第23話 心の境界線

 その子のことは、よく「しゅーちゃん」と呼んでいた。

 中学二年生にあがりたての頃、恒例のクラス替えをして、校内では特に影が薄かった俺を初めて目にしたであろうしゅーちゃんが、突然声をかけてきた。


「お前、つまんねーやつだな!」


 べつにバカにするわけでもなく、不平を垂れるでもなく、俺を見た感想をありのまま、そう口にした。ただあまりにも快活に言われたために、俺はまたちょっかいをかけられたんだと思って、

「だからなに?」

 と強く反発した。

 もう誰も俺に話しかけなくなって半年以上経っていたし、出来上がっていた孤独のパーソナルスペースに踏み込まれたことがひたすら鬱陶しく感じて、そんな態度をとってしまった。

 ところがしゅーちゃんはそんな俺の態度は意に介さず、続けて言った。

「おれもな、つまんねーんだよ」

 ……正直何を言っているのかまったく理解できなかった。

 会話の流れから察するに、自分で自分のことをつまらない奴だと言っていることになるからだ。だが少し冷静に考えてみると、退屈しているという意味でそう口にしたのかもしれない。

 なぜそんなにめんどくさい言い回しをするのか、少しだけ興味が沸いていたのかもしれない。「は?」と言いそうになるのを我慢して、とりあえず「どうして?」と問いかけてみることにした。するとしゅーちゃんは「よくぞ聞いてくれました」と言わんばかりに俺の前の席の女子の机の上から降りて、急に俺の椅子の空いている僅かなスペースに「よっこらせ」っと尻を乗せると、ぐいぐいと尻で奪略してきた。本気で青筋が立ちそうになったが、次の瞬間しゅーちゃんの口から出てきた言葉に、そんな気持ちはどこかへと消え去った。

「おれんちさ、この前両親が離婚したんだあ」

 まるで世間話でも振るくらい、何の気なしに彼の口から飛び出てきた言葉が、俺には衝撃的だった。しかし同時に、口許が歪みそうだった。

「あっそ」

 と一蹴して、俺は席を立った。無理矢理くっ付いてこられるのも鬱陶しいし、話も面倒くさそうだと思って、俺は誰も居ない図書室へ行くことにした。あいつが部活をやっているのなら、わざわざサボってまでついてこないだろうという予想をしていたのだが――

「よっ!」

 と、図書室の椅子に腰を下ろした俺の正面に、しゅーちゃんが当然のように座っていた。何故ここにいるのか理由を尋ねると、

「サボった。今先輩の命令に従って元気に走り回る気分じゃねえんだよ」

 と答えが返ってきた。俺の目には全然平気そうに見えるというのに。

 それからというもの、彼は俺が読書をしていても、俺が返事をしなくても、点けっぱなしにしているテレビのニュースキャスターのようにひたすら自分のことを一方的に語り聞かせてきた。俺は当時、とある理由から家に帰るのを可能な限り遅らせたかったために、放課後になると図書室や商店街、公園などをぶらついていたのだが、その日を境にしゅーちゃんが後ろをくっついてくるようになった。

 最初は「こっち来んな!」と言っていた俺も、次第に彼がそこにいても気にならなくなっていき――。気付けば「ユウキ、お前は俺の一番の理解者だ!」なんて言われる始末。聞きたくもない話を無理に聞かされていれば、嫌でもしゅーちゃんのこと知ってしまうから、誰よりもしゅーちゃんの話を聞いていたという意味では確かにそうかもしれない。

 だが俺は、ひとつだけ分からないことがあった。

 ずっと疑問に思っていたが、いつしか口に出すのを忘れていたことがあることを思い出した。

「お前さ、あのときどうして俺に話しかけようと思ったの?」

 ある日、いつものようにぶらぶらと公演を散歩していたときのこと。俺はふっと思い出したその疑問を、ついにしゅーちゃんへとぶつけてみた。すると、彼は笑って答えた。

「だって、俺らつまんねー仲間じゃん――」



「あっ、起きた」

 目を覚ますと、目と鼻の先に綺麗な女性の顔があった。

「わあっ――ひゃぁ!?」

 びっくりしてベッドの上で後退すると、視界がひっくり返った。端まで来ていると知らずに落ちてしまったようだ。なんとか手をついて頭からの落下を防ぎ、

「――あ、パンチラ」

「えっ!? わ、わぁぁすみませんっっ!」

 でんぐり返しの要領で体を回転させて床の上に横座りをする。

「ところでさ、なんでノーブラ?」

 ……ばれた。

「……見たんですか!?」

 今更無駄と分かっていても毛布で胸元を隠してしまう。

「見てない。でも、見れば分かる」

「はぁ……、えっと、まあ……いろいろと理由があって……」

 主にイヤらしい気持ちになるから、という理由だが。

「やっぱり付けなきゃダメでしょうか……?」

「べつに? 見たところそんなに大きいわけでもないし――アタシの見立てだとBかな?」

「えぇっと……まあ」

 ……あれ? これは怒った方がいいのだろうか?

「普段から激しい運動してるわけじゃないなら、強制はしないよ。アタシも家にいるときはノーブラだから、楽なのはすっごくわかる」

 さりげなくすごいことを言うなこの女史。あの豊満なバストでノーブラか……。それはそれは。

「――オホン。あの、俺いること忘れてねえか……?」

 咳払いをする低い声の主。カーテンの向こうから聞こえる。

「えっ、居たの……!?」

 女史ならまだしも男子にノーブラとか聞かれた……!?

「ああ、そっか。忘れてた。セクハラで警察に通報しないと」

 固定電話を取り上げておもむろに3ケタの番号をプッシュし出す女史。それを見て焦ったのか、椅子が倒れる音がした。

「おいおい! 俺はなんもしてねえだろっ!?」

「え? 今の話聞いてたでしょ?」

「…………まあ」

「もしもし、警察ですか?」

「おい待てよッ! 不可抗力だろうがッッ!!」

「替わってくれってさ」

「……?」

 ――ピッ、ピッ、ピー…………。

「時報じゃねえかおいッ!!」

「あっはっは、引っかかったーおもしろーい」

 乱れていた制服を整えてベッドを元に戻してる間に、男子生徒がやたらからかわれていた。この女史、恐るべし……。

「あ」

 カーテンをめくると、散々女史から揶揄からかわれて怒り心頭に発していた男子生徒と目が合った。

「天羽くん……」

 声の主は隣の席の男子、天羽蓮あまはれんだった。いつも教室にいないと思ったら保健室ここにいたのか。

 時計を確認すると今は四限目の英語の途中だ。時間的に40分程度意識を失っていたことになる。

「授業行かなくて大丈夫なの?」

「俺のことはどうだっていいんだよ。それよりお前はどうなんだ?」

「わたし……?」

「階段から転げ落ちて気を失ったらしいね。ま、アタシはそこの天羽少年から話を聞いただけだから真偽は定かではないけれど。幸い目立った外傷もなし。乙女の顔に傷がつかなくてよかったねえ」

「あ……そっか」

 ぼんやりとした記憶を整理していると、たしかに女史の言う通りな気がした。慌てて階段を下りようとしたら足を滑らせて転落したんだっけ……。でもなんで慌ててたんだ……?

「あっ! ケンカ!」

「チッ」

 天羽が余計なことを思い出しやがって、という表情をした。女史は椅子に座ってコーヒーを飲もうとしていた手を止めて反応した。

「ケンカ? またなの少年?」

「またじゃねえよ。俺はそんな不良児じゃねえから」

「授業サボって保健室に来るような生徒を、不良って言うのよ」

 そうだそうだ。

「今からでも遅くないよ。授業一緒に出よう?」

「んだよなんで俺が出ねえといけねえんだよ、お前ひとりで行けよ。っつか、お前体調は大丈夫なのかよ?」

 体調? たいちょう、タイチョウ…………。

「何ともないみたい。ゲンキだよ」

「そうか、良かったな。授業行ってこい」

「天羽くん行かないなら行かない」

「なんでそーなるんだよ!?」

「ひとりで戻るの恥ずかしいもん」

「……まあ分かる」

「納得したなら行こう?」

「同意しただけだ。行くとは言ってねえ。お前は行け」

「アイタタタ、フルキズガ……」

「嘘つけ!!」

「あっはっは、キミたち仲いいねー! おしどり夫婦?」

ちげぇよ!」

「…………」

「おいなんか言えよ!」

「そういうの、まだ考えたことないなって思って……」

「真面目に捉えんな!」

 俺にとっては割と重要案件なのだしょうがあるまい。

「アタシ、ピュアな娘好きよ~。黒くけがして遊ぶの大好き」

 あんた本当に教師か。


 話が平行線になり、どちらも引かなくなったところへ「まあこれでも飲みたまへ」と女史からコーヒーを差し出され、なんだかんだで一息ついてしまった。こりゃあ四限目は出ない流れになってしまった。

 女史が二杯目のコーヒーを注いでいるところに、「そういえば、先生のお名前は……?」と尋ねる。

「あれ、言ってなかったかしら? アタシは保健担当の星野よ。星野華美はなみ。カービィって呼んでいいわよ」

 随分頭身の高いカービィだな。

「それは色々とアレなので辞めておきます」

「そう」

 星野女史は特に残念がることなくコーヒーをすすった。短めの赤いタイトスカートから魅惑の黒脚を伸ばし、ぽっかりと空いた胸元から覗く豊満なバストと相まって目のやり場に困る。綾乃にはない大人の余裕と魅力が感じられる、綺麗な女性だ。どうでもいいが格好が少々テンプレすぎやしませんかね。

 また顔が赤くなりそうなので観察はその程度にして。優希になって初めて飲むコーヒーは、ブラックだとやっぱり苦くて飲み切れそうになかったので大人しくミルクと砂糖を頂戴する。

「天羽くんは、いつもここにいるの?」

「いつもじゃねえよ」

「大概ね。行く場所に困ったらここに来るみたいよ?」

 本人は否定したが、星野女史から有益な情報が聞けた。

「そうなんですか。……心配してたんだよ?」

「なんでお前が心配すんだよ。関係ねえだろ」

「それは……隣だし、それに――」

「それに?」

 星野女史が食い気味で入ってきた。

「気になる……から……?」

「あらやだ、そういう話?」

「ち、違いますよ!」

「否定するところがまた本当っぽいわね」

 ぐっ。これは反応するだけ付け込まれると見た。なんでみんなそうやって揶揄うんだよ……もう。

「……さっきも言ったけど、べつにお前が気にすることじゃねえから。コーヒーごっそさん」

「あ、ちょっと――!」

 天羽は飲み干したカップを机の上に置くと、呼び止める間もなく保健室を出ていってしまった。追いかけようか迷っていると、星野女史が手を重ねてきた。

「ユウキちゃん、さ。どうしてアイツのことそんなに気に掛けてやるの?」

 先ほどまでの冗談交じりではない、真面目なトーンだった。

「それは……」

 さっきも言った通りです。そう言おうとして、二の句を継ぐのを躊躇った。核心に迫るような女史の問いに答えられるだけの、明確な理由が俺にはなかった。同時にそんな自分に、改めて疑問が湧き上がってきた。どうして――と。

「アタシはユウキちゃんのことは小耳にはさんだ程度だから詳しく知らないし、深入りするつもりはない。でもこれだけは忠告しとく。好奇心で詮索してるようなら、今すぐ辞めな。他人に軽い気持ちで踏み込まれるのは良い気しないっていうのは、ユウキちゃんなら想像するに難しくないはず」

 言い終えてから、星野女史は大きく息を吐いてから椅子を軋ませて仰け反った。それから「今から言うのは独り言ね」と前置きをしてから語りだした。

「アタシ、一応臨床心理士の資格も持ってるのよ。んでカウンセリングの真似事はしてみたんだけど……メンタルケアだなんだって言っても、限界はあるのよね。でもそのお蔭かしら。アイツが頻繁にここへ来るようになったワケ。アタシの言うことはてんで聞かないクセに、ずうずうしい奴だよ、まったく」

 それは独り言というよりも、愚痴のように聞こえた。コーヒーを頻繁に啜りながら、その想いを吐き出し続ける。だんだん女史の飲んでいるコーヒーがお酒に見えてきた。

「大人になっても、どれだけ資格を持っていても、出来ないことってあるのよねぇ……以上、終わり! はースッキリしたー。ごめんね、いきなり愚痴っちゃって」

 やっぱり愚痴じゃないか。

「いえ……先生でも愚痴りたくなること、あるんですね」

「当然よ! 私だって人間なんだから。でも殿方にこういう話をするとすーぐ調子に乗るから、男の前では言わないの。クラスメイトにもアタシが愚痴ってたことはナイショね」

「は、はい」

 俺も男なんですが……。

 そう内心ツッコミを入れつつ、だが女史の言葉は耳が痛かった。もしかしたら、俺もユウナの話を聞いて、どうにかしてあげたいと余計な言葉を口にしてしまった。調子に乗っていた、と言われれば確かにその通りかもしれない。

「あの……」

「うん?」

「先生は、どうして私に、その……愚痴ったんですか? 愚痴って、親しい間柄じゃないと出来ない気がして」

「それは、ユウキちゃんの意見よね?」

「あ……はい」

 俺の目を見て確認すると、コーヒーを注ぎ足して語りだした。

「アタシは、逆ね。親しくなればなるほど話せなくなるの。特に親しい人に弱みは握られたくないって思うからかしら。親しくなると以前より踏み込んでくる人っているじゃない? いくら気を許した相手とはいえ、アタシのプライバシーに踏み込まれるのは嫌いなの。んー、こういうのなんていうのかしらね――ああ……っと、親しき仲にも礼儀有りって言葉が、ぴったりくるわね、うん」

 女史は自分で納得したタイミングでまたコーヒーを啜った。どうでもいいがさっきから飲み過ぎではないのか。

「つまり、わたしはあまり踏み込まないと知ってて話した……ということですか?」

「そうね。愚痴ってそもそも、あまり踏み込んで欲しくないの。ただ聞いてもらうだけで良かったりするワケ。相手の意見が聞きたいときは、する――これは好く聞くかしら? でも人によってそういう……心の線引きの位置ボーダーラインが違う。どこまで踏み込んで良いか、どこまで相手の侵入を許せるか……。――そうした思想の違いが原因で、心の衝突、すれ違いが起きるの。……難しいわよねえ」

「はい……」

 求めてもいない言葉を囁かれても、有り難いとは思えない。それは余計なお世話、というものだ。


――私は……いい、かな……。


 そう言ったユウナに対して、踏み込もうとしたのは自分だ。

 ユウナは、クラスのことで俺に相談してきたことはない。それはユウナ自身が変化を望んでいなかったからなのかもしれない。

「でも、それは何も悪い話ばかりではないわ。現に、アタシとユウキちゃんの考え方は違うけど、アタシはユウキちゃんとこうしてお喋りしてる。それはアタシが話しやすいと思ったから話したの。べつにアタシは、愚痴ったからユウキちゃんと親しくなるつもりはない……ということではないからね? むしろ仲良くしてくれたら、良い話し相手になれると思うの。……要するに、心の線の越え方――順番とか、タイミングとかが大事なのよ」

 心の線の越え方……か。

「でも、わたし星野先生に何もしてないですよね……?」

「ユウキちゃんは分からないかもしれないけど、十分してるわよ」

 星野女史がそう告げたところで、四限終了のチャイムが鳴った。話していていつの間にか時間が経っていたようだ。もっといろいろと聞いてみたかったが、さすがに五限目は出なくては。

 星野女史が区切りのために一つ、拍手を打った。

「ハイ、お話はここまでね。ユウキちゃんも愚痴りたくなったら、いつでもいらっしゃい。アタシはべつに、甘えてくれてもいいケド?」

 と、両手を開いて迎え入れる姿勢を示す女史。頭の中がもやもやとしていて、一瞬だけそんな気を起こしかけたが、首を振った。かといって好意を無碍にするのも失礼な気がして、

「もしもの時は、お願いします」

 と告げて、俺は保健室の戸を開いた。



 生徒が出ていった方を見て、溜息を吐く。

「……そう理屈では解っていても、響かせ方が分からなかったのよね……。ぶるぶる――コーヒー飲み過ぎたわね。トイレいこ」

 星野はカップを置いて席を立った。

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