第17話 2月8日 東京国税局


 おれのアパートと駅のちょうど真ん中のあたり、歩いて五分ほどの所に、大きな公園がある。

 公園は、広々とした敷地全体が、一面天然の芝生で覆われていた。

 かすかな起伏ができているその芝生の上には、普通の公園によくあるような子供向けの遊器具などは一切置いて無かった。ただ、石造りの古風な時計台が、ぽつんと一つ、芝生の中央に建って時を告げているだけだった。

 公園の外周には、フェンスに沿って背の高い木々がぐるりと建ち並んでいた。それらの木は、この開けた広大な空間を街のゴチャゴチャした風景から切り離し、その独立した静けさを外部から保護する役目を果たしていた。


 ここは、自然の少ないこの街の中で、数少ない住民の憩いの場になっていた。休日ともなると、多くの家族連れがここに集まり、芝生の上にシートを敷いて弁当を広げたり、バトミントンやフットサルに興じたりして、平和そうに、楽しげな声をあたりに響かせる、そんな光景がよく見られた。だが、晴れているといっても今日のような冬の肌寒い平日の午後では、公園内の人影もまばらで、なんだかあたりには、物寂しげな雰囲気が漂っているように感じられるのだった。


 公園の一番奥まった部分には、薄暗い印象をたたえた雑木林が広がっている場所があった。


 ――そして、その喫茶店は、雑木林の陰に隠れるようにして、ひっそりと店を開いていた。


 公園の片隅の目立たない所に、一軒の喫茶店があることは、一応おれも以前から知っていた。ただ、実際に中に入ったのは、今日が始めてのことだった……。


「いい香り……。ちゃんとコーヒー豆を手間ひまかけて丁寧に煎ってるんだ。店の内装も落ち着いた雰囲気でなんとなくホッとできるし……。こういう喫茶店、わたし好きだな。役所が経営してる店とは思えない」


 テーブルの向こうで、その人――香川万里恵まりえという名の女性は、本でも読むようにきちんと両手でメニューを広げて、それをじっくりと眺めつつ、つぶやいた。


「ここ、区が経営してるんですか?」


 おれはメニューからちらりと顔を上げ相手の方を見て声を出した。


「うん。どこの街でも、『都市公園法』で公園敷地内での一般の営業活動を禁止してるから、たぶんこの店も、ここの区役所の公園課あたりが経営してるんじゃないかな。もちろん、実際の店舗運営は外部の業者に委託してるはずだけど」


 そうして彼女は、――ほら、メニューの金額を見て。ブルーマウンテンが一杯五百円なんて、原価割れもいいとこ。それに、わたしたち以外に店内にお客は一人しかいないし。民間の経営だったら、この値段でこの回転率では、とっくに潰れてます……と、メニューをゆっくりと閉じテーブルに置きながら、こちらを向いてしゃべる。


「守くん、注文は、決まりましたか?」


 穏やかな、どことなくのほほんとした感じの間延びした声で、にっこりとする彼女。


 おれはもう一度自分のメニューをのぞき込みながら、


「ああ、はい、決めました。カツカレーを頼みます」


 と、答えた。


 突然、彼女はぷっと吹き出した。続けてそれから、失笑がもれるのを必死にこらえるべく、自分の口元を右手で強く覆い、うつむいて、両肩を震わせ始めた。 彼女の黒ぶち眼鏡の奥にある、細められた両目の端から、うっすらと涙が浮かぶのが見えた。


「あ、や、やっぱやめます、カツカレー。飲み物に、コーラにします、こ、コーラに」


 おれはあわてふためきながら自身の注文を変更することにした。


 ――だって、小腹が空いてたから……


 おれは年上の女性にくすくす笑われていることがひどく恥ずかしかった。メニューをテーブルに置くと、ひざの上で両手のこぶしをぎゅっと握りしめた。ほほが、熱い。たぶん今、おれは赤面しているのだろう。


「ご、ごめんなさいね」


 彼女は眼鏡のつるを右手でつかみちょっと持ち上げると、左指で目元の涙をぬぐい、おれの瞳を見つめて微笑もうとした。だが、再びわきあがった笑いの衝動にこらえきれなかったらしく、急にまたうつむいて、無言で背中をぴくぴくと痙攣させ続けるのだった。


 おれは目を伏せて彼女から視線をそらした。その場で、身体を硬直させたままでいた。


 しばらくして、ようやく彼女の笑いはおさまった。


「……ほ、ほんとにごめんなさい、わたし、失礼よね、別に笑うような事じゃないのに……。ごめんなさいね、でも、守くんの性格が、話に聞いていたとおり ――わたしが想像していた性格、そのままだったから」


 ちらりと視線を上げておれは相手を見やった。彼女は申し訳なさそうに上目遣いで――でもなんだかひどく楽しげな表情でこちらを見つめていた。


「はあ、そうですか……」


と、弱々しく返事をして、おれは再びだらりと頭をその場にたれた。まだ消えない恥ずかしさのせいで、彼女の視線を真っ直ぐに受け止めることができなかっ た。

 テーブルの上、おれの前に置かれている一枚の名刺がうつむいた視界に入った。

 それはこの喫茶店に入って席についてすぐ、彼女から自己紹介として渡された物だった。

 その名刺にはこう書かれていた。


『 国税庁 東京国税局 調査査察部

  査察総括第一課 国税査察官  香川万里恵まりえ

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