第19章 終わらない歌

 翌朝、富山県警本部にやってきた私たちは、拘置されている保永ほながに面会を求めた。昨日のようなことを言われては困るため、あくまで面会という形にした。保永が応じるかどうか。断られる恐れもあったが、理真りまは「全てを明らかにするから」と伝えてくれるよう頼んだ。それが功を奏したかは分からないが、保永は面会に応じた。


 ただし条件があった。保永、理真、私の三人のみで会うこと。録画録音のたぐいは一切行わないこと。刑事が立ち会わないことを危険視する意見はあったが、理真は、大丈夫、と頼み込み、明藤みょうどう警部も承諾した。拘置所の鉄格子越しに相対するため、何か危害が加えられるような心配はないだろう。もっとも、保永がそんなことをするとは思えないが。面会に赴く理真は、最後に保永の処遇について訊いた。

 このまま黙秘を続けたとしても、保永以外に犯人はありえない。第三者が立ち入り不可能な状況で、瀬峰せみねの腹部を刺した凶器を手にしていたのだ。瀬峰が犯人であり返り討ちの状況だとしても、正当防衛を主張していない以上、このまま殺人罪で送検されるだろうとの見方だった。



 本部地下階の拘置所に案内された。

 お気をつけて、と守田もりた刑事の言葉を受け、私と理真は拘置所に入った。遠ざかっていく守田刑事の足音が聞こえる。見張りの警官も一緒に席を外してくれたようだ。パイプ椅子を二脚持ち込む。地下のため窓はない。天井に取り付けられた直管の蛍光灯のみが光源だ。いくつかある拘置部屋は、保永が入っている房以外は空だ。話がしやすくていい。


 拘置房内では、すでに保永が椅子に腰を掛けて待っていた。理真はパイプ椅子を開いて座り、鉄格子越しに真正面から保永と相対した。私も理真の少し後ろにパイプ椅子を開いて腰を下ろす。


「保永さん」


 理真の呼びかけに保永は顔を向け、


安堂あんどうさん、全て分かったって、本当ですか」


 理真の目を見たまま口にした。理真は保永から視線をそらし、


「ひとつひとつは小さな事柄でも、それが同時に起きたら、人は天啓のようなものではないかと考えてしまうことがあります。過去にも、そんな理由で引き起こされた不可能犯罪があります。それぞれの動機は弱い、それひとつだけでは、とても人を殺すような犯罪を実行する気にはなれない。でも、そんな事が立て続けに起きたら……」

「連続殺人を犯してしまうほどの、ですか」

「そうです。ある事柄がほぼ同時に身の回りで起きました。それらを繋ぎ合わせると、ひとつの犯罪計画が浮かび上がってきた。抗うことはできなかったんですね。『殺人鬼いろは』は、そのとき誕生した、瀬峰さんの中に」


 保永は、ふう、と、ひとつため息を漏らし、まぶたを閉じた。理真は続ける、


「瀬峰さんが亡くなった今となっては、起きた順番は不明ですが、ひとつずつ見ていきましょう、瀬峰さんの身近に何が起こったのか。

 ひとつ、それは、カウンセリングのクライエントから、自分の娘に乱暴を行いながら警察沙汰にならず、今も普通に暮らしている男の話を聞いたこと。住んでいる場所も分かっている。しかし、もうその男を罰することは出来ない。クライエントの無念を瀬峰さんは痛いほど理解することができたでしょう。

 次に、仁藤にとうさんとの出会いです。仁藤さんも娘さんを亡くしている犯罪被害者です。こちらは犯人は逮捕されましたが、仁藤さんの喪失感は相当なものでした。近所の人からカウンセリングを受けるよう勧められるほどでしたからね。恐らく、仁藤さんは自ら命を絶ちたいというようなことも、瀬峰さんに打ち明けていたのではないでしょうか。

 最後、これは瀬峰さんの過去のこと。瀬峰さんは大学時代、友人に頼まれて参加した合コンでひとりの男に出会っています。瀬峰さんは、恐らくその男に乱暴されたのではないでしょうか」


 黙って聞いていた保永は、そこで、「その話は本当なんですか」と訊いてきた。理真は、私の想像です、と答え、続ける。


「この三つの事柄、注目すべきはそこに出てきた人物の名前、名字です。クライエントから聞いた男は『六田ろくだ』、新たに出会ったクライエント『仁藤』、過去に自分に乱暴を行った男の名字は、『芳賀はが』。六田、芳賀、仁藤。ろ、は、に。こうして頭文字を並べると、ある法則に気が付きます。いろは歌の二番目から四番目までの文字です。これは何かに使えないか。瀬峰さんは天啓を受けたような気持ちになったのではないでしょうか。その天啓とは、こうです。『ABC殺人』に紛れ込ませて、過去に自分を傷つけた男も含め、二人の婦女暴行犯を快楽連続殺人犯シリアルキラーの仕業に見せかけて葬り去る。『いろは殺人計画』が頭の中に生まれました」

「六田という男はともかく、仁藤さんには犯罪を犯した過去はないんですよね。殺してしまうんですか、『いろは殺人』の生け贄として」


 保永が口を挟んだ。理真は首を横に振り、


「仁藤さんは最終的には、御存じの通り亡くなっていますが、生け贄ではありません。六田と芳賀を殺した実行犯です。仁藤さんは、その後、自ら命を絶ったんです。『いろは殺人』を少しでも多く成立させるために。その意味では、生け贄という言葉は間違っていないかもしれませんが」

「先生と仁藤さんは共犯だったと」

「そうです。『殺人鬼いろは』は、瀬峰さんと仁藤さんです。保永さん、あなたではない」

「どうして仁藤さんは自殺までして。聞かせてくれますよね、安堂さんの推理を」


 理真はゆっくりと頷いて、話を再開する。


「瀬峰さんが『いろは殺人計画』を思いついたとき、仁藤さんに話を持ちかけたのでしょう。仁藤さんはカウンセリングで、死にたい、ということをしきりに瀬峰さんに語っていたのではないでしょうか。そこから救うことがカウンセラーの使命なのですが、瀬峰さんは、それを利用することにした」


『利用』という言葉を理真が発したとき、保永の視線が一瞬鋭くなった気がした。


「瀬峰さんの名誉のために付け加えれば、あくまで仁藤さんを救うことを最優先したのかもしれません。しかし、仁藤さんの心は折れなかった。そこで、瀬峰さんは自分が考えた計画を仁藤さんに話します。快楽連続殺人犯シリアルキラーの仕掛けた『ABC殺人』に見せかけて、女性に乱暴した犯罪者を葬る計画を。

 捜査線上を辿れば、過去に接触があった芳賀、そして患者の口から六田の存在を知り得た瀬峰さんが容疑者として浮上するかもしれない。それを食い止めるのが仁藤さんの役目です。仁藤さんが二人を殺害する時間に、瀬峰さんは鉄壁のアリバイを確保する。かつて自分も暴走族の男の手により娘を失った仁藤さんは、その計画に乗ってきたのでしょう。近所の人の話では、仁藤さんは瀬峰さんのところに通うようになってから、元気になり、表情が明るくなったということでした。カウンセリングの効果だったのか。それとも、生き甲斐を見つけたことにより取り戻した元気だったのかもしれません。例え、その最後に自分の命を差し出すことになっても」

「詳しく教えて下さい、先生が立てた『いろは殺人計画』を」

「瀬峰さん、仁藤さんともに亡くなった今となっては、私の推理と想像を交えてお話するしかないのですが」


 そう断ってから、理真は話し始めた。


「計画の概要はこうです。仁藤さんが実行犯となって、六田、芳賀を、それぞれ名字の頭文字と同じ地名で殺害、犯行声明を投函する。最後に仁藤さん自身が他殺と思わせる死に方で自殺。最低でも三件のいろは殺人を遂行することができる。

 しかし、そもそも、この計画には大事なピースが欠けています。そう、最初の『い』の被害者です。いきなり『ろ』から殺しはじめるわけにはいきません。快楽連続殺人犯シリアルキラーの犯行に思わせるのであれば、なおさらです。法則性は絶対のはずですから。かといって、そのために無辜の一市民を手に掛ける、〈捨て殺人〉を行うなどという真似は出来るわけがない。一番よいのは、『い』で始まる名字の、六田や芳賀のような脛に傷持つ人間を捜すことですが、都合よくそんな人間が見つかるわけがありません。ろ、は、と続き頭文字の人間の情報を得たことだけで奇跡的といえます。

 そこで、瀬峰さんと仁藤さんは探し始めました。『い』で始まる名字の人間が、同じく『い』で始まる場所で亡くなる事故を。無理に富山県に限定する必要はない。かといってあまりに遠すぎても移動に苦労する。隣県までを行動範囲の限界としたのでしょう。瀬峰さんは隣県の地元紙と契約をして新聞を取り寄せます。ネットでも情報を拾っていたらしいです。

 名字と地名が一致していても、何でもいいというわけにはいきません。殺人と見られてもおかしくないような事故でなければ計画には使えません。病院内にて病死で亡くなった人をあとから、実は私が殺しました、などと言っても信憑性はゼロですし、交通事故なども、そんなにうまく引き起こせるわけがないと疑われてしまう恐れがあります。明らかに目撃者がいる事故も駄目です。計画に合致する事故のニュースを探すうち、ついに最適なものを発見しました。それが、新潟県村上市五十谷いそやで、伊藤孝子いとうたかこさんが事故死したニュースです。十月はじめのことでした。

 隣県の新潟県、目撃者もいない。絶好の、これ以上ない条件です。瀬峰さんは、これを『殺人鬼いろは』第一の事件としてでっち上げることにしました。しかし、すぐに犯行声明は出しません。まだ事故の痕跡が残っていたり、遺体が火葬されないうちに、実は殺人である、と言っても、綿密な捜査や司法解剖の結果、否定されてしまうかもしれません。瀬峰さんは、事故が起きてから一ヶ月の期間を置くことにしました。私は最初、第一の事件を起こしてすぐに犯行声明を送ったのでは、警戒を早められ犯行を行いにくくなるために一ヶ月の間を置き、第一の殺人は事故死と見られるような殺し方をしたのではないかと考えていましたが。

 それまでも伏線は張っておきます。仁藤さんに、事件で憔悴して車の運転が出来なくなったと回りに思わせる工作をしました。実際、仁藤さんは犯行のための移動に車を使用したと思われますが、それが看破されたとしても、車の運転ができない仁藤さんは犯人ではありえない、という反論を用意するためだったのでしょう。

 元祖『ABC殺人事件』では、犯人は遺体と一緒に特定の本を置く行動を取りました。それが他の殺人者の手によるものや、事故でないことを証明するために。『ABC殺人』で犯人が気を遣うのはここです。全く関係のない事件や事故の被害者が自分の犯行だと勘違いされる、もしくは、模倣犯、便乗犯の出現。それらと自分の犯行を間違いなく区別するために、警察が一般に発表しないような印を残す必要があるんです。ですが、今回の『いろは殺人事件』では同じ手は使えません。第一の殺人、と瀬峰さんがでっちあげた、五十谷で亡くなった伊藤さんの死体のそばに何か置くということはもう出来ない。当たり前です。かといって、次の殺人から何か置き始めたのでは、第一の殺人との齟齬が生まれ、怪しまれてしまう。先ほども言いましたが、快楽連続殺人犯シリアルキラーの犯行に見せかけるためには、法則性は一貫していなければなりませんから。

 瀬峰さんは、犯行後即、警察に被害者の名字と場所を記した犯行声明を送るという手段でこれに代えました。犯行声明の送り先に新潟県警が選ばれたのは、第一の殺人としてでっちあげる予定の伊藤さんの事故が新潟県で起きたからです。

 そして、五十谷で伊藤さんが亡くなってから約一ヶ月。ついに瀬峰さんと仁藤さんは動きます。六田さんの殺害場所として選ばれたのは、新潟市中央区の炉端町ろばたちょうでした。六田さんは新潟市西区に住んでいましたし、第一の事件、としてでっちあげた、伊藤さんの事故が新潟県で起きていました。同一県内で事件を起こすことで、殺人は新潟県内のみで起こるという先入観を植え付け、他県で動きやすくするという目的もあったのかもしれません。犯行声明を新潟県警宛てとしたのも、その一環だったのでしょう。

 六田さんをどうやって炉端町まで連れてきたのか。過去のことをネタに恐喝目的と思わせおびき出したのでしょうか。何か体の言いことを言って車に乗せて連れてきたのか。今となっては知る術はありません。仁藤さんは下見として殺害の前日に炉端町を訪れていますが、ここで瀬峰さんの車を使いました。車の運転ができないと近所に言っている仁藤さんが、自分の車が車庫にないことを知られたら怪しまれてしまいます。レンタカーを利用する手もありましたが、なるべく記録が残るようなことはやりたくない。

 ちなみに、仁藤さんは下見とその翌日の犯行当日、ほとんど家を空けることになりますが、仁藤さんは普段からクリニックへの通院以外、滅多に外出しません。家を出るときと帰宅するときにだけ気を配れば、一日中家に籠もっているのだと近所の人たちに思わせることが出来たでしょう。

 仁藤さんが下見に行ったのは犯行の前日の十一月四日。この日、そして犯行を行った翌日、瀬峰さんは車を仁藤さんに貸したため、出勤時あなたに迎えに来てくれるよう頼んだはずです。憶えていますか」


 保永は少し考えるような顔をしたが、分かりません、と答え、先を促すような表情をした。


「十一月五日。仁藤さんは六田さんを誘い出し、ビルの屋上で刺殺。背中から刃物でひと突き。油断を誘えば、仁藤さんにも若い六田さんの殺害は可能だったでしょう。仁藤さんは犯行声明をポストに投函し、富山へ帰ります。

 もしくは、すぐにその足で福島県に行ったのかもしれません。一旦犯行声明を送った以上、迅速に次の犯行を済ませてしまう必要があります。警察も、犯行は新潟県内に留まらないと考え、隣県に捜査協力要請を出すかもしれませんから。東京まで行って芳賀さんを誘うには時間がないと思われるので、恐らく芳賀さんは東京から呼びつけられたのでしょう。どういう口実を使ったのかは、これも不明です。芳賀さんも脛に傷を持つ身ですから、それを理由に呼び出しに応じたのか、過去のように、うまい話にありつけるような事を吹き込んだのかも知れませんね。もちろん芳賀さんの居所は前もって調べてありました。

 一件目が側溝への転落による脳溢血。二件目が刺殺。三件目もなるべくそれまでとは違った殺害方法にして、一件目が本当はただの事故であるということから目を逸らさせようとしたのでしょう。選んだ殺害方法は絞殺でした。芳賀さんの体内からは睡眠薬が検出されました。瞬時に身動きする力を奪う刺殺と違い、絞殺は、ある程度抵抗が予想されます。そのために事前に一服盛ったのでしょう。芳賀さんが殺害された場所は、新潟県との県境に近い福島県柳津町箱山はこやまでした。新潟市からの移動の利便性を考慮して決めたのかもしれません。そして例によって犯行声明を投函。このあとこそ確実に仁藤さんは富山に戻りました。そして、最後の計画の準備に入ります。自分自身が殺人鬼いろはの被害者となるための準備に」


 理真は一旦言葉を止め、ひと息ついた。保永も休憩を取るように首を回す。少しの沈黙のあと、理真は話を再開する。


「仁藤さんにとってこの計画は、自らの人生の幕引きに相応しい最後の仕事だと考えていたのでしょうか。娘の七海さんを殺害した暴走族のメンバーは、若林わかばやし塚田つかだという名字だそうです。いずれもいろは歌ではまだ先の文字で、その二人に、いずれ自分が殺人鬼いろはのターゲットとされるかもしれないという恐怖を与えることが出来れば。そんな考えもあったのかもしれません。それとも」


 理真は言葉を切って、保永を見つめ直し、


「カウンセラーは、クライエントに対して、新興宗教の教祖のような、カリスマ的立場に立つことも可能だそうですね。救いを求めたいクライエントの心の隙間をくすぐってやれば。ましてや、百戦錬磨の瀬峰さんほどのカウンセラーなら、それは容易だったのではないかと。仁藤さんが自死するまでの一連の犯行は、瀬峰さんがカリスマ的立場に立っての操りによるものだったのかも――」

「先生がそんなことするわけないでしょう」


 保永は言下に否定した。見せたことのない鋭い視線と一緒に。


「……そうですね。仁藤さんのことを聞いた時に瀬峰さんが見せた、あの涙。あれは心からのものだったと私も思いました。続けます。

 十一月十日、瀬峰さんは、カウンセラー協会の報告会に出席するため車で神奈川へ向かいます。途中、仁藤さんを拾って韮岳にらたけまで行き、仁藤さんを降ろします。ここが瀬峰さんと仁藤さんの今生の別れとなります。どんな会話が交わされたのか、どんな思いでいたのか。瀬峰さんは泣いていたでしょうか、仁藤さんは笑って慰めたのでしょうか。

 韮岳は当然、警察の重点警邏区域になっています。あまりまごまごしていては、警邏中のパトカーに見咎められてしまうかもしれない。あまり別れを惜しむ時間はなかったでしょう。瀬峰さんは予定通り神奈川へ向かい、仁藤さんは新潟県警宛ての犯行声明の入った封筒を手に一時身を潜めます。確実に瀬峰さんが富山にいない時間に死ぬことで、最後まで瀬峰さんに鉄壁のアリバイを持たせようという計画だからです。

 仁藤さんの死亡推定時刻は午後九時から十一時の間、死ぬ直前に犯行声明をポストに投函して、仁藤さんは韮岳大橋の上に立つ。そして、あたかも犯人と揉み合いがあったかのように偽装して、橋の上から身を投げた。送られてきた犯行声明から、警察は橋の下に仁藤さんの死体を発見する。そして」


 理真は言葉を切った。


「……そして、何です?」


 保永が先を促した。それを受けて理真は、


「そして、いろは殺人は、ここで終了するはずだった。仁藤さん絡みで、瀬峰さんのところに警察の聴取が来ることは分かっていた。しかし、瀬峰さんには完全なアリバイがある。当然ですね、実行犯じゃないんですから。六田や芳賀の線から自分に辿り着いても、何も怖いことはないと瀬峰さんは思っていたでしょう。でも、瀬峰さんは一度、口を滑らせました。仁藤さんの死亡状況が発表されていないのに、仁藤さんが犯人に橋の上から突き落とされたようなことを喋ってしまったのです。仁藤さんの死に方まで綿密に打合せをしていたのでしょうね。

 ですが、私も、これは言葉の綾である可能性は否定できません。仁藤さんが六田さん殺害の前日、下見に来ていたとき、特徴的な瀬峰さんの黄色いハッチバック車を目撃されていますが、目撃者が運転手の顔や、ナンバープレートも富山ナンバーであること以外憶えていなかったため、これも決め手にはなり得ません。

 二人の婦女暴行犯を葬り、完全犯罪を成し遂げた。瀬峰さんは内心勝ち誇っていたことでしょう。しかし、再び『殺人鬼いろは』は現れた。そのきっかけは、瀬峰さんの恋人、長谷川はせがわさんです」


 長谷川の名前が出ると、保永は目をきつく絞った。


「長谷川さんは、瀬峰さんが大学在籍時からの恋人だということでした。私の推理が正しいのなら、瀬峰さんは大学時代に芳賀に乱暴をされていますが、それを長谷川さんに話したのか、話してはいなかったのか。話していたとしたら、長谷川さんは、そんな瀬峰さんの傷ついた心を包み込んでくれる大きな人だったのだろうし、話していなかったとしたら、それを打ち明けることで長谷川さんに嫌われてしまうかもしれないという瀬峰さんの心情があったのかもしれません。

 二人は結婚秒読みの仲だと周りから思われていた。しかし、実際はそうではなかった。長谷川さんは勤め先の社長令嬢と恋仲になった。瀬峰さんから乗り換えていたんです。長谷川さんがそのことを瀬峰さんに打ち明けたのは、ごく最近のことでした。瀬峰さんにとっては寝耳に水だったのでしょう。とても動揺していたようです。失意の底に落ちた瀬峰さんは、自ら命を絶つことを考えた。あの冷静な瀬峰さんが、と思いますが、人の心境を周りが理解することはできません。瀬峰さんのクールなキャラクターは、あくまでカウンセラーとしてのもので、本当の瀬峰礼子れいこという人は、とても弱い女性だったのかもしれません。

 瀬峰さんは、長谷川さんから社長令嬢との関係を聞きました。結婚するときには、長谷川さんが社長家に婿入りすることになるということも。長谷川さんの勤め先、エイチスティールの社長の名前は辺見忠へんみただし。婿入りするということは、長谷川さんの名字が変わることを意味します。長谷川から辺見へ。そう、辺見。頭文字は『へ』これが瀬峰さんの中に『殺人鬼いろは』が復活したきっかけでした。

 瀬峰さんの新たな計画はこうです。いろは殺人を再開させる。当然次に殺されるのは、仁藤さんの『に』の次の文字、『ほ』で始まる頭文字を名字に持つ人物です。そこでまたいろは殺人は終わる。しかし、それを知るのは犯人である瀬峰さんだけです。世間では『殺人犯いろは』は野放し。いろは殺人は継続中であると考えるでしょう。『ほ』の次の『へ』で始まる名字を持つ人は、ずっと怯え続けて生きることになる。それが目的です。瀬峰さんは、自分が『ほ』の犠牲者となって死に、『殺人鬼いろは』を永遠に生存させることで、長谷川さんに生きる限りの恐怖を与えようとしたのです。保永さん、あなたとの入籍はそのためだった。瀬峰さんは、自殺したんです」


 保永は、表情を変えることなく理真の話を聞いていた。


「保永さん、あなたは瀬峰さんから、どこまで聞かされていたんですか。恐らく、ほとんど何も聞かされていなかったのではありませんか。ただ、自分と入籍してほしいと頼まれただけで」


 保永は何も答えなかった。

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