第24話 2月11日 南洋幻想


Тихийチーヒイ Океан!アキアーン!


 ソーニャは波打ち際に立ち、目の前に広がる太平洋の光景を眺めながら、嬉しそうに大きな声を上げた。


 ひとけのほとんどない、湘南は由比ガ浜海水浴場。薄暗い曇り空の下。冬の、午前――。

 海から吹く風が、強い。


「マモルさん、私は憧れていたんです。いつか太平洋をこの目で見ることを。ええ、本当にずっと憧れだったんです。どこまでも広く深く暖かで、数え切れないほどの美しい島々が散らばっていて、赤道の彼方まで続くその巨大な青い海を。……そうです、太平洋です! あの水平線のずっと遠くには、ミクロネシアが、メラネシアが、ポリネシアがあって。……プリクラースナ! こうして、南方からの潮風の中に身を置いていると――。ああ、やっぱり、大海の淵に浮かぶ小さな島国、それが日本なんです。私が子供の頃から想像していたとおりの光景がほら、そこに……。今、ようやく肌で実感できました。ラッシーヤのような『大陸』ではなく、四囲を海に閉ざされ外界から孤立した『島』、そう、それがイポーニャ……」


 ソーニャは重ねた両手を自身のコートの胸に押し当て、視線はじっと黒々とした大海原に向けたままでいて、興奮気味にしゃべる。

 今までより、大きな波が打ち寄せてきた。

 軽い足取りで後ろへ数歩ステップするソーニャ。ひどく、楽しげな表情をして。

 濡れた砂浜に点々と残された彼女のブーツの足跡が、冬の海に飲み込まれ、あっという間に消えて無くなる。

 黒い波はソーニャの足元ぎりぎりのところまで打ち寄せ、音をたてながらから引いていく。

 近づいたかと思うと、また遠ざかる海の波――。初めて本物の海を見てはしゃぐ小さな子供みたいに、無邪気に、屈託の無い明るい表情を浮かべながら、彼女は砂浜で波とたわむれ続けている。


 また、大きな波が勢いよく打ち寄せて来た。ソーニャは今度はそれをかわしきれず、革製のブーツのつま先からかかとまでが海水に洗われ、身にまとったロングコートには少し潮の飛沫がかかってしまった。

 しかしむしろそれをソーニャは面白がっている様子だった。後ろ向きの姿勢のまま、背後の乾いた砂浜の上へ軽やかな動作で愉快そうにぴょんと跳ぶ。


 ――低く暗い雲がたれこめた陰鬱な天候のせいで、海面が陽光を反射してキラキラ輝くような風景は見られない。おまけにシーズンオフ、 しかも午前中の早い時間だから、海岸はほとんど無人。

 ひどく寂しい空気が漂う、冬の海辺。


 ソーニャが、海から目を離し、身体をくるりと一回転させこちらの方へと振り返る。自身の金色の髪が潮風にさらされくしゃくしゃに乱れ、ひたいほほに張り付くのを気にもせずにいる。

 背後の離れた位置に立っているおれを真正面から見つめ、彼女はにっこりと微笑む。


「――マモルさん! 海が、黒いですね。曇天のせいで陽光が遮られているからでしょうか? ひどく、真っ暗な海。――それとも、冬の海だからですか。マモルさん、夏になったら、澄んだ青い海が見られますか?」


 打ち寄せる波頭の音に負けないように、少し大きな声を出してソーニャは尋ねてきた。


「どうだろう。まあ、夏でも、湘南の海は青くないと思うよ。多分」


 全身に吹きつける潮風に少々寒さを感じながら、おれは砂浜の一段高い位置から、彼女へ向かって返事を発した。


「太平洋というと、青い海が広がっているという印象を抱いていましたから……」


「――場所によりけりだから。この辺の海じゃだめだよ。もっと南の海へ行けば、青いと思うよ」


「もっと南ですか」


「うん」


「南というと、どれくらいでしょう?」


「……えっ?」


「赤道を越えれば、海は青いでしょうか」


「うん、まあ、そうだね。そこまでいけば、絶対。……だと、思うよ、多分」


「なんだか不思議な気分です。あの水平線のはるか彼方には、どこまでも、広大な海が続いているだなんて……」


「うん……」


「赤道の向こうまでこの海はつながっているのですね。かつて画家のゴーギャンや小説家のスティーブンスンが描いた、南洋の楽園のような島々まで、この海は……」


 そう言ってソーニャはおれから目線を離すと、両足をゆっくりターンさせ、再び波打つ海面の方に身体を向け直した。

 彼女の視線の先は、はるか彼方の水平線に合わされていて、動かなかった。

 おれも、水平線に目を合わせた。

 しばらくの間、二人は、無言でその場に立ちつくし、海の遠い場所を眺め続けていた。


「もっと晴れてればよかったんだけど……」


 ぼそっと、おれは小声でつぶやいた。


「えっ? 晴れてれば? なんですか、マモルさん」


 潮風で乱れ、瞳に覆いかかってくる邪魔な髪の毛を、左手で押さえつけたしぐさのままソーニャは横顔だけ背後に振り向け聞き返してきた。

 彼女の整った美しい鼻筋の上で、海からの風を受けたブロンドの柔らかな髪の毛が、きまぐれに跳ねたり頬にまとわりついたりしているのが視界に映る。


 おれは大声で、


「天気が良くて太陽が出てたら! もっと海は綺麗だったろうなあ、と思ってさ! 晴れている日に連れてきてあげたかったなあって!」


と言った。


 ソーニャは髪の毛を押さえていた左手をひたいから離した。肩までの長さの金髪が風によってあっという間に乱されてしまう。


 彼女は唇を動かし何か話しかけてきた。だが、瞬間勢いを増した潮風がその声をかき消してしまった。しかし、最後の一言ひとこと、「スパシーバ」という言葉だけは、かすかに耳に拾うことができた。


 彼女の白いほほが少し赤みを帯びているのが見えた。

 気のせいか、こちらに向けられた瞳が、いつもよりも優しげな淡いブルーの輝きを浮かべている風にも感じられた。

 おれがぼんやりとした目で見つめ返すと、ソーニャはあわて気味に瞳をすぐにそらし、何か恥ずかしそうに顔をうつむけ、ぎゅっと口元を引き締め、そしてまた再度海の方へと視線を戻してしまった。


 髪の毛が潮風に吹かれ、激しく乱れたままだったが、彼女はそれを指先で整え直そうとはしなかった。

 両手を背中で組み、黒いブーツの両足は少し開いて、まるで上官からの命令を待つ兵隊みたいな直立不動の姿勢を取るソーニャ。


 二人の眼前には、さっきからまったく変わらない同じ風景――冬の陰鬱な太平洋が広がっている。

 ソーニャはきちっと姿勢を崩さず、打ち寄せる波間のずっと遠い先、暗い海面が途切れて終わる場所――そこに見える水平線を、飽きることなく凝視し続けていた。


 一方おれは、足下あしもとの砂浜でも沖合いのうねりでも彼方の水平線でもない、違う別のものを眺め続けていた。


 目の前の砂浜の上に立っている彼女――ソビエト連邦出身と自称する、ロシア人の少女の、背の高いすらりとした後姿。太平洋に面した日本の海辺で、ぽつんと独り立ち続けているその異国の少女の背中を無言でおれは見つめ続ける。

 ――ゆうべ、アパートで、酔っ払った千紗姉ちゃんがおれに対し何げなくつぶやいた言葉――それを、頭の中で何度も何度も、反芻しながら……。



『彼女の話がどこまでホントか? そりゃ私にもわからないわよ。そもそも、いったい彼女は何者なのか。――ねえ守? あんたはどう思う……?』




 新宿発のJR湘南新宿ラインの電車が鎌倉駅に到着すると、駅前でおれはまず最初にどこから見物したいか尋ねてみた。

 するとソーニャは即答した。


 ――太平洋を見たい……、と。

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