来る?」

 その言葉に、思わず新田の顔を見た。すると彼は慌てて両手を挙げてみせた。

「いや、別に変な意味じゃないからな。ただ、キミが気持ちを落ち着かせるには、それが一番かなって。俺ん家広いし、誰もいないからさ。休める部屋だって用意できる」

 無邪気に笑う彼を見る限り、少なくとも疑う必要はなさそうだった。

「……うん。じゃあ、つれてって?」

 俺は、彼の好意に甘えることにした。


 新田総二郎の家は、本当に駅から出てほとんど歩かない場所にそびえたつ高層マンションの八階にあった。

「おじゃまします」

 家の中は彼の言った通り広々としており、掃除の行き届いたフローリングの廊下を進んで通されたリビングには余分な家具はなく、引っ越してきたばかりのような殺伐とした雰囲気があった。

 だが、今はこの方が落ち着くかもしれない。

 落ち着いてくると様々な要素が気になりだした。先ほどの電車内で触れられていた部位にはもやもやとした嫌悪感がいまだにまとわりついているし、変な汗をかいたせいか汗臭い。こういうのって、女の子ならいの一番に気にしなきゃいけないことじゃないか?

 ぐぅ。

 そして極め付けは、起きてからろくに満たされていない腹の虫。

「ははっ。もしかしてお昼食べてないの?」

 屈託のない表情を浮かべて笑う新田総二郎。

「わ、笑わないでよ……」

「でも、安心したってことだろ?」

 素直に認めるのは癪だったが、俺は黙ってうなずいた。

「じゃあ、軽く作るから待ってて」

 リビングのテーブルの脇に鞄を置くと、新田総二郎はキッチンの壁にかかっていたエプロンを着用し、慣れた手つきで包丁とまな板を用意してから冷蔵庫を漁り始めた。

「好き嫌いとかある?」

「べ、べつに……」

 ない。というよりも、分からない。俺自身はそうだが、優希の好き嫌いまで把握していない。

「オッケー」

 新田は確認を終えると、すぐさま主夫モードに切り替わり野菜を切り始めた。あまりの手際のよさに、思わず見とれてしまった。

 それにしてもなんというシュールな光景だろうか。白昼堂々初対面の男子生徒の家にあがり、そのうえ手料理までごちそうになろうとしている。まあ別に問題は――

 ん、待てよ? よくよく考えると俺は今女の子で、新田は男の子だ。てっきり同性の友達感覚だったが、端から見たらただの逢引きではないか!

 いやいや落ち着け冷静になれユウキ。彼はまったくその気はない。俺もヤローとあーだこーだする気はない。

 断じて誓う、私はノーマルであると。

「なにやってんの?」

「い、いえ別に!」

 心の葛藤を見られ、俺はキッチンのカウンターから死角になっているソファーに慌てて座った。

 とはいったものの、なぜか気になるものは気になってしまう。

 新田は長身で俺よりも背が高く、この家へ来る途中も歩幅を俺に合わせてくれる優しい少年だ。なにより、電車の中で助けてもらったという恩がある。

 この流れ、少女漫画ならまず間違いなく恋に落ちる展開だ……!!

「ん?」

 ――あぶないっ、目が合う所だった!!

 いや、俺にその気はなくても、新田にはあるかもしれない。男は狼だ。心の中の下心を隠して生きているものなのだ。

 もしかしたら恩を着せて家に連れ込んでそのまま――

「ユウキちゃん」

「は、はい!」

「よかったらお風呂入る?」

 ほわっつ!? まさかの展開。よもや最悪の展開が現実に繰り広げられようとしているのか……!

「汗気にしてたみたいだからさ」

 ……よく見ていらっしゃる。本音を言えば、二つ返事で湯船に飛び込みたいところ。

「で、でも……」

「そうか着替えか」

「いえ、ありますあります! 着替え持ってきました!」

 咄嗟に何言ってんだ俺。

「そうか。わかった、じゃあ沸かしてくるね」

 そしてそれを信じるなよ新田! どこの女子が制服姿で学校指定の鞄に下着入れて持ち歩いてるんだ!

 変なところで純粋なんだな……少年。

 そういえばマンションの一階にコンビニがあったから、あとでこっそり買って来よう。

「十分くらいで入れるようになるよ。乾燥機も使いたかったら使っていいからね」

「――? 別にそこまで汗かいてないよ?」

「うちのはオゾンで除菌消臭できるタイプなんだ。制服だから洗濯は難しいけど、それなら大丈夫だろ?」

「……オ、オゾ……?」

「オゾン」

「お、オゾンね! 知ってる知ってる! たしか、酸素の進化系なんだよね?」

「……後でやり方教えるね。iPhoneも充電したかったらしていいから」

「あいふぉん? ワタシ、ケイタイ……じゅうでん?」

「…………ひょっとしてユウキちゃんって、箱入り娘なの?」

「い、いえ……」

 すべて記憶喪失のせいにしました。


 悶々とした時が経ち、「オ風呂ガ沸キマシタ」という機械の声がするなり、

「お風呂お借りします!!」

 と言って俺は部屋を飛び出し10m走世界記録保持者並の速さでコンビニに駆け込んだ。

 まったくコンビニで下着が買えるなんて……恐ろしい時代になったもんだ。まったく、どうかしてるぜ。

 息を切らしながら脱衣所に入り、扉に背中を預けて息を整える。

 血相を変えて女性用下着を買う日本男児の絵とは、いかに滑稽なものか。今は女だからこの苦悩は誰にも伝わらないだろうが……伝わったら間違いなく変態で逮捕される。

 大きくため息を吐く。素直に湯船に浸かれるのはありがたい。ゆっくり考えるのに、お風呂ほど最適な場所はない。暖かいお湯に浸かって、この疲労感を癒してもらおう……。

 制服のボタンに指をかけ、次々とはずしていく。脱衣所には籠があったので、それに脱いだ服を入れていく。

 ふと、誰かに見られている気がした。扉の方ではなく、壁の方へ視線を移す。

 と、 

「あっ……」

 俺は、目が合ってしまった。

 ずっと心の傍らに感じていた存在――優希と。

 透き通った白い肌はふっくらと弾力があり、走ってきたからか紅潮した頬と汗ばんだ体が妖艶な雰囲気を醸し出し、しなやかにのびた四肢と柳腰りゅうようから生み出されるスタイルと相まって、その容姿は反則的に美しかった。

 つぶらな目と、こぶりな鼻から、顔にはまだ幼さが残り、起きてから整えていない髪が変にうねってはいたが、間違いない――美少女がそこにいた。

 たしかに、ユウナと双子というだけあって、そっくりだった。だが、俺の目に映るユウキはユウナとはまるっきり違う、一人の女の子に他ならない。

 ユウナとはまた違う美しさが、ユウキにはあった。

 そして今向き合っているこの姿が自分だなんて、到底思えるはずがない。彼女はあまりにも儚くて、繊細で、か弱い存在だ。

 こんな少女が、先ほど俺が感じた苦痛の時間を強要させられていたのかと思うと、すごく申し訳ない気持ちになった。そして同時に、彼女の身体を奪ってしまったという罪悪感に苛まれる。

「キミは……俺がいることを望んでいるの……?」

 俺が彼女に成り替わることで、彼女はどこかへと消えてしまったんじゃないだろうか。彼女の意思に関係なく、無理やりに。

 だから俺の意思に反して人を拒絶し、怯えているのではないだろうか。

 もしそうなら、天使が俺にこの身体を託した意味はなんだ? 俺は本当に神様の気まぐれだけで、二ノ宮優希になったのか?

 今一度改めて浮かび上がる生の疑問。

 そして、心の片隅で彼女が生きているという漠然とした思いから導かれる、一つの結論。

 つまり――


 ――一週間経てば大塚祐樹は死に、この身体は二ノ宮優希へと戻る。


 この現実が俺のためだけに作られた世界というわけではないから、元々あったものは必然的にあるべき場所へ還ることになる。俺が一時的にこの身体を借り暮らしているのだとすれば、一週間後に優希に返却されるはず。

 だが、俺にはその最期のシナリオが、どうしてもいいものだとは思えなかった。

 決して自分が死ぬからではない。

 今のまま一週間経って、果たして二ノ宮優希は……本当に戻って――救われるのだろうか?


 ♪


 自分は望まれていない存在なのかもしれない。

 いつもそう思って毎日をすごしてきた。

 人一人にできる事なんて限られていて、その小さな存在が人生と言う冒険を歩み始めたところで、その過程に残せるものなどあるのか。

 ない。とは言い切れないが、実際はわからない。自分が生きている意味も、生かされている理由も、何もかも……。

 だからかもしれない。自分と言う存在に早々と見切りをつけられたのは。

 だからかもしれない。

 自分には出来ない顔で微笑む、あの子の代わりになろうと決意したのは――


 ♪


 目を覚ますと、部屋がすっかり暗くなっていた。

 全身にまとわりついていた疲労は吹き飛び、なにより鼻腔をくすぐるかんばしい香りがすぐさま脳をフル回転させた。

 考え事をしていたためにのぼせてしまい、お風呂から上がるなりソファに倒れこんで眠ってしまったらしい。

 ソファから飛び起きキッチンを見やるが、そこに新田総二郎の姿はない。

 もしかして、出かけてしまったのだろうか?

「あれ、起きた?」

 そこへ、タオルを頭にぶらさげた新田が現れた。さわやかな短髪から水が滴り、シャツの間から覗く男らしい肉体の不意打ちに、少しドキッとしてしまった。

「う、うん。おかげさまで……」

 立ち上がり、手持無沙汰な手が中途半端に着たままの制服や身だしなみを整え始める。あれ、でもなんでこんなに服が荒れてるんだ? まさか、寝ている間に何かされたんじゃ……!!

「ん? どうしたの?」

 新田総二郎が首を傾げた。

「はぅあっ……!! ぃいい、いいえ、うん。だいじょうぶだいじょーぶ!」

 れ、冷静になれユウキ。あの時ボタンをとめる余裕がなくて、肌蹴たままリビングに顔を出したのは自分だ。危うく冤罪を着せるところだった。

「お腹減ったでしょ。というかけっきょく、昼飯が夕飯になったな」

 新田総二郎はのんびりした調子で、皮肉を言って笑った。なんだか俺ばっかり意識しているみたいで、彼のことを飢えた狼だと警戒していた自分がバカらしく思えてきた。

「ごめんね。何から何まで……」

「いいっていいって。ユウキちゃんが元気になったみたいで安心したよ」

「新田くんのおかげだよ」

 食卓に座るよう促され、素直に甘えて待っていると、彼はキッチンからカレーライスとシーザーサラダを運んできた。

「ありきたりで悪いけど」

「そんなことないよ。カレー大好き!」

「よかった。じゃあ食べようか」

「うん」

「「いただきます」」

 生まれ変わって初めて食べる料理は、カレーライス。特別でもなんでもないけど、なんだか不思議な味がした。少し辛いけど、とてもおいしい。

「お口に合うようでなにより」

「まだ何も言ってないよ?」

「そんなの、見てればわかるよ。ユウキちゃん、すぐ顔に出るから」

 本当によく見ている。少しの機微きびも見逃さない勢いだ。

「そ、そういえば、お父さんとお母さんはどうしたの? まだ帰って来てないみたいだけどっ」

 恥ずかしさから逸らした話題だったが、彼の琴線きんせんに触れたのか食事の手が急に止まった。

「……母さんも父さんも、しばらく帰ってこない」

 言ってから彼はかげった表情をごまかすように微笑んだが、その顔はどこか寂しそうだった。

「二人とも長いとこずっと出かけててさ……。別に重い話じゃないから気にしないで」

 そして自分の出した空気を読んで、彼は何でもない風を取り繕った。

 彼の今までの言動から、俺のことを想ってしてくれているということがすごくよくわかる。

「うん、わかった。気にしない」

 彼の言葉に従い、俺はうなずいた。

「あ、そうそう。家族と言えば、寝ている間ユウキちゃんの携帯ずっと鳴りっぱなしだったよ」

「やば――っ!」

 いかん、忘れていた! ユウナを含め、ホームステイ先となる家族とは良好な関係を築かなくてはいけないというのに。

「勝手に出るのもまずいかなって思ったけど、ご家族に連絡しないのもどうかと思って、代わりに連絡取っといた」

 なんて紳士なんだ新田総二郎。ゲームのような好感度ゲージが存在したならばうなぎのぼりしていること間違いなし。

「なにか言ってた……?」

「すごく心配してた。お姉さん迎えに来るって。こっちに着くのは八時頃だって言ってた」

 壁に掛かっている時計を見る。あと十五分もしたら八時じゃないか。というかもうこんな時間なのか! 結局、今日はほとんどどこにも行けなかったな。

「良いお姉さんだね」

 お姉さん、か……。

「新田くんは一人っ子なの?」

「ああ。だからちょっと羨ましいよ」

「羨ましい?」

「たまにね、思うんだ。兄弟がいれば、もっと変わってたのかなって」

 言って、ご飯を乗せたスプーンでルーをすくって口に含む新田総二郎。

「だから、ユウキちゃんはお姉さんにあまり心配かけないようにね」

 そう言ってカレーをもう一口頬張ると、「一人っ子の俺が偉そうに言うのもなんだけど」と付け加えて笑って見せた。

 そういえば今朝はユウナと向き合おうとすらしなかったが、ユウナからすると優希は正真正銘の家族なのだ。もともと病院に迎えにきてくれていたのに、それを無視して飛び出してきたんだもんな。

 ユウナをないがしろにしてしまったから、今日はバチが当たったのかも。

「わたし、新田くんがいなかったらどうなってたか……」

 改まってお礼を言うと、彼は食べる手を止めて畏まった。

「そんな! ……でも、もっと早くに助けてやれなくてごめん」

 人も多かったし、位置的にもかなり見え辛かったはずだ。よく異変に気付いて声を上げてくれた。

「それに、俺……」

「新田くん、ありがとう。わたしのために勇気を振り絞ってくれて」

 自分を責め、口ごもる彼を見ていられず、自然とその言葉が出ていた。

「俺、そんなお礼言われるようなことしてないんだ。むしろ――」

「もう、わたしがお礼言ってるんだから、黙って受け取らないと許さないよ?」

 彼が今日俺にしてくれたことから比べたら、ものすごくちっぽけな恩返しかもしれない。だが、今自分にできる最高の恩返しは、笑うこと。

「ほら、ね?」

「……ユウキちゃん」

 すると暗く翳っていた彼の表情が、やっと和らいだように思えた。

「どういたしまして」


 後片付けは積極的に手伝った。家事を手伝っていくうちに、いつのまにか周りの人に抱いていた恐怖からは解放され、新田とは何事もなかったかのように接っしている自分がいた。今では他愛もない会話をして、笑いあうことだってできる。

 ――もしかしたら、今後俺が人と接していけば、こんな風に優希の苦しみを和らげることができるのかもしれない。

 別れ際、携帯あいふぉんの使い方を伝授してもらい、到着を知らせるユウナからの着信をとった。

「もしもし……? あ、あの」

「あっ……ユウキ? 着いたよ」

 怒られる。そう思って身構えていたが、受話器から聞こえてきたユウナの声はとても穏やかで、優しく耳の奥で鳴った。

「うん。い、今から……行くね」

「うん。待ってる」

 優希という存在の重みが、その一言にあった。優希には帰るべき場所があり、待っててくれる人がいる。どこへ行けばいいかなんて考えるまでもないくらい、指針は明確だった。

「学校行けば、会えるよね」

「そうだな。また学校で会おう」

 玄関越しで手を振り、彼の家を後にする。

 マンションの八階から見える夜景は、なかなかに壮麗だった。その夜の輝きは、昼間俺の目に飛び込んできた一つ一つの輝きとはまた違った輝きがあった。止まない雨はないのと同じで、曇天だったはずの俺の心にも、今では光が射している。

 これを機に、優希の周りにいる人たちと少しずつ接していこう。

 彼女が戻ってきたとき、苦しむことなく笑って過ごせるように。

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