鴛鴦の菊花《1》

 筆洗に満たした清水を、明麗は指先でかき混ぜる。すると浮かべた白菊が、踊るようにくるりと回った。


「もうすぐ菊の節句ですよね。ここへ来ている暇などないのではないですか」


 書庫へやってきても筆を執るでもなく、頬杖をつき花を眺めている明麗に、文徳が紙面から顔もあげず訊ねた。

 たしかに後宮は、宴の準備で忙しい。主である皇后も、体調と相談しつつ指揮を執り、その合間に書の練習も欠かさず行っているのだ。方颯璉などは疲労がたまっているのか、最近では皇后よりも顔色が悪いようにも見える。

 猫の手も借りたいほどの状況なのだが、明麗は仔猫よりも役立たずの烙印を押されてしまった。その主たる原因が、目の前にある菊の花である。


「そうよ。みんな忙しいの。衣装の準備や舞踊の練習、宴に飾る菊の世話にね」


 刺繍や繕い物などは論外、楽や舞いは専門の妙手がいる。ならばと、皆が年に一度の宴に合わせ、丹精込めて育てている菊の世話の手伝いを申し出た。

 ところが、余分な葉や花芽を摘み取る作業を任された明麗は、皇后が手をかけていた株で見事に咲いていた菊の首を、ばっさりと切り落としてしまったのだ。

 まるで菊が叫んだかのような悲鳴が辺りに響き、顔を青くした女官たちが微動だにできずにいる中、皇后が落ちた花をおもむろに拾い上げる。

 それを明麗の手の平に乗せ、口元に笑みを浮かべた。


『あの書物の筆者にこれを届けてちょうだい。素晴らしいものをありがとう、とね』


 弧を描くまなこは、「これ以上、花を台無しにされては困る」と雄弁に語っていた。


 宴の支度にも、書の練習にも精を出す皇后の姿は、なくしていた気力を取り戻したかのようにも見える。しかしときおり、細めた翠の眼を西の空に向けていることは気がかりだった。


「"がんばって”と言われるのは、そんなに嫌なものなのかしら。期待されたら、だれでも嬉しいでしょう?」


 先日、華月に言われたことの真意もまだ掴みきれずにいる。


「でも、君は陛下のお妃になってほしいという周りの期待には応えないのですよね」

「それは……そうだけど! 御子は皇后さまご自身だって望まれていることだわ。わたしがもし『がんばって採試に合格しろ』といわれたら、不寝で勉強するもの」


 人差し指で弾いた水滴が、文徳の方向へ飛んでいく。

 目を落としていた書物に着地する寸前、文徳の手の甲がそれを受け止めた。肌理きめの粗い肌は、小さなしずくをあっという間に吸い込んでしまう。

 危うく紙面を濡らしてしまうところだった明麗は、水中から指先を引き揚げ、素知らぬ顔をして袖口で拭う。秋を迎えた女官服の襟は臙脂に変わっていた。


「努力してなんとかなるものなら、それも励みになるでしょうね。でも、どうやっても無理なことだって、この世の中にはたくさんあるし」


 文徳は深く息を吐き出して、卓子の両脇にうずたかく積まれた書物の山をうんざりとみやる。

 ちらりとその手元を覗けば、出退勤記録や厨房の受注書など、実に統一性のない書類が折り重なっていた。


「無理……なのかしら」


 袖から出る己の手と、紙をめくる文徳の右手を見比べる。自分とは決定的に異なる、男の手だ。

 五本の指があるそれは、大きさや肌の色などに多少の違いこそあるが、機能としての差があるようにはみえない。だけれども、彼の手が綴るものと同じ文字を、どんなに修練を積んだところで生み出すことができないことを、明麗は直感で知っている。

 それと同じように、自分は皇后に無理強いをしているのだろうか。

 無意識についた明麗の嘆息に、もうひとつが重なる。


「無理です。これだけじゃないんですよ、確認しなくちゃいけないものは」


 書を置いた文徳が、その手で頭の後ろをかこうとして、思い切り顔をしかめた。


「まだ痛むの?」

「あ、いえ……まあ、少し」


 歯切れの悪い答えに、明麗は呆れ顔の口を尖らせる。


「驚いたのよ。いつもどおり来てみたら、怪我をしたと聞いたから」

「三日も休みをいただくほどのことではなかったんですけど」

「でも、頭を打ったのでしょう。目眩がしたり、手足が痺れたりはしていない?」


 いずれ葆の宝ともなり得る右手を両手で掴み、指の一本一本、爪の先まで確かめる。短く切った爪の間に墨が入りこんでいるくらいで、異常は見当たらない。一安心する明麗の手の中から、逃げるようにして右手が抜かれていった。

 急に軽くなった手の行き場を見失い、明麗は卓の上に身を乗り出して、負傷した文徳の頭へと腕を伸ばした。黒髪を覆う幞頭ぼくとうを外そうとするが、その手は虚しく空を切る。


「なんですか。いきなり」

「取らないと、傷が診れないじゃない」

「ちょっと大きなができただけです。もう引っこみましたし」


 両手で幞頭を押さえた文徳が、身をよじって抗議する。

 渋々と手を戻す明麗の胸元で、かさりとかすかな音がした。


「ごめんなさい、返すのを忘れていたわ」


 襟の合わせに手を入れ、小さく折りたたまれた料紙を取りだし文徳に渡す。小首をひねりつつそれを受け取り広げた彼が、得心してからさらに首をかしげた。


「どうしてこれを君が?」

「この前ここで書いたに混じって、持ち帰ってしまったみたいで」

「そうだったんですか。捨ててしまって構わなかったのに。でも、ありがとうございます」


 そう言いつつ文徳は、反故紙をまとめる箱が足元にあるのにもかかわらず、丁寧に折り直した料紙を懐にしまう。


「あの……」

「はい?」


 新たな折本を山から取って広げる文徳が、手を休め目線を寄越してくる。

 明麗の瞳は、彼の胸元と垂れた眦との間を行き来したのち、卓上に落ち着いた。


「あの、ね。せっかく書いてもらったを、池に落としてしまったの。百合后さまも褒めてくださっていたのに、申し訳ないことをしたわ」


 言おうとしていたのもとは違う言葉が口をつく。

 視線をさげる明麗を、文徳は慰めるように微笑んだ。

 

「では、今度は明麗が天河を書いて差し上げたらどうですか? あんなにたくさんの馬が書けたんです。きっと巧く書けると思いますよ」

「じゃあ、またいっしょに鍛錬場へいきましょう!」

「それは……あっ! 劉将軍から聞きましたか? 天河が感冒に罹ったそうです。しばらくは会えないんじゃないかな」


 それは初耳だった。天河が病だということも、馬も人のように感冒を患うことも……。

 ふと、ある可能性に気づいた明麗は、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がる。


「ちょっとまって。それはいつから?」

「さあ。そこまでは」


 白菊の浮かぶ筆洗の水が小波をたてていた。

 明麗は椅子を戻して腰を据え、ごくんと唾を呑みこむ。


「もしかして、わたしが書を池の中に沈めてしまったからではない?」


 優れた書には不思議な力が宿る。この国の者なら、誰もが知る言い伝えだ。

 天河を想って書かれた文字が、あの馬の魂魄と繋がってしまい、池の底の冷えが伝わったのだとしたら。それが原因で病を得たとは、考えられないだろうか。


「まさか。ここ数日で、朝晩はかなり冷えこむようになりましたからね。そのせいでしょう」


 あっさり文徳は否定するが、明麗の疑いは深まる一方。

 技術の高さや筆致の美しさだけではない、伝承を信じこませるだけの何かが、文徳の書からは感じられるのだ。

 努力だけでは叶えられない難題も、あるいは彼の手蹟なら……。

 そう思い至れば、いてもたってもいられなかった。静かに立ち上がった明麗は、師匠の足下に叩頭跪拝する。


「稀代の書家であられる林文徳せんせいに、謹んでお願い申し上げます。どうか、皇后陛下の御為に、子宝を祈願する書を書いてはいただけませんでしょうか」

「え? ちょっと止めてください! 僕にそんな術士のようなまねはできません」


 ひざまずく明麗の横に、困惑もあらわな文徳が膝をつく。その襟を、両手で掴んで締め上げた。


「あなたまで何もしないうちから諦めるの? この国の将来が心配ではないの?」

「そういう、わけでは、ぐ……」


 文徳の喉の奥から奇妙な呻きがもれる。明麗が慌てて手を緩めると、文徳は小さく咳をして床に座りこんだ。


「本来、護符などがもつ役目はなんです。文字自体に願いを叶える力など、あるわけがないでしょう?」

「そんなのわからないわ! あなたの字ならきっと……」


 膝を詰める。その分以上に、文徳の腰が引かれた。


「たしかに、文字には想いを伝える力があります。『元気になってもらいたい』『幸せになってほしい』そこにこめられた想いは陽の気となり、凝っている陰の気を追い祓う。それによって病が快方に向かったり、気持ちが明るくなることもあるでしょう。逆もまた同じです」


 陰気に蝕まれた心身は、病気や不幸を呼びかねない。呪符とはそれを利用したものだと説く。

 だからといって、文字にしただけでなんでも望みが叶うなら、貧困や不治の病で苦しむ人も、天候不順に嘆くこともないはずだ、と。


「なんだか、明麗らしくないですね」

「どういうこと?」

「君のことだから、あてにならない天に頼るより、なんとしてでも自分で解決する道を拓こうとするのだと思っていました」

「……そうしたいのはもちろんだけど」


 なにから手を付けてよいのかもわからない現状では、胡散臭い迷信にでも頼りたくなるというもの。

 自分がこれほどの能なしだったとは、後宮ここへ来るまで知らずにいた。どれだけ狭い世界で生きてきたのかを痛感させられる。

 明麗は、なにも生み出せない両手を胸の正面で組んで、瞼を閉じた。

 葆国民譚や馬の文字を前にした皇后の、紅潮した顔が浮かぶ。あのときの皇后には、間違いなく陽の気が巡っていたはずだ。


「でも、わたしはあなたの書く字が好き。ここにたくさんのものが届くの。だったらきっと、百合后さまにも効果があるのではないかしら」


 明麗には確信があった。

 すがる思いで眼差しを向ければ、文徳は相好を崩す。


「僕も好きですよ、君の手蹟」


 ふたりの間にある床に手が伸びる。筆に見立てた人差し指が、緩急をつけながら一画ずつ丁寧に文字を綴りはじめた。

 その指先を追う明麗の目に残る軌跡が、ひとつの文字を形づくる。


「日?」


 問いかけともいえない呟きに、文徳は唇にのせた笑みで肯定を示す。


「勢いよく引かれる筆線は、だれの上にも等しく注がれる日の光のように、素直でおおらかです」


 続けて指をしっとりと運ぶ。


「ためらいなど微塵も感じさせない凛とした佇まいは、夜空でも己を見失わずに輝く月を」


 薄暗い房内の古びた床の上で、『明』の一文字が照らされたように浮かびあがる。

 そんなはずはない。明麗が両の目をこする間にも、文徳の指は新たな字に取り掛かっていた。


「思わず息を呑む気品がありながらも、無邪気な真っ直ぐさがある。裏表のない人柄がよく表れた君の書が、僕は好きですよ」


 複雑に細かく動いた指が収筆ではねると、しみや節のある床板が黒檀の艶を放つ。


「明麗。その字のとおり、周囲を明るくする麗筆だと思います」

「……そんな、たいそうなものではないわ」


 見せつけられた自分の名の残像は、嫉妬や羨望という俗念すら抱くことを許さない。この字に相応しいだけの技量が、迷いだらけの己に備わっているとは、とうてい信じられなかった。

 下唇を噛みしめ俯く明麗の視線の先で、手が左右に振られる。まるでそこにある文字を消すかのような仕草に顔をあげると、目尻を下げた文徳がいた。


「そうですね。あとは、一画、一文字を大切に書くばかりでなく、たまには少し離れて、書全体を見渡してみてください」

「全体を?」


 言われた意味を考えている明麗の前に、立ち上がった文徳から手が差し伸べられる。

 そこから流麗な線が生み出されるは思えない、ごく普通の、明麗よりは少し大きな手をとり、腰を上げた。


「書の授業はこれで終了です。明日からは、ここへ来る必要はありません」


 裙についた埃を払っていた明麗の動きが止まる。

 先ほどの助言以上に、突然もたらされた宣告の意味が理解できない。


「わたし、まだなにも……」

「もとから、僕が教えられるようなことはほとんどなかったんです。言ったでしょう? 君の手蹟は十分に素晴らしいものだって」

「そんなことない! もっともっと習いたいことはたくさんあるわ。どうして急にそんなことを言うの?」


 なりふり構わず詰め寄る明麗を避けるように、文徳は膝裏が椅子にぶつかるまで後退さった。

 一歩進めば手が届く距離が、実際にあけられたもの以上に感じられ、明麗は眉間に深いシワを刻み口を引き結ぶ。未だになにひとつ成果を上げてはいないのだ。納得などできるはずがない。


「僕だって暇じゃないんです。これでもいちおう官人ですからね。李中書次官に頼まれた件もありますし」


 戸惑いと失望の色が増す明麗の瞳から顔を背けた文徳は、片手をついた卓子に積まれた書へ虚ろな視線を投げ、肩を落とす。

 今までのように書き写すでもなく、延々と雑多な書に目を通し続ける彼の作業が、兄、博全の依頼だと、明麗はここで初めて聞かされた。事ある毎に自分の邪魔をする兄に、ふつふつと怒りがわく。


「陛下のご意向を受けたわたしに書道を教えるより、兄さまのいいつけを優先するというの?」

「僕の役目は終わりました。次は君が皇后さまにお教えする番です。――それにまだ、職も命も失うわけにはいきませんから」  


 椅子を軋ませ腰を沈めた文徳は、憤然と立つ明麗を見上げた。


「必要なら、子宝祈願の書は明麗が書いて差し上げてください。僕なんかよりずっと皇子の誕生や両陛下のことを想っている君のほうが、はるかに適任でしょう。明麗なら大丈夫。きっとできます」

「あなた以上の書を書くなんて、わたしには無理よ」


「大丈夫ですよ」重ねて言い、文徳は繙いた書に意識を移してしまう。

 天にまで見離されたような絶望と不安。手に余る期待をかけられた際に生ずる重圧。

 まさにいま、皇后が抱えているであろうものの何分の一かの想いを、図らずも明麗は身をもって経験することとなった。

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