第3話

私は、存外、惚れっぽい体質だ。

心が動くのが早いのかどうか、それは分からない。まず、身体の方が先に反応してしまう。


伊佐木がこの庭に来たのが、一週間前。そのときから私は、庭と家の周りを一周するのが、習慣になってしまっている。これは間違いなく、会えるのではないかという期待なのだ。自分でもよく理解している。


困るのは、誰かを好きになると、その人のイメージに自分が染まってしまうことだ。本人の同意もないのに、先にイメージに馴染んでしまうのは、都合が悪い。


どういう生い立ちで、どういう話をして、いったい何に興味があって・・・なんてことを、私は性懲りもなく「創造」してしまう。


創り上げてしまった虚像に、私はどこまでも耽溺していく。その情熱は、誰に妨げられることも、咎められることもなく、私の中で周回する。


永遠に続くような恋心の「流れるプール」。一方的に、でも誰にも迷惑をかけない。ピュアなエネルギーは、私だけの中にとどまる。誰かに利用されることもない。



私には謙虚な陰湿さがあって、それをどうやら一番愛している。イメージに恋するのは、自分が最も可愛くて、本来生々しい他人は、面倒くさくて所詮、一番にはならないからだろう。


いまの私にとっての伊佐木とは、あくまで私自身の次に気になるもの、欲しいものだ。


最終的にどうしたいのか。


「振り向かせたい」というのが本音だけれど、なにより、私があの伊佐木をよく知らない上に、伊佐木はもっと私を知らないことが、魅力なのだ。この些細なジレンマが楽しくもある。


どんな人間でも、結局、私の思うようにはいかない。


向こうが先に私を知ってしまえば、私は情報戦において不利になる。必死で逃げなくてはならない。そうしなければ私は捕まり、最悪の場合、『飼われて』しまう。


自分のことに、絶えず人間は無自覚だ。だから、自分のことを、自分よりも知っている人間に出会うと、なぜか惹かれる。


その人間に、少しでも気に入られるため、彼が認識したとおりの「私」として、生きようとする。そうしているうちに、その人間の望むままの「私」になってしまう。


誰かの一部になるのである。


そうなってしまったら、もう自分が自分のものでは無いから、何も言えなくなる。おもちゃにされて捨てられても、憎めない。


依存心と、一体感のもたらす安楽に、感覚が麻痺して、真の幸福をはき違える。


相手が愛しているのは自分の一部に過ぎない「私」なのに、無条件に愛されているのだと勘違いする。それが「飼われる」ということだ。


本当に必要なのは、謙虚な「自愛」。


でも、「誰かに自分を肯定してほしい」というのは危険だ。何よりそれは甘えだから。紛い物の自愛は、代償として、そっくり自分の命を、誰かに明け渡すことになる。


たしかに、紛い物は世に蔓延ってはびこっている。特別なことではない。


真実、その代償は、分かり易い〈告白〉を繰り返す。

「私は危険を冒すのである。払いきれない代償だからこそ、価値がある」と。


ほとんどの人間は、その〈告白〉がもたらす悲劇の予兆を、気にも留めない。


獣の口の中へ、いともたやすく飛び込んでいく。ほとんどは帰っても来れないのというのに。


永遠に自分のものにならない自分と、「愛している」の言葉を前にして、囚われの身である。


自分が、その人間に「飼われている」という事実には目をつぶって、愛に飢えた自分の卑しさは忘れたい。


私は、ほんとうに、そこから帰って来れたのだろうか。


結局、自己憐憫と、自己否定との間に生きているのがやっとで、いまでも死にたくなるのは変わらない。


愛を求めて、でも愛せなくて。


広すぎる世界に、自分の似姿を求めている。そこには、まるで宝くじを買うような気楽さしかないのに、案の定、くじが外れると、心が引き裂かれそうになる。


伊佐木は、宝くじの当たりだ。それと感じて、私は嬉しくもあり、何をしてよいのやら、わからなくもある。


過去のすべてを取り消すために、現在を生きるのは、荷が重すぎる。


自分を愛したくても愛せない苦しみは、一体、誰のせいで生まれたのか。


それはどこまでいっても、私なのに、その事実に耐えられない。


どうして逃げられなかったのか、声をあげられなかったのかと思う。いまと何も変わらない私がそこにいて、でも、逃げることを知らなかった。


「強くあること」を勘違いして、自分を大事にしなかったための苦痛。耐えられる、受けとめられると思っていた私は、単純に馬鹿だっただけ。


そのとき子どもであったからといって、それは自分自身には通用しない「言い訳」。いまの私が苦しいのは、すべて「あなた」のせいなのだから。

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