『借りた友人と椿』

ミーシャ

第1話

私の中で、何かが変わった瞬間だった。


その人は、暗くもない庭先の椿の下で、死んだふりをしていた。

私の気配に気付いて、目を開けはしたけれど、その人は私を見たのではなかった。秋特有の、高く、澄み渡る空を見上げて、ため息を吐いたのだった。


私は、叔父の家がある、長野の田舎へ来ていた。山に取り囲まれた、緑豊かな環境で羽を伸ばす人も多いと言う。私もその中の一人だった。


二年ほど勤めた会社を、休むように辞めてしまった私は、自分の東京の家もほったらかしで、叔父を頼ってここへきた。親しくもないはずの叔父は、私の顔を見てはじめて情がわいたようだった。


自分は山中のコテージに住んでいるから遠慮するなと言い、叔父は、お手伝いの小山さん一人に私を預けて、姿を消した。それから二週間ほど、走るように時間が過ぎた。 


いっこうに増さない焦燥感を胸に、「将来」という言葉の虚しさについて、私は詩を書こうとしていた。恥ずかしげもなく、ペンを手に取り書斎に腰を下ろした私は、ふと、庭の緑に目をとめた。


厚く、立派な葉を茂らせた椿は、春先にちらっと咲いて、また、秋に咲くようだと思われた。いまは晩夏。一行だけ書いた詩を口ずさみながら、庭へ出た。


「いったい誰が 私を明日へ連れて行く?」


どきりとしたのは、男の足が見えたからで、そのサンダルからのぞいた裸足の指が、ひどく白かったからである。


死体だと思った。いや、と思ったのである。私は期待と恐ろしさを込めて、椿の陰からその顔を見やった。


時間が止まった気がした。詩の二行目は、まさしくこれだと思った。


『死んだふりをして 空を見上げた』


 その人は目を開けた。さっき説明した通りに、その人は空を見ていた。私もつられて空を見たけれど、きっと同じものは見えていなかった。だからこそ、その人は言ったのだ。


「何が見える?」


私は、ひどく苦しくなった。


夜、布団に入ると、腹の底から湧いてくる怒り。

それを抑えようとして流す涙に、胸が苦しくなるのと同じことがいま、この昼に起きた。


私は驚いていたのに、「驚いた」とも言わず、その人に手を差し出していた。


叔父の庭で寝転んでいたその人は、眉間にしわを寄せ、ひどく具合の悪い顔をした。


それもそのはず、と私の理性が言ったが、感情的にはすでに、その見ず知らずの男への制裁を実行していた。


私は、その男の困った顔が、とても気に入ったのである。


笑いながらその男を起き上がらせ、謝罪の一つでも言わせてやろうと思っていた。しかし、事はそう上手くいかない。


「やめてくれ」


男はそういって、私の差し出した手を、わざわざ避けるように身を起こした。


「ここの人か」


尋ねたのではなく、ひとりごとだった。私は何も言えないまま、その人を見送った。歩いていく先をじっと見て、棲家を付きとめられればと思ったのである。

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