栄華の明暗《1》

 辺りに満ちる枯れ草のような匂いは生薬のものだろうか。明麗は、後宮にある医薬局を訪ねていた。


「朝、もらった薬湯では効きが弱いみたいなの。もっと強い薬を出してはもらえませんか」

「ここではあれ以上のものは用意できないよ」


 晒しの短衣を羽織る恰幅の良い女医官に詰め寄るが、すげなく断られてしまう。

 女医といっても、後宮にいる者は、感冒や腹痛などの簡単な薬を処方したり、日常で作った軽傷の処置をする程度のことしかできない。ここでは手に負えないと判断すれば、太医署の医官や薬師の指示を仰ぐ場合もあるが、一介の宮女ではよほどのことがなければ望めなかった。


「でも、とても痛いみたいで可哀想だわ。なんとかならないかしら」


 朝晩はめっきり冷えこみ霜が降りる季節になったというのに、衾を被って脂汗を流す孫恵をみていられず、こうして乗り込んだのだ。手ぶらで房に戻るわけにはいかない。


「そうはいっても毎月のことだろう? 二、三日も我慢すればじき善くなるさ。温石でも腹に抱えさせておきなさい」

「それはすでに試しています! いつもはこんなに辛くないらしいのよ。もし違う病だったらどうするの?」


 同じ女だとは思えぬ素っ気ない物言いに、明麗は柳眉を逆立てる。実家を頼ろうにも、さすがに薬の類いは後宮の門をくぐることができないのだ。苦しむ友に、なにもできない現状がもどかしい。


「そう言われてもねえ。皇后さまがお飲みになっているお薬なら、もう少し効果があるかもしれないけれど、あれは侍医殿が特別にご用意するものだし。あたしらにはどうにもできないんだよ」

「そう。侍医に頼めばいいのね。わかったわ!」

「ちょっとお待ちよ! いくら李家のお嬢さんでも……」


 引き留める女医官の言葉など、明麗の耳にはもう届かない。腰に佩いた玉を揺らしながら、後宮の外を目指した。


 門衛に太医署の場所を訪ねると、赤らめた顔を俯けておどおどと南東の方角を指し示す。必要以上の会話を禁じられているのかもしれないが、もう少し融通を利かせてもよいのではないか。明麗は憤然と裳裾をはためかせて進んだ。


「太医署はどこ?」


 石畳を踏んでいた固い靴音は、いつの間にかやわらかいものに変わっている。立ち止まって周囲を見渡した。似たような造りの庁舎の群れに、同じ色の壁や瓦。判別方法は入口の額のみ。「ここでもない、あちらも違う」と歩き回っているうちに、明麗はすっかり迷子になっていた。

 だれかを捕まえて尋ねようにも、裏手に回ってしまったのか人気がない。建物を取り囲む塀の反対側には雑木林が現われ、荷車一台分ほどの道が奥へと続く。葉の大半を落とした木々の隙間からは、粗末な小屋のようなものが覗けるが、恐らくあれではないだろう。

 このうえは、近場の戸を訪うが最短かつ最善だとの結論に達した。


「またおひとりで出歩いていらっしゃるのですか?」


 踵を返したとたんに声をかけてきたのは、昔、李家で書生をしていた孟志範だ。広大な皇城で知り合いに出会えた幸運に、明麗は顔を明るくする。


「志範兄さま! よいところでお会いできました」


 歓喜して子どものころのように飛びつきそうになるのを堪えた。

 声を弾ませ駆け寄る明麗の腰にさがる佩玉を見留めた志範が目を細める。


「伺いましたよ。皇帝陛下の格別なご厚恩により、女人の身であられながら鞠躬尽瘁の玉を賜ったそうですね。公私にわたるご寵愛を得られたとは、さすがは幼きころより才色兼備と誉れ高かった、李の姫君でいらっしゃる。僭越ながら、私まで鼻が高い思いをいたしました」


 過剰なまでの持ちあげに、明麗は飾り紐を指に絡ませて気恥ずかしさを隠す。


「これは一時いっときお借りしているだけなの。わたしの役目が終わったら、お返しするものなんです」

「妃としてお仕えする以外のお役目があるのですか?」


 志範はいまだに明麗が皇帝の妻となるために入宮したと勘違いしているようだ。誤解を解くには『役目』の説明をしなければならないが、それは旧知の仲とはいえ避けたい。結局、曖昧に微笑んでごまかすしかなかった。 


「ええっと……そうよ! 皇后さまの侍医を訪ねて太医署へ行く途中だったのに、迷ってしまったみたいで」

「皇后陛下の? どこかお加減が?」


 志範が真顔で聞き返してきたので、明麗は慌てて手を振る。


「違うの。皇后さまはお健やかにされています。ちょっと、お薬のことで……」


 さすがに同僚の薬を侍医に都合してもらおうとするのは、佩玉の乱用だろうか。頭が冷えてくると、そのようにも思われ言葉を濁す。


「そうですか。この先には古紙の集積場しかありません。太医署ならそこの棟を越えて、細い通りの二本目を南に……」


 高く掲げた手を動かして説明してくれる。明麗は懸命に耳を傾けるが、代わり映えのしない建物が整然と並ぶ官衙街では、いささか自信がない。その不安は志範に伝わったようで、くすりと笑われてしまう。


「ちょっと待ってくださいね」


 その場にしゃがんだ志範が、持っていた籠の中から丸められた紙くずを取り出した。それのシワを丁寧に伸ばして広げる。余白はまだ十分にあるが反故のようだ。右端に書かれた数文字を、墨で塗りつぶしてあった。

 次いで志範は、腰帯から携帯用の筆記用具を外す。墨液を染み込ませた綿を詰めた小さな墨壺と、軸の短い小筆が収まる竹の筆筒が紐で繋がったものだ。


「これが、あなたが通っていらした門です」


 小石が転がる地面に置いたシワが残り波打つ紙面の上辺に筆をのせ、小さな四角形を書き入れた。その下に幾本もの線を延ばす。縦に横に極細の穂先を駆使して太さを変えながら書くのは、皇城内をわける道だった。滑らかな線は不安定な状態で引かれたようにはみえない。


「いまいるのは、ここ」


 志範は、交差する道から外れた箇所に、筆先をちょこんと置いて印をつけた。


「この道まで戻ったら、次の四つ角を南に曲がり――」


 紙から少し浮かせた筆で、膝を抱えて覗きこむ明麗に道筋を示していく。要所要所で目印となるものの記載も忘れない。終点でもう一度印をつけた。


「この通りを渡ったむこうが太医署。入口に、こんな顔をした蛙が笠にいる灯籠があるのでわかると思います」


 片隅にさらさらと描き加える。半分目を閉じた蛙は眠たそうで不細工だ。


「蛙?」


 棲みついていたとしても一所ひとところに留まっているだろうか。第一、この季節はもう土の中ではないのか、と首をひねる。明麗はできたての街路図を受け取り立ちあがると、裙の裾を払った。


「志範兄さま、ありがとう」

「本当はお送りしてさしあげたいのですが……」


 誰も見聞きしている様子もないというのに、堅苦しい口調を崩さない志範を少し寂しく感じながら、明麗は礼を言う。


「いいえ、助かりました。これで十分です。お仕事中の手を煩わせてしまい申し訳ありません」

「なに、ただのごみ捨てです。収集時刻に遅れてしまいまして」


 志範が籠を振ってみせると、かさかさと乾いた音がした。

 不要になった紙は漉き直され、新たな紙として生まれ変わる。抜けきらなかった墨の色が付き、様々な素材が混ざるので質は落ちるが、普段使いするには十分な品だ。

 いま渡された紙もそれだと聞き、明麗は紙を検める。たしかに、いつも使用しているものよりは黒みがかっているし手触りも異なる気もするが、志範が記した墨線のからみてもさほど遜色はない。

 この国の製紙技術の高さを誇らしく思うと同時に、これまで自分が惜しげも無く紙を使えていた環境がいかに恵まれていたのかを、明麗は知った。


「文徳が紙の隅々まで書きこんでいたのも当然のことなのね」


 どんなに墨で埋められた紙面でも、書き手の性格とは裏腹に、彼の文字はひとつひとつがしっかり意味を、存在を主張する。たとえ書き損じだろうが、ほかの紙たちと一緒くたに溶かされてしまうのが惜しくなるほどだ。


「文徳?」


 眉間を険しく寄せた志範の怪訝そうな声に、車輪の騒々しい音が被る。塀の角を荷車が曲がってくるのを見留めた志範は、素早く明麗から離れ十分な距離をとった。

 車を曳くのは、明麗と同じ年頃の少年だ。すす汚れた麻の粗服を身につけていることから、おそらく官奴だろう。

 行く手に明麗たちをみつけると、ひどく驚いた顔で立ち止まる。常にはいるはずのない後宮の女官が、ひと目のない場所で男とふたりきりなのだから無理もない。動揺を隠せない顔を俯け、その場で跪く。引き返すこともままならなずに、息を殺して痩せた身を小さくしていた。この年齢だと、身内の連座により奴婢に墜とされたのかもしれない。

 明麗はすっと壁際までさがって道を譲った。志範もそれに倣う。


「塞いでしまってごめんなさいね。どうぞ通ってちょうだい」


 先を促すと、今度は弾かれたように少年は面をあげた。その顔を恐る恐る向けられた志範は、無言で肯く。

 再び動き出した荷車が目の前を通過する。耳障りな音を響かせる車輪の動きの鈍さが、少年の細い手足には、たいそう負担に思えた。

 明麗が足を踏み出す前に志範が動く。


「私が手伝おう」


 突然の申し出に、少年は目を見開いて必死で首を振って断る。利けないわけではないだろうが、口は固く結ばれたままだ。


「手前までならば、みつかって咎められることもないだろう。どうせ行き先は同じなのだから」

 

 志範は問答無用とばかりに籠を荷台に乗せ明麗と向き合うと、空いた手で拱手した。


「それでは失礼いたします。どうか道をお間違いなきよう、くれぐれもお気をつけてお進みください」

「お気遣い、感謝したします」


 ことさら慇懃に辞去の礼を交わすと、志範は荷車の後ろに回る。観念した少年は、額に汗を滲ませながら車曳きを再開させた。

 荷車が林の中に入っていくまで見届けると、明麗も自分の目指す方向へ歩き出す。


 もらった地図は正確で、迷う間もなく明麗は太医署の額を掲げる建物へと辿り着くことができた。ふと横に目をやると石灯籠がある。門扉を叩く前に興味本位で近づき、件の『蛙』を発見した。


「本当! 蛙だわ」


 志範が描いたとおり、いまにもうたた寝をはじめそうに気怠げな表情をした蛙が、灯籠の笠に張り付いている。ただしそれは、灯籠と同じ素材で作られた石の蛙だった。

 明麗は墨絵と比べて感嘆する。締りのない顔といい、細工の稚拙さといい、なにより生き物としての生命力がまったく感じられない点が、そっくりそのままなのだ。石製の蛙と墨で描いた蛙なのだから、当然といえばそれまでか。そう思いつつもどこかにひっかかりを残して、太医署の門をくぐった。


 ◇


 帰路に就く、空の両腕を大きく振って進む明麗の足取りは、行きよりも憤慨を孕んでいた。

 苦労して訪れた太医署にお目当の侍医の姿はなく、居残りの者に行方を訊ねたところ、昇陽殿へ参上しているという。明麗が皇城内を右往左往しているうちに、どこかで行き違いになってしまったらしい。

 それならばと、医術に心得があるはずの医官に話だけでもと頼んでみたのだが、ここでもやはり、取り付く島もなく追い返されてしまったのである。

 兄と同年ほどの医官とのやり取りを思い返すと、明麗の歩調はさらに乱暴になっていく。ひとつに後ろでくくった髪の毛先が、通りを歩く官吏たちを威嚇するように背中で跳ねていた。

 前方に立ち塞がる通用門の姿が徐々に大きくなってくる。その門との間に、若草色の猫背をみつけたとたん、明麗は駆けだしていた。


「文徳!」


 呼びかけるが、彼の足は止まらない。さらに大声で呼ぶ。


「林文徳せんせい!」


 言い終わるころにはすでに追いついており、明麗は腕を伸ばして彼の袍の背中をわしづかみした。丸まっていた背が反り返る。そのまま仰向けに倒れそうになる背中を、明麗は慌てて両手で支えた。


「うわあっ!……っと、明麗!?」

「ぼうっと歩いていると、転ぶわよ」

「え? ああ、そうですね」


 体勢を直した文徳の目は、石灯籠の蛙のように眠たげだ。しかし下がり気味の目尻にできたシワは、あきらかに作り物とは異なるやわらかさをもっている。


「あれから、なにかわかった? 後宮こっちは、あの手蹟が颯璉さまのものではなかったということくらいだわ」


 鴛鴦図が贈られた当時の皇后は、まだ立后前。後宮に仕えていた宮女の数はいまよりもずっと少なく、話を聞ける者も限られていた。


「こちらもあまり進展してませんねえ。せめて、まだ見ていない身上札を確認できたらいいのですけど、担当部署が違うので……」

「そう」


 登録のある役人の人数を考えると気の遠くなるような話で、明麗には現実味がわいてこない。もっと手っ取り早い方法はないかと考えても、自分に与えられた情報が少なすぎる。


「あと、博全さまが先年異動した文官を探し出して、彼の郷里に人を遣ったそうです。やっぱり李家の力はすごいですね」


 吞気に感心する文徳に明麗は詰め寄った。


「なんですって!? わたしはそんな話、聞いていないわ!」

「ちょっ、ちょっと落ち着いてください」 


 文徳はのけ反り、持っていた書を盾にする。

 往来に響いた明麗の叫びは、行き交う官吏たちの目を集めていた。遠巻きにして無関心を装っていても、彼らが聞き耳を立てているのは明白だ。

 こほん、と明麗はわざとらしく咳払いし、恭しげに拝礼してみせた。


「皇后さまにお仕えしてまだ日の浅いわたしには、知らないことが多くてお恥ずかしい限りです。どうぞ、これからもよろしくご指導をお願いいたします。林師」

「……はあ」


 なんとも覇気のない返事をする文徳を「男でしょう!」と一喝したくなって、はたと気づく。これでは、自分を「女子の分際で」と鼻であしらった医官と変わらぬのではないか。


「ああ、やっぱり許せない!」

「明麗? どうしました」


 太医署でのぞんざいな対応がよみがえる頭を抱えた明麗を、文徳が訝しむ。


「いいえ、なんでもないの。――そうだわ! 早く戻らなくては、また侍医とすれ違ってしまう」


 しとやかな弟子を装ったのもほんの束の間。おざなりな辞去を述べ、一目散に門めがけて走り出す。衿の合わせ目からひらりと小さく折りたたまれた紙が抜け落ちたのにも気づかないまま、明麗は通用門を通り抜けていった。



「あっ! あの……」

「おーい! そこにいるのは林文徳じゃないか」


 明麗を呼び戻そうとした文徳は、聞き覚えのある声に振り返る。手を振っているのは、文徳よりやや濃い緑色をした官服の若い文官だ。にやけ顔を確認した文徳はげんなりと肩を落とし、明麗を追うのを諦めた。風で少しずつ移動する紙を拾いあげ、小走りでやってくる郭惟信を待つ。


「いまのが例の『牡丹の君』だろう? どうして引き留めておいてくれなかったんだ。李家の方々と昵懇になれる、またとない好機だったのに」


 惟信はすでに後ろ姿さえ見えなくなった門へ、未練がましく首を伸ばす。


「しかし、少々変わり者という噂は本当らしいな。それを補って余りある美貌と家柄だが」

「普通の朗らかなお嬢さんですよ」

「ずいぶんと親しそうじゃないか。それは付け文とかいうなよ?」

「まさか。彼女の落とし物です。――って、なにするんですか!?」


 否定したにもかかわらず、惟信は文徳の手から紙を取り上げた。取り返そうとする文徳を背を向けてかわしながら、無断で広げてしまう。


「勝手に見ちゃダメですよ。重要な文書だったらどうするんですか」

「いや。そうでもなさそうだ。地図……これは太医署の場所と、落書き?」

「そういえば、侍医がどうとか言ってました」

「たしかに、いくらでも上質の料紙が手に入る宰相家のご令嬢が、色気もない官制の環魂紙を恋文に使うわけがないか」


 とたんに興味をなくした惟信は、元通りに折った紙を文徳に押し付けた。

 文徳としては、もしこれが不用な走り書きだったとしても、勝手に処分するのはためらわれる。次の機会に返すか、博全経由で渡してもらってもいい。手巾に挟んで懐にしまった。


「文徳、今夜こそ酒に付き合えよ。今をときめく次席殿に、一杯おごらせろ」


 調子のいいもので、文徳を疎んじていたはずの惟信は、菊宴以来、再三にわたって誘いをかけてくる。文徳はいつもと同じ答えを返そうとした。


「すみません、僕は……」


 断りの文句を途中で止める。李博全から預かった名簿に、郭惟信の名が連なっていたのを思い出したからだ。そのうえ彼は、偽の休暇願を提出した文官を知っている。惟信の技量で偽書を作成するのは不可能だろうが、繋がるなにかを聞けるかもしれない。


「えっと、お酒じゃなくてもいいですか」

「お? いいぞ。酒だけじゃなく、安くてうまい飯も出す酒家を知っているんだ」


 初めて話にのってきた文徳に気をよくした惟信は、意気揚々と約束を取り付けて去っていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る