殺人鬼いろは

庵字

第1章 よみがえる連続殺人

 今日の日中は、向こう十年間の同日平均気温よりも三度も低かった。

 そうテレビの中からアナウンサーが告げる。屋外で人の身長ほどもある大きな温度計を隣に、彼女自身も厚手のコートを羽織り、寒そうに襟元を寄せている。

 学校、会社帰りに近い時刻のため、アナウンサーの背後には右から左から、画面の中を行き来する人の姿も多く、すでに冬支度万端という格好の人もいれば、未だ秋、いや夏の装いが抜けきれず、背中を丸め足早にフレームアウトしていく人も少なくない。


「明日も今日と同じくらいの気温になるでしょう。例年に比べれば少し早い時期ですが、視聴者の皆様も冬物の洋服や暖房器具など、防寒対策を早めにとり、風邪などひかないよう十分お気をつけ下さい」


 コーナーの最後をアナウンサーはそう締めくくった。

 そんなことを言われると、こっちまで寒くなってきた気がする。私は脱いでソファの背に掛けていたカーディガンを手に取り羽織り直した。


「ねえ、そろそろストーブ出さない?」


 私は隣で雑誌を読んでいた友人、安堂理真あんどうりまに声を掛けたが、


「いいや、まだまだ」


 目を落とした雑誌から顔も上げずにそう返された。

 何がまだまだなのか。我慢比べしてるんじゃないって。単にストーブを実家から持ってくるのが面倒くさいだけだろ。作家なんていう時間の自由が効く商売をしているのだから、いつでも行ってくる時間は作れるだろうに。


「ぶはっくしょい!」


 雑誌から顔を上げた理真は、号砲一発とばかり、大きなくしゃみを飛ばした。ほれみろ。


「今のは違うから。誰か噂してただけだから」


 そう言いつつ、理真も床に投げてあったストールを拾い首に巻く。

 噂でくしゃみが出るなんて、そんな迷信を声高に言う立場じゃないだろ。先に言った通りこの友人、安堂理真の職業は作家だが、またそれとは別の顔も持っている。不可解な現場状況などの謎めいた事件、いわゆる不可能犯罪の捜査で警察に手を貸す、素人探偵という顔を。

 理真のホームグラウンドは新潟県。彼女が居を構えている(と言ってもアパートだが、しかも私が管理人をしている)のが、ここ新潟県新潟市だからだ。


 私、江嶋由宇えじまゆうと理真は友人であり、管理人と店子であり、ひとたび不可能犯罪が起きれば、探偵とワトソンとなる間柄なのだ。しかも、女性同士のコンビというのはなかなか珍しいのではないかと思っている。


 テレビに目を戻すと、画面はスタジオに切り替わっており、アナウンサーが何か原稿を受け取った瞬間だった。


「……えー、たった今入ってきたニュースです。今日午後二時頃、新潟市中央区炉端町ろばたちょうのビルで、男性の死体が発見されました。男性は所持していた免許証から、新潟市西区在住の六田龍好ろくだたつよしさんとみられ、死因なども含め警察で目下調査中とのことです。詳しい情報はまた明日のこの時間に。では失礼します」


 予定外のニュースを読んだためか、アナウンサーが「失礼します」の「す」を言い終わるか終わらないか直後に、番組は局屋上カメラから新潟市内全景を映すいつものエンディング画面に切り替わった。制作テロップが流れ終え、私が見ていた夕方のローカル情報・ニュース番組は終了した。画面は、託児所完備で親切丁寧指導が売りの自動車学校のコマーシャルに切り替わっている。

 そのナレーションをかき消すかのように、テーブルに置いてある理真の携帯電話が鳴った。買ってから一度も変えていない、〈着信音1〉が響く。

 誌面から携帯電話に視線を移した理真は、そのディスプレイに映った発信者の名前を見て雑誌を置き、すぐさま携帯電話を手に取る。私もちらっと発信者名が目に入った。


「もしもし……はい、はい……」


 理真の口調は、いつもよりも少しかしこまっていた。電話を掛けてきたのは新潟県警捜査一課の城島淳一じょうしまじゅんいち警部だ。警部から電話が来ることは珍しい。

 理真はほとんど喋らず、警部の話を聞くことに注力しているようだ。この対応からして、理真に出馬要請がかかったに違いない。作家ではないもうひとつの顔、素人探偵として。


 理真に連絡が来るということは、すなわち新潟県警管轄下で不可能犯罪が起きたことを意味する。今まで理真は何度も警察と協力して不可能犯罪を解決に導いてきた。その実績と相互の信頼が、こうして警察からの捜査出馬要請となって現れている。

 もっとも素人探偵が警察に協力する体制が非公式ながら確立されているのは、過去に同じように民間人でありながら不可能犯罪捜査に協力し、数々の実績を上げてきた先輩レジェンド探偵方の活躍が基盤にあることは言うまでもない。


「わかりました。すぐ向かいます」


 電話は理真のその言葉を最後に終了した。


「県警ね?」


 私の問いかけに、理真は、うん、と答え、


「暖かくしていったほうがいいね」


 理真は窓越しに外を眺めた。

 厚い雲の垂れ込めた空を背負った町は、もう薄暗く、道行く自動車もヘッドライトを点しながら走っている。まだ雪が降る時期ではないが、本格的な冬到来の足音がもうすぐそこまで迫っているようだ。

 吹きつけた風が街路樹や生け垣を通り、甲高い口笛のような音を発する。こういうのを『虎落笛もがりぶえ』というのだっけ。耳にするだけで体温が下がりそうな音だ。気温もどんどん低くなるだろう。これから理真は事件の捜査に忙殺されることになるのか。ストーブを早めに出していればよかったと後悔しているかもしれない。



 拝啓 秋涼のみぎり、警察の皆様におかれましては、日々犯罪捜査、治安維持へのご尽力、心よりねぎらい申し上げます。

 さて、この度、筆を取りましたのは、私が起こした行動をご報告させていただきたかったためでございます。

 尤も、鋭敏な警察の方々であれば、もうお気づきになられたことかと思いますが、老婆心ながら一言申し上げさせていただきます。

 五十谷いそやにて伊藤いとうが、炉端町にて六田が。ここまで申し上げれば、私の目的がご推察されるかと存じます。

 警察の皆様には、次なる私の行いを止めていただきたいのです。まことに勝手なお願いとは承知しておりますが、私は警察の力に全幅の信頼をおいております。

 皆様の崇高な理念と行動が、新たなる悲しみを未然に防いでいただけるものと信じて。

 それでは、冷たい風の吹く季節となりましたが、風邪などひかれませぬよう、皆様におかれましては、くれぐれもご自愛下さいませ。


 かしこ

 吉月 吉日

 いろは

新潟県警捜査一課 御中



 新潟県警捜査一課室で、理真と私は城島警部にその手紙を見せられた。A4紙にワープロソフトで縦書き印刷されている。封筒の宛名もワープロ打ち。消印は新潟市中央郵便局。日付は昨日。指紋は出なかったということだが、念のため理真も私も手袋をしている。


「今日の昼配達された。それを読んで慌てて炉端町の捜索を行ったんだ。所轄署にも協力してもらってな。そして、ビルの屋上で刺殺体を発見した。被害者は六田龍好、二十八歳。手紙の通りだった……」


 城島警部の説明を聞き、私はもう一度手紙の文面を読んだ。出てくる前にテレビで聞いたニュースはこれだったのか。


「刺殺されていたんですか? 状況は?」と、手紙から目を上げた理真。

「背中からひと突き。凶器は残されていなかった。死体はビルの貯水タンクの裏に隠すように置かれていた。この手紙がなければ、発見はもっと遅れていただろうな――」

「警部!」


 ドアが開き、聞き憶えのある声が。捜査一課の中野勇蔵なかのゆうぞう刑事だ。そのすぐ後ろに、丸柴栞まるしばしおり刑事も続いている。二人は私たちに目礼だけして、警部への報告を行う。


「手紙の通りでした」と中野刑事が手帳を開きながら、「先月十日、村上市五十谷で、確かに伊藤孝子たかこという女性が亡くなっています。年齢は六十五歳。夕方に買い物に出掛けた後、夜になっても家に戻らなかったため、家族が探しに出ると同時に警察に捜索願を出しました。遺体はその夜のうちに近くの農道脇の側溝で発見されました。死因は転落した際に頭を打ったことによる脳溢血です。被害者は足腰が弱く、いなくなった当日は雨降りで、その農道は舗装がされていませんでしたから、濡れた土で足を滑らせて誤って側溝に転落した事故として、所轄では処理されていました」


 中野刑事は手帳を閉じ、続いて丸柴刑事が報告を行う。


「炉端町付近からは有力な情報は得られませんでした。ビルには管理人が常駐しておらず、部屋には鍵を掛けますが、ビルの入り口には普段から施錠はしていなかったそうです。誰でもフリーパスで各階や屋上に出入りできます。防犯カメラも設置されていませんでした。外壁には非常階段も付いており、こちらからも常時出入りは可能です。近くのコンビニ店員や喫茶店の従業員などにも聞き込みをしましたが、被害者を知っているという人はいませんでした。他に怪しい人物を見かけたかとも訊いたのですが、炉端町はオフィス街で、普段から多くの人が行き来するところですから、怪しい人物と言っても、これといって記憶にないとの証言ばかりでした。」


 丸柴刑事の報告を聞き終えると、城島警部は、うーん、と唸った。丸柴刑事は、改めて私たちに挨拶をくれる。


「理真、由宇ちゃん、お疲れ」肩にかかったセミロングの髪を払った。


丸姉まるねえもお疲れ」理真が答え、私も、お疲れ様、と挨拶する。


 新潟県警捜査一課の紅一点、丸柴栞刑事は、理真が素人探偵として犯罪捜査に加わるようになる前からの知り合いだ。今の理真の呼び方はその頃からの名残だ。フランクな呼び方のため、警察関係者や事件関係者の前では口にしないのだが、このメンバーなら問題ない。城島警部に加え、中野刑事も、何度も不可能犯罪捜査で理真と行動を共にしている。警察の中には、素人探偵が捜査に介入してくることを快く思わない人もやはりいる。仕方のないことだ。そんな中にあっても、この三人は素人探偵の、理真のもっとも良き理解者たちなのだ。


「中野さんもお疲れさま」


 理真は中野刑事にも忘れずに挨拶する。当然私もだ。


「あ、安堂さん、江嶋さん、お疲れ様です。いつもいつもすみませんね。今度も安堂さんのお知恵を借りることになりそうで……」


 城島警部に報告をしていた時とは一転、背骨が抜けたような態度になる。中野刑事が理真を懇意にする理由には、理真の探偵としての力に一目置く以外の理由もある、と思う。今の態度を見ればそれは如実だ。理真が美人だということに異論を唱える人はいないだろう。


「理真くん」城島警部は理真に話を向け、「どう思う」

「間違いないでしょう」理真はもう一度手紙を見て、「これは、『ABC殺人』です」


 城島警部は、顎に手をやり、ううむ、と唸った。


『ABC殺人』その起源は、レジェンド探偵エルキュール・ポワロが解決した、その名も『ABC殺人事件』に遡る。

 イギリスのアンドーバー(Andover)で、アリス・アッシャー(Alice Ascher)が、ベクスヒル(Bexhill)で、ベティ・バーナード(Betty Barnard)が、という具合に、殺害場所の町と被害者のイニシャルが合わさった形で連続殺人事件が起こる。探偵ポワロの元には、その都度、〈ABC〉と名乗る人物から挑戦状が届く。最後はポワロの手により事件は解決されるのだが、この事件を参考にしたか触発された不可能犯罪は、それ以降も各地で起きている。この日本でも過去にこの事件に影響を受けたと思われる何件かの事件記録があり、もちろんレジェンド探偵たちの活躍により解決されている。その『ABC殺人』が、ついに理真のホームグラウンドで起きたということか。


「しかも、今度のこれのプロットは、アルファベットではなく、いろは順……」理真は腕を組んだ。

「ABC殺人……」


 城島警部も腕を組む。中野刑事もシリアスモードに戻り、神妙な顔で手紙を見ている。


「犯人は、その『ABC殺人事件』をいろは順で行おうと、いえ、すでに二人亡くなっているわね。行っているということ? 何のために?」


 丸柴刑事は理真に訊いた。理真は手紙から顔を上げ、


「……カムフラージュ。ABC殺人が起きて、真っ先に疑うのはそれよ」


 そう、一見、快楽連続殺人犯シリアルキラーによる狂気の犯行としか思われない事件だが、実は犯人が標的としているのはその中の一名だけで、他の被害者はダミーであるという考えだ。普通に殺害しては、犯人に真っ先に容疑が掛かるため、無差別ABC殺人の中に被害者を紛れ込ませて個人的な殺人動機を消し去ってしまおうというものだ。『葉っぱを隠すなら森の中』殺人を隠すなら殺人の中、ということだ。これは同じレジェンド探偵でも、ブラウン神父の言葉だが。

 しかし、過去に起きたABC殺人を見ても、必ずしもそれが全てではないが。理真もそれを指摘し、


「今の時点で犯人の動機を考えても埒が開かないわ。今できることは、次の犯行を未然に防ぐこと」

「そうだな、それと」と城島警部は、「殺された二名の被害者の交友関係、怨恨の洗い出しだな。『ABC殺人』によるカムフラージュという線も当然捨てきれんが、通常の捜査を行わないことはありえない。それに、犯人はすでに目的を達していて、以下の犯行は全てカムフラージュとして行うということも考えられるからな」


 それを聞いて、理真は大きく頷いた。


「次の犯行ということは……」丸柴刑事は、「い、ろ、の次だから、は、で始まる地名に注意するってこと?」

「その辺りの詳しい話は会議でしよう。理真くん、由宇くん、これから捜査会議が開かれる。二人も列席してくれるか?」


 城島警部の言葉に、私と理真は、ぜひ、と、了承した。

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