第二片 襲来、奮闘。そして―― 3

 タイカから《こちら側》にやって来たことで、カリンはこれまで知らなかった新しい自分を発見した。

 それは、図書館が好き――ということである。

 紙とインクの匂い。書物を保管するため、常に一定に保たれている室温。静謐――

 しかし耳を澄ませば、そこにはたくさんの人の気配がある。

 囁き。忍ばせた歩み。あるいは死角の多い場所であるがゆえの秘密めいた逢瀬。

 ここは、単なる知識の集積所に留まらない、実に豊かな空間だ。

 ゴースバレンにも王立図書館があったが、建物の立派さに比して、蔵書はいまひとつと言わざるを得なかった。

 貴族の寄贈が約二割、残る八割は各地からかき集めた焼け残り、しかもデアマント側の書物のほとんどがその場で燃やされてしまったせいで、ろくなものがない始末。さらには戦時ということもあり、保管体勢はずさんそのものだった。

 なにより、あの頃はカリン自身にも余裕がなかった。

 ゆっくり読書をしたり、その途中にふとページを繰る手を止め、ひんやりとした静寂の中、余韻に浸る愉しみがあることを想像さえできない、血生臭い世界に生きていた。

 むろん、いま彼女が書物を漁るのは、使命達成に繋がる情報を集めるためなのだが、新しい知識が増えてゆく喜びに夢中になっていたのも事実である。

 だが、ここ数日、愉しいはずの読書が手につかない。

 原因ははっきりしていた。

 みずきたちが、なにも仕掛けてこないからだ。

 直接的な攻撃の話だけではない。カリンが学園で行動できるのは光学催眠を使っているからで、名簿を調べれば彼女が在籍していないことの証明は容易い。

 一度部外者と認識されてしまえば、もはや光学催眠は役に立たなくなる。あの陰険な女狐グローリアーナあたりであれば、せっかく見つけた弱味を放置したりはしないだろう。

 正直、正体がバレた時点で、もう学園生活は続けられないものと覚悟していた。

「いったいどういう心算つもりなの……」

「知りたいなら教えようか?」

 いきなり背後から声をかけられ、カリンは悲鳴をあげそうになった。

「あ、あんた――!」

「やあ」

 ここ座るよ、と断って、央霞はカリンの隣の席につく。彼女が長い髪を背もたれのうしろへ払うと、あの薄桃色の花に似た甘い香りが広がった。

 カリンは緊張で顔があげられなくなる。


 央霞。桜ヶ丘央霞。


 彼女が現れただけで、静かだった図書館の空気が一変する。

 ざわざわとざわつき、羨望、嫉妬、畏怖といった、さまざまな感情が乱れ飛ぶ。

 だが、この場にいる生徒のうち、果たしてカリン以外に知る者があるだろうか。

 彼女が、油断していたとはいえ、アビエントラントの騎士を一撃で昏倒せしめるほどの強さを持っているということを。

「毎日通っているそうだな。もともと勉強熱心なのか――それとも、こっちの世界に興味を持ってくれたということなのか。だとしたら嬉しいな」

「……なにしにきたの?」

 いつ戦闘になってもいいよう、カリンはタトゥー化した《ツバード》を、ひそかに手首まで移動させた。

「この街の空には、石が浮いてるだろう?」

 問いには答えず、央霞はまったく関係ないことを口にする。

 石というのは、《門石ヤーヌシュタイン》のことだろう。

 だが、なぜいま、そのことを?

「不思議だよな。あれだけはっきりと見えているのに、撮影機器には映らないし、光や電波も素通りする。まるで、本当はそこに存在しなくて、みんながみんな、夢を見ているようだ。いまはすこし落ち着いたが、一時はあれを見るために物凄い数の人が押し寄せてきた」

「そうらしいわね」

「あの石の正体は、異世界に通じる道だと聞いた。きみは、あれを通ってこの世界に来たんだろう?」

「……だいたいのことは、白峰みずきから聞いたみたいね」

 ああ、と央霞はうなずく。

「とりあえず、きみが異世界人だというみずきの話を信じることにした」

「そう」

 ならば、いよいよ彼女央霞は敵に回るのか。

 そう考えると、なぜか胸のあたりがもやもやした。

「タイカというのはどんなところなんだ? アビエントラントという国は?」

「なぜ、そんなことを訊くの?」

「きれいなところだと聞いている」

 カリンは顔をあげた。すると、央霞とまともに向き合うかたちとなり、慌ててまた目を伏せる。

 ……央霞は、笑っていた。

 屈託なく、穏やかに、まるでこちらを包み込むように。

 どうして――と、カリンは口にせずにはいられなかった。

「どうして、そんな顔ができるの? 私は、あの娘の敵。あなたの親友を殺そうとしている相手なのよ」

「ああ。だが、それはあくまでみずきの側の言い分だ。きみの話も聞いてみないことには、公正さを欠くだろう?」

 カリンは耳を疑った。

 まさか、央霞の口からそんな言葉を聞こうとは夢にも思わなかった。

「私と……話をしにきたっていうの?」

「ああ」

 一瞬、相手に対する警戒心すら忘れて、カリンは央霞を見つめた。

 彼女の瞳は真剣で、とても嘘を言っているようには見えなかった。

「この何日か、仕掛けてこなかったのは、そのため?」

「それもあるが、正直、あまり意味がないと思ったんだ。学校を追い出されたところで、きみは新しい潜伏先を探せばいいだけだし」

「それは、そうかもしれないけど……」

 泳がされていただけなのでは、という疑いはまだある。

 しかし、図書館のことも含め、学生生活も悪くないと思いはじめていたところだったので、ありがたいと言えばありがたいという思いもある。

「でも、私と話したいだなんて……いままで、そんな人間はいなかったわ。少なくとも、地表人デアマントの中には」

 実に腹立たしいことながら、地表人デアマントからは、奈落人アビエントは地獄から来た悪魔のような存在とみなされている。

 交渉の余地はなく、言葉を交わすだけでも堕落するとされ、奈落人アビエントを統べるロウタス一世に至っては、大魔王などという不敬にもほどがある名で呼ばれていた。

 しかし、絶対的な悪という偏見には利用価値もある。

 どんな有力者であっても、ひとたび奈落人アビエントと接触したという噂が立てば、かならずその敵対勢力がひきずり降ろしにかかってくる。

 そうやって地表人デアマント勢力内に不和の種を蒔き、分断していくのは、右尾丞相グローリアーナの十八番だった。

 結局のところ、地表人デアマント奈落人アビエントに敗れた最大の要因は、結束して戦うことができなかったという点に尽きる。

「白峰みずきは、怒ったんじゃない?」

「そりゃもう、烈火の如く」

 央霞は、制服の袖をまくってみせた。

 そこにはくっきりと、みずきにひっかかれたのであろう爪痕がついていた。

 ふたりがケンカするようすを想像し、カリンはちいさく噴き出した。子猫が飼い主に逆らっている感じだろうか。

「それで、きみの世界のことだが」

「そうだったわね。白峰みずきの言うとおり、とてもきれいなところよ」

 遠征先で見た名所名跡。古風な建物が整然と立ち並ぶゴースバレンの城下町。ロサに雪をもたらすネーベル山脈の荘厳な姿……。

 思いつくままに、カリンは央霞に語って聞かせた。

 カリンが話し終えると、央霞は得心がいったというようにうなずいた。

「きみは、タイカを愛しているんだな」

「当然でしょ。生まれ故郷なのよ」

「みずきが――きみの言う、邪神が創造つくった世界でもある」

 たしかにそうだ。

 厳密には、アルマミトラが創造したのはタイカ第一層のみだが、おなじことである。カリンの知るタイカとは、地表だけなのだから。

 それでも――否、それだからこそ、か。

「ねえ、央霞」

 アルマミトラは地表の創造主である。

 しかし、カリンたちを虐げ続けた地表人デアマントの神でもある。

 打ち倒すことに、なんの矛盾も不都合もない。

 カリンは告げる――「私と組まない?」



「あれ? 生徒会長じゃないですか」

 山茶花が声をかけると、書棚の陰に隠れてようすをうかがっていたみずきは、「ひゃい!」と悲鳴をあげてとびあがった。

「ち、ちちちちちちちちち違いますわたしは――」

「なんですかー、そのぐるぐる眼鏡とマスク。ひょっとして変装ですかー?」

 茉莉花が興味津々ので訊ねる。山茶花は、呆れたように息をついた。

「みずき先輩は目立つんですから、そんな格好しても無駄ですよー」

「そうかあ……」

 変装を解くと、しょんぼりとしたみずきの顔が現れた。

 山茶花とみずきは、央霞を介して互いを見知っている。学園内での接点は少ないものの、会えば雑談くらいはする仲である。

 身体を横にずらしてテーブル席を見やった山茶花は、ははあ、と納得したようにうなずいた。

「なるほど。央霞先輩ですか」

「隣の人と話してますねー。……って、あれ、花梨ちゃんだよ!」

「ああ、どっかから留学してきたとかいう」

「みんな、知ってるんだ」

「ボクは千姫コイツに聞いたんですけど」

「……ども」

 指し示された少女は、学園一の有名人を前に緊張したのか、山茶花のうしろから半分だけ顔を出して会釈した。

 みずきは気にしたようすもなく、身を屈ませて視線を千姫の高さに合わせ、にっこりと微笑む。

「はじめまして。あなたは、遠梅野千姫さんね」

 千姫は目を丸くする。

「……あの……ご、ご存知……なん……ですか?」

「ええ。たしか、三善さんとおなじクラスだったわよね?」

「は……はい!」

 感激したように、千姫は頬を紅潮させた。

「で、あいつが大紬です」

 みずきに替わって央霞たちを見ている茉莉花を、山茶花が指さした。

「ああー、いいなあ、いいなあ。花梨ちゃん、央霞先輩となに話してるんだろー?」

 茉莉花が興奮気味にお尻をふりふりさせる。イラッとしたのか、それを山茶花がペシンとはたいた。

「趣味が悪い」

「えー。でも気になるしぃ。ですよねー、白峰先輩?」

「そ、そうね」

 自分も覗いていたところを見られているだけに、みずきとしては同意せざるを得ない。

「央霞ちゃん、春休みに一度、偶然あの娘と会ってるらしいの」

 言いながら、みずきは茉莉花といっしょに覗きを再開する。本当はすぐにでも飛び出していきたいのに、必死に我慢しているといったようすだった。

「でも、変ですよね」

 山茶花が首をひねる。千姫が、どうかしたのかと訊ねるように彼女を見あげた。

「ハーフの留学生、しかもあんな美人なのに、みんな話題にしなさすぎるというか……」

「そう。どうしてかしらね」

 みずきの言葉はひどく冷淡に響いたが、他の三人は、そのことを気にも留めなかった。



「きみと組む?」

 問い返す央霞の瞳には、この状況を面白がるような光があった。

「そう。私と協力して、アルマミトラを滅ぼすの」

「つまり、私にみずきを裏切れと?」

「彼女は邪悪な存在よ」

「それはきみの言い分にすぎない。より正確を期すなら、きみたち奈落人アビエントの」

 突き放すような言い方だった。

 しかし、このくらいではめげるわけにはいかない。

 彼女の協力を得られれば、みずきを討つための障害は、ほぼ完全に取り除けるのだ。

「……そうかもしれない。でも、私たちアビエント地表人デアマントとの戦いに勝利したわ。それはつまり、あの世界で生き残る正当な権利を得たということよ。アルマミトラはもはや、それをいたずらに脅かすだけの存在にすぎないわ」

 生き残った者が自らの安寧を求める――それは正しいことのはずだ。

「なるほど。まっとうな言い分だ」

「なら――」

「でも、聞けないな」

「なぜ!?」

「みずきは、私にとって大切な人間だ。それに――」


 約束したんだ。


「約束?」

 そうだ、と央霞はうなずく。

「ずっと、彼女を守るという約束……昔の話だから、向こうは忘れているかもしれないが」

 無意識に浮かべたのであろう、自嘲的な笑み。

 それを見て、なぜかカリンは、喉にしこりができたように、なにも言えなくなってしまう。

「ひとつ、クイズだ」

 突然、央霞が明るい声で言った。

「な、なによ急に」

「いいから。――ここに莫大な財宝の眠る堅固な城がある。正門にはとてつもなく強い門番がひとり。……さて、きみならどう攻める?」

 女子高生には似つかわしくない無骨な問題だと思ったが、騎士である自分と、この央霞という少女のあいだに限って言えば、不思議としっくりくるような気もした。

「私なら――」

 ほとんど間を置かず、カリンは答える。

「門番とは戦わない」

「ほう」

 央霞が目を細めた。

「適当な方法で門番の注意を引いておいて、べつの入口から攻める――城には複数の門があるのがふつうだし、あなたもわざわざ『正門』と断ってたしね。他にも条件さえ整えばいくらでもやり方はあるだろうけど、とりあえずいちばん簡単なのはコレでしょう」

「そのとおり。まあ、きみには愚問だったか」

 この程度、兵法の基本なのだが、他ならぬ央霞から手放しの称賛を受けるのは悪くない気分だった。

「要するに、大切なものを守りたかったら、力だけでは足りないということだ。昔の私は、それがわからず『力の門』で粋がっていた、ただの間抜けだった。そのせいで彼女は――いや、すまない。きみにはどうでもいい話だったな」

 忘れてくれ、と央霞はまた自嘲気味に笑った。

「なぁんだ」

 カリンも嗤う。

 おなじように、自分の馬鹿さ加減を。

 わかっていたはずなのに、あらためて突きつけられるとやはり失望を禁じ得ない。

 軽い感じにしようとしたセリフは語尾がかすれ、柄にもなく湿り気を帯びていた。

「結局あなたは、最初から私につく気なんてなかったんじゃない」

「……そうだな」

 すまなそうに、央霞が言う。

「だったらなんで、私に会いにきたのよ!」

 カリンは勢いよく立ちあがった。

 かろうじて声を抑える理性は残っていたものの、それもあまり保ちそうにない。

 昂ぶった感情が、いまにも溢れ出してしまいそうだった。

 たぶん――と、央霞がこちらを見る。視線がぶつかる。とたんに、カリンはたまらなくなる。

 まただ。

 また、あの穏やかな瞳。

 揺らがぬ大樹のような強さを持つがゆえの。

 けれどいまは、憂えるような艶もある。

「私は、きみのことが嫌いではないんだ。あの、桜の舞う図書館で、はじめて会った日……きみのひたむきさ、健気さ、気高さを知った。好ましいと思ったよ。そして、それが間違いではなかったと、この数日で確信できた」

「だ、騙されないわ! 私を籠絡しようったって無駄よ!」

「そんなつもりはない。きみにも譲れないものがある。そのくらいのことはわかるよ」

 それでも――と、央霞は続ける。

「それでも、私はみずきにつく。善悪は関係ないんだ。あいつがあいつだから、私はみずきを守る」

 静かだが、きっぱりとした宣言だった。


 かくして――


 桜ヶ丘央霞は、カリン・グラニエラにとって、不倶戴天の敵となった。

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