第17章 繋がるいろは歌

 拘置された保永ほながは、黙秘権の行使を貫いているらしい。

 昨日、瀬峰せみねと市役所へ行ったことは認めたそうだが、それ以外のことについてはまったく話そうとしない。唯一、共犯がいることが保永の口から仄めかされていることから、(一連の事件には保永のアリバイがあるから、共犯の存在は当然視されているが)続くいろは歌の文字『へ』で始まる地名へ引き続き警邏の手が回された。変化はそれくらいのことだった。


 警察の見方はこうだ。

 保永は、いろは殺人の次のターゲットとして瀬峰の殺害を計画していた。その段取りとして、昨日瀬峰と婚姻、瀬峰の名字を保永、つまり『ほ』で始まる名字に変更させる。そして今朝、星見ヶ丘ほしみがおか公園の物見塔に瀬峰を待機させておく。

 いつも通り出勤した保永は、職場を抜け星見ヶ丘公園へ行き瀬峰を殺害。本来であれば、その後、持っていた封筒を投函し仕事に戻る予定だったが、私たちが病院を出る保永を目撃、追跡したため、現行犯逮捕となった。


 もちろんこれには多くの不明点が残る。

 まず瀬峰に対する殺害動機。『ほ』で始まる名字なら誰でもよかったというのは、瀬峰をわざわざ籍に入れ名字を替えさせていることから否定される。そして、なぜ瀬峰が保永の言うことに従ったのか。籍を入れることに加え、あの寒空の中公園にひとり待つことをどうやって承諾させたのか。市役所を出てから公園で発見されるまでの瀬峰の行動も不明のままだ。


 次に、保永はどうして今朝を殺害日時として選んだのか。今まで完璧なアリバイを持ち、供述通りであれば、共犯者を実行犯として使っていたはずなのに、どうして今回ばかりは自らの手を汚したのか。しかも勤務中に抜けるという不自然な行動を取ってまで。


 公園へ向かう道中にも疑問は残る。保永は私たちが追跡していたのを知っていたはずだ。多くの車が行き交う市街でならまだしも、車の通りがほとんどなくなった山道に入ってからは、追跡されていることは明白だったはずだ。にも関わらず、保永は私たちの車を捲くような行動は一切行わなかった。このまま公園へ行き、瀬峰を殺害しては、現行犯逮捕されることが確実であるとは想像できたはずであるのに。その運転も最初からおかしかった。スピード違反、信号無視上等、雪でスリップして車をガードレールにぶつけてもお構いなしの乱暴な走り。


 一番最初の考え、つまり、犯人は瀬峰で、瀬峰のほうが保永を呼び出して殺害を計画するも返り討ちに遭ったというものも否定されたわけではない。その場合、どうやって呼び出したのか。瀬峰の携帯電話は電源が切られており、最後の発着信記録は、今日の午前に保永の車を追跡途中に丸柴刑事が掛けたものだった。そのひとつ前には、保永の携帯電話からの着信がある。その時間は保永が病院を飛び出す直前だった。瀬峰の携帯電話から発信した記録は、前日の午前中に病院に掛けたものが最後だ。時間から、それは瀬峰が病欠の連絡を入れたものとみて間違いない。


 今朝、病院に出勤した保永が、瀬峰の手による、星見ヶ丘公園まで来るよう記載された何かのメッセージを発見したのか。今朝、病院に保永宛ての電話は掛かってきていない。第一、瀬峰が犯人だった場合、なぜ保永は正当防衛を主張せず、自分がやったなどと言っているのか。やはり瀬峰を庇っているのか。こちらの説では、瀬峰と保永が入籍した理由は全くの不明だ。


 雪の上の足跡から、やぐらに瀬峰と保永の二人しかいなかったことは明白である。瀬峰が犯人で保永を殺そうとして返り討ちに遭ったのか、保永が犯人で計画通り瀬峰を殺害したのか、このどちらかしかないと警察は見ている。犯行声明文は公開されていないため、保永が所持していたものが模倣ではないことは間違いない。封筒、便せんともに、今まで送られてきたものと同じものだった。全ては保永の口を割らせてはっきりさせようとの目論見だったのだが。


「あいつは吐きませんよ」


 そう言ったのは、いつか、六年前の仁藤七海にとうななみ殺害事件の詳細を教えてくれた刑事だった。取り調べの相手によっては、腕力に訴えるほうが有効な場合もあると過激なことを言っていた刑事だ。


「俺も色んな奴を取り調べをしてきたから分かりますけどね、ああいったタイプには何も通用しません。冷静な説得も、腕力も。例えどんな苦しい拷問を加えたって無理でしょうね。目が違いますよ」


 もちろん上司の前で正式にした発言ではない。代わる代わる保永の取り調べに当たり、またことごとく轟沈してきた刑事たちがたむろしている喫煙室で煙草を咥えながらの言葉だ。理真りまと私が保永取り調べの様子を訊きに、紫煙漂う喫煙室へ入ったときのことだ。


 理真は、自分に保永と話をさせてもらえないかと明藤みょうどう警部に頼み、警部はこれを許可した。理真、私、丸柴まるしば守田もりた両刑事同席のもと、保永との面会がしつらえられた。


「保永さん」


 対面する椅子に座り、理真は目の前に座る保永に話しかけた。保永は手錠をされ、後ろには守田刑事が立って控えている。理真の隣には丸柴刑事。私は理真の後ろで椅子に座っている。


「保永さん」


 椅子に浅く腰掛け、視線を落としたまま返事をしない保永に、理真はもう一度声を掛けた。先ほどよりも強い口調で。ようやく視線を上げた保永は、椅子に深く腰掛け直し、両手を机の上に乗せた。両手首を繋ぐ手錠が鈍く光る。


「どうしたんですか安堂あんどうさん。探偵って取り調べもするんですか」

「瀬峰さんと婚姻届を出したそうですね」

「ええ」

「どうして昨日会ったときに言ってくれなかったんですか」

「どうしてって、恥ずかしかったからですよ。もちろん、いずれ皆さんに発表するつもりでした。あ、病院にも本当に行ってますよ」

「婚姻届けを出した理由は何ですか」

「理由って、愛する二人が結婚するのに理由がいるんですか」

「瀬峰さんの名字を保永にすることが目的だったんじゃないんですか」

「どうしてそんな」

「いろは殺人を成立させるために」


 理真のその言葉には、ふふ、と少し笑っただけだった。


「今日の朝、突然病院を飛び出したのはなぜですか」


 保永はこれには答えない。理真は続けて、


「何か火急の用事があったんですね。あの寒空の中、屋内の格好のままで出て行ってしまう程の。あなたは迷うことなく星見ヶ丘公園を目指した。最初からあの公園が目的地だったんですよね。公園に到着してからも、まっすぐに現場となった物見やぐらに向かっている。そこに瀬峰さんがいると知っていた。私たちが追っていることも分かっていましたよね。にも関わらず、あなたはとにかく急いでいた。一歩間違えば事故を起こしていてもおかしくないくらいに。実際一度車をぶつけています。一刻も早く瀬峰さんを殺してしまいたいと思っていたんですか」

「……違います」


 保永は答えた。

 ただ単に、吐け、と強要されるだけでは何も喋らない。しかし、具体的にこちらの推理を聞かせ詰問すると、今の保永のように何かしら反応が返ってくることが多い。黙秘したままでは、その推理を肯定したように思われてしまうからだろう。そんなふうに見られたくない。そう思うような内容であればあるほど。


「じゃあ、時間が重要だった? ある時間までに瀬峰さんを殺す必要があった」


 保永はもう口を開く意思はないとばかりに俯いた。そう何度も通用する手ではない。


「場所についてはどうですか。今まで殺害場所に選んだのは市町村下の地名でしたよね。しかし今度に限っては公園の名前の頭文字を取っている。なぜですか。あの公園が特別な場所だったんですか」


 保永は黙ったままだったが、一瞬理真の目を見た。


「あなたにとって、それとも瀬峰さんにとっての? それとも、二人の思い出の場所――」

「もういいですか。安堂さん、あなたの話は聞きたくありません。大体、いくら探偵とはいえ民間人に容疑者の取り調べをさせていいんですか。弁護士を呼んでマスコミに訴えますよ」


 そう言われては引き下がるしかない。



「いや、でもさすが名探偵ですね。保永にあそこまで喋らせるなんて」


 守田刑事が理真を称えた。理真は、小娘相手だと思って油断したんでしょう、などと言って謙遜していた。私たちは取調室から引き上げ刑事部屋に集まっている。


「でも」と理真は、「有益な情報は全く得られませんでしたね」

「それでも、保永が取り調べを自分から切り上げたのは、これ以上安堂さんと話していると、色々と喋ってしまいそうでまずいと思ったからじゃないですかね」


 それには私も同意だ。


「ところで、今後は警備、警邏対象を絞るのが難しくなってきましたね」


 理真は明藤警部に顔を向けた。


「ああ、そうなんだ」明藤警部はブラックコーヒーをひと口煽り、「今度の殺害場所の頭文字が公園のものだったからな。地名だけじゃなく、公園、建物、施設なんかの名前も視野に入れなきゃならん。頭が痛いよ」


 それを聞いた中野刑事は、


「保永のやつが共犯者の名前と居所を喋れば一発なんですけどね」


 口にして苦い顔をする。


「今後の殺害場所を選ぶに当たっての対策なんじゃないかしら」


 そう発言したのは丸柴刑事だ。明藤警部は、どういうことですか、と尋ねる。


「いろは歌の次の文字は『へ』ですよね。『へ』で始まる地名というのは、ちょっと簡単には思いつきません。殺害場所もかなり限定されてしまい、警察も戦力を集中させやすい。必然実行も難しくなる。それを避けるために、『今後は地名だけじゃなく、施設名も選択範囲に加える』という犯人の意思表示なのではと」

「なるほど、俺も『へ』で始まる地名というのは、ぱっと思いつかないな」


 明藤警部は口を結び、何か考えるように視線を上に向けた。


「地名だけじゃなくて、名前もそうですよね」と言ってきたのは中野刑事だ。「『へ』で始まる名字って、すぐには思いつかないでしょ」

「そうですね。へ……へ……平島へいじま、とか?」守田刑事も視線を上に向けて考えているようだ。「それ以外だと……辺見へんみ、濁音ありなら、別所べっしょ、とかですかね」

「辺見?」理真が反応した。「その名字、最近どこかで聞いたことある」


 私もだ。どこだったっけ……


「エイチスティールの社長じゃないですか?」と中野刑事のフォローが入り、「ほら、瀬峰の彼氏の長谷川はせがわが務めてる会社です」


 ああ、そうだ。


「あ、CMで見たことあります」と守田刑事も、「鋼のように強くしなやかに。でしたっけ。あの社長、たまにトーク番組とかに出ますよね。あの髭と白髪頭、キャラあるもんな」


 疑問が氷塊して、理真もさぞすっきりしているかと思ったが、理真は虚空を見つめたまま、右手人差し指を下唇に当てて黙っている。これは理真が考え事をするときの癖だ。


「安堂さん?」


 その様子を見た守田刑事が声を掛けるが、理真はそれには気が付かないように、


「……辺見。いろはに、ほ、へ。『に』の次は『ほ』その次は『へ』……」


 いつもと違った様子の理真を見て、明藤警部も神妙な顔で黙る。


「保永さんが口を割らない以上、外堀から埋めていくしかない」


 理真は沈黙を破り、さらに、


「中野さん、長谷川さんにもう一度聞き込みをして下さい。昨日、本当に瀬峰さんが訪ねてこなかったのか。恐らく瀬峰さんに口止めされているんでしょう。それとも、電話で話しただけだったから、わざと曲解して『訪ねてきてはいない』と言ったのかも。どちらにせよ、瀬峰さんが亡くなった今なら話してくれると思うんです。どんな話をしたのかも。あくまでしらを切ったり、話したくないと言われたら、重要参考人として同行願うことになると脅しても構いません。それから、『は』の被害者の芳賀さん。彼が昔、合コンした相手に、瀬峰さんが通っていた大学がなかったかどうか、調べてくれませんか。瀬峰さんの大学時代の友人のほうに芳賀さんの会社と合コンしたことがあったか訊いてみたほうが早いかもしれませんが」

「そっちは私が調べるわ」


 丸柴刑事が買って出た。そういう話であれば、女性のほうが話してくれやすいかもしれない。理真は頷いて、


「あとは、仁藤にとうさんのアリバイを調べられませんか」

「仁藤? 『に』の被害者の仁藤大作だいさくのことですか?」と守田刑事。

「そうです。具体的には、『ろ』と『は』の事件について。『い』も調べてくれたら有難いですが。すでに故人なので、難しいでしょうけれど」

「それは俺がやりましょう」守田刑事が名乗りを上げた。

「それと、仁藤さんの家の家宅捜索もできますか?」

「家宅捜索?」守田刑事は明藤警部の顔を見る。

「はい」その視線を辿り、理真は明藤警部に話し相手を代えて、「可能ですか?」

「ああ、それは問題ないでしょう」明藤警部は答える。「故人で遺族もいませんから。それで、何か具体的に調べるものがあるんですか」

「はい、新聞です。富山の地方紙以外に、隣県の新聞を購入した記録がないかどうか。家に古新聞が残っていればいいのですが、購入していたとしても、恐らく処分されているでしょう。駅などで地元以外の地方紙を買える売り場がありますよね。そこへ聞き込みも入れて欲しいんです」

「仁藤が買いに来たかどうかをですね。日にちも経っているし難しいでしょうが、やってみましょう」

「ありがとうございます。それと、同じ事を瀬峰さんにもお願いしたいんです」

「富山以外の地方紙の購入記録があるかどうか?」

「はい。瀬峰さんはインターネットを利用して地方紙を見ていたかもしれませんから、そちらの記録も調べて下さい。それから、病院に深夜入ることは可能かどうかも調べてもらえますか」

「深夜? 瀬峰が、ということですか」

「そうです。心療内科やカウンセリングセンターに深夜外来の用意があるかどうか分かりませんが、職員である瀬峰さんは、鍵を使って深夜でも病院に出入り出来たのではないかと」

「分かりました。何人か捜査員を手配しましょう」

「あ、仁藤さんについてはもうひとつ。仁藤さんは事件のショックで弱り、車の運転も出来なくなったといわれていますが、それが本当かどうか」

「車の運転ですか。回りにはそう言っていたが、本当は仁藤は車の運転するのに別に支障はなかったのではないかと」


 理真は、はい、と答え、明藤警部はそれら全てを捜査員に伝えることを約束してくれた。


由宇ゆう」理真は私に向かって、「私たちは、あの公園に行くわよ」

「公園って、星見ヶ丘公園?」

「そう。幸い、もう雪も止んでるしね。道路の雪も解けてるでしょ」


 窓の外を見る。確かに雪が降ったのは午前から午後にかけての短時間だけで、今は空には雲もまばらで晴れ間が覗いている。


「じゃあ、明藤警部。私たちはさっそく」


 理真は一礼して出入り口へ向かう。私も慌てて一礼して後を追う。


「お、俺たちも行こう」


 中野刑事の言葉で、三人の刑事は、頼むぞ、との明藤警部の声を背中に、私に続いて刑事部屋を出た。

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